第15話 エピローグ 夢の続き &あとがき

エピローグ 夢のつづき




「――ね」

 

 しばらく二人は抱き合ったまま無言だったが、やがて真理子が小さな声で言った。

 ん?と涼平が反応する声が、涼平の喉を振動させるのが伝わってくる。


「ありがと。来てくれて。遠いのに。

 あと、最後の宿直のときに、祐輔に会わせてくれたことも。嬉しかった」

 

 涼平は真理子の体を離すと、頭を撫でた。


「……正直、しつこすぎるんじゃないか俺、って思ったけどね。

 真理子が迷惑そうだったら、すごすごと引き返そうって言い聞かせながら来た」

 

 その率直な返事に、真理子は思わず笑いを漏らす。涼平は続けた。


「俺、ずっと真理子は祐輔さんとうまくいってるって思い込んでたんだよ。

 IDカード返してもらうときに、すごいお礼言われたし、元に戻れたんだって思ってた。

 ……でもこないだ、祐輔さんが連絡くれて、真理子は元気?って聞かれて……驚いた」

 

 


 話を聞きたいという涼平の要望を快く受け入れて、久しぶりだし一杯やろうか?と待ち合わせしたその店に颯爽と現れた祐輔は、いつものように穏やかな笑顔を顔に浮かべて涼平に手をあげてみせた。

 注文を済ませて、運ばれてきたビールで乾杯すると、いきなり祐輔は涼平の顔を覗き込み、こう言った。


「別れたんだよ?俺ら」

「……」


 驚きのあまり言葉が出ない涼平を見ると、少し笑って、――やっぱり知らなかったか。と祐輔は言った。

「真理子も松下くんに言うって言ってたんだけどね。

 ……でも何となく気になってメール送ってみたの。余計なお世話かなとも思ったんだけど。気を悪くしてたらごめんな」

 涼平は慌てて手を振る。


「いや、とんでもないです。こちらこそわざわざ来てもらっちゃって……すみません。

 ――ただ、ちょっとよくわからなくて。俺は真理子とは全く連絡とってないんで……前にも話しましたけど、マンションの前で話してからは全然。だからびっくりして」


 祐輔から突然送られてきたメールは、軽く近況に触れたあと突然、――ところで真理子は元気なのかな?連絡とってるよね?と続き、また暇なときにでも近況を教えてください。と結んであった。祐輔の真意は全くわからないし、かといって簡単な近況報告のメールとして片付けるには文章が奇妙すぎた。

 運ばれてきた料理に箸をつけながら、祐輔は言った。


「もうすっぱり別れたよ。真理子のオフィスに行ったときに話をして。

 ……というか、俺が振られたんだけどな」

「振られた?」

「そう。理由は真理子から直接聞いたほうがいいよ」


 その、涼平のほうをちらっと見た、祐輔の面白そうな目付きを見て、あとこの話の流れからして、涼平は何となく、祐輔が振られた理由というのに思い当たった気がした。

 まさか……自分のせい?

 晴天の霹靂だった。――とても口に出して祐輔に確かめることなどできなかったが。

 涼平が何も言えず、黙っていると、祐輔は少し真面目な口調になってぼそりと言った。


「何となくそうじゃないかとは思ってたけど、やっぱあいつ、一人で全部抱え込んでるんだな。

 ――昔からああいう奴なんだよ」


 昔から、という単語が涼平の胸を打った。

 祐輔は、涼平よりもずっと前から真理子のことを知っていて、真理子と一緒にいたのだ。

 隣に座って料理を食べている祐輔は、いつものように品のいいシャツとスーツを着こなし、その腕からちらりと見える時計とか、箸を持つ手さばきとか、いつものように一寸の隙もなく、大人の男という雰囲気を醸しだしている。端正な顔にはいつも穏やかな笑顔が浮かんでいて、……この人にはかなわないとずっと思っていた。かなわなくていいと思っていたのに。

 真理子はもしかして、まさか自分を選ぶと祐輔に言ったのか?

 ――でも、それならばなぜ真理子はあの日、マンションの前で、散々に自分を拒絶したのだろう。もう顔を見たくないとまで言われた。 

 わからなかった。

 

 涼平は、今こうして祐輔と肩を並べている状態に、ひどく居心地の悪さを感じていた。……自分の予想が正しければ、祐輔にとって自分は、自分の彼女を寝取った泥棒のようなものではないのか?

 別に取った憶えもないんだけどな……と涼平は内心溜息をつく。……むしろ振られたし。

 どうして真理子は、勝手に遠いところに行ってしまった後も、こうやっていろんなところから存在を現して、自分を巻き込んで、縛り付けるのだろう。全く真意のつかめないその言動で。……身動きがとれないではないか。

 祐輔は涼平の箸が全く進んでいないのを見て取ると、食べて食べて、と促してから、……でもね、と口を切った。


「でも、松下くんにはあいつ、自分の気持ちをぶつけられたんだと思う。それはすごくあいつにとっては重要なことだったんだと思うよ。

 俺じゃ役不足だったんだろうな。一人で抱え込みやすい性質だってことはわかってたけど、真理子がそれを吐き出す相手を必要としていたことまでは気付かなかった」


 促されるまま食べ物に箸をつけながら、……そうなのだろうか、と思いを巡らす。

 真理子は自分と会っていたとき、しょっちゅう泣いたり、怒ったり笑ったり忙しかったような気がする。そのことを言っているのか?

 ――真理子に気持ちをぶつけてしまっていたのは、自分のほうだ。

 ぶつけてしまうたびに後悔した。でも真理子の前に立つと、駄目だと思いながらブレーキが効かない。いつも。……そんな自分が嫌で、空回りする自分が辛くて、真理子から離れようと無駄な努力をしていたのに。

 真理子も同じだったというのか?そしてそれは真理子にとって必要なものだったのか。


「――おっと、もうこんな時間だ。ちょっと約束あるから行くな。ごめんな、ばたばたして」


 時計をちらっと見て、祐輔は帰り支度を始めた。もう料理は殆どなくなっていたし、いい潮時なので涼平も一緒に席を立つ。

 店を出て、じゃ俺こっちだから、と立ち止まった祐輔に、涼平は遠慮がちに声をかけた。


「祐輔さん、あの。――いろいろありがとうございました。

 俺も、その……考えてみます。いろいろ」


 祐輔は楽しそうに笑った。


「考えてる場合じゃないだろ!

 ……会いに行けよ」

 

 笑いながら、涼平の肩を横から軽く叩く。

 ますます沈鬱な表情の涼平を見て、その心中をある程度察しているのだろう、祐輔はまだ笑いながら、――なんてな、ともう一度涼平の肩をぽんと叩き、体の向きを変えた。手をひらひらと振る。


「真理子を頼んだよ。またな」

 

 


 涼平は少し言葉を切ってから、続けた。


「――しかもちょうどそのときに、あの警備員から呼び出されてさ。

 向こうは、俺が全部知ってると思ってたみたいだけど。晴天の霹靂とはあのことだよ。

 俺、真理子のこと全然知らなかったんだなって思いしらされた」

 

 真理子の身に起こったことを知った瞬間、涼平はその警備員の、目深に被った帽子にほとんど隠された暗い眼を見、目の前の男を殺してやりたいほどの憎しみに駆られた。

 ……おまえ、真理子に何をしたんだ?

 掴みかかりたい衝動をやっとのことで抑える。どうしたら、どうしたらこの男に最も効果的に復讐ができるだろう。涼平は必死になって冷静に考えを巡らせた。

 ――同時に、事がすべて片付いたら福岡へ行こう、と涼平は決めていた。

 真理子には拒まれてしまうかもしれない。また拒絶の言葉を浴びせられるのは、考えるだけでも苦しかった。

 ……しかし、このまま真理子と離れてしまうことのほうが、ずっとずっと苦しい。


 言葉少なに語る涼平の声を聞きながら、真理子はやっぱりか……と思っていた。 

 やはり祐輔には見抜かれていた。真理子が涼平に何も告げず、福岡に行くつもりだったのを。

 あのときの言葉は、最後についた一世一代の嘘のつもりだったけれど、真理子の努力も虚しく、あっさり見破られてしまったらしい。……祐輔は自分のことをほんとにわかってくれていたんだなと思う。

 自分の、涼平を求める気持ちも。それで涼平をここまで連れてきてくれた。

 ――また、祐輔にメールを送ろう。謝罪と、改めてありがとうの気持ちを伝えるために。

 

 実菜子にも。

 もしかしたら、また二人でバカな話をして笑い会える日が来るかもしれない。そんな日が来て欲しい。

 その願いは、切ないくらい真理子の胸を締め付けていた。今まで、伝えたい伝えたいと思いながら、胸が詰まって一行も書けなかった実菜子への思いを、今なら書けるかもしれないと思った。


「――祐輔さんの懐の深さに惚れ直しちゃったとか?」


 黙りこんだ真理子に、ふと涼平は疑い深げに言った。でもその口調は半分笑っている。

 真理子も違うわよ!と笑いながら、――でも忘れないだろう、と思っていた。

 祐輔へのこの愛情は、おそらくもう自分の一部になって、消えることはないだろう。

 それは、涼平への気持ちとはまた別の次元のものだ。誰でも、たぶん涼平も。愛した相手の数だけ、ロウソクの明かりのような、小さいけれど消えないぬくもりを心の奥にそっと灯し続けているのだと思う。


 真理子はまた涼平の背中に手をまわした。涼平もぎゅっと真理子を抱き返す。

 こんなふうに涼平と抱き合うことは、もうほとんど真理子の夢の一つだった。決して叶うことのない、叶えることのない、夢。

 それが叶ってしまった今、どれだけ自分がこのことを強く夢見ていたのかに気付いて……改めてはっとする。涼平の腕のぬくもりに、何だか泣きそうになってしまう。

 

 けれど、全ての夢には続きがある。

 ……そして大抵の場合、続きのほうがずっと長い。

 

 これから、涼平と過ごす時間にはたくさんのことがあるだろう。楽しいことだけでなく、辛いことも、苦しいことも。

 でも、今この瞬間の、夢が叶ったときの気持ち。自分が押し流されてしまいそうな幸福。体を通して伝わってくる涼平の感触。

 この気持ちだけで、きっと何でも乗り越えられる。後悔なんてしない。……真理子は強く思った。


「――おなかすいた」 

 涼平が真理子を離してぼそっと言い、真理子はその子供っぽい口調に笑いそうになりながら、はいはい。と答えた。


「なにか食べよっか。大したものはないけど」


 ん、と涼平は頷きながら、真理子の耳元で囁く。


「食べたら、もう一回ね」


 ――もう!と真理子はべしっと涼平の肩のあたりを叩いた。

 いてえ、と笑う涼平の唇にもう一度キスをしてから、真理子は立ち上がった。




-完-



 あとがき


「始まりは夜のオフィスで」を読んでいただき、ほんとうにありがとうございます。厚く御礼申し上げます。

 

 この物語を書き始めたそもそもの始まりは、ほんの出来心でした。ちょっとエロいの書いてみよう、会社に宿直があったりしたらエロいんじゃない?くらいの。……でも、何気なく書き出した主人公たちが、いつもいつも作者の予想を裏切って、ストーリーが思わぬ方向に発展してしまいました。

 

 真理子は作者の予想よりもずっと我儘で、いろんなものに飢えていたし、涼平は作者の予想よりもずっと、ポーカーフェイスの下に熱いものを持っていて、真理子に本気でした。この物語を書くということは、取りも直さず主人公たちと対話するということであったと思っています。

 

 その結果、こんな18禁小説にあるまじき?エロ度の低い純愛小説になってしまい、付き合ってくださった読者の皆様にはほんとうに、申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいです。もっとエロ度を削って18禁を外すことも考えたのですが、そもそものテーマに体の関係が絡んでいるし、そういう描写も隠したくないと思ってやめました。ご理解いただけたら幸いです。

 

 この物語が終わって一番寂しがっているのは、きっと作者である私自身です。もう主人公たちに会えないと思うとほんとうに寂しいですが……真理子と涼平の未来が幸多いものであるよう祈りつつ、筆をおきたいと思います。

 ありがとうございました。


 水城麻衣

  

HP版追記:

 今回、多少筆を入れさせていただいて再掲載となりましたが、我ながら後半の力強さというか勢いはすごいものがありました。当時、寝る間も惜しんで書いていた記憶がありますが、ほんと直しながら息が切れる感じでした。

 いろいろな意味で、私にとってもこのお話が始まりでした。未だにこのお話を支持していただいてほんとうに感謝しています。これを超えるお話が書けるよう(えーと、えろとかも…笑)精進してまいります。ありがとうございました。


2009.08.10 水城麻衣


カクヨム様版追記:

 HP閉鎖に伴い、迷った挙句、やはりネットに残しておこうとカクヨム様での連載を始めました。改めて読み返すと、本当にまあ、難しい、厳しいテーマとストーリーでした。笑 何故この設定??と何度思ったことでしょうか。 

 書いた当時の自分が考えていたことや、拙い文章の山(今も拙いですが…)に向き合う作業は、最初はしんどいものがありましたが、拙いながらも、この熱量は、あのときの自分にしか書けなかったな、と実感し、改めて大切な作品になったと思います。

 ほかにもいくつか、作品群がありますので、それらも少しずつアップしていければいいと思っています。お読みいただきまして本当にありがとうございました。


2024.03.24 水城麻衣

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始まりは夜のオフィスで @Mizuki_Mai

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