第19話甘美なる痛みよ
「予想通り、いたね」
俺の視界の先にいたのは、大型の野獣だった。キメラ、としか言いようのない、不気味な化け物だ。ライオンの頭。馬の胴体。狼の手足。色も毛並みを違うそれらが、同じ体にくっついている。
四足歩行にも関わらず、その頭は俺の頭上。地上三メートルほどの位置に存在した。
「燐火先輩、あれ、なんか雰囲気が違います。危なそうです」
「良く分かったね」
あれは明らかに格が違う。先日の群れのボスだったケルベロスなど比ではない。
「あれが上級種。戦乙女十人分の力を持つとされている、『魔の者共』の精鋭だよ」
上級種は、滅多に観測されることのない強敵だ。最後に確認されたのは、半年前だろうか。
「じゃ、じゃあ! 他の人たちを呼んでこないと!」
優香ちゃんが焦ったように言うが、俺は落ち着いて抜刀し、目の前の化け物と相対した。
「大丈夫。私を信じて」
優香ちゃんにいっぱい心配してもらったおかげで、俺の興奮も十分。そして、体も治療されたおかげで全快だ。
これは過去類を見ないベストコンディションと言えよう。俺の『特性』である『心身合一』は、興奮するほど戦闘力が向上する。俺の場合、負傷しないとなかなか興奮できないのだ。そのため、『特性』のギアが上がる頃には、大抵俺の体はボロボロだ。(とは言っても、万全の時より全然強い)
優香ちゃんとぃう治癒術者がいたことで、最高の状態で戦いに臨める。
「優香ちゃんは、近くのチームと合流して。こいつ相手じゃ守れない」
上級種。狩るのは初めてではないが、苦戦は強いられるだろう。
「でも! 先輩が傷を負ったらどうするんですか!?」
「優香ちゃんは心配性だね。ありがとう。その気遣いだけで十分だよ」
気遣いだけで十分、っていうのは別に遠慮してるわけではなく、百パーセント俺の本心だ。だってそんな目を向けてもらえるだけで興奮してくるのだから。
「ゴオオオオオオオ!」
いつまでもかかってこない獲物にしびれをきらしたらしく、キメラが吼えた。体がビリビリと震えるような、凄まじい咆哮だ。そして、突進を開始。
「──行って!」
「はい……お姉様! お気を付けてください!」
その言葉に、俺は口角が上がるのを我慢できなかった。
お姉様! 優香ちゃんみたいに優しい子が、俺なんかを姉と言ってくれている! なんて幸せ! テンション上がってきた!
「おうデカブツ! お前にこの気持ちが受け止められるかな!?」
優香ちゃんが遠ざかったので、遠慮なく叫んで、俺はキメラに向かって突進した。デカい。近づくと、その頭に見下ろされるような形になる。
「ゴオッ!」
狼の爪の一閃。並みの敵の数倍は早い動きも、『心身合一』の恩恵を受けている今の俺にとっては避けるのは容易い。身をよじり、最小限の動きで回避。髪が数本切られる。
「お前……この髪維持するのにどんだけ苦労してると思ってんだ! どうせ切るなら服にしろ!」
攻撃の隙をつき、胴体の下に潜り込む。狙うは俺の頭の上に存在する腹部だ。
手始めに、一撃。そして二撃。体の捻りを活かして、回転するようにして小太刀を押し付ける。
腹部から鮮血が噴き出し、キメラがおぞましい悲鳴をあげた。
「ゴオオオオオ!」
「クソッ……図体がデカいと刃が届きづらい……!」
手ごたえは薄い。表層を斬っただけだ。体の下に潜り込んだ俺に対して、狼の後ろ脚が飛んでくる。弾丸の如く迫る爪先に、俺は小太刀を突き出した。
甲高い金属音が響いた。爪と小太刀が激しくぶつかり合う。俺の足が、大きく地面を滑った。
両腕で後ろ脚の蹴りを抑えている状態から、俺は左手を離し、毛むくじゃらの足に小太刀を突き立てた。
「フンッ!」
「ごおっ!?」
悲鳴を上げるキメラ。腹部を斬った時よりも手ごたえがある。
細い部分を狙った方が効果的か?
「それなら……!」
素早く足元から離脱し、キメラと距離を取る。
呼吸を整え、意識を集中させる。
上級種であるキメラは強い。攻撃一つ一つが鋭くて、致命傷になり得る。俺の快楽のためにホイホイ食らうわけにはいかない。
まだ死ぬわけにはいかないのだ。死ぬのは楽しくない。気持ち良くない。
──それに、血塗れの誰かに、生きて欲しいと言われた気がする。
「──ハッ!」
跳躍。5メートルは飛んだか、という俺の体は、やがて重力の力を借りて、キメラの真上へと落下していった。
狙うは首筋。生物共通の弱点だ。
「おおおおおお!」
狙いは上々。自由落下の力を借りた俺は、目にも止まらぬ速さでキメラの首を両断──するはずだった。
「ゴォオオオッ!」
「なっ!?」
キメラが身を引き、前脚が持ち上がる。巨体に見合わぬ俊敏な動きに虚を突かれる。
まるで乗り手を振り下ろさんとする暴れ馬の如き体勢になったキメラは、後ろの二本脚で立ち上がると、俺をギラリと睨みつけた。空中で目が合う。──マズい。
「ゴオオッ!」
「──ガハッ!」
振り下ろした前脚が、鉄槌の如く俺に降りかかる。空中にいる俺は、その一撃を避けることができなかった。
腹が弾けたのではないか。という衝撃が俺を襲った。遅れて、地面に叩きつけられた背中にも激しい衝撃。肺の中の空気が強制的に吐き出されて、目の前が真っ赤に染まる。
「ヒューッ……ヒューッ……ハッ……」
生命を繋げ止めるために、必死に呼吸をする。視界が霞む。このままでは死んでしまう、と俺の頭が警鐘を鳴らしていた。
同時に苦痛に起因する快楽物質が俺の頭を駆け巡る。痛みと快楽の狭間で、おかしくなってしまいそうだった。
しかし、俺を襲う攻撃はそれで終わりではなかった。
地面に横たわる俺と、キメラの目が合う。再び振り上げられる前脚。マズい、と思った時にはもう遅かった。巨大な脚が俺の腹の上にのしかかり、全体重を押し付けてきた。
「がっ……ああああああ!」
腹に大穴でも開いたのではないか、という痛み。それが継続的に俺を襲った。
必死に取り込んだ酸素が逃げていく。呼吸が浅くなる。痛みの感覚すら鈍くなっていく。
冗談じゃなく、命の危機だった。危機感と同時に、達してしまいそうなほどの快楽に思考を停止してしまいたくなる。ああ、このまま死ぬまで痛みを感じられたら、どれほど幸福だろうか、と。
その甘美な誘惑を脇に置き、必死に状況を整理する。
拘束されているという状況が最悪だ。俺の『特徴』である『心身合一』は、俺の性癖と合わせれば、傷を負えば負うほど強くなる、起死回生の能力となる。
しかし、動けない状態だと話は別だ。腹のど真ん中を踏みつけられた今の俺は、起死回生の手を講じることも難しい。
有象無象の敵ならともかく、相手は上級種。こいつと力比べするなら、戦乙女10人分の膂力が必要だ。
「カハッ……」
内蔵を潰される痛みに血反吐を吐く。己の根幹が傷つけられる感覚は、取り返しのつかない破滅の道を進んでいるようだ。興奮はしている。『心身合一』は力を発揮している。
しかし、抜け出せない。震える手で腹の足を掴むが、びくともしない。
「これは……さすがに死んだか……?」
己の現状を冷静に観察して、俺は自嘲気味に呟く。視界がぼやける。腹部の感覚は既になく、ただ痛覚が存在していることだけが認識できた。
こちらを見つめるキメラの目には、純然たる殺意があった。多分俺は、死ぬまでこのままだ。
「カハッ……ハッ……オレだけが……死ぬなら……それでいいさ」
どのみち、一度終わった命だ。死ぬのは楽しくないので嫌だったが、どうにもならなくなると途端にそれがひどく甘美なものに思えてくる。痛みの極限である死。ああ、俺の死に顔を見た皆は、どんな顔をしてくれるだろうか。
優香ちゃんは、泣くだろうか。夏美は怒るだろうか。真央先輩は、悲しんでくれるだろうか。ああ、見たかったなあ。皆の曇り顔。
天高く、右手を突き上げる。燦燦と輝く、太陽に向かって。
「今、そこに──」
身を犯す快楽に、笑みすら浮かべながら、俺は死を受け入れようとしていた。
「──お姉様!」
声がした。可愛らしくて、でも強い意思の籠った、それは、俺の近くからした。
「……優香、ちゃん?」
「死なせません! まだ全部教わってないです! まだまだ遊び足りないです! まだ、何も聞いてません!」
優香ちゃんが走ってくる。俺に、治癒魔法を届けるために。
キメラの目が、優香ちゃんに向く。
その光景を見た俺は、最悪の展開を予想した。
──キメラの狙いが変わる。優香ちゃんが危ない。
震える声で、俺は自分を鼓舞する。もうすでに、諦めは捨て去った。あるのは、覚悟のみ。
「応えろ、オレの業」
『心身合一』に呼びかける。
大木の如く脚を掴んだ。手は、もう震えていない。
「もう繰り返さない」
掴んだ腕に力を籠める。俺ならできる。今の俺なら。
「傷つくのはッ、オレだけでいいッ!」
持ち上げる。先ほどまでびくともしなかった巨大な脚は、ゆっくりと上がっていった。
「ごお!?」
「ゴホッ……」
血反吐を吐きながら、足元に落ちていた小太刀を手に取る。
「うちの義妹に手を出すなああああああああ!」
脚部を一瞬で駆けあがり、キメラの顔に接近。振るった小太刀は、銀色の光を残して閃いた。
「ごあ……」
キメラの首が転がり落ちる。地面に落ちると、ずん、という重たい音が経った。
「はっ……はっ……」
地面に降り立ちそれを見届けてから、俺は忘れていた呼吸を再開した。脚部を駆けあがってから攻撃するまで、息をすることすら忘れるほど集中していたらしい。
「……あれ?」
キメラの体から飛び降りた俺は、不思議な感覚に襲われた。体が軽い。頭がふわふわしていて、天国にでも登ってしまいそうだ。
「ごぼっ……」
口から、するりと血が流れた。ああ、痛みのあまりおかしくなっていただけか、と悟ると、急に視界が不透明になっていく。体から力が抜けて、その場に倒れ込む。
辛うじて、こちらに泣きながら近づいてくる優香ちゃんが見えた。ああ、優香ちゃんがそんな顔してくれるなら、生きたかいがあったなあ、と最後に思って、俺の意識は途切れた。
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