第7話
最初に震え症状を指摘されたのは小学一年生の時だった。
給食の時間にクラスメートから箸を持つ手の震えを指摘された。指摘されるまで自身の体の震えなど全く意識などしていなかった。
次第に手元だけではなく身体や頭の震えも併発するようになり、なぜ自分だけがこの震えという症状を発症しているのか幼心に理解に苦しんだ。
両親に相談をしてみても考え過ぎだの一言で一脚され、こんなに自分は震え症状で苦しんでいるのに理解してくれる親や先生や友人は一人も現れなかった。
やがて自分は思春期の時期を迎えた。
地獄のような苦しみが自身を待ち受けていた。仮にこの世に地獄という場所が存在するならば、限界集落の片田舎がそれに当てはまり。陰湿な村の住人に好奇の目で見られることは至極真っ当必然的なことであり、思春期を迎えた自身の心が破壊されていくのも時間の問題だった。
「寒いの?」
中学校で女子生徒に言われた一言。寒くなどない、女子生徒に問われた時期は八月真夏の季節だった。
汗だくの真夏日に身体や頭を震わせる自分の姿は大変好奇なモノに映ったに違いない。それ以来自分は極力クラスメートとの会話は控えるようにした。
身体の震えを気にしないように意識すると途端に震え症状は激しくなる。コントロールなどできるはずもない、震えたくて震えているわけではない、勝手に自動的に頭や身体が震えるのだ。
次第に不眠症を併発し寝ることのできない身体へと徐々に変貌していった。
神様の些細な悪戯なのだとしたら、その神様は相当性格が悪い。こんな身体でこの世に誕生させ、あとは知らんふり。冗談も大概にしとけよ。
眠くならない自身の脳と微動し続ける自身の頭部。
大人になった今では精神疾患の一種なのだろうとは容易に想像がつく。震え症状で病院にかかったことなど一度もない。こんなどうでもいい症状を医師に説明することが苦痛で病院に通院する意味を見出せなかった。
自力で症状を軽減させる方法は何かないかと、怪しい薬や飲料水などにも頼ってみたことはあった。結果としていまだに震え症状は収まってはおらず、悪化の一途を辿っている。
このままこの持病とも呼ぶべき震えと付き合っていかなくてはならないのかと絶望したことは一度や二度ではない、目に見える症状は非常にたちが悪い、街を歩いてみても頭が震えている人など皆無だ。
「寒いの?」
自身の探偵業の助手とも言えるべき黒子。彼女と初めて出会った際もこのようなことを言われた。
その時の黒子の服装は黒地ショート丈のハーフパンツに黒地のTシャツ姿だった。
少し昔を思い出してみようと思う。黒子と初めて会ったあの日のことを。
人混みの中を異質な何かが突出している。巨大な塔のように思え和田は斜め上を見上げながら過ぎ去る少女の手首を掴んだ。
「え、何?!」
手首を掴まれた少女は途端にビックリした様子で目の前の男のことを痴漢か何かと思ったらしい、次第に目を細め軽蔑した表情を和田に送る。
「君の気持ちを僕は分かってあげられる」
「はあ?!」
怪訝な表情で和田を睨みつける少女。
掴んだ手を離そうとしない和田は斜め上を向きながら静かにこう言った。
「他人の弱みにつけ込む卑怯な男と思わないでくれ、君の今後は僕の手中に全てある」
和田は掴んだ手を離そうとはしない。
「誰か! 助けてください! 頭のおかしい人が!」
「君は僕の探偵業の助手を務めることのできる類稀なる才能の持ち主のようだ。恵まれた体格は申し分ない、それ以上に直感で君だと僕が判断した」
和田の手から逃れようと少女は身体をよじらせる、それでも少女の手首を離そうとしない固く握られた掌。
懇願するように周囲の人々に助けを求める少女。
「ねえ! 誰か! 助けて!」
和田は少女の顔付近に顔面を近づけていき、耳に手を当て小さく何かを囁いた。
――真夏の陽炎が遠く彼方の何かを揺らす。
揺れたのは少女の何か――。
途端に暴れるのを止めた少女。静かになった顔で和田の方を見やりこう呟く。
「寒いの?」
微動する和田の頭部を見て少女は小さく微笑んだ。つられて和田も小さく微笑んだ。
「寒くはない、これは僕の特性なんだ、微動する己自身を制御してくれる大きな鞘が必要だ、僕をモノに例えるなら巨大な切れ味の凄まじい真剣、相手を叩っ斬る鋭い太刀だ」
「厨二病臭いからそれは止めたほうがいいよ」
少女の真っ当な助言を聞き入れ静かに頷く和田。
「とにかく大きな鞘が必要でね、君の恵まれた体格は全ての要素を兼ね備えている、それでいて適切な受け返しも可能ときた」
上下真っ黒なスーツを羽織っている和田の姿。猛暑日を記録した東京都内でこんな格好は逆に目立つ、それ以上に和田以上に少女はストリートの雑多な喧騒に妙に馴染んでいた。ここは大都会東京。目立つ者が勝者となる街。
「私には秀でた才能なんて一つもない、そんな私をあなたが直感で何者かであると見出したのであれば、きっとそれは本当のことなんだろうなとは思う。不審者同然のあなたに手首を掴まれている現在の私。リスクを犯してまで手に入れたい何かがあるのだとしたら私はこの掴まれた手を振り解こうとはしない。どうとでも好きにしてください、鞘なり何なり好きにしてください」
「君は自分の考えをしっかりと言える賢い頭を持っているようだ。もう一度言う、他人の弱みにつけ込む卑怯な男と思わないでくれ、君の今後は僕の手中に全てある」
再度少女の耳元に近づき何かを呟く和田。
真顔で和田の囁きを聞き入れる少女。
「指摘してくれてありがとうございます、あなたは観察力が人並み以上に優れているらしいですね。お名前を伺ってもよろしいですか?」
「僕は和田一という者だ、探偵業を生業としている」
少女は和田を見下ろしながら首を掻いた。
道路のど真ん中で話し込んでいる二人。道行く人々が邪魔臭そうに怪訝な表情で路肩に逸れていく。
「探偵って何をするんですか? 人探しとか?」
「困っている人を助ける仕事さ、お礼に報酬をもらいそれで僕は日々を生活している。困っている人を僕は助けることができるし、困っている僕を君は助けることができる、周り巡って循環する、探偵業とはそういうものだ」
「全ては円や丸で繋がっていると?」
大きく頷く和田。
「きっと僕は将来的に君に命を救われることになる。直感で分かるんだよ、君をここで拾い上げておかなければ僕は後々命を落とすことになる」
「私は人の命を救えるような大それた人間ではないですよ」
首を振る和田。
「将来的に君は僕の命を必ず救うことになる、自分の身を挺してでも君は僕の命を守るはずだ。そんな未来がいずれ必ず訪れる」
首を傾げる少女。真っ黒な前髪が斜めに落ちる。
「強引な詭弁ではありませんか? それこそ未来予知的な特殊能力云々のお話になってきてしまいます。あなたの命を私が救う? それも身を挺して? そんなことは私はしませんよ」
「いや、するよ君は」
静かに言い放った和田の言葉が妙に力強く感じられ少女は少しの距離を後ずさった。
少女の黒い瞳を斜め上に見据える和田の目元。
「憶測で未来の予知を僕ができるのであればそもそものお話、僕が命の危機に瀕することはないんだ、僕には予知能力はまるっきりない、その代わり人よりずば抜けて高い直感力を有している」
和田が人差し指を目の前に掲げ指を立てる。
「ブレインシェイク――直訳すると脳の震えという言葉だが、君は脳の震えを感じたことがあるか?」
問われている意味がよく理解できず、解釈も難しいブレインシェイクという言葉に少女は些か戸惑った。
「僕はね、常に微動しているんだよ、身近なモノで水という物質があるが水が震えるとどうなるか君は知っているか?」
首を素直に横に振る少女。
「水を振動させると水自体の温度が上昇するんだ、僕の平均体温は三十八度前後だ、多分というか他の人よりも体温が高い状態で日常を生活している。別に頭がボーッとなったりはしないよ、代わりに妙に頭が冴えるのさ、原理はよくは分からないが僕は人並み優れた圧倒的な直感力を有している。人が普段感じることのない脳の震えが異常なインスピレーション、直感的な閃き、シックスセンス、瞬間的な思いつきを発生させる。つまりは身体の震えという構造自体が普通の人と僕との違う点だ、勇逸無二の生まれ持った才能とも言える」
「辛いと思ったことはないんですか?」
鼻で笑う和田。
「子供の頃はそれはもう地獄の日々だったよ、己を恨んで呪って生まれてきたことを後悔もした。しかしある時考え方が百八十度反転した。これは個性であると、他の人が持ち得ないオリジナリティーが自分にはある。画一化された現代の世の中において個性は時として異端と見做され排除されてきた歴史を持つ。人より抜きんでた何かを有することは、出る杭を打つという言葉にもあるように後ろから服の袖を引っ張られるようなものだ、前に行くな、世界の均衡が崩れるよと誰かに忠告される」
不適に笑う和田。それを静かな表情で見やる少女。
「ブレインシェイクで世界が救える、人々を救える、脳の震えが自身の体温を上昇させ限 界突破の直感力が生まれる。己の出生を呪った自分が今ではその特性を誇りにまで思うようになった。配られたカードで勝負するしか方法はない、それが例えジョーカー札だったとしてもゲーム性次第ではそれは最強の切り札ともなり得る」
和田の瞳を斜め下方向に見据える少女。
「戦況をひっくり返す僕の手札の一枚にならないか? 勝負は時の運ではない自分で掴み取るものだ」
いまだ離さない少女の手首を力を込めて握る和田の姿。
フッと微笑む少女。
「OK『勝負は時の運ではない』その言葉気に入ったわ。将来的に私があなたの命を身を挺して守る、それが現実になるのならば私にはあなたを守る特性『個性』が備わっていることになるわ、いいでしょう盾になってあげるわ、身体は頑丈な方なの、そこら辺は安心しておいて」
真夏の太陽が二人を明るく照らす。灼熱地獄と化している東京都内に、大ぶりな太刀と巨大な盾が存在する光景。些か厨二病臭いか。
「名前を聞いていなかったね、君の名前は?」
少女は不敵な笑みを浮かべ和田を見下ろしながらこう言った。
「黒木黒子とでも名乗っておくわ、こんな灼熱の真夏日に上下黒スーツの気味の悪い不審者に素性は明かせないもの」
和田は小さく微笑んだ。少女の手首を掴んだ和田の掌は汗ばんでいた。
僕は助手である黒子の本名を知らない。
人の名前。それは些末な問題に過ぎず、他者を他者であると識別する一種の記号のようなものだ。僕自身が和田一という存在であるという確証は何一つない、本当は僕自身は和田一という人間ではないのかもしれない。
一個人というその人をその人たらしめる確固たる確証とは、その人が本来持つ特性にある。特性や個性がその人が持つ勇逸無二の自分であるという証明。
画一化する現代の世の中において、矛盾する個性を大事にしようという陳腐な言葉。非常に滑稽に映る。馬鹿なんじゃないだろうか。
僕の助手である黒子はその見た目だけで個性の塊だと言える。あの巨塔のような出で立ちは真似しようと思っても真似できるものではない。体格という才能が、親から引き継がれた長身の遺伝子が、彼女をモデル体型の魅力的な女性に成長させた。
僕自身も非常に類稀なる特性や個性を持っている。これもやはり親からの遺伝ということになってしまうのだろうか。
かつては忌み嫌っていた自分にしか持ち得ない類稀なる一つの特性。望んで手に入れたものではない、神が勝手に自身に与えたモノ――ブレインシェイク微動する和田一という自分自身。
偽善者が真実を嘯く糞ったれな世の中。個性や特性という一種の精神疾患。これが本当に個性や特性に見えている糞みたいな偽善者が世の中には沢山存在するらしい。
甘い甘い甘美な世界。弱い者である弱者に寛容な世界。心の中では見下しているゲスい心を持った聖人気取りの頭の狂った糞野郎達。
好奇な姿に僕は人々の目には映っているのであろう。人々は欠陥を指摘しない優しい心を持ち、見て見ぬフリをして自分を正当化させる。異形の生物を見やるかのようなあの冷たい視線。優しさというフィルターの裏に存在するあの冷たい視線。
僕は化け物でも異形の者でも何でもない、歴とした人間で真っ赤な血液が体内を通っている。
世の人々は人より抜きんでた個性や特性というモノを異常に恐れ、何かが爆発する前にソレを徹底的に排除しようとする。排除しなければ都合の悪い人間が世の中には一定数存在するらしい。
和田一という自分自身が世を席巻する何者かになれるとは到底思えない。しかし世を席巻させるかもしれないという僅かな可能性が一パーセントでもこの本態性振戦という持病に秘められているのならば、人々はソレを恐れ徹底的に排除する構えを見せてくるのかもしれない。
――本態性振戦。震え症状を伴う精神疾患。根っこ部分の寛解は難しい。一生の付き合いを必要とする自身の震えに、未来への展望が見えずに絶望する者も数多い。
たかが震え。されど震え。些末な問題と捉える暢気な当事者以外の人達。本人は至って真面目で本気だ、真剣に震えのせいで人生に絶望をしている。
見える部分として自覚症状として現れる精神的な疾患。心の内に閉まっておける透明度の高い心の病ではない。色濃く存在し微動する何かとなって身体に現れるタチの悪い疾患。
震えている本人は震えに気がつかない場合が多い、多くの本態性振戦の疾患者は他者からの指摘で自分が震えていることに初めて気が付く。
指摘されるならまだいい方。それ以外の行動を取られるのが一番心が傷つく。つまりは見て見ぬフリという名の曖昧な優しさ。ああ分かる、他人の心の内が手に取るようにはっきりと分かる。他者とは違う性質を好奇の目で見ている者達の淀んだ瞳がよく観察できる。
哀れむ心は時に残酷に映る。相手のことを思ってなどいない。全ては自分の偽善の心を大切にしたいから。相手がどうなろうと知ったこっちゃない。人間は自分が一番可愛いと思う生き物。やはり哀れみの心は非常に残酷に映る。無関心でいてくれるのなら無関心でいてくれていい。こっちを見るな。色眼鏡を掛けた瞳でこっちを見るなよ。偏見の目でどうか見ないでくれ。苦しい。非常に苦しい。もう世界なんてどうにでもなれ。
――好奇な姿になりたかったわけではない。醜い姿になりたかったわけでもない。
ただ普通に生きたかった。震えのない健全な世界を――。
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