第11話

 黒子の視線の先には運転手男性がもたれかかっている座席裏があり、物言わぬ運転手と黒子の間には軽いような重いような奇妙な静寂が流れていた。どちらも喋ることなく片方は頭裏を凝視され、片方は頭裏を凝視する、やはり奇妙な雰囲気がこの場には流れていた。

 座高の高い黒子は軽自動車の天井に頭の天辺が着きかけている。

 やはり運転手と黒子の間に会話はない。

 暇を持て余した黒子は頭の中で詩的なことを想像した。

 背の高いカカシが。大都会東京のど真ん中に設置されている光景。スクランブル交差点のど真ん中。そこにカカシは設置されている。車はそこを避けて通る。通行人も同じようにカカシのいる部分を避けて通る。

 運転席のあの人も通行人のあの人も。カカシを奇異なモノとして認識し。関わりを避ける為に話しかけようとはしない。

 本来のカカシの役割。害獣避け。害のある動物を農作物から守る役割がある。

 ならばカカシ以外のその他大勢は皆害獣とも呼ぶべき存在であり。カカシの本来の役割として避けられるとは無論正解なのだといえる。

 スクランブル交差点のど真ん中で涙も流さないカカシ。

 涙を流してくれる者はいない。愛を持って接してくれる人は少ない。都会の人間は冷たい生き物なのだからしょうがない。

 田舎の人間が恋しくなるカカシ。家族同然の村の人々。人の温もりが今では恋しいカカシ。東京は駄目な街だ。街として機能していない。冷たい物質としてのみ存在しており。やはり本来の街の機能を果たしてはいない。

 田舎町の場合は知り合いの知り合いは知り合い。東京は密集都市にもかかわらず知り合いの知り合いは知らない人として存在している。

 青空の下を共有する。同じ空を共有する。田舎とはそれが本質であり全ての答えでもある。青空の下を共有する。隣近所でこの地球というモノを共有する。知り合いの子供は自分の子供として存在しており。地域全体が子供の親であるという考え方。非常に理にかなう考え方であり。温かみのある優しい考え方。

 非道な人間には徹底的に厳しく接するのが田舎特有の差別意識。東京もんは皆非道だと教育されている。家族を守る為によそ者を排除する。村の皆んなを守るのは村の皆んなであり。一致団結し徹底的によそ者を排除しようとする。そこには愛が溢れている。

 やはり村の皆んなが恋しくて仕方がないカカシ。

 あの長閑な田んぼを日々守ってきたと自信を持って言える。今は渋谷のど真ん中で何を守っているのかすらも理解できないでいる。

 すれ違い様にカカシをジロジロと見やる通行人達。

 都会の喧騒に全く馴染めていないカカシ。

 おらほのこめだば世界に誇れる。そう言い切れる理由があるだべじゃ。しょすなっぺわらすじゃあるめえし。東京もんには理解できないお米の美味しさがある。ばさまじさまの代から受け継がれてきた広大な土地がある。冷たい土地では育たない作物がある。美味しいお米は人の温もりが育む。それを都会人は我が物顔で食卓に出し、そしらぬ顔で味も何も分からないような表情を浮かべながらお米を咀嚼する。

 じさまばさまに申し訳ねえじゃ。おらこったな人間知らないよう。こんたら冷たい人間知らないよう。

 一人の若者がカカシに向かって暴言を吐く。この街のスタンダード側に絡まれてしまったカカシ。青い表情をする。

 なおも罵詈雑言をカカシに向かって浴びせまくるこの街の若者。しっかりと亜種として存在する若者に少し哀れみにも似た感情を抱いてしまうカカシ。

 その他大勢はアブノーマルな世界を生きている。この若者だけが正常な世界。白黒の反転する世界に善悪の概念も正反対になる。

 飽きることなくスクランブル交差点のど真ん中でカカシに向かって暴言を吐き続ける若者。歩行者用信号機は赤になっており車のクラクション音が大合唱を起こす。

 若者がカカシに向かってしきりに叫ぶ絶叫。

「空が青い! 空気が新鮮! この土地に生まれて幸せだ! この大都会の片隅で! 正常な世界を生きている! 俺以外の全ての奴らが狂った奴に見える! 俺はお前がカカシに見えて仕方がない! 他の人間は指摘すらせず素通りだ! 俺の目にはお前はしっかりとカカシに見える! どうしたっておかしい光景に映る! 渋谷スクランブル交差点のど真ん中でカカシが立っている! 俺が異常なのか? 俺以外の奴らが異常なのか? 本当に皆んなどうしちゃったんだ! この光景は異常だぞ!」

 交差点の向こう側で信号を待つ人々が不安げな表情でそれを見守る。いまだクラクションの大合唱は鳴り止まない。

 一人の気狂いがカカシに向かって何かを捲し立てている光景。人々の視線は冷ややかで。嘲笑うかのような微笑を浮かべながらスマホカメラでその光景を一心に撮影する。

 頭上の透明な空間。人々の頭上には圧倒的な青い空間が広がっている。

 東京の空は青空で。誰一人としてこの青空を共有してはいない。

 想像し終わった黒子は意識を現実の世界へと戻してゆく。やはり視線の先にあるのは運転手の後頭部で、どちらも発言をしないので奇妙な空間のみが出来上がっていた。

 窓の外に視線をやり不意に黒子が呟く。

「警察に連絡した方がいいですよね、何かあってからじゃ遅い気がする……」

 軽自動車のフロントガラスに雨が叩きつけている。ワイパーが稼働していない窓は全てを雨水で覆われており、黒子の発言は雨の音によってほとんどがかき消されていた。

 運転手男性が後方黒子を見やり声をかける。

「警察には俺が連絡しといたよ、もう間も無く到着する頃だろ。ご都合主義に寛容になってもいい気がする、都合のいいように流れを作ってやればいいんだ、多分誰も怒りはしないだろ」

 そう言われ黒子が言いずらそうに口を開く。

「怒りはしないでしょうけど、呆れはするんじゃないですか? それかもう無の感情でその話の流れを閉じてしまう可能性もあります。私達は決してフィクションの中のキャラクターではないので確かに命は保有しています。現実世界でこうも都合よくご都合主義が通用するとは到底思えません、この世は偽りの世界ではないのだし」

「そりゃそうだ、今この世界はリアルな世界となって俺達の目には映っている、そう考えてみると世界はご都合主義の塊だと言えるな、決して小説の中のお話なんかじゃない」

 首を傾げて黒子が運転手男性に問いかける。

「点と点を繋げる為の線は必ずしも明瞭でなければいけないと思いますか?」

 首を斜めに振る男性。

「明瞭であるに越したことはないんだろきっと、不明瞭な線があっても誰が困るわけでもねえ、困るのは本人なんだからよ。けどな言葉を借りるようで悪いが総体的に評価されれば問題はねえだろ、やっぱり一番悩んでいるのが本人なんだよ、一か八かの大博打でも打ってんじゃねえのか? きっともうどうにでもなれと思ってんだよきっと」

 苦笑する黒子。

「大博打って……」

 男性が渇いた笑いを発する。

「博打だよこんなもん、そうでなけりゃ勝負しねえよ、正解がねえんだから仕方がねえ、そんなの考える賢い頭を持ってるわけでもねえ。ご都合主義万々歳だよ、推理もしない探偵が出てくるようなお話だぜ、きっと考える頭がねえんだろうな」

 窓の外からパトカーのサイレン音が聞こえてきた。

「お犬様ご一行の御到着みたいだぜ。黒子さん、あんたはこのあとどう行動を起こす?」

 ニヤリと微笑んだ黒子。

「お決まりの展開をお望みとあらば私は向かうべきです、あちら側に」

「後悔はねえんだな」

 静かに力強く頷く黒子。軽自動車のドアを勢いよく開け放つと、雨に濡れながらし尿処理場施設へと向かって走っていった。

 運転手男性は窓越しに一言呟く。

「後腐れないように盾になってこいや」


 し尿処理場施設事務所内。

 膠着状態にある三竦みの歪な黒点達。和田と堂島は視線を外そうとしない。お互いに睨み合ったままで場の空気感は異様な程にピリついている。

 椅子に縛られた関口は目元口元を目隠しされており視覚情報は皆無に等しかった。耳から入ってくる和田と堂島の言葉のみが唯一のこの場の情報源であり、追う者と追われる者の対立を臨場感抜群の特等席で拝聴している関口の現在。

 事務所内のドアが勢いよく開けられる。

 黒子が息を切らして部屋へと入ってきた。目の前の奇妙な光景に目元を若干細める黒子。

綺麗な三角形だった場に黒点が一つ追加され綺麗な四角形が出来上がった。

 形としてもそれはボックス型の四角形そのものを形成しており、上空から俯瞰して見ると室内中央に椅子に縛られた関口が、そこから斜め両方の位置に和田と堂島が、ドア付近に黒子が、綺麗な四角形を形作っており、そのどれもが同じ表情をしていない。

 和田は口元を真一文字に閉じ、堂島は口角の上がった不敵な笑みを湛える、黒子はやはり目元を細めジッと三竦みを見やるのみ、関口の表情は窺い知ることはできない。

 誰も言葉を発しないこの場の雰囲気に黒子は根負けし言葉少なく小さく呟く。

「和田さん……これは……」

 視線をゆっくりと和田に合わせる黒子。和田の方はこちらを向こうともしない。睨みつける堂島の視線から和田は目を逸らそうとはしなかった。

 黒子を見ることなく和田は言葉を発した。

「僕が今見据えている人物こそが亜種さ。黒子、信じられないことかもしれないが椅子に縛られている方が関口さんで、今僕が見据えている人物が堂島だ。スクールバス運転手はこの堂島だ、警察が動いている先の事件はこいつが犯人だ、小学生女児に悪戯したのは目の前のこの男だ」

 堂島が椅子に縛られている関口の頭を思い切り叩く。今度は鈍い音が響きグーの手で耳元を殴った。

 関口の表情が僅かに歪む。それでいて股間はエレクトしたままの状態で、膨張したそれは爆発寸前だった。透明な我慢汁が僅かに染み出す。

 花の蜜にも似た透明色のそれを堂島は指先で掬いとり自身の口内に静かに入れた。

 至福の表情を浮かべる堂島。ほっぺたが落ちる激甘な粘着性の液体が舌先を刺激する。連鎖するように堂島自身の股間も若干膨らみズボンの上にテントを張る。

 素直に嫌悪の表情を浮かべる黒子。目元を細めはっきりと軽蔑していた。

「性癖は多いに越したことはない、俺っちのフェチズムは加速度的に数を増やしていく。どうやら俺っちはSっ気もあるらしい、女性にこんなことを言うのは大変失礼だとは思うが。黒子さん、今度おりものを頂けないか? 女性のあなたにしか頼めないことだ、俺っちは本気で言っていたりもする、冗談に捉われるのは非常に心外だ、冗談でこんなこと言うわけもない」

 微動だにしない身体で黒子の眼球が黒目がちになりゆっくりと鼻で息をしていた。

 これをきっかけに探偵和田の怒涛の反撃が始まる。

「堂島さん、あなたは非常に危険な人物のようだ、到底世間には適応出来ないように見受けられる。一種の危険因子ですよ、危険な思想を持つ者はこの世界には多くいるでしょうが、あなたほど嫌悪感の凄まじい危険因子はいないと断言できる」

 深く息を吸って輪郭鋭く言葉を紡いでいく和田。

「僕の助手を侮辱するような発言が先程見受けられました、僕の助手を侮辱していいのは僕だけなんです、他人に僕の助手をどうこう言われる筋合いはない、本音を言います、もうねあなた気持ちが悪い、非常に気持ちが悪い、見ていて不愉快だ」

 目元の力を強めて和田の反撃はまだ終わらない。

「ありとあらゆる性癖を身につけていった先に何が待っているというのです? それは身を滅ぼすだけだと僕は思いますがね。アブノーマルに何をそんなに意固地になっているのですか? 種の保存にアブノーマルは必要ありません、正常位のセックスで確実に子供は作れます」

 その言葉を聞いて馬鹿笑いする堂島。腹を抱えて笑っている。

 前傾姿勢になった顔を上げ静かに和田を見やる堂島。嘲笑ったような表情で目の前の和田に言い捨てるように言葉を吐く。

「正常位のセックスで子供が作れるだあ? 正常位なんてな、AVでも早送りで飛ばす人がほとんどなんだよ。あんなつまんねえモノもねえよ、首絞めとか母乳、陵辱に近親相姦、黄金に青い果実、その他諸々沢山あるがな、正常位ほどフェチズムを馬鹿にした行為はないんだぜ。和田さん、あんた正常位が好きそうな顔してるよな、今度俺っちが犯してやろうか」

 静かな表情で目元を細める和田。

 堂島は高笑いを始め、血走った眼球に毛細血管の赤い筋が浮き出ている。

「あんたは言ったな、ありとあらゆる性癖を身につけていった先に何が待ち受けているのかと。俺っちには分かんだぜ、多様性が求められる現代の世の中において、何が一番重要かと。それは没個性からの脱却、ノーマルやスタンダードな人種はこれから死んでいく時代に突入するぜ、ある日を境に逆転現象が起こり、混沌とした時代の到来に狂った奴らは手を叩いて拍手喝采だ」

 堂島が関口の後頭部に足蹴りを喰らわせる。同時に関口は股間から白濁液を放出した。微動する極太のホース。脈打ち。脈打ち。次第に脈打つのを止めた。

 床には卵の白身状のモノが線を描いており、プルプルの質感に生臭い匂いが合わさりこの場に異様な光景をもたらしていた。

 堂島が卵白身部分に近づきしゃがむ。両手でかき集めて僅かばかりの量を掌に乗せる。

そして凄まじいスピードで腕を振り下ろした。

 一直線に飛んで行った卵白身部分は堂島の狙い通り黒子の口元に直撃し、口内に少し入ってしまった黒子は慌てふためきその場にうずくまった。

 えずく黒子。

 床に両肘を着き口を大きく開け懸命にえずく。次第に黒子の目元から涙が溢れ床にポタリと滴が落ちた。

 途端に探偵が狼狽する。

 実害となって被害を被った名探偵和田。大切な助手を酷く汚された事実に和田の頭部の微動は次第に大きくなっていった。痙攣するように身体部分も揺れ、その場に立っていることさえも難しい状態に陥った。

 片手と片膝を床に着く和田。目頭を押さえ船酔いに似た感覚。平衡感覚を失ったこの時代という大海原に。上下する荒波に。堂島という名の荒々しい海溝が口を開けて真下に佇んでいる光景。

 波間に浮かぶ探偵和田は。仰向けの状態で目の前に浮かぶ月夜を眺める。その背後には確実に悪魔が潜んでおり、深淵の向こう側、光の届かない闇の向こうに、性の権化が潜んでいる。

 冷や汗の止まらない和田。首筋が僅かに冷えてきた。

 他人の精液を口に含んだ黒子は顔面蒼白でなおもえずいている。

 これを宣戦布告と捉えた和田は気を持ち直し、膝に手を掛け勢いよく立ち上がる。真正面から見据えた堂島の姿。両者は再び対峙し、目元の力を互いに強めていく。

 物語に一番多いありがちな展開へと移行しつつある現在。定番中の定番が用意されていて面白味のない意外性もない独創性もない、お決まりな展開へと現在進行形で進みつつある。

 奇を衒った極小の一石をここで投じる。極小であるが故に効果は期待できない。

 探偵和田のスーツズボン内。ボクサーパンツ後ろ部分は現在阿鼻叫喚の光景となっている。

 ゴム部分締め付けのあるボクサーパンツが故の堰き止め。ゆるくもない健康的な黄金を堂島と対峙している間に咄嗟に漏らしてしまった。

 冷や汗の止まらない和田。首筋が僅かに冷えてきている。

 定番中の定番は回避された。こんな大事な局面で糞を漏らす主人公は未だかつて存在はしない。

 やはり少し臭うか。

 ――臭いモノには蓋をしよう。匂いは漏れ出すものだ。


 そんなに都合よく主人公は糞を漏らさない。しかし探偵和田はしっかりと漏らしていた。

 し尿処理場事務所内に存在する和田以外の三人は既に気づいているようで微かに鼻をひくつかせている。

 妙に臭う人の大便の匂い。

 目元口元を覆われている関口が匂いの元へと顔を向ける。

 呆れた表情でスカトロマニアの堂島も匂いの元へと顔を向ける。

 さっきまでえずき床に伏していた黒子も顔を上げ和田の方向を見やる。

 小学校教室内の一風景にも見えるその異様な光景。和田は俯いて口元を閉じることしかできない。本人が一番自覚している糞を漏らしたという事実。こんもりと存在する尻部分のモノが異様に熱を帯びている。

 物語の主人公が糞を漏らした。探偵である和田がしっかりと糞を漏らした。

 場の雰囲気が妙な気配を帯びてくる。この大事な局面で糞を漏らした情けない男。人は入れて出す生き物である、しかしこの大事な局面で出してはいけなかった。人間だもの仕方がないよねでは済まされない事実。主人公が糞を漏らしたのだ。

 和田を見やり黒子が呟く。

「嘘でしょ先生」

 嘘であって欲しいと願う和田。しかしこれは嘘ではない、事実なのだからしょうがない。

 可哀想な表情で和田を見やる堂島。静かに口を開く。

「流石にこの場面で漏らすのはよろしくないな、俺っちが黄金趣味を持っていたとしても この場面に脱糞は似つかわしくない、少し残念に思う」

「うゔぉおおうゔぉあ」

 口元を縛られている関口が興奮した様子で騒ぎ立てる。隣に位置している堂島が思いっ切り関口の頭を叩いた。

「嘘って言ってよ先生! この場でうんちなんか漏らさないでよ! 最低!」

 泣きつくように和田に向かって黒子が嘆いた。

 俯きジッと堪える和田。

「この大事な局面でうんち漏らすってあり得ないでしょ! 先生の匂いが今この場に充満しているんだよ? 分かってる? 自分が何したか分かってる?」

 和田の目元に溜まる涙。涙溜まりは崩壊し一粒が事務所内床に静かに落ちた。

 一気に咽び泣く和田。子供のように随所にしゃっくりを入れながら泣きじゃくる。容姿は大人なのにまるで子供のようだった。

 冷静に黒子が言い放つ。

「子供みたい、うんち漏らして泣くなんて」

 その一言が和田の心臓に突き刺さりむせび泣きの勢いは止まらない。

 堂島が同情するような表情で和田を見やり口を開く。

「人間ですもの漏らすものは仕方がないことです、我々は排泄する生き物です、何も恥じることはありません、和田さんは自然の摂理に素直に従ったまでです」

「でも探偵がうんちを漏らすって!」

 黒子が悲痛に満ちた表情で堂島に投げかける。嘆かわしい顔だった。この場に居ることが苦痛だと言わんばかりの表情。先生と呼んでいた探偵の男が糞を漏らしたという事実。

「ゔぉおいおゔぉおおおんゔぉ」

 股間がエレクトした関口が異様に興奮し騒ぎ立てる。隣に位置している堂島が思いっ切り関口の頭を叩く。

 混沌としたこの場の状況。

「類稀な直感能力で自身の便意には気付けるような気もしますが、己自身にはその力は発動しないのでしょうか? どうです和田さん? 己の便意は分かりませんか?」

 優しい口調で和田に話し掛けた堂島。

 なおも俯き咽び泣いている和田。その姿に助手である黒子が吠える。

「何とか言いなさいよ! 堂島さんが聞いてるでしょ! 泣いてばかりじゃ分からないじゃない!」

 しゃっくりを交えながら小さく和田が呟く。

「分かりません……」

 堂島と黒子の両者共に呆れ顔。大人がする質問に対する返答ではない。まるで叱られた小学生男児のようだった。

「一番ショックを受けているのは当事者である和田さんご本人です、黒子さんここは穏便に」

「あんた大人でしょ! 質問に対する答えがそれなの? 大人としてどうなの? いつもは偉そうに雄弁そうに語るけどさ、いざとなったらどうしようもない子供みたいな大人に変わっちゃう。正直見損ないました、はっきり言って軽蔑します、堂島さんや関口さんの方がまだ大人よ、この四人の中であなたが一番子供! 探偵ごっこをしているだけのただの子供にしか見えない!」

 黒子の恫喝にも近い大声にビクッと反応する和田。

「黒子さんおよしなさい、和田さんが一番苦しんでいるんだ、誰も彼を責める権利はない、探偵だって一人の人間です糞を漏らすことだってある」

 涙を浮かべ首を横に振る黒子。

「一人の探偵がうんちを漏らしたの。私だって先生が人間であるということはよく理解しています、でも一番漏らしちゃいけない人種でしょ探偵って。謎を鮮やかに解いて解決する、その大事な局面で粗相をする人間がどこにいますか? 私の目には先生が滑稽に映るわ、非常に滑稽、正直スベってる、一番やっちゃいけない笑いの取り方」

 苦い顔でしゃっくりが止まらない和田。臭いを放つモノは今もお尻部分に存在しており、この場に謎を提供し続ける。

「黒子さん。探偵は人であって人ではない、固定されたイメージ像が人々の頭の中に確かに存在してる。常に冷静沈着でここぞという時に多彩な推理力を発揮し事件を解決に導く。でもね探偵だって一人の人間なんです、血と肉で構成されたきちんとした人間なんです、他の人間たちと違うところなんて何一つない」

「でも堂島さん! 先生はうんちを漏らしました! それが何だか私異様に悲しくて虚しくて、どう言えばいいのかよく分からないけれどとにかく恥ずかしい! 本当に恥ずかしい!」

「おやめなさい黒子さん! それ以上和田さんを責め続けてはいけない! 誰でもあり得ることです、どの世界にもよくあることです、別に珍しくも何ともありません」

「もうやめてください……」

 俯いた表情で小さく呟いた和田。皆の視線が一気に和田に集中する。

 続けざまに和田は小さな声で誰に謝るわけでもなく贖罪の言葉を口にする。

「僕は糞を漏らした哀れな男です、笑ってやってください、大いに笑ってやってください、笑われないと逆に辛いです、こんな哀れな自分は笑われて当然な生き物です」

「和田さん! それは違う! 俺っちはスカトロマニアであるが故に糞の性質に異常に詳しい、本来忌み嫌われる糞という物質を己の自虐に使ってはならない、それは我々側を侮辱しているに等しい発言だ、訂正してください、先ほどの発言を訂正してください、そしてどうか自分に自信を持ってください」

「先生は哀れな生き物だわ、助手の私の目から見ても非常に哀れ、それでも私が仕える先生でもあるの。もう自分でもどうしていいのか分からない、どんな感情でこの場にいればいいのか分からない、だって本当に臭いんだもん」

 嗚咽を漏らす黒子。その光景を見て和田も嗚咽を漏らす。

 いたたまれない表情で和田と黒子の二人を見やる堂島。

 パトカーのサイレン音が微かに聞こえてきた。緊張感を持った表情へと様変わりする堂島。

 俯いた表情のままニヤリと微笑む探偵和田。この状況を一変させる一言を静かに呟く。

「探偵は探偵らしく振る舞うもの――糞を漏らしても僕は探偵です」

 先ほどまでの意気消沈した和田の姿はそこにはなく。気丈に振る舞い、犯人である堂島を目元の力を強く凝視していた。

 再び対峙する両者。

 匂い立つこの場面で雌雄を決する決闘が行われようとしている。

 紛い物の匂いを持つ者と。

 確かな匂いを持つ者と。

 探偵の頭部は微かに振動している。恐れなど微塵もない。これは俗に言う武者震いというモノ。やはり目の前の強敵に恐れなどは微塵もない。どちらかと言えばこの状況では探偵の方が異常に見えるくらい。

 ――ブレインシェイク――微動する和田一という男。

 ここ一番の局面で多彩な直感能力を発揮する男。揺れる。大きく揺れる。

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