第5話
金銀財宝の類。強固な硬度を誇る貴金属のことを言っているのではない。本来忌み嫌われる物質であり、使い道のほぼない黄金色に輝く固体や液体その中間に位置する液状化した物体。
金銀財宝の類。見る人によっては手を合わせ拝みもする神々しい何か。
強烈な芳しい香りとなって目に染みるレベルの豊潤な香り。顔を顰める者もいればドーパミンが脳内で分泌され異常な興奮状態に陥る者もいる。
皆様は堂島という成人男性をご存知だろうか。
彼は脳内麻薬をキメた一種の狂人。狂う人と言える。
己のフェチズムを追い求め到達した金色に輝く世界。世界を構築する色はいつの時だって金色だった。彼を構成せしめる色こそが金色であり、黄金色の理想郷に到達したある種の成功者。
成功した者だけが目にすることのできる異次元の光景というものが存在する。人から見ればそれは到底黄金色に映らない汚らしい色をしている。しかし成功者である堂島の目には煌めく正真正銘の黄金色にしっかりと見える。
土色をしたそれらは見る人によっては光り輝くゴールドの色をしている。そういったフェチズムを有する者がこの世の中には一定数存在し、欲望渦巻く現代の世の中でそれらに魅了される者の数は年々増加傾向にある。
性的欲求の末のフェチズムなのか、それともフェチズム故の性的欲求なのか。人が元来持ち合わせているその人独自の特性を、性的と決めつけ他者が勝手にフェチズムの中にカテゴライズした黄金崇拝。
黄金崇拝を性衝動に結びつけてはいけない。排泄行為を人が見てはならない神秘的なものとする幻想。人は幼い頃からそう教育され大人に育ってゆく。トイレには個室が存在し、しっかりと施錠をして使用する。犬猫の類ではない人間という考える頭を持った賢い生物。マナーを重んじ、羞恥という特性を持つ人間という生物。
海外では公衆トイレが存在しないところが多いらしい、存在している方が大変珍しいという。日本という先進国が称賛されるトイレ個室内の清潔さ、ウォシュレットという画期的な発明品、誰かが清掃してトイレ内は常に清潔に保たれている。
日本人という清潔さを特性に持つ人種なのにもかかわらず、変態の国としてしばしば海外の方々から称賛を頂く国民性。異常性趣向で度を越えたクレイジーさを遺憾無く発揮せしめる日出る国日本。
黄金崇拝とはつまりは偽りの神を崇める大規模宗教法人。全世界に拠点を持ち、日常的に黄金をこねくり回す人々。その中でも極めて神聖な行為とされているのが地産地消、永久機関、リサイクル。
神を体内に取り込む行為に自身の目指すべき道を見出した異常者達。入れて出す、そてしまた入れて出す。永久に続く神聖なる行為に目頭が熱くなる信者達。
とある田舎町で異端者であることを隠して生きる堂島という男。
人々に到底理解されない特別な趣向を持つ彼は、やはり己のフェチズムをひた隠しにしゆっくりと人生を歩んでゆく。
歩みのスピードは自分自身で決めればいい、速い者もいれば遅い者も存在する。全ての行き着く先は死なのだからそんなに生き急いでも意味は無い。
己が存在しなくなる死という概念を、神を取り込むことで中和させ、一種の精神安定剤代わりにもなる泥水を啜る行為。
この泥水が神であり、自分がこの世に生まれてきた確かな意味。すなわち泥水を日常的に摂取するという行為。
偶像崇拝ではない。神が己の腹の中に宿っているのだ。神と一体となり、神を摂取する。
誰が初めに言い出したのか定かではない黄金というフェチズムの略称。仏教では金色をこんじきと呼び最高の存在を象徴する色と定義されている。また、現実世界では金色をきんいろと呼び富と権力を象徴する色として存在している。
隣町へと向かうスクールバスの車内に小学六年生の沙也加の姿はなかった。
あの日の一件以来自室に閉じ籠もり外には姿を見せてはいない。弟の隆史に姉の様子を聞いても何も答えようとはしなかった。
スクールバスは長閑な田舎町をひた走る。
ハンドルを軽く握りアクセルを踏み込む角刈り頭の男。後部座席には幼い子供二人が静かに座っている。
運転席に座る男は、目を細めてあの日をことを鮮明に思い出そうとする。
――轟音が轟き濁点のついた破裂音が車内に響き渡る。
――紛れもない人糞であろう饐えた匂いが辺り一面にブワッと広がる。
大人でさえも驚いたのだ。年端もいかない少女が糞を漏らす。小学六年生の少女が糞を漏らしたという紛れもない事実。
黄金でさえあれば誰でも構わねえ――。
スクールバスの座席は交換作業が終わり新品座席に付け替えられている。汚れた座席は男のアパート一室に大切に保管されている。
座席に染み込んだ泥水を、己の趣味嗜好で存分に堪能する。
部屋の中の様子を窺い知ることは到底できそうもない。プライバシーの侵害に当たる為その時の様子はここでは語らないこととする。
「隆史、沙也加の様子はどうだ? 相変わらずか?」
何も答えようとしない隆史。
言葉のキャッチボールは成立せず、車内に独特の静寂が立ち込める。
小学一年生の市子も俯いている。
「あの日のことは忘れろとは言ったがな、大人の俺でも驚いたんだ子供のお前らは相当ショックだったに違いない。でもな一番ショックなのは沙也加自身なんだ、あの子が一番ショックが大きいんだよ」
隆史も市子も俯いている、言葉を発しようとはしない。
「あの子自身で解決しなきゃいけない問題だ、俺らが何かをできる訳でもねえ、出来ることと言ったら何事もなかったかのように振る舞うだけだ。しかしな、指摘されないことも時には残酷な心の刃ともなり得る、その見極めが非常に難しい」
何かを言おうとして言葉を引っ込める隆史。
その仕草をバックミラー越しに見ていた堂島は隆史に問いかける。
「なんだ隆史、言いたいことがあれば言え」
グッと押し黙る隆史。
「言いたいことは言えよ、我慢はよくないぜ」
途端に隆史の目元から大粒の涙がこぼれ落ちた。その様子をじっと見つめている隣座席に座る市子。
「糞漏らした姉ちゃんがそんなに嫌か? お前が思っている以上に今回の問題は根深いぞ。思春期に差し掛かかっていた沙也加という存在、これが教室内で起こったとしてみろ、もう沙也加は生きていけなくなる」
隆史の嗚咽混じりの鳴き声がスクールバス内に響き渡る。
「今回の件を目撃したのは俺ら三人だけだ、当然他人様にこの事は他言無用だとはお前らも分かっているよな? 少しでも口外してみろ子供だろうと容赦しねえぞ」
言葉の意味を理解できないでいる市子は男の話す難しい話が分からないでいた。
「おっちゃん、たごんむようってどういう意味?」
「誰にも喋るなってことだ、沙也加の醜態を俺達の心の中で処理しちまうのさ。なかったことにしよう、あの日は存在しない日だった、空白の一日を俺達の心の中で抹消する」
堂島が後ろを向いて隆史と市子を見やる。
「俺達は秘密を共有する同士だ、存在しない秘密を共有する。沙也加にまたこのスクールバスで学校に通ってもらいたい、笑顔であの日以前の日常に戻ってもらいたい」
「姉ちゃんはもう戻ってこないよ、多分そんな気がする、もう戻ってこない」
目元の力を強め隆史をバックミラー越しに睨みつける堂島。
「なんでそんなことが言える? 仮にも実の姉だぞ、俺には隆史のその言葉はとても残酷な言葉に聞こえる、戻ってきて欲しくねえのか?」
「そんなこと思うわけないじゃんか! 俺だって戻ってきて欲しいよ! でもさ、きっともう無理なんだよ……」
俯く市子に視線をやる隆史。
何も答えようとはしない市子。
「世界にはな、二種類の人間が存在するんだ。考える人間と考えない人間。沙也加はきっと考える人間なんだろうな、だからこそ苦しがって必死にもがいている」
男は右拳をクラクション部分に軽く置く。鳴らしはしなかった。
「俺と隆史と市子は沙也加と同様に考える人間だ、だからこその今のこの状況がある。考えない人間になんてならなくていいよ、どう頑張ったって人間は考える生き物なんだ。考えない人間は人間とは言えない、このスクールバス内には人間が乗っている」
車両の微かなエンジン音と心地良い振動が小学一年生の市子の体を静かに襲った。
目元が半分くらいの大きさになり頭を垂れる市子。
そんな光景をバックミラー越しから眺めて男は小さく微笑んだ。男の運転する姿を後ろから眺めていた隆史は、運転手の口元表情がどうなっているかは知る由もない。
秘密を共有する者達。かつてこの車両内に存在した小学六年生の女の子。墓場まで持っていくであろう酷い出来事。思春期でなければこういった事態には陥っていない、笑って済まされるお話。コンビニの存在しない田舎特有のトイレ問題。小学一年生の市子は木の陰で用を足した。それを実行に移せなかったやはり思春期という狭間でもがき苦しむ小学六年生の女の子。
小学校駐車場にスクールバスは到着する。
重苦しい車内の光景。市子は寝息を立てている。
「市子学校に着いたぞ」
後ろを振り向きながら男は市子に声を掛ける。
市子は寝ぼけまなこの半目状態で口元からはよだれが垂れていた。
ランドセルを背負った隆史は市子を起こそうとするが、相当深い眠りのようで揺すっても起きる気配を見せない。
「隆史はもう学校に行け、俺っちが起こしとくから」
そう言われバス出入口から勢いよく飛び出していく隆史。そのままの勢いで校舎玄関口まで猛ダッシュで走って行った。
運転席から一旦離れ車両後部座席へと歩みを進める堂島。
市子のすぐそばまでやってくると体勢を屈め市子と同じ目線になる。
魔が差した――。
計画的な行動ではない。衝動的な行動。事前に準備などはしていない。擁護できそうもない行為。きっと仕方のない行為。
風が強く吹いた気がした。
風なんて吹かないこの田舎町に台風並みの強い強風が吹いた気がした。
スクールバスの透明な窓ガラスは、アダルトビデオに登場するマジックミラー号ばりの内側の光景を映さない車両へと変貌する。
黄金のみに飽き足らず。己を切磋琢磨し鍛えていく修行。新たな性癖の獲得。こんな朝の早い時間帯にイケないことをしているという充実感。小さな果実。青い果実を丸呑みする光景。
――本当に魔が差した――自分は黄金のみを愛していくと思っていたが。
新しい自分に出会うことができる。加速度的に成長する新芽。
発芽した。良質な肥料を所持している。己の腹の中のエゲつない部分。発芽を促進させる良質な肥料。
「市子、いいか、このことは誰にも話しちゃ駄目だ」
男は青い果実に言い聞かせる。
放心状態の市子。
「俺っちと市子は秘密を共有する共同体だ、両方の首には頑丈な鈍色の鎖が互いに繋がれている。共同体って意味分かるか? 運命を共にするそれぞれの生き物ってことだ」
表情をなくした顔で市子の口元が小さく動く。
「にびいろってなに?」
「そんな細えこたあどうでもいいんだ、いいか市子、おっちゃんとの約束だ、このことは他言無用、さっき教えたよな『たごんむよう』って意味」
「誰にも喋るなって意味だっけ?」
「ああそうだ、誰にも話してはいけない、これは俺っちと市子の二人だけの秘密だ」
お互いの指を絡め合い指切りげんまんをする男と市子。市子を座席から立たせてランドセルを背負わせる。
「俺っちは市子のことを信じている」
市子を学校へと送り出した男はスクールバス内のダッシュボードにしまってあったタバコを取り出した。
タバコ一本口に咥えライターで火をつける。息を大きく吸い込んでタバコの煙を肺の中に充満させる。
静かに吐き出すと紫煙が徐々にバス車内を覆っていく。
独り言かのような独白を運転席に座りながら呟いていく。
「禁煙も失敗した。もう俺っちは世間の決まり事を破って今後の人生を生きていこうと思う」
タバコを咥え息を大きく吸う。
「黄金の世界で青い果実を喰らって暮らす人生、なかなか味があって俺っちは好きよ。人生楽しんだもん勝ちよ、生憎この限界集落には警察署はおろか交番すらねえ始末、やりたい放題な世界なわけよ、都会じゃこうはいかねえだろ」
勢いよく白煙を吐き出す。
「新たな極地。到達した理想郷。この何にもねえ田舎町が捉えようによっては正真正銘の理想郷となり得る」
奥歯を舌で舐める堂島。
「俺っちを追う者はいない、追われる筋合いもない、もしもそんな奴が俺っちの前に現れたら躊躇なく殺す」
ギアをドライブに入れて静かにアクセルを踏み込む。
「名探偵なんてモノがこの限界集落の奥地を訪れる可能性は100パーセントあり得ない、俺っちの犯した罪が白日の元の晒されることは未来永劫訪れない。死人に口無し、市子にはしっかりと念を押した、あのアパートを管理しているのは俺っち自身だ」
スクールバスは静かに発進する。
朝陽が堂島の目元に当たる。眩しそうな表情になる。
空には晴れ渡った青空と白い雲が浮かんでいる。なにもかも包み隠さない晴れ渡った空が途端に嫌いになった男。
奥歯を噛む表情になる。
路面にしっかりと密着したタイヤ部分が回転を早めていく、速度を上げて田舎町の国道をひた走る光景。
追う者はもうすでにこの限界集落に到着している。
頭の微動する不眠症の名探偵――和田は堂島を追い詰める者となる。
呆けた顔で国語の授業を受けている市子。
黒板にはあ、い、う、え、お、の五文字が書かれており、担任女性教師がこの文字の意味を親切丁寧に教えている。
市子は思う。
黒板にはにびいろという文字は書かれてはいない、だが自分はにびいろという言葉を知っている。
言葉を知っているだけで、どのような色のことを指しているのかは理解できないでいた。 きっと緑色に似た淡い色味のカラーなのだろうと市子は脳内ににびいろを想像する。
にびいろの葉っぱに天道虫が小さく止まっている。
太陽をいっぱいに浴びた深いにびいろの葉っぱ。この田舎町にはにびいろが沢山存在している、林や山などににびいろは沢山自生している。
野を駆け回る山狐の鮮やかな黄色。にびいろの草むらをかけ分けて黄色が俊敏に移動する。
上空には青い空が広がっており、綿飴状の白い入道雲が間隔を置いてそれぞれに配置されている。
市子は知っている。この大自然を幼少の頃から知っている。
おっちゃんが喋っていたにびいろという言葉。大人なのだから難しい言葉も知っているのだろうと市子は思った。
お腹の下辺りがズキんと鈍く痛む。腹痛にも似た下腹部の痛み。トイレに行こうと思う。
「先生、トイレ行ってきてもいいですか?」
担任の女性教師は市子にトイレへ行くのを許可した。
教室をあとにする市子。
歩いて一分もかからない女子便所個室内に入った。
下着を下ろしてみると真っ白なパンツに血が滲んでいた。
真っ赤だなあと思った。
薄暗いトイレ個室内でドア側を背にして市子はうずくまった。洋式便器には尻を触れてはいない。ひんやりとした地面部分に白い尻を接地させる。
次第に体をトイレ個室内床に横たえ、下着を下ろした状態のまま自然と透明な涙が目元からこぼれ落ちる。
なぜ涙が出るのかは分からなかった。
なぜか涙が出る。
悲しいことがあったとは思えなかった。別に何か悔しいことがあったわけでもない。頬を伝う透明な涙が、その涙の理由が分からなくて市子は酷く頭が混乱した。
トイレ個室内床に横たわりながら不意に堂島の言葉を思い出していた。
――秘密を共有する共同体だ――両方の首には頑丈な鈍色の鎖が互いに繋がれている。
にびいろ。
鎖は緑色だろうか。金属でできた鉄の鎖は淡い緑色をしているだろうか。
この瞬間、市子はにびいろとは金属や鉄の色であることを自分の頭で理解する。
にびいろの葉っぱなど存在しない、堂島と自分との首に繋がれた鎖の色はにびいろをしているらしい。
秘密を共有する共同体。秘密を漏らすことは悪となる、駄目なことだと市子は静かに理解した。
自分は駄目な子ではない、良い子だ。悪いことをしたら大人に叱られるから悪いことはしてはいけないと習った。秘密を漏らすことは悪いことだ、良い子でいる為に決まり事をしっかりと守る。そうすれば素晴らしい大人になれると教わった。
約束は守る為に存在する。指切りげんまん、嘘ついたら針を千本飲まなければならない。そんな痛そうな行為は市子は嫌だった。
針を刺されたようにチクリとした痛みではなかった。下腹部が鈍く痛い。何かが突き破り、少しの上下運動のあとにその何かが脈打っていたのを今でも覚えている。つい先程の出来事。そのことは堂島と自分との二人だけの秘密。
横たえた体は地面下の冷気で次第に冷えてきた。
どうも体の力が上手く入らないことに苛立ちを覚え、市子は思いっきり拳でドアを叩いた。
トイレ内の静寂の中に一瞬の衝撃音。再びドアを己の拳で叩いた。
トイレのドアを叩くことで自分の心の中の何かが楽になる感覚に陥り、その後もドアを思いきり連打する市子。
子供のドアを叩く音ではなかった。
自分の中の何かが壊れる。今壊れている。現在進行形で壊れていっている。破壊。衝動。内からの解放。叫び声。大きな叫び声。絶叫。ドアを叩きながら叫ぶ。
教職員が数名トイレ内に慌ただしく入ってきた。
「市子ちゃん! 大丈夫? 市子ちゃん!」
必死にトイレドアを叩く担任女性教師。機転を利かせた男性教師が隣個室内に入り、便器を足場に市子の入っている個室内を上から覗く。
「倒れてます! 市子ちゃん倒れてます!」
男性教師はそのまま個室内に上から侵入し内側から掛かっていた鍵を外した。
教師陣の目の前には股から血を流しじたばたもがく小学一年生の姿。ももら辺までずり下がった市子の白い下着を見て女性教師は悲鳴をあげた。
「市子ちゃん! 市子ちゃん!」
暴れ回る市子を制御することのできない大人達。子供の力の強さとは思えないほどの暴れ回り様。足と拳で己を守るが如く、他者を寄せ付けない異様な雰囲気。狂った猫の様だった。
「これはどういうことでしょうか……市子ちゃんのこの姿と鍵の掛かったトイレ個室、そしてこの錯乱の仕方、暴漢がまだこの小学校内に潜んでいる可能性があります、すぐに全校児童を集めてください!」
男性教員がそう言うと他の教員達が慌ててトイレ内をあとにしていく。
落ち着きを取り戻す様子のない市子は体を縮こまらせ、二人の教職員のことをまるで悪魔でも見るかの様に酷く怯えていた。
担任女性教師が市子の肩に触れようとする――反射的にのけ反る様に拒否反応を示す市子。
「市子ちゃん何があったの? 一体何が?」
トイレ頭上の蛍光灯が鈍く光る。壁を背に怯えている市子に冷たい影を落とす。
一人の教師がトイレ内に慌てて駆け込んできた。
「全校児童の体育館への誘導は完了しました、警察には今連絡をしているところです」
怯える猫状態の市子に教職員一同どう接していいのか困り果てていた。手を差し伸べれば拒絶する、他の方法と言われてみても妙案は思い浮かばず時間だけが刻一刻と経過していた。
「このまま私達トイレ内に居ていいんでしょうか、不審者がもしかすると校内に潜んでいるかもしれない、やはりこのままここに居ても何も解決するとは思えません」
「そうですよ先生の言う通りです、とにかく今は市子ちゃんの状態が心配です、しかし強引に移動させるとなると力技になるかもしれませんな」
市子の怯えた表情を見やる教師。
「見てくださいこの怯え様、異常ですよ、可哀想に……」
体をガクガク震わせながら焦点の合わない目元でじっと床を見やる市子。
「同じ女として想像はしたくはありませんが……きっと酷いことを……」
市子の白い下着に血が滲んでいる。その箇所を見て顔を伏せる女性担任教師。握られた女性教師の拳は怒りで震えていた。
「とにかく市子ちゃんの精神状態が心配です、こんなの子供のする表情ではない、子供が知ってはいけない表情の作り方だ」
男性教員は静かに言った。
「保健室に移動させましょう、先生はそちら側を持ってください」
じたばた暴れる市子を教師三人掛かりで持ち上げ、強引に保健室まで運ぶ。悲鳴に近い金切り声を市子は上げており、映画エクソシストの一場面を彷彿させる異常な臨場感。教師陣は意気消沈した面持ちで憔悴し切っていた。
保健室まで行く途中で女性担任教師は市子から手を離しその場にうずくまってしまった。そして核心を突く一言を震えた声で言い放つ。
「――悪魔にでもなったみたい、私はこんな子の担任教師ではありません」
そのままわんわんと泣き出す。嗚咽を漏らしながら苦しい表情で透明な涙を流していた。
「先生、お気持ちは分かりますが今は保健室に移動させましょう、私の目からもこの子は 悪魔の様に見えます、しかし我が校の生徒であることには変わりはない、この子は悪魔ではない人間です」
咽び泣きに次第に変わっていった担任女性教師の魂の叫び。教員である以上に一人の人間でもある。可愛がっていた教え子が無残な姿に変貌した現実。人として、一人の人間としてその現実を受け止められないでいた。
男性教員は悲しい視線を女性教員に送り、他の教員と共に市子を持ち上げ保健室へと移動して行った。
――黒板にはあ、い、う、え、お、の五文字が書かれており、担任女性教師がこの文字の説明を親切丁寧に教えている。
市子は思う。
黒板にはにびいろという文字は書かれてはいない、だが自分はにびいろという言葉を知っている。
きっと血液に似た色をしていて赤い色をしている。
私の体の中にもその赤色が流れている。
私はにびいろの意味を知っている。
私がこの色の意味を知るのはもう少し大人になってからだったのだろうか。
トイレ内の蛍光灯が鈍く光る――。
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