第13話 福岡の雨
福岡の雨
真理子が福岡に来て、4ヶ月が経とうとしていた。
福岡は桜やツツジが咲き乱れる春を終え、夏に向けて大地を雨が洗い流していた。
そろそろ夏がきてもおかしくないころなのに、毎日毎日、雨ばかり降るのに辟易とする。さすがは南国だ。そうは言っても福岡だから、そこまで南国ではないのだろうが、雨の量が東京とは全く違うな、と真理子は毎晩窓から外を眺めていた。
でも、面倒なことも多いけれど、雨が好きだった。
どんどん、自分自身をきれいに洗い流してくれるような気がするから。雨が降るたび洗い流されて、一日一日リセットされていくような感覚。
そしていつか、涼平が真理子のところまで来た、初めての宿直の日までリセットされるのだ。
先に進めなかった。前に向かって歩き出せなかった。自分でもわかっていた。
もっともっと、雨が降ってほしい。……全てを無に返して、また前を向けるようになるまで。
その日も、雨だった。
梅雨時は、夕方になるとあたりはほとんど夜のように真っ暗になる。その日も、暗くなった外の景色が、夜の訪れを知らせるそのオフィスの中で、真理子はエクセルを使って表を作成する作業に没頭していた。
福岡オフィスは、社員も20人に満たない小さなオフィスである。東京とは規模が全く違うが、それでも真理子は、この場所なりに得られる仕事の充実感に満足していた。
福岡には一店舗だけ直営のペットショップがあり、経営が好調なので、二店舗目を開店させようというプロジェクトが進行中だった。本社で仕事をしてきた真理子は、その経験を買われてプロジェクトに関わらせてもらっているのだ。
「日浦さーん」
自分を呼ぶ声がして、エクセルの海に沈んでいた自分の思考を引き上げると、真理子は何気なく顔をあげた。……あの声はきっと、入口近くにデスクがある社員だ。誰かが自分に用事を持ってきたのか?
突然、視界に涼平の姿が入った。
「うわっ」
真理子は思わず素っ頓狂な声をあげ、そして固まった。涼平はきょろきょろとあたりを見回しながら、こっちに向かって歩いてくる。
一瞬、本能的に、どうやって逃げようかと周囲に視線を遣ったのを自覚し、……しかし、退路を真剣に考えてみたところで、どう考えても逃げられるわけがない。
というか、なんで涼平がこんなところにいるのだ?……今の自分の声を聞かれてしまっただろうか?
「よ、久しぶり」
涼平はすぐに真理子を見つけたらしく、机の側まで来ると、笑顔で言いながら少し手を持ち上げた。少し大きめのリュックを肩に引っ掛け、シャツに綿パンというラフな格好である。
髪を切ったな、とすぐに思い当たった。確か去年の冬ごろは、真っ直ぐな髪が、少し流れるくらいの長さだったように記憶している。目の前の涼平の髪はあちこちが立ち上がっていて、何だか真理子の知っている涼平とは雰囲気がだいぶ変わっていた。真理子は少し、……いやかなり気後れがした。
というかほんとに、何でここにいるの?
「……どしたの」
真理子はちらっと涼平の顔に眼をやり、呟いた。感情を覚られないために表情を固め、腕を組み……自分を守る態勢になる。
「素っ気ないお出迎えだなあ。出張だよ。
入り口で聞いたら、ここだって言うから。
……せっかく、ついでに顔を出してみたのに」
皮肉っぽい笑みがその口許に寄り、おかしくてたまらないといった空気をが漂う。
涼平は、こんなふうに、わかりやすく笑うんだったっけ?
その表情を記憶から辿ろうとして、……真理子の胸にちくっと痛みが走る。
公園で待ち合わせたときの涼平の笑顔が頭をよぎった。
……もうだいぶ雨が降ったのに、雨はまだ公園の思い出さえも洗い流してくれていないらしい。思わずふうっと溜息をついて、……務めて、思考を切り替える。
「そう、それは大変ね。……珍しいね、出張なんて」
「今日はもう上がれる?飯でも食おうよ」
「えっ?」
その言葉に思わず怯む。
「いいでしょ、久しぶりに会ったんだから、飯ぐらい」
真理子の内心を知ってか知らずか、笑顔で畳み掛けるその強引な口調に、……ま、まあ、と真理子は思わず語尾を濁した。確かに今日の作業はそろそろ終わりだ。
何だか涼平のペースに巻き込まれたような気分になりつつも、真理子は荷物をまとめ、タイムカードを捺す。傘を手に、二人で階段を下りた。
「元気だった?福岡はどう?」
涼平が饒舌に話題を繋げる。元気よ、と短く答えながら、真理子は内心首を捻った。……なんだかよく喋る、……こんなキャラだったっけ?
一階のエントランスで傘を広げて、外に出る。
オフィスがあるビルは、閑静な住宅街の一角にあった。少し歩けば、繁華街に出る。何か食べるんだったら、そこまで歩いたほうがいいだろうと真理子は歩き出した。涼平も後に従う。
建物の外に出ると、ざあっと雨が二人の傘を叩く。その音と、じっとりと湿ったその空気に呑みこまれたかのように、少しの間、二人は無言だった。
……と、ふと、横を歩いていた涼平がぼそっと言った。
「――全部、聞いたよ」
えっ?と何気なく隣を見た真理子の眼に、涼平の眼がまともにぶつかった。
その表情に、息が詰まる。どき、っと心臓が一回鳴って、……唐突に訪れる記憶、……既視感。
そうだ。……こんな表情をしていた。
自分の考えていることを伝えるときの、まっすぐにぶつかってくる視線。
「なに――」
急いで視線を前に戻し、出来るだけ平静を装って言葉しながら、歩調を早めようとして、
と、急に涼平は真理子の手を掴んだ。……きゃっ、と短く声があがる。
すぐ側に、マンションがあった。一階は駐車場になっている。もうあたりは薄暗く、人の気配はない。涼平はその駐車場の隅に真理子を引っ張っていくと、手を離した。さしかけた傘をその辺に投げる。
「――ここなら聞かれないだろ」
涼平はぼそっと独り言のように言って、荷物を降ろすと、腕を組んで右肩をコンクリートの壁に預けた。じっと目の前の真理子を見据える。
壁を背にして、真理子は追い詰められた格好だった。
そのマンションは、二人からは対角線上に位置している階段のあたりに蛍光灯がひとつ点いているだけで、駐車場はかなり暗い。薄暗い中、壁際に追い込まれて、真理子の鼓動は知らず早くなった。
……このためだったのか?
わかりやすい表情、何だか強引な笑顔と物腰、……全て、自分を連れ出して、……これから、何かの話をするため……?
……早くここから逃れなければ、と、知らず、焦燥が背中を走る。
「やめてよ、こんなとこで……」
動きかけた真理子の腕を、すかさず涼平が捉えた。ぐっ、と力をこめて離さない。
「やめてって……」
「バカな警備員に乱暴されたんだろ。田代とかいう」
「……!」
真理子は言いかけていた言葉も忘れ、涼平の腕を離そうと抵抗するのも忘れて、涼平の顔を見た。
「……なんで」
あまりの驚きに、否定するのも忘れていた。
涼平の眼は変わらず真剣だった。
「俺もこないだ脅迫されたんだ。……あの警備員、真理子が言いなりになったから味をしめたらしい。
――もちろん、警察に突き出してやったけど」
警察に?突き出した?
……しかし、田代が涼平を脅迫したということは、もちろんあの日の防犯カメラの映像をネタにしたのだ。
それを警察に突き出したって……防犯カメラの内容も公になったということか?会社にも知られたということ?
「突き出した、って……どうやって」
切れ切れに言った真理子の言葉から、涼平も真理子の言いたいことを察したらしい。
涼平はちょっと肩を竦めた。
「俺、会社辞めたんだ。
辞めてから、会社と警察に全部報告した。
警備員のやり方もあくどかったから、俺も辞めるまではしなくていいって会社も言ってくれたけど。でももういいんだよ」
――辞めた?
その言葉が、真理子の頭をガンと殴ったような衝撃が走った。
だって、さっき出張って……。
それも、自分を連れだすための嘘だったのか……?
……真理子は知らず、涼平に掴まれたままだった腕を思い切り払っていた。
「……なんで?」
真理子の強い視線と声に、涼平は黙った。
「なんで?なんで辞めちゃうの?
嫌だったのに、それだけは、……だから、」
ぷつ、と言葉を切る。
涼平に辞めて欲しくなかったから、あのとき黙って、田代の言いなりになったのだ。
それなのに、この男は、……もういいんだよ、って、何がいいの?
ふと、真理子の脳裏に、田代に犯されたときの記憶が閃いた。……相も変わらず、その記憶に体を切り刻まれるかのような痛み、……しかし今は、腹立たしさがそれを吞み込んでいく。
あのとき何度自分は、涼平だったら、と思っただろう。涼平だったら。涼平がいてくれたら。涼平に助けを求めていたら、……でもそれをしなかった、それは全て……。
涼平は負けじと真理子の眼を見返した。
「なんで黙ってたの?
……なんで教えてくれなかったんだよ。カメラに映っちゃったのだって、全部俺のせいだろ?
マンションの前で言ってた訳わかんないことも、全部あの警備員のことなんだろ。やっと話がつながった」
涼平の言葉に、心のどこかで小さな音が鳴った。
前にも一度、聞いたことがあった。――心の奥底の本音が弾ける音だ。自分でもわかっていた。
真理子は目の奥のほうに、じわっと熱いものがその量を増しているのに気付いていた。……おそらく悔し涙だ。自分の思いなんて考えもせずに、あっさりと仕事を辞めてしまった涼平への。そして涼平の思いなんて考えもせずに、黙って田代の暴力を受け入れてしまった自分への。
膨れ上がった内側からの力が、今にも弾けそうで、……涼平の強い視線を受け止めて、そこが火花でも散らしそうな熱を帯びる。
「なんでって、私の質問に答えてよ!
涼平に教えたら、涼平は私を守ってくれたでしょ?わかってた、私を守ってくれて、会社辞めたでしょ?……そんなの嫌に決まってるじゃない!
私、涼平にひどいことして、散々傷つけたのに、……裏切ったのに、もうこれ以上、私のことで迷惑かけられるわけないじゃない!
あたりまえじゃない、そんなこと、……なんであっさり辞めちゃうの?辞めてほしくなかったから、私、あいつに――」
そこから先は言葉が続かなかった。
涼平が、真理子を抱きすくめたからだった。
真理子は言葉を失った。……緊張で体が固まり、胸の鼓動だけが際限なく早くなる。
涼平の体は半年前と何も変わらず、暖かかった。最後に抱きしめられたのは1月で、コート越しだったけれど、季節が移り、シャツ越しにはっきりと感じる筋肉と心臓の音が、生々しく涼平に抱かれたときの記憶を呼び覚ました。――この心臓の音は自分の音?……なんだかもう、よくわからない。
涼平が耳元で呟いた。
「いいんだよ。
前から考えてたんだ。やっぱり資格とって法律の仕事したいって。もういいの。
……だから、マンションの前で、ダメだって連呼してたの?あいつに乱暴されたから?」
この、真理子の妙に潔癖なところ。
頑なに相手と自分に彼女なりの筋を通そうとする、その筋はしかし相手のことを考えるあまり、一周回って、完全に自分本位なことに本人は気付いていない。
この真理子の妙な潔癖さを、涼平はずっと前から愛していた。
……どうしたら、その真理子の眼を、自分のほうに向けられるだろう。
涼平は、真理子を抱きしめる腕に力を込めた。
「――あのさ、気持ちは嬉しいけど、なんかいろいろすっ飛ばしてない?」
体を離すと、涼平は腕を組んで、真理子の眼を覗き込んだ。
真理子の反応を全て、一つも残らず見逃すまいとしているかのような、その冷静な視線にどこか体が竦んだ。
「まず、俺にしたひどいことって何?裏切りって?」
涼平の瞳が真理子を射る。
……この、真っ直ぐな瞳。
この瞳で見られると、自分はいつもいつも絡めとられる。身動きがとれない。
これから逃れるために、ここまできたのに。また、吸い寄せられてしまう。
――もう、どうすることもできず、真理子はぼそぼそと言葉を紡いでいた。
「……ひどいこと、したじゃない、……涼平にも、祐輔にも。
どんなにひどいことをしたのか、気付いていないふりをしてた。わかってたのに。
それなのに、また涼平に優しくしてもらったら、もう私は、自分を許せないって――」
優しくしてもらう資格なんかないって、思った。
マンションの前で、涼平を拒んだときは、確かに田代に乱暴されたことも引っかかっていたと思う。……けれど、つまるところそういうことだったのだと、時間が経った今は思えた。
涼平の優しさに甘えて、その体に溺れて、このまま沈むところまで沈んでしまいそうで、……それが怖かったのだ。そんな自分を自分で許せなかったのだと。
「祐輔さんのことは、俺が悪いんだから」
変わらずに、真っ直ぐな瞳で真理子を見つめたまま、涼平は呟いた。
ふと真理子は、最後の宿直のとき、涼平が祐輔をオフィスに来させてくれたことを思い出した。……あれがなければ、自分はもっともっと祐輔のことを引き摺っていただろう。
――何度も、お礼を言いたいと思った。
……でも、それだけで済むだろうか?
結局自分は、理由をつけて涼平と話したいだけなのではないのか?
葛藤の末、涼平と連絡をとるのは止めたのに。
……なんで向こうから現れるんだ?そしてなんでそんな瞳で自分を見るんだ?
「――あと俺に悪いと思ってるんだったら、むしろダメって連呼するのやめてくれない?
そっちのほうがよっぽど応えるんだよね」
少しい冗談っぽい口調に誤魔化したが、その眼は笑ってはいなかった。……あのとき、あのマンションの前で涼平を拒んだときの話だ。
少し考えたら、すぐにわかることだった。あのときの自分の言葉が、どれくらい涼平を傷つけていたのか、……あの時は自分のことで頭がいっぱいで、何も考えられなくて、……結局は、自分勝手だった。
そのことに気付いて、胸が詰まる、……この重さは恐らく、後悔だった。
自分を許せないから、涼平に優しくしてもらわない。涼平に悪いから、その気持ちは受け入れられない。
けれど、拒まれた涼平の気持ちはその理屈のどこにも入っていないのだ。
……ふと、真理子は眼がじわっと熱くなるのを感じた。……福岡に来てから、一度も感じたことがなかった涙の熱さだった。
「――なんで、そんなにダメ出しばっかりするのよ」
もう今にも壊れてしまいそうな自分の心を何とか保ちたくて、真理子はぼそぼそと呟いた。
その言葉を聞いて、涼平は意外にも、少し笑ったように見えた。……もう自分の気持ちを、自分の向いている方向をはっきりと見定めているような、静かな笑い顔だった。
「――そりゃそうだよ。
だって、そのためにここまで来たんだから。
……やっぱ好きなんだ。忘れられなかった」
好きだからダメ出ししに来た、って……。
一見、支離滅裂なその言葉を聞きながら、真理子はさらにその胸の熱いものがこみあげてくるのを感じた。
涼平は、もう全てわかっているのだ。
もう、無理だ。
誤魔化しきれない。
「……私だって」
思わず、呟いていた。
――やはり、自分の気持ちをきちんと言わなければダメだった。真理子は悟った。
きちんと言わなければ、何も進まない。前にも後ろにも。
福岡に来てから、全く何も進んでいない自分のことを一番よく知っているのは、紛れもない自分自身だ。
「好きだった。ずっと前から」
自分をじっと見る涼平の瞳が、一瞬細められて、きらっと光ったような気がした。
真理子は一息で言わないともう言えなくなるような気がして、早口で続けた。
「でも、祐輔の好きとどう違うかわからなくて――」
そこまで言って、真理子はぶるぶると首を振った。もう誤魔化すことは出来ない。
「――ううん。わかってたの。
怖かった。祐輔のこと裏切るのが。……でも結局、祐輔も涼平も、二人とも裏切ってしまった。こんな自分が嫌だった。最悪だと思った。
これは罰なの。涼平と祐輔と、実菜子と……いっぱい裏切ってしまった、私への罰なの。
最初からやり直したかった。――祐輔も、涼平もいないところで」
そこまで言って、耐えられず真理子の眼から涙がこぼれた。
なんで自分は、涼平の前ではすぐ泣いてしまうんだろう?……涼平が泣かすようなことばっかり言うからだ。そして自分も、泣けてくるようなことばっかり言うからだ。もう、涙が止まらないじゃないの……。
真理子は顔を伏せる。
涼平はたまらなくなって、真理子の背に手を回し――少し強張ったその体を構わず引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。
心の一番奥深くに隠した言葉を、やっとのことで絞って出したような真理子の告白が涼平の胸を揺さぶる。
――もう、その言葉さえあれば、そしてこの体さえ自分の腕の中にあれば他には何もいらない。瞬間、本気でそう思った。
……しかしまだ、真理子が自分から逃れようとしている気配が、その腕を通して伝わってくる。
放すものか。絶対に。涼平は真理子を抱きしめる腕に力をこめた。
「――残されたほうの身にもなって欲しいよ。
真理子がいなくなって、ほんと辛かった。……いないとダメだった。
我ながらびっくりだったよ」
真理子の体の震えがおさまってきたのを感じ取ると、涼平はその体を少し離した。
俯いたままの真理子の頬に手を添えて、顔を持ち上げて……そっと重ねられた、その唇の感触に、はっと真理子は体を硬くする。
半年前と、変わらないその感触。
唇が触れた瞬間、これを忘れようとするなんて無理な相談だったのだ、と真理子は嫌というほど悟らされた。
全く体は忘れていなかった。――溶けてしまいそうな、この甘さと、柔らかさを。
ダメだ、この感触を味わってはダメだ、と心の声がする。
真理子はやっとの思いで涼平の体を押した。吐息が漏れそうになり、深呼吸して息を整える。
「――罰ってなんだよ?
いつも真理子はそう。そんなふうに自分を美化してるけど、実は逃げてるだけなんだよ。
結局、ただの自己満足だろ?
俺のことも、その罰とやらに入ってるんなら、逃げないで俺の話聞いてほしい。
……一緒にいたいんだ」
――自分は、確かに逃げているだけなのかもしれない。罰という自分を正当化する言葉を盾にして。
涼平の言葉は容赦なかったが、妙に冷静にその言葉を聞く自分がいた。
……今だって、自分は涼平から逃げることしか考えていないではないか。
でも、何で自分はこんなに逃げようとするのだろう?
一緒にいたいって、……この男は本気で言っているのか?
こんな最悪な女に向かって、しかも散々文句を言った後に?
涼平は真理子の言葉を待たず、また真理子にキスをした。
その柔らかい感触に、少しずつ、理性が剥がされていくのがわかる。
涼平は唇を離すと、少し顔をずらして、真理子の左の耳たぶをそっと口に含んだ。
……ぶるっ、とそこから全身に震えが走る。
最初の宿直のとき、涼平に最初に触られた場所だ。
全てはここから始まったといってもいいし、相変わらず、その場所は敏感に涼平の舌に反応した。
涼平は唇を離し、囁いた。
「――部屋に入れてよ。今日泊まるとこないし」
……これは、確信犯か……。
真理子を抱きしめるその腕と、その声からは、このまま真理子にうんと言わせてやるという妙な決意が感じ取れた。
真理子は少し考えてから、涼平の体から離れ、答えた。
「……汚れてるからダメ」
真っ直ぐ見返した涼平の瞳は澄んでいて、目の前の真理子の姿さえ突き抜けて、どこか遠くを見つめているかのようだった。
涼平は面白そうに、くっと唇の端を曲げて笑った。
「――手強いな。
無駄な抵抗はやめたほうがいいよ」
このまま涼平の思惑に流されてしまいたいという欲求と、そんなのダメだという理性が葛藤する。
真理子はさっきから、頑なに閉ざされていた心が少しずつ溶けていくのを感じていた。
ここで涼平を自分の家に入れてしまったら、もう自分を止められないことはよくわかっていて、……でも、……けれど……。
もうほとんど無意識に、口をついて言葉が出ていた。
「――涼平、いいの?」
そう呟いてしまいながら――今から言おうとしていることが、自分の心を切り刻むとわかっていて、それでも止められない。
「また私、同じことをするかもしれない。
また、涼平みたいな男の人にキスされて、好きになって」
涼平みたいな、気が大きいんだか小さいんだかわからない、意志が強いんだか弱いんだかわからない、
ただ、自分のことを理解してくれて、愛してくれて、優しい男に。
「――それで、また涼平のこと、裏切るかもしれない。
怖いの。自分が。また同じことするかもしれないって。
それでもいいの?」
唇を引き結んだ真理子の、潤んだ瞳を見ながら、涼平はここが原点なのだな、と思った。
祐輔ではなく自分を選ぶという選択肢が、どれほど真理子にとって苦しいものなのか何となくわかる気がした。
――真理子らしい。あまりにも。
思わず、ふふっと笑ったその声に、何で笑うの?と真理子がむっとした表情を露にする。
「そんなの、誰だって一緒でしょ」
涼平は笑顔のまま続けた。
「俺だってそうだよ。未来のことは誰にもわからない。
……でも今、俺は真理子と一緒にいたいし、今俺は真理子のこと信じてる。俺のことも信じてほしい。
それで充分なんじゃないの?
もし、俺を振りたくなるような男が現れたら、そのときは仕方ないだろ。
――ま、そんなに簡単には渡さないけどね」
心の中にずっとわだかまっていた思いをあっさり一蹴されて、真理子は少し驚いた。
同時に、すっと雲が晴れたような気になったのも、確かだった。
……この男はいつもそうだ。いつの間にか、いつも自分の気持ちを前向きにしてくれる。
もう、それだけで充分なのかもしれない。
やっぱり、……この男には、かなわない。
……そんなことは、前からわかっていたけれど、やっぱり抵抗は無駄だった。
「…………わかった」
沈黙の末、真理子はぼそりとそう言うと、涼平の手をそっと握り、ぼそぼそと言葉を続けた。
「――降参」
もう片方の手で、目に溜まっていた涙をぐいっと拭う。
「……言っとくけど、ほんとに汚いからね」
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