第2話

 雪解けを迎えた四月。この田舎町にも春が訪れ大地に緑が芽吹く季節。

 この春に町の小学校は児童数の減少から合併措置が取られ、近隣の小学校に吸収される形となった。全校児童数三人の小さな子供達は隣町の小学校へとバスで通う。

 片道三十分の距離を毎日往復するスクールバス。

 男は今年の春から新しくスクールバス運転手として仕事を始めていた。彼曰く、あの匂いがもう駄目になったとの事。あんなに芳しい香りと称していたあの匂いがいつの日からか受け付けなくなったらしい。

 時刻は午後の三時半過ぎ。小学校玄関付近から元気よく男の子が飛び出してくる。

「いっちば~ん!」

 スクールバス乗車口に勢い良く駆け込んでくる男の子。短髪の似合う元気のいい男の子だった。

「隆史~危ないぞ、もう少し落ち着いて行動しろってんだ」

 堂島が男子小学生に静かに注意する。

「おっちゃんもう出発しちゃっていいよ、あいつら置いて行こう」

 スクールバス運転手はおっちゃんという愛称で皆からは呼ばれていた。

「ちょっと待ってよ、今乗るでしょ!」

 高学年らしき女の子が小学校に入学して間もない女の子を抱えてスクールバスに乗り込んできた。

「落ち着きなって沙也加ちゃん、俺っちはまだ出発する気はないからさ」

「おっちゃん、隆史になんか言ってやってよ、弟なのに私の言うこと何も聞かないのよあいつ」

 沙也加をなだめるように男は手を使ってジェスチャーをしている。隆史は椅子の上で土足で飛び跳ねており、姉である沙也加にゲンコツをお見舞いされていた。

「隆史兄ちゃん殴られてやんの~」

 ケラケラと笑う幼い女の子。スクールバス車内は賑やかさを増し、運転手一名と乗客三名を乗せたスクールバスはエンジン音を静かに響かせながら小学校をあとにした。

 長閑な田園地帯をひた走る一台のスクールバス。空からの陽光が四角い窓に反射して生徒達の顔に眩く当たる。先程まではしゃいでいた隆史はスイッチを切ったかのように大人しくなり既に寝入っていた。

 通路を挟んで両サイドに座る沙也加と幼い女の子。膝掛けに体を預けながらおしゃべりに夢中の様子だった。

「市子はさ今年から小学校だけどお友達出来た?」

「まだ話せてない人もいるよ、市子と誕生日が一緒の女の子もいたよ」

 うんうん頷き笑顔で市子の話を聞いている沙也加。小学六年生と小学一年生の仲睦まじい姿がそこにはあり、歳上の沙也加は本当の妹のように市子のことを可愛がる。

「沙也加姉ちゃんは小学一年生の時には友達いっぱい居た?」

 斜め上を眺めながら考える沙也加。

「う~ん、どうだったかな、ていうかさ私が一年生の頃は分校だったから全校生徒数五人とかなんだよね、五人全員仲良しだったし友達はいっぱい居たと言えば居たかな」

 ショートカットで丸顔の市子が経験をしていない分校での生活。知る由もない全校児童五人という少数精鋭部隊。皆が同じ教室で授業をし、皆が同じタイミングで一緒に下校する光景。

「ねえ、おっちゃんもこの町の出身なんでしょ? その頃は全校児童何人だった?」

「俺っちの頃は全校児童百人超えてたぞ、徐々に少なくなっていったんだ、町を出て都会で暮らしたがる若者も増えたし子供が増えねえのさ」

「堂島さんはこの町を出たいって思ったことないの? もっと都会で暮らしたいとか」

 乾いた笑いを浮かべて堂島は首を横に振った。

「都会は怖えぞ~、魑魅魍魎の世界だ、ありゃ人の暮らす街じゃねえよ、俺っちはこの町が好きなんだよ。綺麗な空気に緑豊な大自然、人の暖かさ、きっとお前らは大人になったらこの町を出ていくと思うけどな、後で身に染みて分かる日がくるよ、自分の居場所ってものがさ」

 後ろに座る子供達に静かに言い聞かせるように堂島は目元の力を強めた。

 市子が堂島に小さく尋ねる。

「おっちゃんって何でいつもいい匂いするの?」

「ああ私も思った、香水つけてるの?」

 奥歯を噛む男。

 生徒達からは見えない男の表情は真顔で真正面だけを見据えて。運転手は静かにこう言った。

「俺っちはお洒落さんだからさ、常に身嗜みは整えるのよ、いい匂いだろ」

 ハンドルを握る握力を強める。スクールバス車両のスピードは一瞬の加速を見せたかのように見えた。前方に車両の存在しない国道。大径のタイヤがアスファルトに吸い付くように徐々にスピードを速めていく。

 少しの加速に機敏に反応を見せる市子。僅かに顔が怯えていた。

「おっちゃんって結婚しないの? 彼女とかは?」

 呑気な沙也加は堂島にそんな質問をした。

「まだいいかなって思ってるんだよ、今年で俺っちも四十八歳の年齢だが急いで結婚してもろくな人生にはならないだろ? いずれ良い人がいれば結婚はしたいがな」

「おっちゃんは優しい人だからそのうち良い人がきっと見つかるよ、こんな女性良いなとか理想像はあるの?」

 沙也加には見えていない堂島の真顔は徐々に色濃く人形のような表情になっていき、やはり前だけを見据えて。静かに呟いた。

「良い匂いの人がいいな」

 顔を僅かに紅潮させる小学六年生の沙也加。

「大人だね~、おっちゃん大人」

 きょとんとした顔の市子が沙也加に尋ねる。

「大人の人って良い匂いの人が好きになるの?」

 堂島が渇いた笑いを発しバックミラー越しに市子の姿を見た。

「市子ちゃんにはまだ早いかもな、俺っちのフェロモンと合うフェロモンの女性がいいのよ、合致する匂いって必ずあってな、誰とも分からないその人を見つけるために今俺っちは生きているのかもしれない、生物の雄としての本能がそうさせるのよ」

「おっちゃんのその考え方カッコいい! いいね!」

 やはり真顔の男の表情。気付くはずもない沙也加と市子は堂島の香水で隠した本当の匂いを知らない。

「沙也加ちゃんも市子ちゃんも大人になればそういう匂いに気付くようになるよ、男の匂いを覚えて大人になっていくのさ」

 スクールバスは終点地に到着し、沙也加は寝ていた隆史を起こして市子の手を引きバスを降りた。

「また明日ねおっちゃん」

「おうよ、お疲れさん」

 生徒達を下ろし男一人になったスクールバス車内。静かにバスは発車した。

 運転席の堂守が静かに呟く。

「タバコはやめれた、しかしな、黄金はいまだにやめられねえ、偽りの自分を演じるのも苦しいものだな」

 苦々しい表情でやはり前方道路だけを見据えて。男はハンドルをしっかりと握りアクセルを踏み込んだ。

 雪のない国道をスクールバスはひた走る。

 春になってもこの田舎町は異様に日暮が早い。


 偽りの自分を演じ続ける堂島。汲み取り車とは別れを告げ、やはり偽りの自分を演じる。

 小綺麗な一軒のアパート。四棟が連なる田舎町に似つかわしくないスタイリッシュなデザインの建物。

 駐車場に停まった軽自動車の車内。頭をうなだれた堂島の姿があった。

 車ドアを開き動き遅く出てくる堂島。そのままアパートに歩いて行き、一階部分一室に鍵を開けて入っていく。

 広くもない玄関。真っ暗闇の奥を眼光鋭く見つめる。

 リビングへと続く短い廊下の先に扉があり、その方向を一心に見つめ続けている堂島。

 口元は真一文字に閉じ、鼻息は荒く、伸びかかった角刈り頭が異様に不気味で、微動もしない頭部に小さく丸い目元と側頭部についた小さな両耳。

 一歩をなかなか踏み出さない。玄関からのその一歩を踏み出そうとしない。怖がっている様子は微塵もない。

 靴を脱ぎようやく一歩を踏み出した堂島。埃一つ落ちていないような床を両足で一歩一歩進んでゆく。リビングへと続く扉のノブを握り静かに開けてゆく。

 月明かりが微かにカーテンの隙間から漏れた室内は、青白く影となってそこに存在しており、電気をつけなくてもそこが清潔な空間だということがよく分かる。

 室内四隅に置かれた消臭剤からの微かな石鹸の匂いが部屋を覆い、白い匂いとなってそこに存在していた。

 堂島が部屋の電気をつけた。

 モノトーンを基調としたモダンな家具類が配置されており、シングルベットの白いシーツが頭上の間接照明に反射してオレンジ色に淡く輝いていた。

 部屋の隅には巨大な観葉植物が置かれていて緑色に葉を濃く存在しており、遮光性の高い純白のカーテンが大きい二枚窓を覆っていた。

 堂島は部屋中央に配置されている黒革のソファに横になった。

 沈み込む自身の体に疲れや疲労などは微塵もなく、体の疲労など些末な問題に過ぎず、黄金に輝くあの日々を失ったことだけが事実であり、芳しい香りに自分の可能性を大きく見出し邁進していたあの日々を懐かしく思い出していた。。

 特性としての自身のフェチズム。この田舎町での偽りの人生。自分を殺して日々を生きる。

 あの日殺した若い女性を頭の中で堂島は思い出し、黄金に輝く裸体を脳裏に浮かべては堂島の股間が正直に反応し、糞尿まみれの遺体を使ってイケないことをした事実を強く思い出す。

 堂島は自身のズボンを静かに下ろした。

 壁掛け時計のカチカチという音が静かに室内に響いており、間接照明のオレンジ色が人間の影を真っ白な壁面に映している。

 徐々に動きの激しくなった影は摩訶不思議な喘ぎを呻きながら静かに果てた。

 脈打つホース。室内に匂いを解き放つ。次第に脈打つのを止めた極太のホース。

 箱ティッシュから数枚ティッシュを抜き取って堂島はホース部分を清掃する。

 静寂の室内の空間。

 堂島の腹の音がギュルルルと鳴る。

 腹をさすり戯けた表情をする堂島。

 そのまま屁をこき腹をさする仕草を止めない。また腹がギュルルルと鳴る。

 ソファからゆっくりとした動作で起き上がり堂島はトイレへと向かった。

 ズボンを下ろし便座に尻をくっつける。すね毛、もも毛、尻毛、全てが一体となって繋がっていた。

 便座に腰を下ろし俯きながら静かに呟く。

「俺の音が聞きてえか?」

 真っ黒な瞳で白目部分の面積が僅かながらにある印象の堂守の丸い眼球。瞬きの少ない少年のような瞳でまたも呟く。

「俺の糞を放り出す音を聞きてえかって聞いてんだ。俺はな、自分の黄金でも別に構わないんだぜ。別に他人の腹の中のものに興味があるわけじゃねえ、黄金でさえあれば誰のモノでも構わねえ、自分のモノでも別にかまわねえって言ってんだ」

 トイレ内頭上のライトが堂島に影を落としている。

 光の当たらない堂島の俯いた表情。誰に言うわけでもなく独り言は続いていく。

「考えてみればよ、俺はいつも黄金を抱えて生きているみたいなもんなんだぜ、腹の中にエゲツないものを抱えてるんだ、幸せなことだと思う。生きているだけで俺のフェチズムは満たされるんだ、誰にも変態なんて言わせない、俺が変態ならお前等も変態だ」

 口角が若干上がった堂島の口元。俯いた姿勢は変わらない。

「腹が痛てえ、物凄く痛えよ、俺っちは今我慢してるんだ、今すぐにでもぶっ放すことだってできるんだぜ。一種の配慮だよな、マナーってもんだ、俺は確かに聞いたよな? 音を聞きたいかどうか。首を縦に振らないお前等が俺の腹の中にある土石流を通行止めにしている、出せば楽になるはずなんだよ、腹が痛過ぎて頭が朦朧としてきたぜ」

 舌打ちをする堂島。

「俺が便器内に残った土石流をどうしようがお前等の知ったこっちゃない、人には知らないことがいいこともあるってもんだ、もう一度言うぞ、土石流をどうしようがお前等には関係ない俺の自由だ」

 便器清掃用具の横には銀色のおたまが置かれている。

「万年腹痛のこの俺が、年がら年中いつも腹痛を抱えているこの俺が、永久期間としての己の体内が、自身のフェチズムを満たしてくれる画期的な発明に思えて、涙の出る思いだ」

 トイレ隅に置いてある消臭剤からはやはり石鹸の香りがして。銀色おたまが鈍く光る。

「芳しい香りと濃厚な旨味、日によって違うテイストのそれが、日々の生活の活力を俺に与えてくれる。調理なんて邪道中の邪道だろ、素材の形をそのまま味わう、地産地消の合理的な考え方、俺が生産し俺が消費する、お天道様も優しく微笑んでくれてるはずだぜ」

 脂汗の浮き出る堂島の額から透明な汗がツーっと落ちる。まぶたでそれは止まり二股に分かれ目元に吸収されていく。

 貧乏ゆすりをし始めた堂島。細かくカタカタと揺れる靴下を履いた足元。

「痛え、凄く痛え、もう限界みたいだ、ヒクつくんだよ穴が、痛え」

 貧乏ゆすりは激しさを増し、体勢を屈めた膝を抱える格好はまるで鶏みたいな出で立ちで、足元を揺らす堂守の現在の光景。

「誰かにこの腹の痛み飛んでいかねえかな、腹の中のものは俺のもんだ、痛みだけ他人様の腹痛となって飛んでいかねえかな」

 不意にインターホンが鳴る。この家のインターホンが。

 トイレドアを見やり目元の力を強める堂島。

 もう一度インターホンが鳴り微かに人の声がする。

「関口さ~ん、お届けもので~す、いらっしゃいますか~」

 堂島宅アパートのドア付近には宅配業者が段ボール箱を抱えて立っており、玄関付近からの窓からは部屋の明かりが微かに漏れていた。

「関口さ~ん、いらっしゃいますか~」

 トイレ内の堂島は顔を顰める。貧乏ゆすりは止んでいた。

 宅配業者は段ボール箱を抱え配送車へと戻って行った。エンジンがかかる音がしその音は次第に遠ざかっていく。

 便座に座り俯いた姿勢のまま口を開く堂島。

「痛みは止まない、俺の腹の痛みは止みそうもない、堰き止められたダムの向こう側、泥水が湖面を覆うようになみなみと存在していて俺の腸内を重く痛めつける。決壊は間近だ、俺自身の意思決定で泥水はいつでも排出できる」

 再び貧乏ゆすりを開始する堂島。

「泥水はろ過されずに再びダムの向こう側へと戻る運命にある、この俺のフェチズムは異常か? 誰が異常と決めるのか? 誰にも指図されたくはない、泥水を啜って生きるこの俺の生き様を勇猛果敢な生き様をしかと見届けておいて欲しい」

 ――腹に力を込める堂島。

 静寂の空間に響き渡るあられもない破裂音。擬音として形容するならばマヨネーズの最後の噴射。その連続音がトイレ内を一瞬で支配し、腹の中のもの全てを吐き出した。

 後ろを見やり銀色のおたまを手にする堂島。

 阿鼻叫喚のこの世のものではない光景。地獄という概念がもしもこの世に存在するならばまさに今がその時。描写できそうもない光景に人々は口をあんぐりと開き目をひん剥く。レベル違いのフェチズムに神々しい何かを感じさえもする。

 泥水で口元を汚した堂島がトイレ室内から出てくる。

 文字通り啜ったであろう口元がいびつに歪み笑顔というこの場に似つかわしくないものを提供する。血管が浮き出た額が悪鬼を連想させ、黒目がちの小さな瞳を有する頭部が無機質の塊に思えて、感情の存在し得ない禍々しい何かがそこには確かに存在し、ペロリと長い舌を突き出す魑魅魍魎の類。

 台所で口元をゆすぐ堂島、リビングへと戻り先程まで座っていた黒皮のソファに腰掛ける。無臭のリビング室内で目元をパチクリさせる。


 翌日の朝八時。

 早朝のスクールバス内の光景はいつも通りの小学生三人と運転手を合わせた計四名。

 はしゃぐ子供達の騒がしい声が前方運転席の男の耳に甲高く聞こえ続ける。変わらずにハンドルを握りアクセルを踏む。

 やはり表情のない顔で。小さな鼻と小さな目元、それ程大きくもない口元に整えられていない髭。角刈りの伸びた頭部が奇妙な髪型で、四角と言うよりもハチ張った逆三角形のような形だった。

「おっちゃん、隆史に今度野球教えてやってよ、あいつ小学四年生なのに今までキャッチボールする相手がいなかったからキャッチボールのやり方が分かんないだって」

「そう言いながら姉ちゃんも野球知らないだろ、ねえおっちゃん、おっちゃんは野球上手かった?」

 真正面を向いたまま答える男。

「俺っちはさ運動神経全くないんだよ、キャッチボールなんて数えるくらいしかしたことないな。そもそも球技が俺っち苦手なのね、玉っころを使うスポーツに意味を見いだせない男なのさ。人間なら走って競えばいいだろ、何で玉っころで勝負しようとするんだ?」

「おっちゃん、キャッチボールは勝負じゃないよ、キャッチボールが競技なのかも僕には分からないけど。でも意外だな堂守さん運動神経良さそうに見えるよ」

「俺っちは走ることは得意なのさ、誰にも負けないと自信を持って言えるよ、短距離走の方な、長距離走はありゃ駄目だ眠くなって敵わない」

 その話を聞いている顔色の悪い小学一年生の市子。

「市子何か具合悪そう、ねえ大丈夫? どうした?」

 俯く姿勢を見せる市子。小さな声でこう言った。

「お腹痛い」

 心配そうに見守る沙也加を尻目に隆史は堂島とスポーツ談義に夢中のようだった。

「ねえおっちゃん、市子お腹痛いって」

 バックミラー越しに市子の姿を確認する男。歪な形の唇を隠すように真顔を装う。

「市子ちゃんここら辺はトイレないぞ、学校まで我慢できるか?」

 何も答えない市子。

「おっちゃんどうしよう、市子苦しそう」

「いざとなったら道端でするしかないな、可哀想だけど本当にここいら一帯はトイレはおろか民家さえもない」

「学校に向かうのと引き返すのとどっちが早いの? もう無理そうだよこの子」

「今はちょうど中間ら辺ってところだな、戻っても学校に向かっても結局は一緒だろうな」

 先程までおちゃらけていた隆史も事態の深刻さを把握したのか押し黙っている。

「沙也加姉ちゃんお腹痛い……もう無理みたい」

「路肩に停車するぞ、沙也加ついて行ってあげろ、木の陰で用を足すしか方法がない、ティッシュペーパー持ってけ」

 箱ティッシュを沙也加に手渡す堂島。

「あとコンビニ袋も持ってけ、使ったティッシュをそれに入れてくるんだ、後始末は自分達でしないとな、自然を破壊することになる」

 停車したスクールバスのドアが開き、市子の手を引いて沙也加は外に向かった。

「ねえ、市子大丈夫かな?」

 隆史が弱気な声を出す。

「なあに田舎暮らしなら外で用を足すのなんてつきものだ、ここはコンビニにトイレがあるような便利な都会じゃないんでな、正真正銘の田舎なんだよ」

 ハザードランプを焚きながら路肩に停まり続けるスクールバス。

 後部座席に座る隆史が不安げな顔で窓の外を見つめる。ここでもやはり男はフロントガラス越しの真正面を見据えたままで首を横には動かさない。鼻から上の目元表情は感情のない生き物のようで、対照的に鼻から下の表情は微かにニヤついていた。

「隆史、あんまり窓の外をジロジロと見るな、市子だって女の子だ」

 咄嗟に俯き窓から視線を外す隆史。

 朝の陽の光がスクールバスを静かに照らしており、車内に残る二人はどちらも喋ることを止め静寂の空間が見事に出来上がっていた。

 スマホを取り出す男。画面を操作し耳に当てる。

「おはようございます、生徒の一人がトイレを催しまして、ええ、はい、学校への到着が少し遅れますので、はい、ええ、失礼します」

 スマホ画面の切電ボタンを押す男。ふと座席後ろを振り返り隆史のことを見やる。

「そんなに心配するんじゃねえ、隆史が心配しても何も変わりはしない、この事態の当事者は市子なんだ、もうそろそろ帰ってくる頃だろうよ」

 茂みの向こうから沙也加と市子が手を繋いでやってきた。沙也加は左手に口を縛ったコンビニ袋を持っていた。

 スクールバスに静かに乗り込む沙也加と市子。男はおもむろに沙也加に右手を差し出した。

「俺が捨てといてやる、貸せ」

 戸惑いの表情を浮かべながらも沙也加は男にコンビニ袋を手渡した。

 もう先程までの苦しい表情ではない市子は、晴れやかな気持ちのいい表情をしており大人しく座席に座った。反対に沙也加は浮かない表情で青い顔をしていた。

「さあ出発するぞ、もう一時間目の授業が始まっている時間だ」

 ギアをドライブに入れアクセルを踏み込む。車体がゆっくりと動き出し乗客三名と運転手一名を乗せたスクールバスはあと数キロの距離にある学校を目指す。

 軽快にドライブを続けていく中、男はバックミラー越しに沙也加のうずくまった姿を確認した。

 隆史が沙也加に声をかける。

「姉ちゃんどうしたの? 気分悪いの?」

 何も答えようとしない沙也加。

「沙也加姉ちゃんどうしたの?」

 市子も沙也加に声を掛けるがやはり答えよとはしない。

 バックミラー越しに再度沙也加の姿を確認する男。ジトッとした目元で粘りつくように沙也加の俯く姿を確認する。

「沙也加、どうかしたか、具合悪いか?」

 何も答えようとしない沙也加。

 ――次の瞬間。

 轟音が轟き濁点のついた破裂音が車内に響き渡る。紛れもない人糞であろう饐えた匂いが辺り一面にブワッと広がる。沙也加が座る座席が汁で汚れ床に垂れ落ちる。

 隆史と市子は口を開けて驚いており、いまだに俯いた姿勢を崩さない沙也加の目元からは涙がこぼれ落ちていた。

 悲しくて泣いているんじゃない。愚かすぎて。糞を漏らした自分が愚かすぎて。と、心の中で思っているのかもしれない。

 やがて声を荒げて泣き始めた沙也加。おろおろするしかない隆史と市子。

 スクールバスは速度を落とし路肩に一旦停車した。

 バックにギアを入れ車両をUターンさせていく。細長い車両はゆっくりと反対車線に入り込み男はギアチェンジしドライブにを入れる。

 無言のまま男はアクセルを踏み込んだ。

 学校への方向ではなく自分達の自宅への方向へとバスは走っていく。何が何やら理解していない様子の隆史と市子、不安げな表情をしていた。

 異様なバス車内の中で男が静かに口を開いた。

「いいか、今日のことは皆んな忘れろ、記憶から抹消しろ、今日という日を抹消しろ、一年三六五日、しかし俺らは一年三六四日なんだよ。一日少ないくらいで人生は大きく変わりはしない、今日という日はなかった、明日になれば明日が訪れる、約束だぞ皆んな忘れるんだ」

 その言葉を聞いて沙也加が小さく嗚咽を漏らした。

 肩を震わせ泣くことしかできない小学六年生。現在進行形でシートに染み込んでいく汚水。確かな匂いとなってそこに存在している人の生み出したもの。

 隆史も市子も俯くことしかできない。バス運転手に至っては変わらず真正面の国道を見つめ続けている。緩んだ口元を何とか閉じ、歪んだ表情に様変わりする様を後ろに悟られまいとバックミラーから静かに顔を逸らす。

 山道しか続かない長閑な風景。一面山に囲まれた緑豊かな大自然。子供達は健康な心をこの大自然で育んでゆく。都会にはない美味しい空気に澄んだ川の水、動植物が群れをなしており、やはり都会では到底味わうことの出来ないこの田舎での暮らし。

 汚れのない心を持つ大人に育ってほしい。この大自然という故郷を嫌いにならないでほしい。都会という名の便利な暮らしにきっと意味などはない。公衆トイレがそこら中にあるだけで何も意味を成さない。

 スクールバスは家路を急ぐ。

 健やかなる健康。

 ――子供達は健康な心をこの大自然で育んでゆく。

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