第6話
日の暮れた夕方辺りから田舎町一帯は騒然となった。
多くのパトカーがパトランプを赤く光らせながら道を往来し、警察官が多く村を訪れていた。隣町へと向かう道路には警官が立っており、道行く車両に職務質問をしている。
この限界集落の村に変態不審者が潜んでいるとこの村の住人の間では噂になり、普段掛けない家の鍵を村人はこぞって掛け始めた。
小学校はグループごとに保護者に付き添われての集団下校となり、普段とは違った様子の光景に児童達は興奮しはしゃいでいた。
例の如く小学校駐車場に停まる一台のスクールバス。
夕暮れのオレンジ色の光が車内に照射され光を当てる。
そこには目を細めたスクールバス運転手の姿があり、口元はいびつに歪んでいた。
タバコの箱から一本抜き取り火をつけようとする。回転式のライターがいくら擦っても火がつかないでいた。オイル部分に目を凝らすと中身は空である。
判り易そうに苛立つ男。助手席にタバコとライターを投げ捨てた。
俯いた表情で睨みつける様に斜め上方向を見やった。視線の先には小学校校舎があった。
静かに呟く男の姿。
「針を千本飲ませる――」
両手で固く握られたハンドル部分。歪みもヘコみもしないハンドル部分を男は渾身の力で握りしめる。
「秘密を他人に漏らした悪い子だなあ、あんなに念を押したはずだがやはりまだ子供か」
奥歯を噛み締める。
俯いた姿勢で握ったハンドルを支えに体を小刻みに震わせている。
「まさかこの秘境の地に警察が来るとはな、俺っちは青い果実を少しかじっただけだ、あとは少しの殺人を犯しただけで、俺っちは何も悪いことはしていない。俺の人生だぞ、どう生きようが俺っちの自由さ」
一人の男性教諭がスクールバスに向かって走ってくる。
運転席側の窓ガラスをコンコンと叩く。窓を開ける堂島。
「お疲れ様です、市子ちゃんの親御さんが車で迎えにくるそうで、隆史くんも一緒に乗せていってくれるみたいなんですよ、御足労おかけしましたが今日はお帰りになって頂いて結構ですよ」
そう言われ素直にはいと返事をした堂島。
太陽が沈む。
オレンジ色の色味が濃くなり堂島の顔を照らしている。
ギアをドライブに入れ、ゆっくりとアクセルを踏む。静かに動き出したスクールバスは陽光に照らされ、元来た道を戻る様に県道車線に合流した。
ニコチンを摂取していない男は激しく苛立ちハンドルを何度も叩いた。白い煙が肺を満たさないことに子供の様に駄々をこねる。
自己中心的な考えが、この男そのものを形取っており、人生という物語の主人公は自分自身であると強く願う。
他人の為に生きているのでない、自分の様々な欲を満たす為に日々を精一杯生きている。
グルメな堂島。美味しいものを沢山食べたい。
美味しいもの――黄金でも構わない、青い果実でも構わない、己のフェチズムに忠実に生きる。偽りの人生を歩みたくはない、たった一度の人生を、可能な限り本気で生きたい。
それは自分の為の人生。世界は自分を中心に回っている、己に正直に生きて何が悪い、法律と言う名の糞以下の存在が己の前に立ち塞がろうものなら拳で殴って粉砕させる。正直に生きない人生にきっと意味なんて一つもない。
己の欲求に忠実であれ。法律が善と悪とを分かつ概念だとするならば、悪に堕ちて本気でとことん生きてやればいい。
黄金と青い果実というこの世の究極系ともいえる性的フェチズムの融合。堕落仕切ったこの世の中に、喝を入れるかの如く己の性的嗜好を思う存分邁進していく所存だ。
国道を順調に走行するスクールバス。
前方に警察の検問所らしき光景。男は舌で唇を舐め湿らせた。
検問所で停車するスクールバス。窓を開ける堂島。
「お疲れ様です、小学校からの帰りですか?」
「はい、児童達は親御さんの車で帰るそうなので」
警察官がスクールバスの車内を背伸びしながら見やる。
「一応形式的なものなので車両内の確認よろしいですか?」
スクールバス運転手は表情一つ変えることなく警官の瞳を見据えた。丸い警官の瞳。己の心臓の鼓動は悟られていない様に思えた。
――血が。
車両内シートの上に小さな染みとなって存在している血が――。
警官はもう一度スクールバス運転手に問う。
「一応形式的なものなのでご協力をお願いします」
「お腹が痛いです」
警官は呆気に取られた表情で男を見やる。
「朝から水状の便が連発しておりまして、スクールバス内を汚すわけにもいかないですし、もう限界なんです、早く自宅に帰ってトイレに入りたいです」
不憫に思う表情に警官の顔が変わる。
「ここら一帯はトイレもないので仕方ないですね、お大事にどうぞ」
脂汗を垂らす迫真の演技を披露した男はアクセルを静かに踏み込む。車両は静かに発進し難所を華麗にすり抜けた。
バックミラー越しに警官の姿を見やる。そして大きな声で絶叫した。
「バーカ!」
腹痛の辛さをあの警官はもちろん知っている、腹の痛さとはつまり腹の中の異常なのだ。出すモノを出して腹痛から逃れられることができる。その辛さを逆に利用した堂島という男。脂汗を出すには大変苦労した、今の腹の状態は出せと言われても出せない状態、便意は微塵も感じていない。
「腹の痛みは万国共通よ、人は同情する生き物、あの場で漏らせと言われても今の俺は別に腹は痛くはない。馬鹿な警官だな」
男の口角を上げた口元が印象的に映る。
バックミラー越しに後部座席を見やる。
ちょうど市子が座っていた場所。
青い果実の芳潤な果汁が滴り落ちた朝の光景。かじった部分から果汁は滴り落ち男を気持ちよくさせた。
あの座席シートの赤い染みが。鮮血。鮮やかな血液が。
男は口元を歪ませる。沙也加の時と同様にまたシート交換をしなくてはならない。
スクールバスに毎朝乗ってきていた三人組の小学生達。黄金と青い果実。残る一つは男色くらいかなと男は思った。ここまで到達すると相当レベルの高いフェチズムを有することになる。
夕暮れ太陽は山の彼方に落ちて、この田舎町を毎度のことながら闇夜へと変貌させる。
午後七時。自宅アパート内。黒革のソファに腰掛ける堂島。
暗闇で蠢く。微動するホース部分。白濁液を吐き出しながら静かに果てた。
顔見知りの男の子の姿を思い浮かべていた。
よく知っている男の子だ。この限界集落では知り合いの知り合いは知り合い。子供は地域で育てていくもの。
脈打つ自身の心臓の鼓動。どうにも止まらない胸のドキドキ。
恋にも似た感覚。恋心。
――俺はあいつのことが好きだ。
微動する頭部部分。
今日も明日も微動するに違いない己の頭を静かに揺らす和田一という男。
日が暮れてもパトカーのサイレン音がしきりに鳴り響いており、高音の高い音が和田の鼓膜を強烈に刺激する。
音に敏感な和田はパトカーがアパートの前を通る度に心臓がヒヤリとする。本態性振戦と不眠症との併発が色々な感覚に過敏な身体を作っていた。
黒子が和田を見つめてほくそ笑んでいる。笑いを堪えきれない様子。
「そんなにパトカーの音が怖いの? 探偵なのに?」
ジトッと据わった目元で黒子を見やる和田。
「僕はパトカーが怖いのでない、サイレンの音が不快なだけだ。あんなに大きな音を立てて走行しなくてもいいのになあ、僕みたいな感覚過敏な人はきっとこの田舎町にも存在しているだろうに、警察は配慮が足りないよ」
「物々しい雰囲気ですね、こんなに警察の人がこの村に来るのは初めてですよ、何があったんだろう?」
このアパートの家主である関口が静かに言った。
昨夜同様にアパートの外は暗黒の世界へと様変わりし、朝の眩しい陽光はあと数時間後に顔を出す予定。今は朝の光景ではない。
「本当に何があったんだろう、先生と私がこの村に来てその翌日にこの物々しい雰囲気、先生は強運と不運のどちらを持ち合わせているのやら、冗談は頭の震えだけにしてもらいたいですよ」
キッと黒子を睨む和田。
「まあまあ喧嘩はよしてください、それで明日はどうします? 私は仕事が休みなので捜査にご協力はできますが」
和田が考え込む仕草を見せる。
「捜査といってもなあ、この村の雰囲気じゃ村人に話を聞けそうにもないですしね、部外者がしゃしゃり出るなと警察に怒られるのが関の山です」
「本当に何があったんでしょうね? ここまで騒がしいのはこの村始まって以来じゃないかな、とにかく今何が起こっているのか知りたくはありませんか?」
「まあ今回の依頼とは直接関係ないようにも思えますが、依頼内容である梨花さんの捜索も同時並行で進めていきましょうか」
黒子が右手を上げ挙手をする。
「思ったんですけど、隣の部屋の堂島さんでしたっけ? その人が一番怪しいのならドアの前で待ってればいいんじゃないですか? スクールバスの運転手なんでしょ、出勤時間になったら部屋から出てきますよ、その時に話を聞けばいいんじゃないですか」
現在の時刻は夜の七時を回ったところだった。
「もう帰ってきているのかなあ? 本当にドアの開け閉めの音も聞こえない造りなんですよこのアパート」
壁をゴンゴンと拳で叩く関口。
あわわという表情でそれを見やる黒子。和田は俯いて妙に考え込んでいた。
「とにかく明日の朝に玄関先で堂島を待つことにしましょう、いずれあいつは部屋から出てきます、有無を言わさず質問責めにするんです、困り果てた堂島に反撃のチャンスは訪れません、私には和田先生という心強い名探偵がついております、なんせ東京の探偵さんですからね」
俯いた顔を元に戻す和田。
「関口さん、私には玄関先で待つという行為が非常に反則的な気がして賛成する気にはなれません、もし堂島が我々が起きる前の朝早い時間帯に部屋をあとにしていたらどうします、やはり場当たり的な特攻じみたこの作戦に僕は賛成することができません」
ここで黒子が反論する。
「犯人と思しき人物はこの部屋の隣の部屋に住んでるんですよ、早い話が隣の部屋に乗り込めばいいのよ、だって隣の部屋は今も梨花さんの名前で契約されているんだから」
黒子の発言を聞いて和田の頭部がビクッと揺れる。激しい振動を起こし、引きつけを起こしたかのように顔が引きつる。
呆気に取られた関口は呆然と和田の顔を見つめている。
黒子は勝利を確信したかのようにグッと拳を握りしめる。黒子は和田の特性をよく理解していた。
静かに関口を見やる和田。
静かに言葉を口にする。
「――もしも隣の部屋が誰の契約にもなっていないと仮定して、数年前からもぬけの殻状態だったと仮定して――ねえ関口さん、梨花さんとは一体誰のことです?」
目を見開き押し黙る関口。
「憶測で物事を語るのはあまり好きではありませんが、あなたの彼女である梨花さんという人物は実在したのでしょう、そしてあなたが殺した」
口を開こうとしない関口。
予想の斜めいく展開に、関口の隣に立っている黒子が横目でチラチラと関口のことを見やる。
「僕が今話しているのは仮のお話で憶測で物事を語っているだけです、確証は何一つありません。しかしね関口さん、防音性がいくら高いアパートだとしてもこの建物は見る限りRC構造の鉄筋コンクリート製のアパートだ、隣の部屋のドアの開け閉めが少しも聞こえてこないとはおかしなお話です。高級タワーマンションならまだ完璧な防音性を有することはあり得ますが、僕の目にはこのアパートは高級タワーマンションには到底見えません」
なおも押し黙る関口。
「最初におかしいなと思ったのはパトカーのサイレン音ですよ。隣の部屋の生活音さえも聞こえない防音設備の整ったアパートにもかかわらず、あのやかましいパトカーのサイレン音はしっかりと僕の耳に聞こえた、そこであなたが嘘をついていると疑惑の念が私の心の中に次第に沸き始めた」
顎に手をやる和田。
「関口さん、あなたは隣の部屋前で待つという行為に嫌に乗り気だった、もぬけの殻状態の部屋からはいくら待とうが人は出てこない、私と堂島が出会うはずもない状況を意図的に作り出そうとしていた。これも憶測の範疇ですが堂島という人物は実際にこのアパート内に住んでいるのでしょう、アパートの管理人というお話が嘘か本当かは実際に調べてみないと分かりません。田舎特有の情報ネットワーク、密かに忌み嫌われている堂島という要注意人物をあなたは殺人犯に仕立て上げようとした、危うく犯罪の片棒を担ぐところでした」
静かに舌打ちをした関口。
場は静寂に包まれる。身長百八十センチ超えの黒子は隣の関口を見下ろす。
「あんたらへの依頼はなかったことになるか? どうする警察にでも突き出すか?」
嫌味たっぷりにそう語った関口。
「殺人を認めようと認めまいも関口さんあなたの自由です。安心してください警察に突き出すような真似は致しません、ただ往復分の交通費だけ頂けませんか、私達はこのまま東京へと帰ります」
財布から一万円札数枚を取り出す関口。
そっと和田にそれを手渡す。そして静かに口を開く。
「確かに渡しましたよ、口止め料みたいでなんだか嫌だな。私は殺人も犯しておりませんし梨花はいまだ行方不明のままです」
「守秘義務はお守りいたします、依頼者都合での捜査打ち切りとさせていただきます」
釈然としない様子の黒子。不満の表情が口元に現れている。
部屋の隅に置いたスーツケースをそれぞれに持つ和田と黒子。
玄関先で関口は不意に妙なことを言った。
「噂にはなっているんです、スクールバス運転手である堂島が特殊な趣味を持ち合わせた人物であるという小さな噂が」
黙って話を聞く和田。
「小さな噂が尾鰭をついて飛び回る田舎町特有の光景、真偽は定かではありませんが」
「田舎って陰湿なのね」
黒子が小さく言った。
「ええとても陰湿だと思いますよ」
笑顔でそう答えた関口。臆することなく陰湿だと言い放てるその肝の据わった姿に黒子は異様な不気味さを覚えた。
部屋をあとにする和田と黒子。それを玄関先で見送る関口。
田舎町に不釣り合いなスーツケースが砂利道をゴロゴロと歪な音を立てて引かれていく。
空は満点の星空で。遠く彼方にパトカーのサイレン音が小さく響く。
百八十センチを超える高身長を有する黒子が田舎町に抜群にミスマッチしていて、隣を歩く和田は小さく笑ってしまった。
不服そうに和田のつむじ辺りを見下ろす黒子。歳の割には黒々と毛量の多い和田の頭髪を黒子は目を細めて見やった。
つむじが渦を巻いている。微動する頭で渦を巻く男――和田一――雌雄を決する時が後に訪れる。追う者と追われる者。和田は追う者になり得る。
人の部屋のインテリアにとやかく言う権利はない。
しかし堂島の部屋のインテリアはスタイリッシュだと言わざるを得ない。モダンでクール。渋みがあり独特の色合い。間接照明を使った崇高な光と影の幻想マジック。
ボーナスを叩いて買った職人仕事の黒革製の大型ソファ。何年も使い続けるうちに良い色合いに仕上がっていく。
潔癖な人ほど本当の顔は不衛生。その逆も然り。
部屋の四隅に置いた消臭剤が、室内の匂いを吸いこみ正常な空間を演出する。台所やトイレも同様に。
ほぼ病気なのだ。
堂島のこの異常性は病気の類に近い。
真逆を求める天邪鬼な性質がこの異様な居住スペースを作り上げた。自分の体などどうでもいいのだ、自分の見た目は気にしない、自分の生活するスペースは異常なほどの潔癖さを求め続ける。
やはりほぼ病気のそれは潔癖と不潔の両極端を欲する。
黒革のソファに腰掛け堂島が静かに呟く。
「俺の作り上げた世界がこれだ」
部屋中央棚の上に神棚が置かれており、コップ一杯の水と平皿の上に存在する得体の知れない御供物。
無味無臭の室内に異様な匂いを放つ御供物。
「かああ! 臭えよ、マジ臭え」
不適に笑みを浮かべる堂島。
「たまんねえ、たまんねえよこの匂い、両極端のこの世界がよ、完全なる異常性の末に辿り着いた俺の砦だ」
堂島の腹がギュルルルと勢いよく鳴る。
「ああん、痛え、痛え、たまんねえ、ああん痛え」
ソファから勢いよく飛び上がり堂島はトイレへと向かった。
ズボンを脱いで尻を便座に接地させる。俯いた表情のままで小さく呟く。
「毎度のことながら、俺の音が聞きてえか?」
トイレの隅には芳香剤が置かれている。
「今度は詩的な表現じゃなくてよ、はっきりと擬音で聞かせてやるよ」
腹に力を込める堂島。
「いくぞ!」
「ブリュリリルリュブッブビチブブプスーブリュウリュブブブリュリュブバッブッツブ」
俯いた堂島は至福の表情を浮かべていた。天にも昇る異常な顔面。壊顔し表情の原型を留めていない。
水状の泥水が便器内を覆い尽くし、飛び散った茶色が陶器製の白い便器によく映える。
「第二波の到来だ! いくぞ!」
「ブパッブッツブリブリブリュリュブッパブリブリブリュリュブリブッブッツブブブブポ」
脂汗を浮かべる堂島。苦しみを超えたその先の表情。向こう側の世界を刹那の間垣間見る。
魑魅魍魎のうごめく白い便器内は阿鼻叫喚の様相を呈し、酷い悪臭をトイレ内に撒き散らかす。
部屋の隅に置かれた芳香剤は、何の役目も果たさないただの置物と化し、100パーセントの糞の匂いで埋め尽くされたトイレ内は堂島の堅牢で頑丈な要塞と化した。
踏み込む者を容赦無く深い谷底へと突き落とす細菌化学兵器を有した要塞シェルター。
おもむろに後ろに置いてある銀色のおたまを手にする堂島。
毒を持って毒を制す。
己から出たモノだ、汚くなどはない。
銀色おたまで丁寧に毒をすくう堂島。表現の難しい形容し難い何かがなみなみとおたま上に存在している。
――テイスティング。
濃厚で味わい深い少々トロみのあるそれを。空気と一緒に口に含み舌の上で転がす。
液状化したモノの中にわずかな固形物。咀嚼し一気に香りが口の中に広がった。鼻で息を吸うとより一層芳醇な香りに変化を遂げる。
口元をツーッと垂れる形容し難い何か。
堂島の満面の笑みが今この瞬間を幸せだと主張しているようで、この男の幸せにケチをつける気狂いじみた権利など人々は持たない。他人の人生は他人の人生だ、人と人は分かり合えない。そこら辺を勘違いしてもらっては困る。
飲み込み。喉を通る毎に。深く強く感じ取れる。例えようのないこの幸福感。万物の創生された太古の昔から。近代的な暮らしをする昨今の世の中まで。土石流を飲み込むことで真理に到達し。あちら側の世界を一瞬垣間見。他人に勧めることのできない異常なフェチズムに。堂島自身。生まれてきたことに感謝し。しっかりと最後には手を合わせてご馳走様でしたと口にした。
口臭の類をも凌駕する圧倒的な劇臭を含む口臭。
堂島は台所でうがいをした。歯と歯の隙間に挟まった形容し難い何かを洗い流していく。
リビングへと戻り、黒革のソファに身を委ね横になる堂島。
光と影を巧みに配置した芸術的な間接照明の明かり。堂島の体に影を落としてゆく。光の陰影で幾分スマートな見た目に映る現在の堂島の姿。
ふと独り言を呟く。
「汚えって思うか?」
腕部分で目元を覆い仰向けで寝ている姿。
「あんたらの腹の中にもよ、同じように形容し難い何かが入っているのを忘れちゃあいねえか?」
鈍く光る天井照明。
「さっき奏でた俺の音もよ、あんたらも同じように毎日奏でているんだろ? 目を背けようとする形容し難い何か。あんたらも俺と同類だ、今この時にもあんたらの腹の中には土石流や固形物がたんまりと詰め込まれているんだぜ」
堂島の口元口角が密かに上がった。
「同じ穴の狢。あんたらは自身の中に異常性がないと言い切れるか? 自分は真っ当な人間だと胸を張って言い切れるのか? 俺の目からはな、同じ穴の狢に見えるんだよ。あんたらは異常なフェチズムをひた隠しにして日常を過ごす、もうバレてるんだよ、きっと気づいている人には気づいている、隠してたって無駄なんだよ」
静かに息を吐く堂島。
「あんたらもこちら側の世界に来ればいい、躊躇する気持ちはとても分かる。しかしな見てもいない経験もしていない世界をさも知ったような顔で嫌悪の表情で見るのはいかがなものかなと俺は思う。知らない世界を知ってみる勇気も時には必要だ。どうだこちら側の人間になる気はないか? ヘッドハンティングだ、あんたは黄金の扱いに長けているように見える。一種の才能だよな、あんた才能あるよ」
ソファから立ち上がり堂島はベランダへと出た。タバコを一本取り出しライターで火をつける。
隣の部屋のベランダを見やる堂島。
物干し竿の掛かっていない隣のベランダ。どうにも隣は長年空き部屋のようで人の出入りを見たことがない。その向こう隣の部屋には男が一人で住んでいる。以前挨拶したことがあった。
タバコの煙を静かに吸い込む。開け放った口から白いモヤモヤが上空へと上がっていき風に乗ってこの田舎町の空へと漂う。
夜空には星が多く瞬いていた。輪郭をしっかりと持った満月が闇深いこの土地によく映える。
月の光は死者への光だという。太陽の光は生者への光り。
月の光を浴びて輝く人がいるという、太陽の下を大腕振って歩けない人間。そんな人間が確かにこの田舎町には存在しているという。彼は黄金を愛し、少年を愛し、禁煙にも失敗したやはり太陽の下を歩けない人間。
他人は他人だ。自分は自分だ。世界の中心は自分を中心に回っている、誰もが思う普遍的なこと。
自分を愛せないで誰を愛せる。自分のことが異様に愛しく思える。やはり他人は他人だ。他人以外の何者でもない。
田んぼの畦道を一台のパトカーが通り過ぎてゆく。
幾分賑やかになったこの田舎町の限界集落で、夏の祭りを連想させるパトランプの真っ赤な明かりが、今この時は非常に滑稽に映って。
堂島はパトカーを見つめながら静かに微笑んだ。
「俺を追うか? 本当に追いつけるのか? 俺は足早いんだぜ」
タバコを吸い終わると堂島は室内に戻りカーテンを締めた。
多彩なフェチズムを有する成人男性。
堂島は和田という探偵から追い詰められる者となり得る。
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