第3話
――本態性振戦。
身体の一部が自分の意思とは関係なく規則的に動いてしまう症状。
身近なところだと手の震えがそれに当てはまり、症状が悪化すると身体や頭の震えなどに繋がる。原因不明の症状とされており完治は難しく一生付き合っていく震え症状とされている。
本態性振戦自体は震え以外の症状は特に発症はしない、ただ震える、異常に震える、箸を持つ手や歯科医院での診察台上での身体、美容室でスタイリストにカットされている最中の頭など。
本人の意思とは関係なく微動する。止めようと意識すればするほど症状は悪化し、振動を食い止める方法は投薬による気休め程度の一時的な緩和か、脳外科手術による強制的な原因の排除のみ。
前文でもお伝えした通りこの本態性振戦は原因不明の病とされている、根本的な治療法は現代の医療の現場でも確立はされていない。
この病の特徴は疾患者がこの病を意識すればするほど症状が悪化するという点にある。負のスパイラルに陥り蟻地獄を彷徨う蟻自身へと変貌していく。
症状の現れるシーンとして最も多いのが極度の緊張を強いられる場面、その他にも安堵仕切った場面でもまれに症状が現れる場合もある。
都内某美容室。時計の針は午後二時を指し示している。
美容室内椅子に座り身体にケープを掛けられている男。
探偵業を生業としているこの男は本態性振戦の疾患者である。
ボサボサに伸び切った黒髪に美容師が軽快にハサミを入れていく、床に束になって落ちていく黒々とした艶のある黒髪。
耳部分に覆いかぶさった毛量の多い箇所を梳きハサミで梳いている最中に、この男の本態性振戦の症状が静かに身体へと現れ始める。
小刻みに頭が左右に震える。美容師は不審に思いながらも手を休めることなく男の髪を切っていく。やはり小刻みに左右に頭が震える。
不規則的なその動きは予測できる頭の震えとは違い、発作のように微小に小刻みに震える。
この探偵かぶれの四十五歳独身男性。性は和田、名を一という。
和田一。美容室という空間が大嫌いであり、人に髪を切ってもらうことを極端に恐れる男。
意識すればする程に発作という名の細かい震えは激しさを増してゆく。施術されている最中の和田は軽いパニック状態に陥っていた。目をグッと瞑り頭の中に難しい数学の数式を思い浮かべる。
(だから人に髪を切ってもらうのは嫌なんだ、多分この美容師の男性は僕のことを不審な人物として今見ている、頭の震えを止めようとすればするほど制御が効かなくなってくる、お願いだ早く終わってくれ……)
もう誤魔化しの効かない頭の震え、美容師は確実に気づいているはずなのだが指摘できるはずもない、お客さん頭震えてますねなどとは口が裂けても言えない。
(歯医者の時だってこうだった、哀れみの目で俺を見ないでくれ、好きでこうなったわけではない。震えを指摘されるのはまだいい方で、何も言わずに空気を読んで察してもらうことほど酷いことはない、いっそ指摘してくれた方が心は落ち着く)
カットは最終調整の段階で小刻みにハサミが入れられていく。あんなに長かった黒髪長髪が今では爽やかな印象のベリーショートの髪型に変わっていた。
目を瞑っている和田に現在の自分の髪型は見えていない。美容師のお兄さんにはかなり短めでと注文していた、できるだけ髪を切らないでいられるギリギリの長さを求めていた。
美容師が手持ち鏡を持って和田の後頭部を映す。
「確認してもらっていいですか」
パッと目を開けた和田。
「あ、 OKです」
目を開けてから僅か一、二秒の即答であった。
座席から立ち上がりお会計を済ませる。安堵の表情を浮かべながら千円札五枚をトレーに差し出す和田。
美容師のお兄さんが深々とお辞儀をして和田を見送る。
(この解放感は異常だ、極めて異常だ、狂ってさえいる)
スキップしたい気持ちを抑えて街中を颯爽と歩く和田の姿、短く切り揃えられた頭髪がルンルン気分で今にも踊り出しそうでさえあった。
(職業柄坊主は印象が悪いんでね、本当は坊主で日常を過ごしたいが僕は探偵だ、依頼人からの第一印象が今後の仕事量を左右する、欲を言えば頭髪を永久脱毛してスキンヘッドで過ごしたいくらいだ、だがやはり僕のこの職業がそれを許さない)
和田のポケットに入っているプライベートとは別のスマホが小刻みに振動する。
着信は知らない番号からだった。
「はい、和田探偵事務所です」
プライベートと仕事は分けるタイプの和田、しかし探偵に決まり切った就業時間などありはしない、それでもスマホは二台持ちたかった。
「依頼をお願いをしたいのですが」
電話の主は若い男性のものだった。
「詳しくお話をお聞きしますよ、あ、その前にお名前お伺いしてもよろしいですか?」
「関口と申します」
「はい、関口さん、ご依頼内容をどうぞ」
「あの、人を探して欲しいのですが……」
「人とはご親族の方などですか?」
「いえ、自分の彼女です、二ヶ月前から行方が分からなくなりました」
和田は人混みの多い大通りから一本抜けて建物と建物の裏地に入った。
「関口さんは都内在住の方でしょうか?」
「いえ、住んでいるのは東北の田舎町です」
「最寄りの探偵事務所に頼まれなかった理由などはありますでしょうか?」
咳払いをする関口。
「いえ、友人から和田さんの噂を聞いておりまして、出張費交通費は全額こちらが持ちます、是非とも何もない田舎町ですが和田さんに来ていただきたいのです」
「簡単に事の経緯だけをお話しいただけませんか、そうでなければこちらも判断し兼ねます」
「ああ、すみません、でも経緯と申しましても彼女がある日を境にいなくなったというだけなのですが、一人暮らしをしていた彼女が忽然と消えたんです、自分でもできる限り探しましたが見つけ出すことは出来ませんでした」
「一つ確認なんですが、関口さんのご希望としては彼女さんを見つけて欲しいとそういうことですか?」
「はい」
「もう一つ確認です、お車はお持ちですか?」
「はい、所有しております軽自動車ですが」
「彼女さんは車を所有しておりましたか?」
「はい、彼女も車は所有していました、でも車だけは残っていたんですアパートの駐車場に、今はもう大家によって撤去されましたが」
「大家さんと関口さんは面識はありますか?」
「いえ、ありません」
少しの間黙ったままでいる和田。目をつぶり頭が小刻みに微動している。
「明日中にお伺いたします。関口さんのご自宅で詳しいお話は伺いましょう、最寄り駅からはご自宅は遠いのですか?」
「はい、車でなければ通えない距離です、徒歩で歩く距離ではないです」
「駅まで迎えにきていただけますか?」
「仕事が終わってからなら大丈夫かと思います」
「それでは明日よろしくお願い致します」
スマホの切電ボタンを押す和田。頭の振動は収まっており真っ直ぐに前を見据えている。
再度スマホを操作し何処かへと電話をかけ始める。
「ああ僕だ、明日東北へ向かうことになった、無論君もついてくるんだ。一端の探偵気取りが助手の一人もいないとは心許ない、有無は言わせないぞ、その権限は君にはないのだから」
再び頭を微動させる和田。
「他人の弱みにつけ込む卑怯な男と思わないでくれ、君の今後は僕の手中に全てある、僕の掌で踊り続ける君は首元を鎖で繋がれた犬だ、犬が踊るんだよ面白いだろ」
電話口の相手が何か言っているのだろう、和田は黙ってそれを聞いている。
「君は馬鹿か? 話の筋が通らない困ったじゃじゃ馬娘だ、僕に意見を言える立場か。僕が左を向けと言ったら左を向けばいい、しかしもしも右を向くようであれば僕は君にキツいお仕置きをしなければならない」
頭を左右に微動し続けながら電話を続ける和田。
「罵詈雑言をこの電話で君にぶつけてもいいと僕は思っている、しかし寛大な心を持つ僕はそんなことは決してしない、全ては僕の掌の上で起こっている、地面の蟻を見つけて怒るようなそんな真似を僕はしない、そんな人間最低だ」
右手に持っていたスマホを左手に持ち替えてなおも話し続ける和田。
「僕に弱みを握られている君は素直に服従するしか方法はない。他の方法を見つけ出そうともしない頭の弱い君に、弱みから抜け出す方法は何一つ存在しない」
不規則に動き続ける和田の頭部。
「本態性振戦の馬鹿野郎! この振動のせいで僕の将来の可能性は幾分狭まった、可能性の芽が発芽し難い状態、君に分かるかこの僕の気持ちが? はっきり言って地獄だぞ、もし変われるなら君の正常な脳を僕に移植してくれ、変わりにこの狂った振動する脳味噌を君に提供しよう」
電話口から微かに女性の怒鳴り声、耳を離し怪訝そうな表情でそれを見やる和田。
再びスマホを自身の耳にくっつける。
「怒鳴ったって無駄だよ、そんな脅しは僕には通用しない、音に敏感な僕の特性を君も承知のはずだ、そんなに大きな声でなくとも全て僕は分かっている」
通話は切れた。
収まりを見せる和田の頭部。過緊張からの開放が訪れ安堵の表情を見せる。
この東北田舎町での失踪事件を解決するにあたって、和田の頭部は過去類を見ないほどの振動に見舞われることとなる。
本態性振戦。地獄のような苦しみの途中。もがき暴れるように脳が振動する。心模様の些末な動き。繊細さを兼ね備えた暴君――その名を和田一という。
昼十二時の東京駅。
キャリーバックを引きずって二人の男女が歩く光景。
片一方は探偵和田一。もう片方の女は和田よりも長身で百八十センチを超えているであろう恵まれた体格を持つ女性だった。
長い黒髪が長身と相まってパリコレモデルを彷彿とさせる出で立ち。東洋人にはあまり見られないまさに恵まれた肉体だった。黒のパーカーに黒のスキニージーンズ、オフホワイトのスニーカーというシンプルなコーディネート。
周りの人々がこの女性を好奇な目ですれ違いざまに見ていく。女性の百八十センチ越えは現代の世の中にあっても相当珍しい、そんな少女がモノトーンを身に纏い東京駅構内を颯爽と歩いているのだからモデル業を生業とした人物に見られても何らおかしくはない。
反対に和田の方はというと上下黒のスーツに黒の革靴、百七十二センチの和田が少女の隣を歩くと随分と小さく見える。
顔を上げて話しかける和田。
「黒子に一つ忠告しておかなければならないことがある」
見下ろすように黒子は歩きながら和田の額を見つめた。
「田舎町での君のその出で立ちは相当目だつだろう、爺婆の楽園で若者が極端に少ない限界集落の田舎町だ、間違いなく君は周囲から浮いた存在となる。忠告とはすなわち見た目以上に目だつ行為は慎めということだ、僕達が行く先は東京の大都会ではない地方都市の片田舎だ」
黒子はジトっとした目つきに変わり、馬鹿な忠告として胸に深く刻み込んだようだった。
「新幹線で二時間半、在来線に乗り換えて一時間半、相当遠くへ僕達はこれから赴くことになる、田舎町にコンビニなんて存在しないぞ、トイレを借りることなど到底無理なお話し、覚悟しておきたまえ」
「もしトイレに行きたくなったらどうするの?」
「木の陰でするしか方法はないな、それか民家にお邪魔してトイレを貸してもらうぐらいしか方法は思いつかない」
本態性振戦の症状が僅かに起こり頭が微動してる和田の頭。
「先生また頭震えてるよ」
「ああ気にしないでおくれ、いつものことだ」
黒子の視線からは和田のつむじ辺りが左右に微動しており、歩いていても分かるほどに不規則な動きをしていた。
「昔こんなおもちゃあったよね」
「君! 僕を馬鹿にして――」
「怒らないで聞いてよ、本当に昔こんなおもちゃがあったんだってば、凄い似てるんだよね動きが」
「僕はおもちゃなどではない、生きている人間だ、断じておもちゃなどではない」
小さく噴き出す黒子。
「本気に取らないでよ、口では大人みたいなことが言えても私から見たら子供の姿にしか見えない」
「見下ろしておいてその言葉は聞き捨てならないな、僕が子供に見えるだと? 僕からは君の見た目は巨人の国のお姫様にしか見えないが。多くを見渡せるその瞳がもうほとんどの人々は君から見たら全て子供に映ってしまうのだろう」
少しムッとした表情に変わる黒子。
「弱みを握られていても私は決して屈しない、今この状況は屈している状態に映るのかしら? 私はただ東北に旅行に行くの、温泉が楽しみだわ」
「黒子、これは温泉旅行ではない、依頼を受ける為の遠征であって――」
「本気に取らないでよ、本当に冗談が通じないよね先生って、よくこれで世間を渡ってこれたものだよね」
微動する頭で反論する和田。
「冗談を言う輩が悪いだけの世の中だ、そもそも冗談は社会生活において本当に必要か? 不必要なものではないのか? 冗談なんかなくても不都合なことにはならないだろう」
呆れた顔で首を左右に振る黒子。
「本当呆れた……健全な社会生活において冗談は必要不可欠なものよ、冗談の通じない世界なんてロボットの社会みたいで少し気持ち悪い。前から思ってたけど先生ってロボットみたいだよね」
「し、失敬な! 僕はロボットなどではない生きている人間だ!」
「だからさ……本気に取らないでよ」
新幹線に乗り込む和田と黒子。
――北の大地を目指し運命は回り始めた。
東北某県に降り立った和田と黒子。
新幹線ホームを抜けて在来線乗り場へと向かう。時刻表を確認している和田。
「最寄り駅からは関口さんに頼んではあるが、仕事を終えてからでないと難しいらしい、今在来線に乗って到着したとしても少し時間が余るな」
黒子の顔を見上げる和田。
「お腹は空いているかい?」
「奢ってくれるの?」
「軽食程度は無論奢るさ僕はねケチな男ではないよ、女性の扱いくらい心得ているさ、近くにファストフード店があるらしいそこでいいかい?」
頷く黒子。
駅地下のフードコートに降り立った二人は日本人に馴染みの深いファストフード店に入店した。
ツカツカと革靴の音を響かせてレジへと向かう和田。
「ハンバーガー二つ下さい、あとお水も」
その言葉を聞いて黒子が口を開け驚愕の表情を浮かべる。合計金額200円、奢られておいて偉そうなことは言えないが黒子は静かに口を閉じた。
席に着くと和田は黒子に包みに入ったハンバーガを手渡す、トレーの上には紙コップに入った透明な真水もある。
「どうしたんだい食べないのか?」
「いや、社会人としてどうなのかなって思って……」
きょとんとした表情で黒子を見つめる和田。
「僕は社会人だ、しかし君はまだ十八歳で成人を迎えていない女の子だ、僕が奢って当然なんだよ遠慮しないで食べなさい」
「いや……もういいや、いただきます」
チーズの入っていないハンバーガーにかぶりつく黒子。四口程度で食べ終えてしまった。
「僕はねハンバーガーが大好きなんだよ、この肉汁がなんとも堪らない、それにこのピクルス絶品だろう」
和田はパッサパサの肉にあってもなくてもいいようなピクルスを好む。
「本当に先生は世間を渡るのが上手いよね、隅っこを器用に歩くというか、素直に尊敬しちゃうな」
「褒めても何も出ないぞ、追加注文はしない主義だ、まあ僕ほど世間の動向に目を光らせている人間も少ないだろう、鷹の目で世界を俯瞰して見下ろす、人生のちょっとしたコツさ」
口元を歪ませ苦い笑いを浮かべる黒子。
「食べ終わるのが早すぎたか時間潰しにもならなかった、この席で電車の発車時刻まで待たせてもらうとしよう。それはそうと黒子、宿の手配を任せておいたがそこら辺は安心していいんだね」
ゆっくりと頷く黒子。そしてゆっくりと首を横に振った。
やはりなと予想していたような和田の表情。静かに口を開く。
「今回はどういった手違いで宿が取れなかった次第だ? まさか忘れていたなどという戯言は勘弁だぞ」
「鋭い感は探偵にとって必要不可欠なもの、先生は探偵の素質が十分に備わっている」
「本当に忘れたのか? 君に宿の手配を任せた僕がとても愚かな人間に見えるよ、こんなに使えない助手はいてもいなくても同じではないか」
和田の瞳をジッと見やる黒子。
「本当に忘れたの、今言われて気づいたの、そんなことをそれまですっかり忘れていたの」
「君は鳥類の類か?」
「いいえ、先生、私は人間よ」
目元を抑え天井を仰ぎ見る和田の姿。
「私は野宿でも構わないわ、自然豊かな大地で野宿なんて都会暮らしじゃ経験できないし、貴重な体験になると思う」
「黒子よ、野宿をしたことがあるのかい?」
首を振る十八歳少女に和田は苦笑した。
「自然を舐めると痛い目にあうぞ、人類は大自然に翻弄され続けてきた、そういう歴史の中で幼稚な少女が今夜宿も無しに木の陰で寝ようというのか? 冗談も大概にしておくべきだ」
紙コップに入った水を飲み終えると黒子は口を開く。
「満点の星空を仰向けで眺めながら私はゆっくりと睡眠状態に移行するの、木々のざわめきが異様に心地良くて静かに寝入ってしまう、朝になれば太陽の僅かな傾きと共に私の顔に陽光が照りつけるの、ゆっくりと目を開けると真っ青な青空に澄んだ空気の塊、小鳥もさえずる朝の陽気に晴れ晴れと一日を始めることができるわ」
苦笑し俯く和田。
「先程も言ったが冗談も大概にしておいた方がいい。なあ黒子、考えを改めない限り君はいつか大自然に殺されることになる、君が思っているほど大自然は甘いものではない、塩辛いしょっぱい味覚を黒子の舌に植えつけながら大自然は今日も明日も身近なところに存在し続ける」
小さく笑う黒子。
「とにかく宿がないの、宿の手配をしてないの、出来ることと言えば野宿くらいしか方法はないと思うけど、それとも何? 先生が天才的な閃きでこの状況を打破できるような名案を何か思いつけるの?」
「いちいち突っかかってくるその姿勢は僕は高く評価している、十八歳の年齢で成人男性と同じ目線で話せる人間も少ないことだろう。いいか黒子、野宿という野暮な方法は絶対に取ってはならない、何としても僕らは本日中に屋根がある寝床を確保しなければならない」
和田が手首の時計を確認する。
「そうこうしている間に電車の出発時刻が迫ってきた、宿無しの僕らがこれから赴くのは相当な田舎町だ、少し栄えた街から在来線電車で一時間以上の秘境の奥地だ。黒子に覚悟を聞いておこうと思う、コンビニなど皆無の陸の孤島に挑む勇気は君にはあるか?」
「ちょっと大袈裟に言い過ぎだよ先生、同じ日本のちょっとした田舎町じゃないの? 海外に行くような気負いする気持ちは私には全くないよ、陸続きの同じ日本の土地なんだし」
途端にため息を吐く和田。俯いた姿勢はそのままで首を左右に振っている。俯きながら言葉を発した和田。
「月明かりに照らされるた暗闇は物の輪郭を鋭く濃くさせる。人の心さえも輪郭が浮き出るほどに頭上の月は煌々と輝いている」
ゆっくり顔を上げ和田はこうも言った。
「二十四時間営業のコンビニは現代の世の中にいくらでも存在はするが、明るすぎるとは思わないかね。店内の照明が異常なほどに明るいだろう、そんなものが存在しない辺境の地に夜の明かりと言えば頭上に輝く月光だけなんだよ」
「でも街灯くらいはあるでしょ?」
黒子が首を傾げながらそう言った。
「黒子は田舎町を舐め切っているようだな。あちらは暗いぞ、真っ暗闇だ、全てを覆い尽くす闇が田舎町には存在しているのさ」
「さっきから先生はさも田舎町を知ってる風な口ぶりで話してるけど、田舎の町を知ってるの? 憶測で話しているだけ?」
「僕は田舎町の出身なのさ、都会育ちに見えるだろうが限界集落の秘境の奥地の出身だ、あの闇夜を日常的に知っている人間は日本という国においては数少ないだろうね。際限なく闇夜が延々に続くんだよ、朝陽が昇るまでに動植物は寝静まり人間も寝静まる、あんな暗闇で何もできるはずがない、人は夜になると寝る生き物なんだよ」
紙コップの水を一口飲む和田。喉の渇きを潤す。
「先生が田舎町出身とはなんだか意外だったな、シティーボーイの匂いが仄かにしたもので、反対に私は都会育ちです」
「都内のどのあたりかな?」
「世田谷区です」
唇を真一文字に閉じた和田は静かに天井を仰ぎ見た。
「東京育ちの君にいいことを教えてあげよう。純粋な東京出身の人間は意外と少ない、地方からの上京民で都内は群れをなしている。純粋な東京出身という時点で他人よりも一歩先を抜きん出ているということをもっと君は自覚した方がいい、東京という都市は田舎者の集まりで出来上がっている巨大な都市なんだ」
鼻を啜る和田。
「人工的な濁った光の存在しないそんな田舎町。そんな町で僕は生まれ育った」
遠くを見るような寝ぼけた目元で和田は言った。
「地獄のような日々さ、田舎特有の陰湿さを侮ってはいけない、こんな僕の特性はやはり好奇に映っていたのだろう、ずっと昔、幼い頃から僕の頭は揺れ続けていたからね」
話している間も微かに微動している和田の頭部。
「光の当たらない箇所に物の像は現れはしない、しかし光の存在しない限界集落に僕の頭の揺れという像は小さな残像を残しながら微動し続けたんだ」
「先生が好奇の目で見られるのも仕方がないよ、だって絶対におかしいもん」
黒子の言い放った言葉に苦い顔をする和田。
「なあ、もし黒子が幼い頃にこのような頭の揺れる男の子が同級生にいたとして、黒子ならどう接していた? 優しく接していたと自身で思うか?」
斜め横を向いて考えてる黒子。小さく微笑むだけで何も答えようとはしない。
徐々に気まずそうな表情に変わり、目の前の和田を一目見ようともしない。少女の仕草は大変残酷に映った。
咳払いをする黒子。
「ねえ先生、おかしいものにおかしいと思っちゃいけないの? 空気を読んで他人との距離感を大切にするこの日本という島国。臭いモノには蓋をする、おかしいものにおかしいと言えないそんな世の中、それは偽りの世界とは言えない? 常日頃から頭が揺れるなんておかしなことなのよ」
目を細める和田。
「オブラートに包まない君のその発言力にはいつも驚かされる、この日本という国で正直に生きる君の姿が非常に清々しく映るよ」
「褒めても何も出ないわよ先生」
「対価を求めて言った発言ではない、そのままの意味に捉えてもらって構わない、歳下女性から施しをうけるほど僕は生活には困ってはいない」
笑っているのか笑っていないのか微妙な表情をする黒子。歪んだ唇が彼女の本心を表していた。
「本気で捉えないでよと心の中で思っているのだろう、黒子の心情が僕には透明なガラスケースの中に入った霧がかったモヤモヤに見えるよ、形を成形することのない白いモヤモヤ」
「ねえ先生電車の時間」
腕時計を確認する和田。
「おおもうこんな時間か、急がねば」
キャリーバッグを引き、急いでファストフード店を後にする和田と黒子。
早歩きで電車ホームを目指す途中で、黒子を見上げながら和田が言った。
「在来線で一時間以上かかる秘境の地へと僕らは今から赴く。引き返すように僕は黒子の腕を決して掴まない、進行方向は同じ方向を向いている、互いの目線が同じ方向を向き歩みを進めている光景だ」
キャリーバッグのガラガラ音が勢いを増す。
「田舎初体験の黒子は驚きの光景を目にすることだろう、道端を歩く人なんて皆無だぞ爺婆だけだ。車社会の究極系ともいうべき限界集落の生活、それなのに道を走る車の数が異様に少ないんだ。夜になれば辺りは暗闇に覆われ朝を待つのみ、人工的な明かりの少ない魔境とも呼ぶべき秘境は太古の生活を想わせる」
「ねえ先生急がないと! もう出発しちゃう!」
「若者は少ない町だろうな、それこそ黒子のような容姿をした女の子は皆無に近いだろう、百八十センチを越す巨人が村人にジロジロ見られる光景は容易に想像がつく。しかしね黒子、そんなに落ち込むこともないんだ、君から見た村人達もまた小人集落の住人のように好奇な姿をしているのだから」
「ねえ! 先生早く!」
間一髪乗り込んだ電車は乗車の瞬間にドアが閉まり、程良い振動と共にレールの上を出発した。
車窓からの光景はまだ地方都市のビル群を映している。ボックス席に座わった和田と黒子。互い違いに対面に座り横に流れる窓の外の光景に目を細めていた。
光のある場所から闇のある所へ――こちら側からあちら側へ。
いつの間にか空は匂い立つ鈍色へと変わっていた。
強い匂いを発する地続きの空が。形容し難い匂いの元となって上空に鎮座している光景。
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