第4話
無人駅の駅舎内ベンチに座っている和田と黒子。
窓から見える外の光景は田んぼが広がるのみ、だだっ広い田んぼがここいら一帯を覆い尽くしている。遠くの方に見える山々の嶺には雪がまだ微かに残っている。季節は六月にちょうど入ったところ、冬の季節はもう後ろ側に過ぎ去っていた。
石油ストーブの上にやかんが置かれ、それを囲むように四方にベンチが設置されている。黒子は右側のベンチに座り和田は左側のベンチに座っている。ストーブを挟んだ対面で和田が小さく呟いた。
「どうだい、凄いだろ?」
黒子は和田をきょとんとした表情で見つめている。
「え?」
「ここいら一帯の景色のことだよ。田んぼ意外何もないだろう、人工的な物と言えば電信柱ぐらいなものだ。僕もね長い間久しく田舎町には降り立ったことがなかったから軽いカルチャーショックを受けている。東京とこの地は同じ日本だぞ、ここまで違う」
「まあ確かに、というか本当に何もないんだね、私田んぼ見るの初めてかも、あれが夏になると野菜が育つ土地になるのかあ」
苦笑する和田。
「田んぼと畑を混同している黒子は非常に優秀な頭を持つ子のようだ、稲と野菜達が混在する混沌としたその状況に僕は笑いを堪えることができない」
口を歪ませ笑いを我慢している和田の姿。
「ねえ先生、こんなに広い田んぼは誰の持ち物なの? 国の持ち物?」
俯いて小さく笑う和田。やはり頭が微動している。
「それにさ、空気がやっぱり違う気がする、何か澄んでるっていうかクリアな感じ?」
時刻は夕方の六時。辺りは次第に薄暗くなってきた。地平線の向こうには夕陽が沈み、頭上には月が薄らと顔を覗かせている。
音のない世界に迷い込んだかのような静寂。車の音も信号の音も聞こえない、都会特有の雑踏音が消え失せたこの田舎町。喋るのを止めた二人の間にはそれほど重くもない静寂の空間が訪れる。
黒子がポケットからスマホを取り出す。
「うわ、嘘でしょ電波一本しか立ってない、ネット繋がるのかな、うわ激遅……」
「黒子よ、文明の力はこの地では無用の長物だよ。いいかい、こう考えてみるといい、デトックスだと思えばいい、我々は日々の生活の中で多くの情報を受け取りそれらを取捨選択して生活している、常に脳を働かせている状態で休む暇がない。今回の依頼はデジタル社会という、今のご時世当たり前になった情報世界の地で起こっている出来事ではない。原始的な生活を送るアナログ的な風土にまみれたこの土地で、我々は頭を働かせて依頼を遂行しなければならない」
黒いカラスが駅舎のトタン屋根を歩いてようでカンカンと頭上から音がする。
聞き覚えのある鳴き声がした。
車のエンジン音が駅舎に近づいてくる、無音に近いこの場にタイヤを走らせる音が静かに聞こえ駅舎窓の外に一台のRV車が停まった。
車のドアを開けてまたバタンと閉める音。
暗がりの向こうから人影が近づいてきて駅舎の横開きドアをスライドさせた。
「お待たせして申し訳ありません、関口です」
依頼人のご到着に和田と黒子は静かに頭を下げた。
「さあ車に乗ってください私の自宅へ向かいましょう」
言いにくそうに和田が小さく呟く。
「はじめまして和田と申します、突然で恐縮ですが、実は私達宿がありませんで、この地域でどこか泊まれる場所はご存知ないでしょうか?」
駅舎ドアに手を掛けて考え込む関口。
「この辺りは宿なんて存在しませんよ、観光地でもありませんから」
「先生、やっぱり野宿だね」
黒子が意地悪っぽくそう言った。
「この辺りは熊が出ます」
関口の一言に一気に顔色が青冷める和田と黒子。大自然の脅威は確かに存在しうごめく黒い物体として山々に群れをなしている。熊は人を喰らう、喰われた者は死に至る。
「野宿なんかしなくても私の自宅に泊まってください、なんのもてなしもできませんが寝る場所を提供することぐらいなら出来ます」
「ありがとうございます、大変助かります」
深々とお辞儀をする和田と黒子。
「さあ車に乗って下さい、六月の今の季節でもこの地域は夜になると相当冷えるんです、風邪を引かないうちに早く行きましょう」
和田は車の助手席に、黒子は後部座席に座った。
車はゆっくりと発進する。
左右に田んぼ道が広がった一直線の国道。陽が落ち暗闇の世界へと変貌を遂げる田舎の農村地帯。真昼は長閑な印象だったはずの田んぼ道が、一気に不気味な光景へと様変わりする。
カカシの立った田んぼ一角が一種の狂いを連想させ、日常の中にある長閑な光景とは到底思えなかった。
五月の季節にもかかわらず車内は暖房が効いていた。急速に温度を落とした下界は冬の残り香となってこの地域一帯を覆い尽くし、今は見えぬ山々の嶺が異様に恐ろしく思える。
依頼人の関口が口を開く。
「遠いところご苦労様でした、疲れましたでしょう?」
あくびをした和田が口元を抑えて答える。
「ええ、東京から東北は近いようでとても遠いんだなと実感しました、私の地元も東北のの山間の地域なんですがね、ここの風景ととてもよく似ているんですよ、田んぼ道が広がる長閑な光景、私の中に眠る原風景とでも言いましょうか、幼い頃の記憶が蘇ります」
微笑んで隣で聞いている関口。
「和田さんは田舎育ちでしたか、私は逆に都会育ちでして、仕事の関係でこの村に数年前に赴任してきました。東京の空気とはまるで違うでしょう? 私も最初は驚きましたよ、こんなにも違うのかって」
「後ろの席に座る娘は黒子と申します、まあ私の助手みたいなものですが、彼女はなんと東京の世田谷区出身なんですよ、田舎者の私には大都会東京で産声を上げるという事実がなんとも異様に思えましてね、コンクリートジャングルに囲まれた都会で田んぼと畑の違いも分からない奇異な少女に無事育ちました」
小さく笑う関口。
「ああ、田んぼと畑の違いが分からない気持ち私も分かりますよ、最初にこの地に赴任してきた私もそんな状態でした」
「関口さんは東京のどちらの出身で?」
「港区です」
和田はほうほうと頷き口元が歪んでいる。
後ろの席から黒子が身を乗り出し声をかけた。
「関口さんは都会ぐらしと田舎暮らしどちらが性に合うと思いますか?」
「断然田舎暮らしですね、何もない不便さはありますが、その他諸々を帳消しにしてしまうくらいに綺麗な景色と美味しい空気がここにはありますから」
車内の芳香剤混じりの空気を吸いながら目の前の真っ暗な国道を見つめて関口はそう言った。
「それはそうと関口さん、今回の依頼内容についてもう一度確認しておきたいことがあります」
「はい」
「突如失踪してしまった彼女さんを探し出して欲しいと、そういうことですね?」
「はい」
「居なくなられたのが二ヶ月前の春先ということですが間違いないですね」
「はい」
顔だけ真正面を向き横目で関口を確認する和田。
関口は視線を真正面に捉えながらハンドルを軽く握っている。
静かに口を開く関口。
「和田さん、ここまで御足労いただいてあれなんですが、私は犯人の目星は大体ついてるんですよ、そして梨花は多分この世にはもう存在していない」
微かに微動する和田の頭部。和田は関口の方へは顔を向けようとしない、やはり目だけ横にやり関口を見つめている。
「犯人とは?」
「この村に堂島淳という四十代の男がおります、彼は今年の四月まで地区の汲み取り業者として働いておりました、所謂バキュームカーというものですね。下水設備の整っていないこの村は汚水汚物が溜まる一方です、定期的にバキュームカーを呼んで汲み取りをしてもらうわけです」
静かに頷く和田。
「彼は四月まで務めていた汲み取り業者の仕事を辞め、今は小学校のスクールバス運転手として働いています」
再度頷く和田。後ろの席の黒子が身を乗り出して関口に聞いた。
「その男を犯人とする根拠は?」
和田の目から関口がハンドルを握る握力を強めたように見えた。
静かに口を開く関口。
「彼女の部屋に住んでるんですよその男は。家財道具その他諸々全てを変えずに彼女の部屋で暮らしているんです」
「そんなのあり得ないわ、赤の他人が家に住み着くなんて、大家さんとは連絡はとってみたんですか?」
「その大家が堂島なんです、アパートの全てを管理する大家がその堂島なんです」
絶句する黒子。再度身を乗り出して聞いてみた。
「警察への届け出は? 警察は何もしてくれないの?」
「失踪人届は提出しました、警察もなかなか話を聞いてはくれません、今の世の中失踪する人は別に珍しいことではないですからね」
ここで和田がやっと口を開く。
「本当にそのアパートはその堂島という男の所有物件なのですか? スクールバスの運転手をしているような人物が建物財産を持ち得るようには到底思えないのですが」
「元々は堂島の両親が所有していた物件らしいです、二年前にその両親も他界し現在は堂島に所有権が移ったと聞いております」
車は一軒のアパートに到着した。
「さあ着きました、話の続きは部屋の中で」
車を降りた和田と黒子に強い強風が吹きつける。
――四棟が連なる田舎町に似つかわしくないスタイリッシュなデザインのアパートがそこには存在していた。
何か匂う。酷く匂う――。
八畳ほどの洋室に三畳ほどのキッチン、バストイレ別、室内は男の一人暮らし特有の汗臭さが充満しており、インテリアにさほど興味のないこの家の家主の名が関口だった。
部屋に通された和田と黒子はキャリーバッグを部屋の隅に置き、用意された座布団二枚に腰を下ろす。
四角いローテーブル上には爪切りや耳掻き、メモ帳やアダルトDVDなどが無造作に散乱していた。
そんなことはお構いなしの関口はキッチンの方へと向かう。
「お二人はお酒はいける口ですか? ビールしかないですけど大丈夫ですか」
「あ、僕はお酒飲めませんのでお構いなく、この子に至っては未成年なもので、お酒以外の飲み物をいただけると幸いです」
「え――その子未成年なんですか……てっきり大人の女性なのかと」
はにかむ黒子。
「おい、何照れてやがる? 図体だけデカい頭は子供のままの女ですよこいつは、気にしないで下さい」
「お茶でよろしいですか? 黒子さんと仰いましたか? 身長は何センチあるんでしょうか?」
「百八十二センチです」
驚く表情を見せる関口。
「どうりで大きい訳だ、いやね駅舎で見かけた際はどこかのモデルさんがいらっしゃたのかと内心驚きましてね、身長が百七十センチしかない男の私からしてみれば羨ましい限りです」
「関口さん、独活の大木ってご存知ですか? まさにこいつはそれなんですよ。体が大きくても力があるわけでもない、頭脳明晰な頭を持ってるわけでもない、なんの取り柄もない大きい少女なんです」
関口はローテーブル上にお茶を二つ用意する。会釈する和田と黒子。
「私はお酒飲ませてもらいますね、毎日の晩酌が日課になっておりまして」
缶ビールのプルタブを開け、乾杯もせずに豪快に酒を飲んでく関口の姿。和田と黒子は申し訳なさそうにお茶に口をつける。
「先程はお話の途中でしたね、どこまで話しましたっけ?」
「堂島さんという男性が失踪した彼女さんのアパートの大家というところまでです、彼女さんのアパートはここから近いのですか?」
「いえ、同じ敷地内に隣接してますよ。隣の部屋がそうなので」
関口は右方向を見やり白い壁紙を見つめた。
和田も黒子も同様に右側の白い壁紙を見やる。
「なんとも驚きですな、まさか隣の部屋だったとは……」
黒子がヒソヒソ声で関口に聞いた。
「今も堂島さんという方は隣の部屋にいらっしゃるんですか?」
「ん~どうですかね、多分いるんじゃないですか」
他人事のように言い放つその関口の口振りに和田の頭部が若干微動した。
「今は夜の七時過ぎなので多分帰ってきてますよ。このアパートの防音性が凄いのか物音一つ聞こえてきません、玄関の開け閉めも全く聞こえない有様です、生活音が聞こえたことは今までありませんね」
「なぜ関口さんは彼が隣の部屋に住み着いていると分かったんですか?」
妙ににやけた表情をしながら関口は答えた。
「玄関先で偶然ばったり会ったんです、彼女が失踪した翌日だったかな、最初は私も驚きましたよ、彼女の部屋から見知らぬ男が出てくるんですから」
関口は缶ビールを飲み干していく。350ミリ缶の缶ビールはあっという間に空になった。
「失踪した彼女の部屋からですよ、かなり不審じゃないですか、事もあろうに堂島は洗濯物をベランダに干したんです、男物のトランクスが風に吹かれていてる光景に私は頭がおかしくなりそうでしたよ」
冷蔵庫から二本目の缶ビールを取り出して関口はプルタブを開けた。
「予感は的中しました、どうも謎の男が彼女の部屋で生活をしている、壁一枚隔てた向こう側に堂島という謎の男が存在していて実際に生活をしているみたいなんです」
勢いよく缶ビールを飲んでいく関口。喉を伝う爽快感に右目をつぶっている。
「異常ですよね、きっと堂島という狂人に梨花は殺されています。遺体の隠し場所である梨花の部屋に私は何度も踏み込もうと思いました。でもね鍵が掛かっていて開きそうもないんです」
「そりゃ家の戸締りは人ならばするでしょう、無用心に家を出かける者もいない」
和田が当たり前のようにそう言い放った。
「和田さん、異様な光景に映りはしませんか? 他人の家ですよ、家財道具やインテリアなども以前のままで、さも当然のようにそこに住み着く堂島の精神が私には到底分かりません」
一つの引っ掛かりを見つけて和田の頭部が一瞬激しく揺れる。
関口を見やり和田はこう言った。
「関口さん、何故鍵の掛かった室内の様子があなたには分かるのですか? まるで室内の様子を見てきたように話しますね?」
「先生、私も思いました、矛盾してますよ関口さんの説明には」
黒子が加勢して二対一の格好になる。
慌てる様子もなく冷静に関口は語った。
「引越し業者なんてあの時期見かけませんでしたし、曇りガラス越しのカーテンが以前のままなんです、私は憶測で話してはいますがほぼ確実に家財道具やインテリアは以前のままだと断言できます」
力を込めた目元で和田を見やる関口。嘘をついているようには到底思えなかった。
「彼女のスマホに電話しても失踪当日から不通状態です、梨花という存在がある日を境に忽然と消えました。そんな彼女の部屋には赤の他人の男が住み着いています、警察はロクに捜査もしてくれない状況。和田さんお願いです梨花を何とか見つけ出してください」
お茶を一啜りする和田。
「関口さんのご依頼としては交際相手である梨花さんの捜索及び発見。梨花さん宅アパートの一室に住み着いた堂島という男が今のところ犯人である可能性が一番高い、しかし確証は持てない。堂島という男が犯人である確証は現時点では何一つありません。僕は探偵をしております、まずは情報を集めることを最優先とします」
お茶をもう一啜りする和田。
「関口さんが得た堂島の情報はどこから得たものになりますか? 例えば汲み取り業者からスクールバスの運転手への転身情報などは一体どこから得たものになりますか?」
「得るも何も田舎の生活事情は近隣住民に筒抜け状態なんですよ。知り合いの知り合いは自身の知り合いにもなり得ます、共同体という言い方が適切かどうかは分かりませんが地域そのものが生きている生物みたいなものなんです」
チラッと関口を見やる和田。口を開く。
「近隣住民との関わり合いが希薄な都会人には到底分かり得ない感情かもしれませんね、田舎育ちの自分は関口さんの言いたいことがよく分かります」
目元の力を強めて関口は口を開く。
「赤子の頃から知っていた幼子が今では市役所に勤めて地域活性化の為に広報活動などを行っています、頑固者で有名だった近所の年配者は昨年この世を去りました、この地域から出て行った者のその後は分かりませんが、この地域に居座る者の情報は複雑に絡まりあいクモの巣状に網を張っています」
缶ビールをグイッと一飲みする関口。
「濃厚で甘美な田舎暮らしは私の価値観を根本からブチ壊しました、地域そのものが家族となって存在している。この村の身辺情報などその本人よりも他者の方がよく知っているのかもしれない。港区暮らしだった私がこうも田舎に染まるとは幼い頃は考えもしなかったです」
頷きながら和田も口を開く。
「探偵という職業柄依頼人は都会に住まいを持つ人ばかりでした、今回が私の探偵人生において初めての田舎という地での依頼ということになります。限界集落の農村地帯ほど探偵という職業が似合わない場所はない。個人間でのネットワークが異常なまでに発達しているこの地域特有の人の輪、情報収集は骨が折れそうです、なんせ田舎者は都会人には冷たいですからね」
素直に頷く関口。
「私がこの地域に初めて赴任してきた際はもう心が病みましたよ、徐々に仲良くなっていくしか方法はないんです、よそ者に手厳しい固有の空間が出来上がっているんです。ですから、あの、どうかよろしくお願い致します、梨花を見つけてやってください」
頭を深々と下げる関口。和田と黒子は目の前の放射状に広がるつむじを見つめていた。
同じ敷地内に追う者と追われる者が共生しているこの空間。
部屋の外には静かな闇夜が広大に広がる。
紛れもない闇夜が。
天井の照明が消された空間。部屋の中には暗闇が広がる。
一つしかないシングルベットには黒子が、ソファには和田が、関口は床で寝ていた。
睡眠状態になかなか突入しない和田の頭。
あれこれ考えが纏まらずに次々脳内に溢れでるモヤモヤした考え事。思考する脳は完全に止め時を失い和田は目をつぶった状態で大きくあくびをする。
持病とも言える本態性振戦を患いながら同時に不眠症という現代人特有の病とも日夜戦っている和田という男。
枕に頭が接地していると頭部の震えは全くなかった、支えを失った頭部が微かに微動するのであって、支えがしっかりとあると少しも微動することはなかった。
ソファで仰向けで寝ている和田は横向きに寝返った、少し寒そうに膝を曲げてジッとしている。
アパート外の月光は遮光カーテンに遮られ室内には少しも入ってはこない。紛れもない暗闇が室内を覆い尽くしており、和田の視線の先にあるローテーブル上の何か達は輪郭をぼんやりともさせないで暗闇に深く溶け込んでいた。
まるで視力を失ったかのように今は闇の中で胎児のように体を丸めている状態。二人の寝息も聞こえてこない、和田はこの時室内には自分一人が寝ているのではと妙な気分になった。
音のない世界を久しく経験してこなかった。東京都内の夜更は車の音やパトカーや救急車の音で無音状態がない状態、やはり音のない世界は久しく味わってこなかった。
幼少の頃の記憶。
寝静まった田舎の夜には田んぼのカエルがゲコゲコと鳴いていて、寝返りを打つとシーツの擦れる音が嫌に気になり体を固めて薄らと映る白い天井を眺めていた。
自身の呼吸する音さえも煩わしく思えて、息を止めてみたがすぐに息苦しくなりプハアと息を吐いた。
カエルの鳴き声が他の生物の鳴き声にも聞こえてきて、ゲコゲコと規則的に鳴く異形の者を頭の中で想像した。
異形の者はつるんとした肌質を持つ柔肌の生物で白に近い肌色をしており、頭部に毛髪はなく、目鼻口のないのっぺらぼうの表情をしていた。メタボ気味の肥満体型だが嫌な感じはしない、可愛らしい体型をしており押すと跳ね返ってくるようなそんな見た目。
暗闇の中で異形の者はこちらを向いて立っている。
表情の分からないその顔で何を言いたいわけでもなくそこに突っ立っている。
口のない口元でくぐもった声を発する。
「ゲコゲコ」
それはカエルのような鳴き声でもあり、カエルではないようにも聞こえる声。
「ゲコゲコ」
なおもゲコゲコ音を発し続ける異形の者。
和田少年に対して深いお辞儀をする異形の者。頭のてっぺんが河童の頭の皿のようにツルツルに禿げ上がっており、やはり毛髪は存在しない。
「ゲコゲコ」
暗闇の中の異形の者が途端に礼儀正しい生き物に思えて、ベットで横になる和田少年は頬を綻ばせた。
和田少年も静かにお辞儀した。それを見てお辞儀を仕返してくる異形の者。それを見て再度お辞儀をする和田少年。
「ゲコゲコ」
異形の者を真似て和田少年もゲコゲコと喋ってみた。表情のない異形の者の口元が微かに緩んだ気がした。
和田少年は異形の者に手を振りバイバイをする。異形の者も手を振り返してくれた。
静かに睡眠に侵入する和田少年。まどろみの中惰眠を貪るかの如く長時間睡眠に突入した。
夢も見ない自身の睡眠。考えることを止めた脳は正直に睡眠を欲する。
関口宅アパートの暗闇の中の光景。
一つしかないシングルベットには黒子が、ソファには和田が、関口は床で寝ている。
いまだに寝付けないでいる和田のすぐそばに異形の者が突っ立っている。表情のない顔面で斜め下の和田の後頭部を眺めている。
「ゲコゲコ」
頭のすぐそばで、そんな音が聞こえてきた和田は硬直し背筋が凍った。
顔を上げて視線を頭上に向けることができない。恐怖で固まった心臓は鈍く微動し続け、血液を体全体に送り続ける。和田は金縛りにでもあったかのように眼球だけを動かすのみ。視界の隅に影が薄らと見える、動きもしないそれはただそこに存在し和田の後頭部を眺め続けていた。
グリグリ動く和田の眼球が絶え間なく動き続け何者かの存在を確かめようとする。
「ゲコゲコ」
やはり音が聞こえる。カエルのようなカエルでないような鳴き声。人間の声には到底思えない低くくぐもった声。薄い肉の膜に覆われた口元から声帯を揺らし一枚のフィルム越しに聞こえているかのようなそんな声。
――一くん、和田一くん。
目を見開き瞳の存在感を強める和田。確かに自身の名前を言われた。斜め頭上の何者かに自分のフルネームを呼ばれた。頭が混乱する和田。
「先生、先生」
横には黒子がおり自分のことを呼んでいる。金縛り状態の抜けない和田は言葉を発することができないでいた。
「ねえ先生大丈夫? 大丈夫?」
顔面にびっしょりと汗をかいている現在の和田の姿。
次第に喉の締まりも緩まってきて掠れ気味に小さく声を発する。
「誰がいた?」
「ん?」
「僕の頭のすぐそばに誰がいた?」
一瞬の静寂が場を支配する。
「私」
「カエルのような鳴き声を発していたか黒子は?」
首を静かに横に振る黒子。
床に寝ていた関口も眠そうな目をしながら起き出した。
「ん? どうしたんですか?」
「関口さん、僕のすぐそばに誰かがいて、ずっと僕のことを見下ろしていた」
お互いの表情が確認できない暗闇の中、関口は壁付近の照明ボタンを押した。
照明器具が明るく光り、白い光が室内に一瞬で広がる。互いの顔を見渡す三人。茫然とする黒子と関口とは反対に和田は表情を失っていた。
目鼻口の存在しないかのようなのっぺりとした印象の和田の顔面。細かい汗の滴が顔を覆っており、毛穴から吹き出した透明な汗は顎部分にたまり床にボタっと落ちた。
「和田さん、誰もいませんよ、夢でも見ていたのでは?」
「僕は寝れなかったんだ、ずっと起きていた」
「先生の思い過ごしよ、気のせいじゃないの、部屋の中には私達三人だけじゃない」
首を回すように当たりを見回す和田。目が血走り眼球の毛細血管が赤く浮き出ていた。
「確かにいたんだ、嘘を言っても仕方がない、僕は確かにその気配を感じ取っていたんだ信じてくれ」
壁掛け時計を確認すると針は午前二時を指し示している。
「大丈夫先生?」
心配そうに声をかける黒子。
「なあ黒子、僕は狂っているように見えるか? 頭のおかしい奴に見えるか?」
口をつぐむ黒子。
関口が台所からコップ一杯の水を汲んで持ってきた。
「まあまあ和田さん落ち着きましょう、ここは冷静になって、きっと悪い夢でも見たんですよ、さあ水でも飲んで」
「関口さん、僕は狂ってるように見えますか? 客観的に見て僕の姿は異様な狂いに見えますか?」
微笑んで首を静かに横に振る関口。
「いいえ、狂ってなどおりません、私の目からは正常な人間に見えます。人は夢を見る生き物です、私だって夢を見ます、それを現実と混同してしまうことも時にはある」
「僕は眠ってなどいない、覚醒状態のまま夢が見れたというんですか?」
「起きている自分を夢の中で見たのでしょう、ソファで横になる自分を和田さんは夢の中で見たのです、そこに何者か分からない影を感じた。室内に三人しか存在しないと思い込む和田さんの脳内に四人目の人物が現れただけのこと、和田さんはきっと夢を見ていた」
水の入ったコップを持ちながら表情を取り戻していく和田の姿。唖然とした表情に変わっていた。
「先生は考え過ぎる傾向にあると私は思うわ、何事にしてもそう。考え過ぎなのよ」
「和田さん、リラックスしましょう、この部屋には僕達三人以外の人間はいませんよ」
「そうか……」
首を垂れて意気消沈気味の和田。
「もう寝て忘れましょう、電気消しますよ」
再び暗闇の世界へと戻る室内の光景。
互いを互いと認識できないほどの暗闇。
和田の斜め頭上には視線を送る異形の者の姿。再び現れた謎の影は結局明け方、陽の光がカーテンの隙間から入ってくる時まで存在し続け、寝付けない和田はこの日一晩を背中に汗をかきながら過ごす羽目になってしまった。
夢などは見ていない。はっきりと現実の光景としてそれは現れしっかりと和田の頭らへんを直視し続けていた。
本態性振戦と不眠症の併発。生きている限り地獄を彷徨う羽目になる和田一という男。
微動する覚醒状態のままの頭で。心労が増す一方の和田は抜け道の見えない複雑怪奇な迷宮の中を彷徨う。スタート位置からゴールまでの一直線ではない曲がりくねった道。
揺れ動く頭では正常な判断がどうも下せない。
しっかりと前を見据えて物事を考える必要がある。制御出来そうもない頭の微動、偽りの病などではない。
室内を朝の陽光が優しく照らす。そこには異形の者など存在はしない。
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