第40話最強の弱点

 死んだはずの真央先輩の姿を認めて、俺の心は激しく動揺した。心が整理できないままに、俺はある過去を思い出した。


 ――疑念。動揺。狼狽。それらの感情は、敵を打ち倒す際にはあまりにも不要なものだ。それを、俺は他ならぬ真央先輩から教わった。

 

 

 この記憶を思い出す時は、射場に響く弓の音が思い出される。

 

 袴を穿いた彼女が、両手で持った和弓をゆっくりと持ち上げる。ちょうどバンザイするような形だ。もっとも、厳かな雰囲気はそれとは程遠い。

 番えられた矢が頭の上まで来た頃に、彼女は大きな弓を大きく引き始めた。

 

 キリキリ、と弦が鳴る。静かに、だが確実に弓がしなっていく。ゆっくりと動いていく彼女の両手が、静かにそれを支えていた。

 やがて限界まで弓が引き絞られ、ついに矢が離れる時が来る。

 弦が解放され弓を叩きパチッ、という乾いた音を立てる。矢がひゅう、と鋭い音を立てて宙を飛ぶ。

 的に矢が中る小気味良い音。

 

 真央先輩は、中った、中らないにかかわらず、静かに残心をとって的を見据えていた。


「真央先輩、中っても全然嬉しそうにしないですよね」


 凛とした顔の真央先輩も好きだが、せっかくだから可愛い笑顔を見せてくれてもいいのに。

 白い道着を着ている彼女は、あまり表情を動かさなくなる。普段と装いも態度も違う彼女は、なんだか別人と接しているような気がして落ち着かない。

 

「燐火ちゃん。弓道における思考っていうのは、簡単に言えば無心になることを是としているの。当てようとするんじゃなくて、最高の射をやり遂げて、その結果として矢は中る。それは敵を射抜く時にも同じ」

「……よく分からない考え方ですね」


 だから、真央先輩は『魔の者共』と戦う時にもいつも冷静なのだろうか。

 自分が気持ちよくなるために戦っている俺には、まったく分からない考え方だ。

 

「弓道は立禅なんて言われたりする。座ってする座禅に対して、立ってする立禅。弓の道を以って、人は成長する。中った外れたに一喜一憂するために弓を引いてるんじゃない。……もしかしたら、燐火ちゃんもやった方がいいかもしれないよ。弓道」

「え、なんでですか?」

「感情の制御がうまくなるからだよ。燐火ちゃん、普段は冷静だけど戦いになると周りが見えなくなるところがあるでしょ?」

「うっ」


 それを言われると、痛い。


「動揺している時、感情を揺さぶられている時、っていうのはピンチに陥っていることが多い。そういう時こそ、一呼吸置く冷静さが必要になるんだよ。そして、それは分かっていも簡単にできることじゃない。普段からのトレーニングが必要になる」

「……たしかに、私には必要なことかもしれないですね」 

 

 結局のところ、俺が真央先輩から弓を教わる機会はなかった。俺も彼女も忙しくて、なかなか時間が取れなかったのだ。

 

 動揺を克服する術を、俺は最後まで彼女に教わることができなかった。


 



「久しぶりだね燐火ちゃん。夏美ちゃんも」


 聞きなれた声。ありえない人の声。

 そして、そこに籠るありえない感情。真央先輩の声音には、仇敵に向けるような激しい憎悪が籠められていた。


「まお、せんぱい……?」

「そんなはずは……」


 激しく動揺する。そんなことはありえない。理性がそう訴えかけてきているが、視覚がそれを否定する。目の前にいるのは、紛れもなくあの日死んだ桜ヶ丘真央に見えた。

 彼女が声を発する。あの日の姿のまま。


「みんな、あの日から生き残れたんだね」


 その声は、恐ろしいほどに無感情だった。まるで、溢れ出そうな感情を抑え込んでいるようだ。


「私だけを差し置いて、みんな幸せになった……! 私が、私だけが……!」

「真央先輩……?」


 彼女の中にある憎悪があふれ始める。


「みんなのためにと思って死ぬ気で戦って! そうして死んで! そしてみんなは私の死なんて忘れてのうのうと生きている!」


 誰かが息を吞む。罪悪感はあの日あの場にいた誰もが抱いていた。

 誰よりもみんなのために戦っていた彼女が死んで自分たちだけ生き残ってしまったという自責が刺激される。


「……ほ、本当に死んだのなら、どうしてここにいるんですか?」


 震える声で、それでもはっきりと自分の言葉を口にしたのは、優香ちゃんだった。

 真央先輩は、それに対して凍てつくような目線を向けた。それは、同じ人間に向けるものとはとても思えなかった。

 

「『魔の者共』とはすなわち歴史上人類に恐れられている化け物たちが顕現した姿。だから、復讐のために蘇った亡霊がここにいても不思議じゃないでしょ?」

「それ、は……」

 

 優香ちゃんは、咄嗟にその言葉否定できないようだった。

 

「安穏と生きている愚昧なあなたたちに、真実を教えてあげる。あの日の真実。私の死に関する本当のことを」


 真央先輩は、俺の姿を認めるとやがて全員に向かって言い放った。


「私、桜ヶ丘真央は天塚燐火に殺された」

 

 その言葉に、その場にいた全員が凍り付いた。




 

「そんなことは……そんなことはない!」


 最初に声を上げたのは、夏美だった。


「でも、夏美ちゃんはその場にいなかったでしょ」

「ッ……」


 夏美がその場にいなかったことまで知っている。その事実が、目の前に立っている真央先輩が本物であることを裏付けていた。

 

「燐火! お前からはっきり否定しろ!」


 夏美が激しい言葉で俺に呼びかけてくる。彼女もまた、俺と同じく動揺しているようだった。


「でも――私が殺されそうになったから、真央先輩が死んで、それで、私だけが生き残って……」

「燐火……」


 動揺しているうちにも、真央先輩はさらに言葉を紡ぎ出す。その顔を憎悪に歪ませて。


「だから私はここに蘇った。復讐を果たすために。天塚燐火を殺すために」

 

 真央先輩が弓を取り出す。見慣れた彼女の得物。


「だから、死んでね。燐火ちゃん」


 放たれた矢は真っ直ぐに俺の胸に。呆然と受け止めようとした俺の目の前に立ちふさがったのは、夏美だった。サーベルを振るい、矢を弾き飛ばす。


「おい燐火、戦うぞ!」

「夏美……」

「戦うんだよ! 何が起こっているのか分からない! どうして真央先輩がそんなことを言うのか分からない! それでも、目の前には喜悦の悪魔がいる! 私たちが戦うのに必要なのは、それだけだ!」

「ッ……」


 その言葉を聞き、半ば無意識に剣を握る。しかし、指先に思うように力が入らない。

 夏美が真央先輩に向かって突撃していく。しかし彼女の動きも少し鈍い。

 

「……とにかく、私は悪魔を倒せばいい」


 一旦思考を止めろ。夏美が真央先輩を抑えている今がチャンスだ。

 

 覚悟を決め地を駆け出す俺を、悪魔は悠然とした笑顔で迎え入れた。


「『槍よ』」


 その手元に禍々しい槍が顕現する。そのまま、勢い良く俺に向かって投げてきた。

 真央先輩を殺した攻撃だ。体に力が籠る。

 

「ッ」


 飛来する槍の速度は、決闘の際のエルナの弾丸にも匹敵するような速度だった。

 小太刀を合わせ辛うじて槍を逸らすが、肩先を掠め、鋭い痛みを走る。

 しかし俺は、二撃目が来る前に悪魔に肉薄する。

 間近に相対すると、分かる。体から迸る圧倒的な力。剝き出しの黒い肉体は、まるで立ちはだかる巨大な岩壁のように感じられた。


「フッ!」


 斬撃を叩き込んだ俺を迎え入れたのは、先ほど投擲したはずの禍々しい槍だった。


「あまりにも甘い……あくびが出るかと思いました」

 

 二刀を受け止めた悪魔が躍動する。一瞬力を抜き刀をいなすと、素早い突きを放った。俺の足のあたりを浅く貫く穂先。

 痛みに反応して、『特徴』が効果を発揮する。痛みに応じて上がる身体能力。しかしいつもより体の動きが鈍い。

 

 きっと、先ほど言われた言葉が飲み込みきれていないからだ。


「考え事ですか? 余裕ですねえ!」

「チッ……」


 悪魔の近接戦闘力は脅威だった。凄まじく力が強いというより、こちらが嫌がることをすることが異常に上手いのだ。

 攻撃はいなされ、隙ができたところを鋭い攻撃に転じてくる。隻腕の槍さばきは巧みで、攻略しきれない。

 

 こちらが防御に徹すれば、一瞬俺から離れ、遠距離攻撃を仕掛ける姿勢を見せる。

 

 今まで見た感じ、喜悦の悪魔がもっとも脅威なのは、投擲攻撃だ。無限に出てくる槍を用いた遠距離攻撃。不意を打たれれば、万全の俺ですら避けられるか怪しい。もし仮に、背後に放たれれば確実に誰かが死ぬ。それだけは、避けなければ。

 

 俺は自分が傷つくのは嬉しいが、他人が傷つくのは大嫌いだ。

 そう思い剣を振るうが、やがて綻びが生まれる。

 

「――これはこれは、私の策略がうまくはまりすぎましたね」

「ッ……」


 油断した。隙をつき背後に下がった悪魔は、十分な予備動作を経て、投擲。

 投げ出された槍が俺の顔面めがけて飛んでくる。二本の小太刀をクロスさせ、受け止める。背後に飛ばすわけにはいかない。


 「ぐっ……ああああああああ!」


 今まで感じたこともない圧力に、俺は絶叫した。真央先輩の胸を貫いた槍は、全身の力を総動員しても抑えきれるものではない。なんとか力を逸らす、上へと飛ばす。

 

 激しく荒れた呼吸を整える。この場に倒れ込んでしまいたいくらいの疲労度だ。

 しかし前を見ると、悪魔は二本目の槍を構えていた。


「ッ!」

「押しつぶれろっ!」


 再びの激突。先ほどよりも槍の力が増している。刀越しに感じる禍々しい空気に、俺はそれを辛うじて横に逸らした。


「ああっ!」


 後ろから響く悲鳴。見れば、ひとりの女生徒が、肩から血を流して倒している。先ほど逸らした槍が当たったようだ。

 

 ――俺が、完全に逸らせていれば。もっとうまくやっていれば、彼女は傷つかなかったのに。

 自責の感情に、自分の体から力が抜けていくのが分かる。俺の『特徴』心身合一は、自分が興奮すればするほど身体能力が上がるもの。その逆、気持ちが落ち込めば落ち込むほど力が弱まるという特性も併せ持つ。真央先輩が自分のせいで死んで以来、俺は自分のせいで誰かが傷つくのが嫌で仕方がなかった。

 

「ちがっ、私は私が傷つけばよかったのに……」

「三撃目」


 今度こそ受け止める、と思い刀を正面に構え、意識を集中させる。しかし悪魔が狙ったのは、俺ではなかった。


「ッァ」

「――優香ちゃんッ!」


 矛先は、俺の大事な大事な義妹へと向かっていた。辛うじて身を翻した優香ちゃんは、脇腹のあたりを抉られたようだった。

 激しく動揺する。体の力が著しく低下する。


「ハッ……アッハハハハ! なんて無様な顔か! ねえ、あなたは最強の戦乙女なんですよね!?」


 今度の攻撃は、俺に直接飛んできた。肉薄してきた悪魔が、槍を振るう。

 先ほどまでと違い目で追えない。なすすべもなく、俺は腹部を貫かれた。


「ガハッ……」


 内臓が損傷する嫌な感覚。血が噴き出す。けれど、俺にはもはや抵抗する気力すら湧いてこなかった。


「フッ……ハハハ!」


 二度、三度と貫かれる。

 気持ち良くない。けれど、確実に死に向かっている感触は俺に昏い喜びをもたらした。

 

「燐火……先輩……!」

「カッ……」


 血反吐を吐く。視界が点滅する。

 朦朧とする意識の中で思い出したのは、先ほど真央先輩が言った言葉だった。

 

『私、桜ヶ丘真央は天塚燐火に殺された』


 その通りだ。俺は、自分の愚行が原因で真央先輩を殺した。

 だから、俺が死ぬのは当然のことだ。


「コハッ……」


 もう何度槍を突き刺されたのか覚えていない。

 血がとめどなく噴き出て、倒れ込んだ俺を中心に赤い水たまりを作る。

 

「愚かですね。天塚燐火」

 

 最後に、背中から一突き。それを以って、俺の視界は黒く閉ざされ、何も聞こえなくなった。

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