殿は、超戦略的⭐︎撤退中!

山下若菜

第1話 殿の選択肢はいつも一つ!

「天下泰平の世になったなら、共に世の中を見て回ろうぞ」


桜吹雪く川の畔で約束をした。指に紐を結んでやると、夕焼けよりももっと朱い頬をした。



「殿!殿!いつまで寝てるんですか!」

ばしばしと両頬を叩かれ、殿は目を覚ました。

「お、孤丁コチョウどした?もう朝か?」

「殿、起きてください殿!」

「いや、起きた、起きた!」

「起きてください殿!」

「起きてる!会話してる!」

「お目覚めください殿!」

「言い方関係ない!」

「殿!」

「だから起きとるわー!」

両頬がパンパンに腫れた殿は紫のほうを着た男、孤丁コチョウの肩を押して突き飛ばした。

「ああ殿、起きましたか。殿の頬を叩くのが楽しくて気付きませんでした」

「楽しかったんかい!途中からずっと目が合ってたから変だと思ったわ!」

「しかし殿、世の中楽しいことばかりではありません」

大仰に肩を落とす孤丁に、殿は両頬をおさえて視線を送った。

「いや、既に俺は楽しくはないけどな」

「見てください」

畳から羽扇うせんを拾い上げ、孤丁は窓の外を指した。

「敵兵に囲まれております」

「えええええ!」

茶屋の二階で殿は身を跳ねさせた。孤丁の指す先を覗くと、足軽のような風体の兵が階下から弓を放った。

「危ねぇ!」

茶屋の桟に矢が突き刺さる。

「一体どういうことだ孤丁」

殿は一足飛びに孤丁の元へと向かった。

「何故兵に囲まれておる!?この【天下泰平の世】に!」

羽扇で緩やかに仰ぎながら、孤丁は黄金の瞳を三日月に歪めた。

「…殿」

「なんだ」

「…それは」

「…なんだっ」

「わかりません」

足を滑らせ畳に手をついた殿に、孤丁はゆったりとうなづいた。

「戦乱の世が終わって幾星霜。小さな町の茶屋が足軽兵に囲まれるなど、全くもって奇々怪々」

「まあ確かにその通りだな」

「殿、いかが致しますか?」

「あ?」

頭をかかえる殿に孤丁はゆるりと羽扇を指す。

「戦乱の世では鬼をも屠ると謳われた殿です。数十の足軽などまばたきする間に黄泉送り」

「何言ってんだ。俺の選択肢は一個しかないだろ」

殿は白い八重歯を光らせた。

「【逃げる】んだよ」

その笑みに孤丁はますます瞳を細くした。

「さすが殿。躊躇ためらいがございませんね」

「うるせぇいいだろ。俺はもう誰とも争わん。三十六計逃げるに如かずだ」

「そうですね。では殿」

「あ?」

孤丁はゆるりと立ち上がった。

「見事茶屋から逃げるため、私が策を授けます」

「おお頼むぜ」

どっかりと座った殿に、孤丁は羽扇を掲げた。

「此度の策は三つです。好きなものをお選びください」

「三つもあるのか」

「ええ」

「どんな策だ」

「ずらかる、かわす、かいくぐる」

「いや一緒!全部一緒!全部「逃げる」って意味の言葉!」

「おやおや」

孤丁は大仰に肩をすくめた。

「三十六計逃げるに如かず、逃げるは最上の戦略。つまり三十六個の逃げ方がある」

「はぁ?」

「わかりましたか?ちょび髭」

「誰がちょび髭だ!」

その時、階下のざわめきがひときわ大きくなった。

「なんだ?」

「兵の目的は二階にいる客の誰かでしょう。茶屋の主人が食い止めていますが、それもいつまでもつかわかりません」

「なるほどな」

「殿、ご命令を」

「え?」

ふと見ると、孤丁は膝をつき頭を下げていた。

「ご命令を」

「ああ。…よし、撤退じゃ!」

殿の発声に孤丁はうなづき、羽扇で外を指した。

「では殿、まずは「ずらかって」ください」

「ええ?」

「ほら、その髭撫でて、小悪党のように、うっひっひって言いながら、窓からずらかって」

「なんでだよ」

「これまで一度でも、私の策に間違いがありましたか?」

「そりゃないけど」

「では参りましょう殿」

「わかったよ」

殿は頭をポリポリと掻き、茶屋の窓の桟に足をかけた。

「うーっひっひっひ!こいつぁ大きな騒ぎになりやがった!捕まる前にずらかるとするぜぇ!」

髭を撫でて仰々しく手を上げた殿は、小脇に孤丁を抱え窓から飛び出した。

「いやぁ〜お助けぇ〜」

抱え上げられた孤丁は甲高い声を絞る。

「ちぃ、騒ぐんじゃねぇよ」

「あ〜れ〜」

大騒ぎしながら呆気に取られる足軽兵の隙間を走り抜ける。

足軽兵が人相書きのようなものを確認している間に、殿は一足飛びに細い道に入り込む。

「あ、あいつだ!あいつを追え!」

茶屋の主人に詰め寄っていた大将のような男がそう発した時には、殿と孤丁の姿は見えなくなっていた。


「お見事です殿、小悪党が板に付いてらっしゃる」

「うるせぇ褒めてねえだろ」

路地を何度も曲がりくねった殿と孤丁は長屋の奥に身を潜めていた。

「しかし、狙いは殿だったみたいですねぇ」

時折チラチラとした灯りが側を通り過ぎる。兵は未だ殿を探しているようだった。

「食い逃げでもしたんですか?」

「そんなわんぱくじゃねぇよ」

「殿も寄る年波にはかないませんか」

「わんぱくだわ!米三杯はお代わりする未だ現役わんぱくだわ」

「それはともかく」

孤丁は羽扇で路地の先を差した。

「殿が「ずらかった」ことにより、敵を茶屋から引き上げさせること、戦力を分断させることに成功しました」

「ああ」

「次は一気にいきます。「かわす」と「かいくぐる」です」

「未だ同じことのように思えるんだがなぁ」

「殿は阿呆ですからね、仕方ありません」

「誰が阿呆だ」

「おや、聞こえていましたか」

「しっかりした発声だったよ!」

「まぁよいではありませんか」

孤丁は顔を傾けた。長い艶髪がゆらりと揺れる。

「私が隣にいるのですから」

「随分な自信家だ」

「お気に召しませんか」

「いや、俺の臣下はそのぐらい太いやつじゃねぇとな」

殿はふと笑った。

「今はもう友達か」

口の端を緩める殿の背を、孤丁は羽扇で叩いた。

「行きますよ。逃げるしか選択肢のない殿にとって、闇は大きな味方なんですから」

「おう、んじゃいくか」

長屋の陰から路地に出た。少し先に幾つかの提灯灯がゆらめいている。

「それじゃあ殿「かわして」ください」

「任せとけ!」

小脇に孤丁を抱え、瞬足で提灯灯に突入していく。風のような殿に気付いた足軽兵が刀を抜いたが、風は通り抜けた後だった。


町灯りは遠くなり、一つ二つの提灯灯りに追われる中、殿と孤丁の前に沢山の木々が現れた。

「殿「かいくぐって」ください」

「あいよ!」

暗闇の森を殿は瞬足で駆ける。複雑に折り重なる木々の隙間を掻い潜る。

提灯灯は木々にぶつかり、一つまたひとつと消えていった。

町明かりも提灯灯も見えなくなったところで、殿に抱えられる孤丁は柔らかに羽扇で顔を仰いだ。

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