第2話 殿は忍者とも仲良しだもの
「しっかしなんだって俺が狙われるんだよなぁ」
朝の光を反射させる川辺で殿は顔を洗っていた。
「ただ気ままにのんびり世の中を見て回りたいだけだってのによ」
「そうですよねぇ。天下泰平の世において殿なんかただのちょび髭、
「誰が変髷だ」
「すみません。変髷ではなく…」
ざんばら髪を縛り上げ朱紐で括った殿の髷を、孤丁は羽扇で指した。
「
「気に入ってんだよ」
「それはそうと殿、昨日の兵の正体を探ってみましょうか」
「どうやって」
「
孤丁はゆらりと立ち上がると、殿の
「痛っ!」
眉を顰める殿の横で、孤丁は霧がかかる川上に向かい、殿の髪に息を吹きかける。
「え、それで来るんか?」
霧の先に目を凝らす殿の横で、孤丁は袍の袖から笛を取り出して吹いた。ピヒュイという音と共に、殿の真後ろに紺の衣に身を包んだ男が現れた。
「お呼びですか」
「うわびっくりした!」
真後ろからの急な囁きに、殿は川に身を突っ込んだ。黒布で顔を半分隠した銀髪の男は、川に突っ込んだ殿を見て手を口元に当てた。
「ぷくくくくくく。お久しぶりっすね殿」
「おい
「あと孤丁、俺の髪をぱってやったのなんだったんだよ!笛で来るんじゃねぇか」
「ああいやいや。俺は殿の髷の匂いを辿ってきたんすよ?」
「え?本当に」
「嘘っす」
「嘘かい!」
川の水を蹴り上げる殿に、捻と孤丁は寄り添って口元を押さえた。
「んで?捻よ、俺昨日足軽兵に襲われたんだけど、それについて何か知ってるか」
「ええ、なんでも殿のことを、あの軍神「
「えええ?」
殿は顎をがっくりと開いた。
「あの一騎当千の大軍神、
「はい。馬上で大槍を振るい髪が返り血で赤く染まったといわれる軍神鬼染っす」
「まぁ、身の丈六尺、寝所に奇襲をかけても髪に巻いた紐だけで百人屠ったというあの軍神鬼染ですか?」
「ええ。通った後には塵も残さぬ戦国乱世の超武神鬼染が、殿を探してるっす」
「…なんで?」
顎を開いたままの殿に、捻は深碧の瞳を歪めてほほ笑んだ。
「さてね。あ、ところでちょっと話変わるんっすけど」
「なんだ?」
「最近俺好きな子ができまして」
「だいぶ話変わったな!」
「いやー。めちゃくちゃ可愛い子なんすけど、ちょっと金のかかる子でね。それで俺、殿裏切ることにしたんすよ」
「は?」
捻は瞼を閉じてにこっと笑う。
「今俺、鬼染の配下なんです」
「はああああああ?」
口をぽっかり開ける殿を尻目に捻はヒラリと舞い上がり、木の上で小鈴を鳴らした。リーンと響く音と共に、森の木々の隙間に顔を隠した忍者衆、川上の霧の中から小舟に乗った足軽兵が現れた。
「殿ー!森は鬼染軍が包囲してるっすー。もう逃げ場はないっすよー」
木の上から飄々と声を発する捻に、殿は深く息をついた。
「おいおいおい…」
羽扇で顔を隠しながら辺りを窺い、孤丁は殿の真横についた。
「どうします?殿」
「…決まってるだろ【逃げる】だ」
八重歯を見せる殿に孤丁は口の端を緩める。
「仰せのままに」
孤丁は羽扇で捻を指した。
「此度の策は三つ。
「…全部逃げるってことじゃないっすか」
「甘いですね、捻」
孤丁は川の中に膝をついた。
「殿、ご命令を」
「ああ。よし、撤退じゃ!」
胸を張った殿に捻はふと息をはいた。
「いや、そんな宣言されても、逃さないっすよ」
孤丁は立ち上がり、羽扇を指す。
「殿!「逸走」です」
「どういう意味だ?」
「走って逃げる、です」
「よしきた任せろ!」
殿は孤丁を抱え羽扇の指す川下に向かって走り出した。
捻は一瞬目を開いて、川の中をざぶざぶと走る殿の背中を見ていたが、ブンと頭を振った。
「殿逃走!忍者衆は森を進み殿の進行方向を捉え、足軽衆はそのまま川下へ向かって!挟み撃ちっす」
木々の間を忍者が跳び、川上の足軽衆は小舟を降り、横に隊列を組んで殿を追った。
「殿!ここで奔逸です」
川を走る殿に孤丁が発した。
「どういう意味だ?」
「すっごく速く走って逃げる、です」
「任せとけぇ!」
殿は走った。川の中にある大きな石の上を瞬時に選び抜いて走る。まるで水上を走っているかのように圧倒的な速さで川を下っていく。
「追え!追うっす」
捻の声よりも速く走る殿は、孤丁の握る羽扇の先が微妙に変化してきていることに気づいた。
「…どこいったっすか?」
捻は辺りを見回した。川から森に入り、森からまた川に入ったりと、何度も方向を変えながら走る殿をついに見失っていた。
「仕方ない、こうなったら一旦森の外の鬼染軍に連絡して、しらみつぶしに捜索っす」
捻の命令に忍者衆と足軽軍は森の外へ向かった。
濃霧の中、武具をのせた一艘の小舟が川下へと向かっていた。
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