第9話

 長閑な田舎町をキャリーケースを引いて歩く和田と黒子。

 関口自宅を夜遅くに後にした二人は、途方もない道のりを歩いて最寄り駅まで向かわなければならない。

 上空には煌めく星々と漆黒の闇夜が空を覆っている。

 在来線最終電車はもう走っていないと考え、結局野宿をする羽目になってしまった二人。

木の陰に揃って腰を下ろす。

「熊が出るこの田舎町で相当な勇気の持ち主だよ僕らは。ヒグマの腹の中で朝を迎えることになるかもしれない、正直僕はまだ死にたくはない」

 互いの顔を認識できないほどの漆黒の闇夜。月明かりはさほど役には立たない。

 背中の樹に体重を預けて上方向を見やる黒子の姿。

「ねえ先生見て、星がこんなにくっきり見える。星ってこんなに沢山存在していたんだ」

「物語の主人公を気取りたいお年頃か? 綺麗な台詞を吐いて黒子はそんなに主人公を気取りたいのか? 言っておくが主人公は僕だぞ」

 木々のざわめきが今この時は異様に心地良くて。怖い印象にはあまり映らない。

 大自然の中にいきなり放り出された東京在住者が、人生観の変わるような体験をこの田舎町で経験し、都会暮らしという名の極小スペースでの暮らしに心底飽き飽きする始末。

 少し濡れている雑草だらけの地面に静かに体を横たえる黒子と和田。

 仰向けでやはり頭上の星空を静かに眺める。流れ星なんて流れない。今この時にタイミングよく流れ星が尾を引いて流れるとするならば、それは非常に美しい物語に映りもするだろう。そんなありきたりなシーンなどこの場には不必要。

 黒子は既に寝息を立てて寝入っている。

 なかなか睡眠に突入しない自分自身をなじって罵倒した和田。こんなにリラックスできる環境にもかかわらずちっとも自身の脳は睡眠を欲しない。

 闇夜が広がる。真っ暗な闇夜が。

 和田の頭部を斜め上方向から見やる黒い影。異形の者はやはり姿を現し、いつものように和田少年をジッと眺める。

「ゲコゲコ」

 背筋の凍る思いの探偵和田。結局一睡もできずに一夜を過ごし、太陽が地平線の彼方から昇り朝を迎えた。

 早朝の田舎道をスーツケースを引いて足取り重く歩く和田と黒子の二人。朝靄の中を手探りで歩いている状態。どの方向に駅があるのか二人は把握していなかった。

 一台のパトカーが和田と黒子を追い越し、徐行し路肩に停まった。

 二人組の警官がパトカーから降りてきてこちらへと向かってくる。

「おはようございます、何かご旅行ですか?」

 会釈をする黒子とは反対に、和田は警官をジッと見据えて視線を外そうとはしない。咄嗟に俯き苦い表情をする黒子。

 黒子が慌てながら警官に事情を説明した。

「旅行なんです、これから東京ディズニーランドに行くんです、ああ楽しみだな、きっと楽しいんだろうな」

 警官二人が明らかに怪訝な表情を見せる。

「この村の最寄り駅まで徒歩でご移動ですか? 駅まではかなり遠いと聞いておりますが、本当に徒歩で行かれますか」

 ここで和田が小さく噛みつく。

「犬が――」

「は?」

「番犬にもならない役に立たない犬ですよあんたらは、僕は警察が大嫌いなんだ、どうか僕の視界から消え去ってほしい。あんたらの発するパトカーの音がいちいち僕の鼓膜を刺激する、もううんざりなんだよ!」

 目を見開き驚きの表情を見せる警官二人組。

 焦りの表情を隠しきれない黒子は和田の方を見やり目で訴え掛けている。そんな黒子の 仕草を気にも留めず和田は静かにこう呟いた。

「事件が起こらないと何もできない。本当に哀れだな君らは」

 その言葉で火が付いたのか一人の警官が丁寧な口調でこう言った。

「身分証はお持ちですか? 色々とお話を聞かせて頂きたいです」

 キレ気味の和田の姿。

「はあ? 職務質問ってやつですか、もう何百回と職務質問されてますよ僕は、年がら年中職務質問しかする仕事がないんですか? 己を向上させないその怠慢な態度がまざまざと職務に現れていますね、こんな田舎町で僕をどうしようっていうんですか、だから僕は犬は嫌いなんだ、考える知能を持たない劣等種に近い君らに僕は素直に嫌悪の感情を抱きますね」

 怯む様子のない警察官。堂々としている。

「まあまあ落ち着いて、この村で変質者が出たという情報がありましてね、やはり素性を聞かないわけにはいかないでしょう、どう見てもあなた方はこの村のご出身のようには見受けられない」

 そう言って警官は黒子の身体を舐め回すように上から下まで見やる。

 黒子が警官に問う。

「変質者が出たんですか?」

「あなた達には関係ないでしょう」

 もう一人の仏頂面の警官が黒子の発言にかぶせるように言い放った。

 和田がギロッと警官を睨みつける。

「こちらの情報だけを提供しろと言うのですか? 対価のない言葉のやり取りに何の意味がありますか? こちら側の素性を明かしますのでそちら側もその変質者の情報を僕達に教えてください」

 そう言うと和田は尻ポケットから財布を取り出し警官に免許証を提示した。

「お名前は~和田一さん、東京の方でしたか、お仕事は何を?」

「探偵業をしております」

 不穏な表情を醸し出す警官二人組。静かな動作で和田の隣の黒子を見やる。

「こちらさんは?」

「一応助手です」

 ますます不穏な表情に様変わりする警官二人組。

「あなたのお名前は?」

 警官にそう問われスッと目線を逸らす黒子。逸らした目線のまま小さく呟いた。

「黒木黒子です」

 不穏と怪訝の入り混じった表情へと変貌する警官の様子。

「あなたも東京の方?」

「東京都世田谷区出身です」

 和田が威勢よく言い放った。

「さあ! 僕らの素性ははっきりと明かした! その変質者とやらの情報を教えてもらおうか!」

 顔を見合わす警官達。明かに馬鹿にしたような態度で免許証を和田に返す。

「ご協力ありがとうございます、駅まで相当な距離ですがどうかお気をつけて」

 ペコリと会釈をしてその場を後にする警察官達。

「おい! 貴様らは僕達に情報提供しないつもりか! 僕達はちゃんとこちらの情報を伝えたぞ!」

 そのまま警官達はパトカーに乗って走り去って行った。

 田舎町の国道にポツンと置き去りにされた現在の光景。

 黒子は静かに和田の方を見やる。

 遠い彼方を眺めるようなそんな目元を和田はしていた。一直線に続く県道を何かを思いながら眺めている。

 不意に和田が呟いた。

「犬に負けるのは癪だ、あの横暴な態度を見たか? あれが天下の警察様だ、どうりで混沌とした世の中になるわけだ」

 前を見据えたまま和田はこうも呟いた。

「黒子よ、勝負は時の運ではない自分で掴み取るものだ。僕は変質者一人捕まえることができない柔な探偵ではないよ、警察に一泡吹かせてやろう。僕達がその変質者を捕まえて断罪する、犬に負ける探偵などあるものか」

 黒子の視線、斜め下に存在する和田の頭部が激しく揺れている。

 ――武者震い。奮い立つ心。鋭い太刀を携えて進軍する時が今この時。敵陣に向かう時にはいつだって震えてきた。怯えて震えているのではない。自分の真価が発揮できると勇んでいる。悪党を一刀両断する構え。

「黒子よ、僕の直感を信じてはみないか? 多分この事件は僕が解決するぞ、警察に一泡吹かせる自身の姿がはっきりと脳裏に浮かぶ。昨日の今日で悪いが首都東京への帰還はまだ随分先のことになりそうだ、今の内に綺麗で新鮮な空気を吸っておくように」

 静かに頷く黒子。

 先ほどまで田舎町の県道をあてもなく彷徨っていた二人。今は辿るべき道筋が光の尾鰭のように見えて。目指すべき方角がはっきりと分かる。

 上を見上げるとやはり上空には青空と申し訳程度に白い雲が浮かんでいる。

 頭部の振動はしばしの間――鳴りを潜めた。


 和田の豪傑に違わぬ凄まじい直感力が力を発揮する。

 いとも簡単にこの限界集落小学校のスクールバス運転手が変質者であると言い当てた。

開いた口が塞がらない黒子はその根拠を和田に尋ねる。

「本当に変質者は小学校スクールバス運転手の堂島さんなんですか?」

 澄ました目元でこう答える和田。

「十中八九間違いない、僕の直感力は推理小説家泣かせだろうね。もし仮に僕を主人公と する推理小説があったとしたならば、それはとても面白みに欠ける凡作と成り下がる運命だろうね、なんせ推理をしないのだから」

 乾いた笑いを浮かべる黒子。

「確かに探偵が推理をしないで己の直感力だけで犯人を言い当てるような推理小説はあんまり読んだことがないです、逆に新しいのかも」

「一先ずの目的地は決まった、この地域の小学校を目指そう。と言いたいところだが我々にはこの田舎町の土地勘が全くない、明後日の方向に闇雲に歩いてみてもきっと小学校には辿り着きそうもない」

 黒子が国道の向こう側、遠くの方を見つめている。

「先生! 第一村人発見!」

 二人の視線の先には杖をついた高齢者の姿。こちら側によぼよぼと歩いてくる。

 駆け寄る二人に驚く様子を微塵も見せない高齢者女性。

「こんにちはおばあちゃん、あの、ちょっとお尋ねしたいんですけども、この地域の小学校はどの辺りにありますか?」

 腰の曲がったおばあちゃんはシワの多い口元でごにょごにょと呟いた。

「まんずわがねじゃ、あんたおらほのまごにそっくりだべなあ、ほんにまたせのたけえごど、わらすっこはすくーるばすでとなりまじまでいってるっけじゃ、くるまねどもいけるきょりじゃねっぺじゃ」

 華麗に外国語を披露したおばあちゃんは、そのままスタスタと杖をついて歩いて行ってしまった。

「この地域の小学生は隣町までスクールバスで通っているらしい」

 外国の言葉が分かる和田はしっかりと意味が聞き取れたようだった。呆れ顔で和田を見やる黒子。

「先生は先ほどのご老人の流暢な日本語がはっきりと理解できたと仰るのですか?」

「君にも前に説明しただろう、僕は東北の田舎町の出身だ、あの程度のなまり口調を解読することなど屁でもない。青森県民の津軽弁レベルになると僕でも判別は難しいが、先ほどの老人程度の方言ならば日常会話の延長線に存在するモノだ、別に難しくもない」

 黒子が感心した様子で首を上下に振っている。

「隣町までは歩いて行ける距離ではないとも話していた」

「じゃあどうするんですか?」

「僕はこれまで幾多の困難を己の直感力で切り抜けてきた男だ、あと一分この場で待ちなさい、必ず車が通るはずだ」

 警官達が乗ってきたパトカーぐらいしかこの国道では車を見かけてはいない。上り車線も下り車線も車の往来は皆無だった。黒子は不安げな表情で国道の先を見据える。

「そしてヒッチハイクをすれば目的地まで僕達を乗せて行ってくれる、僕の直感力を侮ってもらっては困る」

 遠く彼方を目を細めて見やる黒子。

 国道の先に見える一点。どんどん近づいてくる黒い一点。やがてそれは車という姿を持ち、本当にこちらへと向かってくる。

 和田がヒッチハイクポーズをとる。

 軽自動車は二人のすぐ近くで徐行し路肩に停まった。

 車の窓が開いて六十代くらいの男性が声をかけてきた。

「乗ってく?」

 軽自動車に駆け寄る和田と黒子。

「隣町まで行きますか?」

「夜勤明けの帰りでさ、まあいいから乗りなよ乗せてってあげるよ」

 深々と頭を下げる和田と黒子。

「ありがちとうございます」

 二人を乗せた軽自動車は緩やかに発進した。


「はあ、東京の方」

 運転手の男性は眠そうな目を擦りながら助手席に座る和田に言った。

「ご旅行っつってもここは観光地じゃないしねえ、どういった御用で?」

 咳払いをしながら和田が言う。

「私探偵をしております、後ろの奴は僕の助手みたいなものです、一つお尋ねしたいのですが、この地域には小学校が二つ存在するのですか?」

 あくびをしながら呑気な声で答える男性。

「児童数の減少でこっちの小学校は隣町の小学校と統合しちゃったからねえ、元々は分校だったのさ、全校児童三人の小さな学校、あの子達はスクールバスで隣町まで毎日通ってるよ」

「大変ですね」

 後ろの座席に座る黒子が身を乗り出してそう呟いた。

「片道三十分はかかるのさ、それを朝夕毎日よ、よくやってるよあの子達は」

「スクールバスの運転手の方はご存知ですか?」

 和田が男性を見やりそう言った。

「ああ、あの男のことだべな、今年四十八歳にもなるのに独身者でさ、いい噂はあんまり聞かねえなあ、その歳で独身ってことは変わり者に間違いねえよな」

「その男性は最近転職をされたんですか?」

「ああ、前は地域の汲み取り業者所だったがなんで辞めたんだべな、給料も悪くねえだろうし」

 和田の頭部が密かに揺れる。

「その男性の転職前後でこの村に何かに変わったことはありませんでしたか?」

 考えこむ男性。何かを思い出したように口を開いた。

「そういえば女性が失踪したな、しかも二人」

 静かな表情で考え込む和田。やはり微動する頭部部分。

 後ろの席の黒子が男性に問う。

「その失踪した人は梨花さんという名前ではありませんでしたか?」

「いや~名前までは分からねえよ、でも若い女性らしかったぜ、二人とも」

 朝陽がフロントガラスに反射し光の束を作っている。少し窓を開ける男性。微風が車内に入り込み空気の循環を促す。

 顎に手をやり呟く和田。

「若い女性二人の失踪……」

「そのどちらかが梨花さんである可能性が高いですね先生」

「可能性というかほぼ確定なんだよ黒子。僕の直感力がそう囁くのだが、もう一人の女性の方がどうもモヤモヤとしていて、輪郭を色濃く映さない、謎が残るよ、一体その女性は誰なのだろう」

 男性が和田を見やりこう呟く。

「名前は分からねえけどもさ、どうもこの地域に元々住んでいた女性ではないみたいなんだよ、詳しい事情は分かんねえけどもさ」

 長閑な田舎町を走っていた軽自動車はいつの間にかコンビニの存在する地方都市を走っていた、田園風景は過ぎ去り道路を普通に人が歩いている。

「どこで降ろせばいいのかな?」

「あ、小学校でお願いします」

 軽自動車は小学校駐車場に停り和田と黒子の二人を降ろした。

「ありがとうございました」

 運転席から手を振って走り去っていく男性。

 駐車場にはスクールバスの姿は見当たらなかった。ちらほら見えるパトカーの姿。現在の時刻午前九時。

「先生、小学校に来てはみましたがこれからどうするんですか? 警察もいるようだし下手には動けませんよ」

 上空を見上げる和田。そのまま意味深な言葉を静かに呟く。

「僕は今空を見上げている。黒子の視点からは空を見上げている僕の姿がしっかりとその目で見えているはずだ。視点は幾重にも存在し混沌の世界で群れをなしている。僕の目からは真っ青な空としか認識できない。しかし他人の目からは青空とは映らないのかもしれない。やはり色認識といったモノは個人個人が個別に感じているようなモノ。だとしたならば血の赤が黄金色に見える場合もあれば黄金色が血の赤に見える場合も勿論あり得る」

 和田を見やり首を傾げる黒子。

「もう聞き飽きただろうが僕の直感力が華麗に炸裂する。変質者は黄金趣味をお持ちのようだ、しかも青い果実を口にした罪人だ、それだけではない、そいつは人を殺している」

 絶句した表情でやはり和田から視線を外そうしない黒子。

「男色に移行しつつある狂気が気になるな……その変質者は今恋をしていて、その相手は小学生の男の子だ」

 絶句していた黒子の表情が目元を細くし明かな嫌悪の表情へと変わる。

「色即是空。空無である。それらに実体があるのではなく空無なのだ。急がないと犠牲者が増える可能性がある、小学生男子と変質者は同じ地域内に住んでいる可能性が高い、そして小学校にスクールバスの姿はなく、堂島の姿も見当たらない、僕達はとんだ回り道をしてしまったようだ、何の為に小学校に来たのかすら分からない」

「来た道を引き返すんですか?」

「滑稽な姿に映るだろうね、滞在時間にして数十分、僕らはとんだお間抜けさんだ」

 和田が口元を緩めながらそう呟いた。

「収穫がなかったわけではない、小学校に変質者は現在存在せず、堂島が住処としている建物は昨日僕達が泊まったあのアパートだ。目指すべき道が大幅に狭まったと言える、そこを目指せばいいのだから」

 和田と黒子は来た時と同様にヒッチハイクをして限界集落田舎町へと舞い戻った。

 狂いを連想させる田んぼ一角の一体のカカシ。風の吹かないこの村は空気が滞留している。

 やはりこの土地は独特な臭いがする――。


 染み付いた臭いが繊維の奥底まで潜り込んでいて、どう洗濯しようとも落ちない頑固な臭い。茶色く汚れた真っ白なシーツがもう純白に戻ることのない定め。

 シーツを汚す者が確かに存在する。自己中心的な考えを持つ横暴な態度に人々は静かに驚愕する。

 世界は自分を中心に回っていると誰しもが思うもの。しかし大振りなジェスチャーで自己主張をしない世間の人々。灰色の人間が街を大勢闊歩しており、この地球全体が灰色の色で埋め尽くされている。

 灰色の中に埋もれる微かな光。光り輝く黄金色の光。絶叫し大声を上げ続けるその黄金は、自分自身が一番可愛く、自分自身が一番尊い。

 自己を愛するという新たなフェチズムに目覚めようとしている達観者。

 それこそが循環する永久機関として存在する自己愛という性的フェチズム。己の肉体を性的な対象に捉え興奮するある種の到達した者の姿。

 黄金という特性を有し、そして男色さえも早々にクリアした男。

 アパートの一室から男の子の泣き声が聞こえる。

 悲しそうに静かに泣く声。

 己という性的フェチズムの対象に、常時エレクトした極太ホースから粘着性の高い白濁液を撒き散らす光景。

 その姿に怯え切る小学生男子。

 自分が可愛い。自分が尊い。自分の毛に塗れた胸板と毛に塗れた臀部に、ガクガクと震え上がり性的対象が自分自身になったことへの喜びを素直に表情で示す男。

 苦しいような幸福なような、よく分からない表情で目をつぶっている。

 アパート一室で静かに呟く男。

「自分がエロい、自分の身体が物凄くエッチだ、見てみろ隆史この俺のお尻を、たまんねえだろ」

 首を振る小学生男子。

 時刻は午前十時。

 もうキャッチボールをすることもない間柄。そんな目でこの小学生はこの男をもう見ることができない。

 空が青い。緑豊かな土地。綺麗な空気。温和な村の住人達。

 ――健康な心をこの大自然で育んでゆく――子供達は地域で育てる皆の宝だ。


 四棟が連なる田舎町に似つかわしくないスタイリッシュなデザインのアパートを和田と黒子は息を切らして目指していた。

 地面を転がるキャリーバッグが二人の走るスピードを妨げる。

「黒子、急がないといけない、これも僕の直感なのだが凶行はもう行われていて、僕らが到着したところで何の解決にならないとは思うが……しかし子供の命が掛かっている、これも生死は分からないが……」

 早歩きのようなスピードで着実にアパートへの歩みを進める二人。

「もう犯行は行われているってことですか? 本当にもう間に合わないんですか?」

 息荒くそう和田に尋ねた黒子。

「直感という名の何の根拠もないシックスセンスが、100パーセントそう言い切れるという類のものではないのでね。1パーセントの可能性に賭けてみろと言われてもその他が99パーセント凶行が終わった後という結末だとしたのなら、僕の直感力は何の為に備わっているのかということになる」

「でも先生の直感力は外れた試しがないじゃないですか、考えたくもないですが、きっともう……」

「黒子よ、足を動かそう、口を動かす場面ではない」

「はい」

 田舎道ほど都会人泣かせの道もない。道路の幅が広く家々の点在箇所も数十メートルおきにという場合が多い田舎という町。都会の密集度合いに慣れていると体力がすぐに底をついてしまう。

 やはり空は青く白い雲がまばらに浮かんでいる。長閑な光景に部外者がズカズカと足を踏み入れている光景。やはり黒子の長身はこの村でも目立っていた。

「巨人! 巨人!」

 途中道で出会った小学生集団に黒子はそう呼ばれていた。巨人という言い方も失礼だとは思うが、田舎町の小学生達はこんなモデル体系の女性を見るのが初めてだったのだろう、それは確かに巨人にも見えたし巨人としか認識できないモノだったのかもしれない。

「うるさい! あっち行け!」

 黒子が吠える。

 小学生相手にムキになっているということは、同程度のレベル帯に存在していると証明しているようなもので、十八歳の黒子はやはりまだ子供なのかもしれない。

 小学生集団は散り散りに去ってゆき、歩くスピードを早める和田と黒子。

「巨人だなんて女性に対して失礼ですよね、私から見たらあの子達は小人の国の妖精にしか見えなかった、だから子供って嫌いなのよ」

「黒子は子供が嫌いなのかい」

「うん、なんか生意気じゃん、歳上に対して口の利き方がなってないし」

 和田が俯いて笑いを堪えている。

 不思議そうに和田を斜め上から見下ろす巨人の国のお姫様。和田の俯いて歩く姿に何かの既視感を覚え、黒子は頭上を静かに見上げた。

 雨は降りそうもない。土砂降りになる予報もない。なのに不安な気持ちになってくる。全てを洗い流す豪雨がこの村を襲いそうな気がして、直感力を有していない黒子は考え過ぎかと思い、視線を元に戻し歩みを進めていく。

 無事にアパートに到着したはいいものを、和田と黒子は考えあぐねていた。

 堂島宅に突撃しようにも肝心の部屋番号が分からないでいた。仕方がないので二人は関口の部屋インターホンを押す。

 応答がない。

 時刻は午前十時を回っていた。関口は仕事に出かけた可能性が高い。互いに腕組みし悩む二人。

「どうします先生、この敷地内には四棟のアパートが連なっているので合計十六部屋です、一件一件見ていくとなっても堂島本人が部屋から出てくる確証は何もありません、すぐそこにいるかもしれないのに……何もできない」

「103号室だ」

「え」

 静かに和田を見やる黒子。

「例の如くだよ、例の如く、説明はもう不要だろう、さあ行こう」

 本当に推理小説家泣かせの名探偵だなあと黒子は思った。捜査も何もあったもんじゃない、事実和田と黒子は捜査らしい捜査はほとんどしていないに等しかった。

「ちょっと待って先生、何か嫌な感じがする、先生の直感は正しいのかもしれないけど全てがスムーズに行き過ぎていて何か違和感を感じる。もう少し冷静に判断した方がいいと思う、私には直感力はないけれど今回の件は命が危うくなりそうで何だか怖い」

 鼻で笑う和田。

「僕が凶悪犯に腹を刺されるとでも? いいかい黒子、目の前の謎が己の直感力でいとも簡単に解けてしまうのだよ、解かない理由はないだろう僕は探偵だ。スムーズに事が運ぶのならば探偵冥利に尽きるものだ、大抵の探偵はスムーズに事が運ばない、何らかの障害が立ち塞がりそれを乗り越えてゆく、そんな探偵も存在してていいし僕みたいな探偵も存在してていい、画一化された没個性が主人公に必要とでも? 僕はこの世界の異端であり続けたい」

「でも先生……」

 静かに首を振る和田。

「心配しなくていい、命の危機など訪れない、もし仮のそのような場合に陥ったら黒子が盾になってくれるんだろ? 無用の長物に成り下がった大きな盾だ、使い道が将来的に訪れる様子は微塵もない、僕の直感力を信じてくれ」

 素直に頷く黒子。

 和田の澄ました顔が今この時には非常に滑稽に映る。

 獰猛な化け物が潜む湿地帯に今二人は足を踏み入れようとしている。湿地帯の洞穴を一つ一つ手探りで覗いていく和田と黒子。

 朝のこの異様な光景が妙な緊張感を孕み、手に汗握る黒子は呼吸の音をできるだけ沈め、暗がりの中をやはり手探りで進んでゆく。

 対照的な和田の姿。勇ましい寛大な勇気を持ち、燃え盛るトーチを片手に目の前の漆黒を照らす。

 ご丁寧に洞窟の立て看板には『堂島』と名前が記載されていた。

 生唾を飲み込む黒子。

 インターホンという名の呼び出し機ボタンを押す和田。

 応答はない。

 微かに子供の叫び声。必死にこちらに救助を求めている。

 ――走り出した和田。アパートの裏手へと回り込む。唖然とした表情で突っ立っていることしかできなかった黒子。

 アパート一階部分裏手には各部屋ごとのベランダと大きな二枚窓。

 和田は堂島宅ベランダを乗り越え、窓に自身の体ごと体当たりした。窓が割れると同時に和田の身体が室内へと勢いよく転がり込む。

 刹那の時間。コンマ一秒の間。子供の絶叫がその瞬間室内に響き渡り、敵の姿を確認することなく和田は室内玄関まで勢いよく走り出した。

 部屋の惨状を横目で見やりつつ和田は玄関までの数メーロルを全力疾走した。

 ドアロックを解除しドアを開ける。

 和田は洞穴に抜け道を作り上げた。毒気の多いこの湿地帯洞窟が人の住む環境ではない証拠。もはや化け物は化け物にしか映らずやはり人間ではない。

 子供をさらい喰らう化け物。到底人間の姿などしてはいない。

「黒子! 人だ! 人を呼べ!」

 しゃがれた声で絶叫した和田。大振りなステップでアパート外へと脚力を強めた黒子。

 和田は室内へと踵を返す。先ほど横目で見た部屋の惨状が輪郭を鋭くそこに存在している。白濁液のブチ撒かれた床や壁、もうモダンでクールな渋みのある部屋とは言えない混沌の世界がそこには広がっており、小学生男子が打ち捨てられた事後の光景がそこにはあった。

 部屋中央の黒革のソファには一人の男が鎮座している。全裸の状態で肩で息をし興奮した様子だった。

 和田の視線の先には堂島が映り。堂島の視線の先には和田が映る。

 ――対峙する両者――雌雄を今決する時。

 これ程までに狂った狂人に初めて対峙する和田は口元がいびつに歪んでいた。

 ――武者震い。本態性振戦。微かに微動する頭部部分――微かに視線が揺れた気がした。

 恐れで揺れているわけではない――同類を見た気がして。

 同じレベル帯での常軌を逸した決闘。

 やはり同類。

 和田のことを見据えて堂島はゆっくりと口を開いた。

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