第12話 罰
同期の新年会は金曜の夜で、そのあと土日休みだったので、真理子はずっと家に篭っていた。
無理矢理に涼平を振り切って、家に帰った後、また外に出るのが怖かったのだ。……もう涼平はいないであろうことも、わかっていたのに。
もし、……もし次に会ってしまったら、今度こそ自分の気持ちを全部ぶちまけてしまいそうだった。
転勤届けを出したのは本当だった。
あの、思い出したくもない夜の翌日、午後から真理子は這うように会社に行き、届けを出してきたのだ。それだけのために会社に行ったといってもよかった。
田代にまた脅されたら、という恐怖が真理子の胸を苛んでいて、その恐怖から逃れるために転勤届けを出したのだと最近まで思っていたけれど、……しかし、日を追うにつれ、涼平の顔を見るのが辛い、と思っている自分に気付いていた。
真理子の会社は、東京本社の他に札幌、大阪、福岡に支社がある。福岡支社に転勤を申し出たのだ。
福岡支社は、東京よりかなり規模は小さかったが、どこか遠くで最初からやり直すには好都合だった。……それだけで転勤を願い出るのは、転勤先に失礼だとも思ったけれど、転勤後に仕事に打ち込んで、少しずつでも恩返しできたら、と思っていたのだ。
4月までに転勤が出来なかったら、会社を辞めよう。そう思っていた。
……もう、自分の体と心をリセットしたかった。リセットせざるをえない状況に自分を追い込む必要があったのだ。
日曜日、食料が尽きた。
家から出たくないとはいっても、食べるものがない以上仕方がない。真理子は最低限、近所を歩いても問題ない格好に着替え、恐る恐る外に出た。
……涼平はいない。よかった。
当たり前のことなのに、ほっとする自分がいる。
それでも極力静かにマンションから出て、近くのスーパーに向かう。
スーパーへの道を歩く途中、少し前の曲がり角から、カップルが道を曲がってきた。
正面から向かい合う格好になり、真理子は何気なくその男性を眺めて、思わず立ち止まった。
……祐輔?
さらにその隣の女性に視線を向け、……とっさに息を止め、体を固くする。
実菜子だった。
二人は手を握り合い、仲睦まじそうに歩いていた。
祐輔はすぐに、目の前に立つ女に視線を遣り、真理子だと気付いたらしい。歩みを止めた。
実菜子もそんな祐輔を見上げて視線をまわし、正面に真理子の姿を見て、……立ち止まった。
……少し、沈黙が流れた後、……祐輔はすうっと息を吸い、声を出した。
「……北木ちゃん、ちょっとだけ、外してくれない」
その声は、いつもの暖かい祐輔の声とは全く違った、低い声だった。
固まっていた真理子は、その声にびくっと体が震えて、……ゆっくりとだが思考が動き出す。
実菜子は無言で手を離すと、二人が来た曲がり角に姿を消した。
祐輔は黙ったままだった。
真理子は何か言わなくてはいけない、という義務感にかられ、……どうしたの?と声を発した。
まるで自分じゃない誰かが話しているような、変な場所から自分の声が聞こえた。
「――なんで?」
そう声を出すと、突然いくつも疑問が頭の中に浮かび、まわり始める。
なんで実菜子と一緒にいるの?
なんで手を繋いでいるの?
なんでここを二人で歩いているの?
……なんでそんな、苦しそうな顔、するの?
「――気付いてないとでも思った?」
祐輔は声を絞り出した。
今度は真理子が言葉を失う番だった。
こんなに苦しそうな祐輔を見るのは初めてだった。
こんなに声を振り絞る祐輔も。
祐輔は声を絞り出しながら、言葉を繋いだ。
「真理子、他に誰か、相手いるんだろ?
――おととい、見たんだ。マンションの前で、男といたろ?
出張から早く帰ってきたから、びっくりさせようと思って……」
祐輔は言いかけたが、ふうっと息をつくと、言い直した。
「――いや、違う。
疑ってたんだ。もうだいぶ前から、真理子の様子が前と違うのはわかってた。
それを確かめるために、昨日は黙って真理子のところまで行ったんだ」
祐輔は真理子の目を見て、続けた。
「――真理子、俺といるときも、他の男のこと考えてただろ?」
真理子は目の前の光景がすうっと遠くなっていくような感覚を味わった。
何か喋らなければ、と思っても、全く声が出ない。体が全く動かなかった。
祐輔は目を伏せ、続けた。
「……いいんだよ。真理子に新しい相手が出来ただけなんだから。
でも、何も言われないのは辛かった。耐えられなかった。
それだけ。
――もう、これ以上話すことはないよ。ないだろう?」
やっと息を吸い込んだ真理子は、違う、と言いかけて、口をつぐんだ。
――何が違うというのだ?
祐輔の言っていることと、何も違わないではないか。
祐輔に隠れて、涼平と会っていたこと。セックスしたこと。
涼平のことを好きだと思ってしまったこと。
いくら、祐輔のことを好きだと思っていても、
金曜の夜、自分の気持ちを偽ってまで涼平を突き放したことも、……でもそんなことは、事実の前に何の意味も為さない。
祐輔はもうずっと前から気付いていたのだ。自分の変化に。
……冷静に考えれば、気付かないわけがないだろう。
当たり前のことだ。しょっちゅう一緒にいて、体を重ねて、気付かないわけがない。
――こんなふうに、お互いの気持ちをぶつけ合うことなど、一度もなかった。
この穏やかさが愛情だと信じていたときもあったし、事実、それが愛情そのものだったときもあった。
けれど、そのバランスは崩れてしまった。……バランスが崩れたとき、お互いの気持ちをぶつけられなかったことが、今を招いたのだ。
……そして、この期に及んでも、自分の気持ちを祐輔にぶつけられない自分がいる。
祐輔も、そんな自分のことを理解してくれていて、……だからこそ、辛かったのだと思う。
祐輔にぶつけられない気持ちを、涼平にはぶつけてしまっていることを、わかっていたのだと思う。
黙っている真理子を見かねたのか、祐輔はその硬い表情は変えずに、曲がり角の向こうに姿を消した。
入れ替わるように、実菜子の姿が現れた。
実菜子は泣いていた。
「――ごめん、真理子」
謝罪の声。
実菜子は涙を流しながら、それでも言葉を継いだ。
「あたしね、ずっと及川くんのこと、好きだったの」
――まただ。
実菜子が祐輔に続いて、真理子に気持ちをぶつけてくる。
その真っ直ぐな気持ちを受け止めることも、自分の気持ちをぶつけかえすこともできずに、どうしようもなく、ただ立ち尽くす自分。
「でも、真理子だったから、黙ってた。
我慢とかじゃないの。及川くんの好きな人が真理子だったから、それでいいって本気で思ってた。
でもおととい、及川くんに真理子のこと聞いて、それでもう、止まらなくなっちゃって……」
実菜子は顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、続ける。
「真理子、なんでなの?
――あたし、親友だと思ってたんだよ。
なんで話してくれなかったの?
真理子とは何でも話せるって思ってたのに」
――これは、罰だ。
真理子は、ぼうっと実菜子の言葉を聞きながら思った。
祐輔と、実菜子を欺いていた罰。
自分の心は、祐輔を裏切っていないと思っていた。
でもそんなことは、ただの欺瞞だったのだ。自分の思い込みだったのだ。
いくら心では祐輔のことを思っていると言い訳したところで、真理子は涼平に抱かれ、涼平を求めて、十分に祐輔を裏切っていた。
わかっていたのだ。そんなこと。
でも、自分を保つために、ただ祐輔の優しさに甘えていただけだったのだ。
さっき真理子が、手を繋ぐ祐輔と実菜子を見た瞬間と同じであろう、頭を殴られたような衝撃を、おとといの真理子と涼平を見た祐輔も受けていたのだ。
――いや、もっと前から、真理子の中に前とは違う部分を見て、祐輔は苦しんでいたのだ。
そのことを真理子は知らなかった。
否。もっともっと真剣にそのことについて考えていれば、おそらく気付いただろう。しかし自分はそれをしなかった。したくなかったのだ。
自分が二人を裏切っていた罰を、自分は受けなくてはならない。
それが、今だ。……そしてこれから先の長い時間だ。
真理子はどこか遠く、しんとした場所で、……そう思った。
何も言わない真理子を見つめていた実菜子だったが、やがて目を伏せた。無言で曲がり角から姿を消す。
そこで待っていたであろう祐輔と、実菜子は歩いていったのだろう。
真理子の居る場所とは逆の方角に。
真理子は長い間、その場所に立ち尽くしていた。
祐輔と、実菜子を裏切っていた罰を受けて、自分はその両方を、失わなくてはならない。
……そして、涼平の気持ちを踏みにじっていた罰を受けて、自分は田代に暴力を受けた。
でも、それだけでは足りない。
自分は、涼平をも、失わなければならないのだ。
それが罰だ、と真理子は思った。
――自分自身と、涼平を欺いていたことへの。
真理子の転勤届けは受理された。
4月から、福岡オフィスでの勤務だ。
3月の終わり、真理子の最後の宿直の日が来た。
シフトの関係上、最後の出勤の日が宿直にあたってしまい、上司は宿直はしなくていいよと言ってくれたが、真理子が頼んで宿直をさせてもらったのだ。
明日の朝、宿直の引継ぎをして、真理子はこのオフィスを去る。
最後の勤務に相応しいのではないかと思ったのだ。
始まりだった、この夜のオフィス。
あの日から自分は、たくさんのものを失った。かけがえのないものを、たくさん。
――自分はこれから、その失ったものを償いながら生きていくのだろう。もう戻ってこないそのものを、ずっとずっと悼むことで。
これがいつか、またかけがえのないものと出会ったとき、それを守るための力になってくれたらいい。今度こそ全力で、それを守りきれるように。
真理子はオフィスの窓からの夜景を見ながら、いつの間にか切にそう祈っていた。……この祈りはずっと続くのだろう。もうほとんど、自分の一部分になるくらいに。
――早くそうなってほしい。自分の一部になって、心をちくちくと刺すその刃が早く埋もれてはくれないだろうか。
連れ立って歩く祐輔と実菜子に会ってから、二人とは全く連絡をとっていなかった。
涼平とも、会社で姿を見かける以外には何のつながりもなかった。出来る限り関わらないように、視線をそちらに遣らないようにしていた。
真理子は黙々と福岡に移動する準備、それが叶わなければ会社を辞める準備を一人でしていた。
幸いなことに、警備員の田代からも何も連絡はなかった。オフィスビルでもそれらしき影を見かけない。おそらくアルバイトだろうから、もう辞めたのだろうか?
明日の朝までには、机の上も何もない状態にしなければならない。
書類などは殆ど片付いていたが、私物などこまごましたものが意外に多くて手こずった。真理子は誰もいなくなったオフィスで一人、机の上のものを黙々と片付け、持って帰るためのダンボールに詰める作業に没頭していた。
――カチャ、とドアが静かに開く音が聞こえた。
真理子はどきっとして、ドアのほうを振り向き、凝視する。
誰?
……まさか、涼平だったら?
涼平だったらどうしよう。……どうやってこの場から逃れよう。
慌しく退路を探して視線を彷徨わせている間に、その人物はするっとオフィスに入ってきた。
「え、……祐輔?」
真理子はぽかんと口を開けた。
いかにも間の抜けたトーンの声が自分の口から出てくる。
祐輔は面白そうに手をひらひらさせた。
「――なんで?どうやって入ったの?」
真理子の問いかけに、祐輔は胸から下げたIDカードを真理子に見せた。
「松下くんに借りた」
涼平に?
驚きのあまり言葉もでない真理子を見ると、祐輔はふっと笑顔を頬に浮かべた。
「――さっき、松下くんが来てさ。
真理子に会ってやってくれって頼み込まれて、これを押し付けられちゃったから」
「え?」
何なんだ?……なんで涼平が祐輔にそんなことを頼むのだ?
……そもそもなんで涼平は、自分が祐輔と別れたことを知っていたのか……?
その日、昼休みになったと思ったら、すぐに真哉が涼平のところにやってきた。
真理子の、最後の東京勤務の日。
朝からそのことが脳裏にこびりついて離れない自分に、……しかし何も為す術はないと何度も言い聞かせて、やっと長い長い午前中が終わったことにほっとしながら、どっかで適当に飯食うか、と伸びをしたところだった涼平は、真哉の切羽詰った表情を見て、内心げっそりした。
――真哉がこんな表情をするときには、碌な目にあわないことを、身をもって知っていたからだ。
真哉は、飯行くぞ。と有無を言わさず涼平を引っ張り、会社からすぐの小さな喫茶店に入った。目立たない場所にあり、涼平も来るのは初めての店だ。
一番奥の席に、既に美鈴と絵里が陣取って座っているのを見て、涼平は内心さらにげっそりした。……これからの話題の展開がだいたい読めてしまったのだ。
椅子に座り、さっさとランチの注文をすると――ランチは一種類しかなかったから、ほんとうに注文はすぐに終わった――真哉は待ちきれないという顔で、涼平の方を向いた。
「なあ、真理子が別れたの、知ってるのか?」
……えっ?
さすがに驚きを隠せず、涼平は真哉の顔を見返した。
「別れたって?ほんとに?
……知らなかったよ。知るわけないだろ」
と、涼平の向かい側にいた美鈴が口を開いた。
「昨日、トイレで話したときに聞いちゃったのよ。
祐輔さんと遠恋になっちゃうね、って言ったら、それはないよって……。
口がすべったって感じだった。もしかして別れたの?って聞いたら、まあ、って。なんかすごい顔色悪かったよ。
詳しいことは、また落ち着いたら話すから、ごめんってどっか行っちゃった。
その話するの、真理子すごく辛かったんじゃないかなあ……なんか話振ったの後悔しちゃって」
美鈴もそのときのことを思い出したのか、顔を曇らせる。
……で。と真哉が言葉を継いだ。
「おまえ、一枚噛んでるんじゃねえの?」
うっ、と涼平は一瞬言葉に詰まったが、……まさか。と一呼吸おいて答えた。
まさか、そのことに自分が関係しているはずはない。
――それでも、新年会の夜、眼にいっぱい涙を浮かべた真理子の顔がちらっと涼平の胸をよぎった。
まさか……まさか、あの涙が、祐輔との別れに関係しているのか?
しかしあの夜、真理子ははっきりと自分を拒絶したではないか。
『――もう私、あなたに優しくしてもらう資格、ないの』
その言葉は、あれから数ヶ月たった今も、ずっと涼平を苦しめていた。
あのとき、真理子の瞳は明らかに涼平を求めていた。誰だって一目でわかるくらいに。……真理子が求めているのは自分の体だけではなくて心も、全部なんじゃないか、と思わずにはいられなかった。
自分の勘違いだろうか?……確かめるのが怖い。
――でももう、そんなことはとりあえず置いて、真理子を抱きしめたい。唇を重ねたい、
……それでも、頑として自分を拒んだあの言葉。
もう自分の顔を見たくない、と捨て台詞を吐いて、マンションに駆け込んだ真理子を見送って、どうしてくれようか……と思った。
部屋まで追いかけていって、出てくるまでドアを叩くか?マンションから出てくるまで、ここで待つか?
……しかし、はっきりと涼平を拒んでいたあの体と言葉に、涼平は立ち去るより他なかったのだ。
「だって、新年会のとき、真理子泣いてたじゃない。
涼平、真理子を追っかけてったでしょ?あの後会ったんでしょ?
……あの後、何にもなかったとは言わせないからね」
絵里の的確な突っ込みに、またも涼平はぐっと詰まったが、辛うじて答えた。
「……会ったよ。でも何もなかったよ。
ほんとに何もないんだって」
――いや、こんなところでこんな問答をしているより、ずっと重要なことがある。
涼平は真哉のほうを向いた。
「真哉、おまえ祐輔さんの携帯の番号知ってるだろ?
教えて」
前に一度、同期の飲み会に真理子が祐輔を連れてきたことがある。確かそのときに、真哉は祐輔と番号を交換していたはずだ。
真哉は怪訝な顔をしながら答えた。
「何で祐輔さんの番号が必要なんだよ?
……いいけど。おまえが全部喋ったらね。教えてもいいよ。
――おまえ、真理子のこと好きなの?
おまえら、何でいつの間にかこんなことになってるわけ?友達甲斐のないやつだよな」
真哉が畳み掛ける。
涼平はどうしようもなくなって、――あ、そう。と呟いた。
「……尋問ですか」
確かに、同期にも黙ってこんなことになってしまっているのは後ろめたかった。
……しかし、こんなことって何だ?
自分と真理子の関係を、どう説明したらいい?
説明して欲しいのはこっちだ……。
涼平はふうっと溜息をついた。……もうどうあがいても無駄だ。逃げられない。
「――好きだよ。
好きだった、って言わなきゃいけないのかな。
前に本人にそう言ったときに、無理矢理、その……しちゃって」
「何をよ!」
間髪入れず美鈴に突っ込まれ、涼平はほとんど捨て鉢になって答える。
「……キス?」
……結局最後までした、とはとても言えなかった。あのときの自分と、真理子を、きちんと説明することなど絶対にできない。
ええ!?と声をあげた絵里の眼が、心なしかきらきらと光っているような気がして内心さらにげっそりする。
結局、こいつらのいいネタにされてるだけなんじゃないのか?
涼平は話を終わらすべく言葉を継いだ。
「でも、思いっきり振られたよ。祐輔さんとは別れないって。
それで終わり」
美鈴が、納得しがたいという表情で突っ込む。
「でも真理子泣いてたじゃない。
どう考えても、涼平が泣かせたんでしょ?あのシチュエーションは」
自分が泣かせたのか?
でも、そういえば、真理子は自分と会うたびに、しょっちゅう泣いていたような気がする……。
自分のせい?よくわからない。
泣きたいのはむしろこっちだ……。涼平は思わずそう言ってしまいそうになって、慌ててこらえた。
美鈴は考える目つきをして続ける。
「普通に考えたら、真理子も涼平のこと好きで、涼平が前の彼女と別れちゃったから嬉しいやら悲しいやらって感じ、とか?
……略奪愛、ってわけか」
にやっと笑う美鈴を無視して、涼平は真哉のほうに向き直った。
ほんとうに、こんな話をしている場合ではない。
「なあ、もういいだろ?番号教えろよ。
……俺が自分の気持ち押し付けちゃったから、真理子のバランスが崩れちゃったかもしれないんだ。
そのせいで祐輔さんとうまくいかなくなったんだとしたら、確かに俺のせいだし……しかもそんなの、別れる理由にならない。
誤解なんだ。祐輔さんにちゃんと言わないと。そんなわけわかんないことで別れるなんて駄目なんだよ。真理子に申し訳ないだろ」
勢いでここまでまくし立てて、はっと涼平は我に返った。
三人とも、しんと黙って、涼平を見つめていた。
「――おまえ、やっぱ本気なんだな」
やがて、真哉がぼそっと言葉を継いだ。
「俺としては、真理子を奪ってしまえばいいって思うけど……そうならないとこが、お前らしいといえば、らしいよな。
とりあえず、今日のところは許したる。……ほら、番号」
――奪えるものなら、奪いたかったよ。
でも駄目だったんだから仕方ないだろ?
涼平はそう怒鳴ってしまいたい衝動を辛うじて堪えた。
祐輔は真理子の机の横にやってきて、椅子に座った。
……最初と2回目の宿直のとき、涼平が座った椅子だった。
「――ぜんぶ、聞いた。
平謝りされた。自分の迷いのせいで真理子を巻き込んじゃったけど、もう今は何もないし、ちゃんと真理子と話してやってくれって。もし、別れたのが自分のせいなんだとしたら、それは全て誤解だからって。
……俺も、真理子とはちゃんと話さなきゃってずっと思ってたから」
祐輔はいつもの、穏やかな口調で言った。
その言葉が真理子の胸に沁みる。
――もう戻れないあの日々の、暖かい思い出が真理子の胸をちくちくと刺した。
「あいつ、いい男だよな」
祐輔は窓の外の景色を見ながら、ぼそっと言った。
……ちゃんと、言わなくてはならない。
祐輔と……実菜子とばったり会ったあの日、一言もなにも言えなかった。どれだけそのことを後悔したことか。
今はちゃんと、全部言わなくてはならない。
「……ごめん、祐輔」
口に出してみると、そんなお座なりな言葉しか出てこないことに、改めて愕然とする。
真理子は必死で言葉を探した。
「私、祐輔のことほんとに好きだった。
宿直のとき、無理矢理涼平にキスされちゃって、でも祐輔とは絶対に別れないって決めてた。
だから、こんな些細なこと、祐輔に言うまでもないって。
……それが、いけなかったんだと思う。
私の中で、涼平のことが出口を見つけられなくて、どんどん大きくなっちゃって……でも祐輔に言えなかった。
そのうち、取り返しがつかないくらい、涼平のこと考えるようになってた。
祐輔に黙って涼平と会って……抱かれたりもした。
それでも涼平のことは何とも思ってない、心は祐輔のこと好きなんだって思って、自分への言い訳にしてた」
祐輔は少し悲しそうに、窓の外の景色を見た。
「――俺たち、言葉が足りなかったんだよな。
何も言わなくたって分かり合えてるって、ずっと思ってた。
ほんとに分かり合えてたと思う。
……けど、ちゃんといろんなことを話さなくちゃならないってお互いにわかった後も、話せなかったよな」
景色から視線を真理子に戻して、真っ直ぐに真理子の眼を見ながら、祐輔は続けた。
「こんなこと言える立場じゃないってわかってるけど、
俺、今も真理子のこと好きだよ。
北木ちゃんとは確かに、あの週末一緒に過ごした。弁解するつもりはない。
北木ちゃんには、ほんとに辛いとき、力になってもらったから。
……けど、あれ以来連絡はしてない。俺は出来たら、また真理子と一緒にいたいって思ってる」
――自分と同じだ。真理子はそう思った。
涼平と体を重ねながら、その存在に誰よりも救われながら、それでも祐輔のことが誰よりも好きだと思っていた自分と。
いつか祐輔も、気付くだろう。多かれ少なかれ、その言葉で自分自身を騙していることに。
真理子は深呼吸した。……もう祐輔に嘘はつきたくなかった。
「私、ずっと考えてた。自分の気持ちを探してた。
……涼平のことが好きなの。もう自分に嘘はつけないってわかった。
もちろん祐輔のことも好き、……でも涼平の好きは違う。……頭がそれでいっぱいになるの。
ほんとに、ごめん」
この何ヶ月か、何度も何度も考えた。
自分は祐輔のことをどう思っていたのか?そして涼平のことはどう思っていたのか?
そして、その度に思い起こされる涼平との記憶。些細なきっかけで呼び起こされる幻影……その瞳と、声と、手と。
もう自分の気持ちを誤魔化すことは出来ない、と真理子は悟ったのだ。
……そして、この気持ちを涼平に伝えることは出来ない、とも。
自分への罰だから。罰は一瞬では終わらず、ずっと続くものだから。
祐輔は微かに笑った。真理子もわずかに、表情を笑みの形に変える。
やっと本音を言い合えた二人だけに通じる、悲しい笑顔だった。
「真理子、ちゃんとその気持ち、松下くんに伝えろよ。
――そして幸せになって」
散々祐輔には嘘をついてきた。もう嘘はつきたくなかった。
……けれど、最後に一つだけ、嘘をつくことを許してほしい、と思った。
その嘘も、祐輔は見抜くのかもしれないけれど――いまの自分には、こうすることしか出来ない。
真理子はそっと、静かに頷いた。
「……うん、そうする」
始まりは夜のオフィスだった。
……終わりにも、この場所は相応しいだろう。
祐輔は笑顔を顔に浮かべた。……もう心残りはない、すっきりした笑顔だった。
「会えてよかった。松下くんに礼を言わないとね。
……じゃあ、さよなら」
真理子もさよなら、と呟いた。
祐輔は椅子から立つと、振り返らずに、オフィスを出て行った。
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