第11話 涙のわけ
涙のわけ
年が明けた。
移ろっていく日々のなかで、暦がひとつ上増しされ、カレンダーがリセットされる、独特の感覚がまた訪れる。何度も味わっているはずなのに、どこか全く新しい、妙な新鮮味もセットだ。
……カレンダーと一緒に、自分もリセットできたらいいのに。
真理子は、無駄だと知りながらも、気付けばそんなことばかり考えていた。
クリスマスイブの日、田代に触れられた記憶は、生々しく真理子に取り付いてまったく薄れる気配がなかった。すべて自分の軽率さが生んだ結果だ、という思いが、余計に真理子の胸を苦しくさせる。
これは罰なのかもしれない、と思い始めていた。
自分のバカな行動への。何も気付かないふりをして、涼平を傷つけていた自分への。
……罰ならば、受け入れなくてはならない。この胸を切られるような痛みを。
あのクリスマスイブの日から、祐輔には会っていなかった。年末は実家に帰るし、年が明けたらすぐ出張だから、と聞かされていた。
イブの日に祐輔の家から帰ってしまったのが、もしかしたら尾を引いているのかもしれなかったが、……しかし祐輔の口ぶりからはそんな雰囲気は全く感じられなかったし、真理子も深く考えるのを放棄していた。
今日は、同期の新年会だった。真哉がセッティングしたものだ。
涼平とも、まともに顔を合わせるのはイブの日以来だった。あれから会社では遭遇しないように避けて過ごし、すぐ正月休みに入ったので、内心深く安堵して、
年も明けたし、もうだいぶ時間も経った。今日は普通に涼平とも顔を合わせられるだろう。……そう、何度も、自分に言い聞かせていたのだ。
同期全員が顔を揃えるのは久しぶりだ。このことは素直に嬉しい。
涼平とは何だかこじれてしまっているけれど、それでもこの気のおけない面子で集まるのは楽しかった。顔ぶれは真理子と涼平、真哉に、美鈴と絵里の五人だ。
涼平とどんな話をすればいいだろう、と、どうしても気が重かったが、実際に新年会が始まってみると、そういう心配は無用だった。冷静に考えれば、いつの飲み会もそうだ。真哉と美鈴が盛り上がってメインで喋り、真理子と絵里が茶々を入れる。涼平は何か問われたときにしか語らず、四人の話を時々笑いをもらしながら聞いているだけだ。
六人がけのテーブルで、真理子と涼平は一番離れた席に座っていた。
――涼平は自分のほうを見ているだろうか?
涼平の顔を見られない、……その不自然さが、重しにでもなったみたいに、気持ちが沈みこんだままだ。
今に始まった話じゃない、クリスマスイブのときからずっとそうだったけれど、……楽しげな空気の中、そこそこお酒も飲んでいるのに、全く気持ちが酔ってこなかった。
「――ねえねえ涼平、彼女の話聞かせてよ。相変わらずラブラブなの?」
唐突に美鈴が涼平に話題を振った。
この五人の中では、付き合っている相手がいるのは涼平と真理子だけだ。飲み会ではいつも、相手の話をいろいろと聞かれる。
いつもなら、真理子は一緒になって涼平をいじって楽しむところだ。涼平は彼女の話をせがむと、渋々といった感じながらも、ぽつぽつと近況を話してくれ、少しだがのろけ話もする。その反応が新鮮で楽しい、と真理子は思っていた。……もちろん少し前まで。
涼平はなんと答えるのだろう、……真理子は、ドキドキと自分の心臓がせわしく鳴るのを聞いた。
涼平はいつものように、ちらっと美鈴のほうを見るだけで、ほとんど表情を変えない。
「そうそう、この休みも彼女と一緒だったんでしょ?」
絵里も面白がって声をかける。
もう、席を立ってしまいたい、と思ういたたまれなさと、……涼平はなんと答えるのだろう、と、ヒヤヒヤしながら待つ気持ちとが、複雑にせめぎあっていた。
「……別れたよ。しばらく前に」
涼平はさらっとそれだけ言った。
ぴき、とその場が凍りつき、美鈴が「ヤバイ!変なこと聞いちゃった!」という焦りと驚きを顔一杯に広げたその表情が視界に入る。
「――マジで!?」
真哉が信じられない、という口調で隣の涼平を覗き込む。
「何で?何かあったの?順調だと思ってた」
絵里も驚きを隠せず、立て続けに質問を浴びせかけた。
涼平は変わらず、静かな表情で、ビールを少し口に含んだ。飲み会の最初から、涼平の前にはこのビールが変わらず置かれている。
「――まあ色々あって。
向こうも、遠恋でだいぶ参ってたみたい。粘っても、いずれ駄目になってたと思うよ」
真理子は遠くにその涼平の声を聞いた。
やはり、涼平は彼女と別れていたのだ。最初の宿直のとき、真理子に告げたとおり。
最初の宿直のとき、自分に向けられた真っ直ぐなその瞳が、脳裏を掠めた。
あのときの、真っ直ぐな言葉と気持ち。それを自分は受け流して、いいところだけ取っていた。……その気持ちと向き合うのが怖かったのだと思う。
感情に紛らせて、わからないふりをしていた自分の狡さをひしひしと感じて、真理子は自己嫌悪で胸がいっぱいになる。
この自分の過ちを、最初からやり直すことができたら、どんなにいいだろう……。
――でももう自分は、そんな涼平の真っ直ぐな気持ちと向き合いたくても、出来ない体になってしまったのだ。
真理子は全身に残る、田代の体の感触を思い出して、ぶるっと体を震わせた。
涼平の気持ちを利用し、自分の浅はかな欲だけで涼平に愛してもらい、その愛情に本当の意味で気付いてさえいなかった。
そして自分の軽はずみな言動の挙句、……あんなことになって、
あの防犯カメラの映像は、田代の手にある。あのとき田代は、これで終わりにしてやる、と言ったけれど、ほんとうに終わりだと誰がわかるだろうか?
あれから常に、いつ何時も、また田代の影が自分を、涼平を追いかけてくるのではないかと、不安にさいなまれていた。
この脅えは永久に続くのだ。……そして全て、自分のせいだ。
こんな自分を、もう涼平は愛してなどくれないだろう。……愛される資格などないのだ。
――ぽた、と真理子の眼から涙が落ちた。
あっ、と思う間もなく、その量はどんどん増えていく。
真哉がその真理子の涙に気付き、うわ、という表情をして固まった。美鈴と絵里も真哉の顔を見て、真理子のほうに視線を向ける。
「……ちょっと、真理子、どうしたの?」
隣にいた美鈴が慌てて真理子の腕をとった。真理子はとりあえず目の前に置いてあったおしぼりで自分の目を押さえ、涙を止めようとしたが、もう無理だった。
「ご、ごめ……」
真理子はちょっとね、と笑おうとして、見事に失敗した。
「なんか、悲し……」
真理子は堪らず立ち上がった。
ごめん、と涙声で言い、横に置いてあったコートと鞄を掴むと、早足で出口のほうに向かう。
取り残された面々は、ぽかんとして真理子を見送り、……はっと我に返って、美鈴が立ち上がろうとしたその瞬間、ガタン!と椅子が動く音がした。
「悪い。これ二人分で」
涼平は立ち上がりながら、財布から一万円札を抜いて机の上に置き、そのまま足早に店から出て行く。
残された三人は、さらにぽかんとして、少しの間、誰も無言だった。
……と、真哉がビールを一口飲んで、ぼそっと言った。
「……涼平のやつ、真理子に告ったんかな」
美鈴と絵里が同時に真哉のほうを向く。美鈴がええっ!?と大声を出した。
「そうなの!?あの二人?っていうか二人とも相手がいたよね!?」
畳み掛ける美鈴に、真哉はまあまあ、と苦笑いして手を振ってみせると、
「俺も涼平からはなんも聞いてないよ。
――でも時々、なんとなくそうかなって。真理子のことすごく気にしてるというか」
さっき涼平が店を出て行ったとき、一瞬視界に入ったその横顔。何かをじっと見据えた瞳。
あんな眼差しをした涼平を、自分は見たことがある。
どんな瞬間だったのか、もうよく思い出せないけれど、……真理子のことを考えているのかな、と思ったのは、一度ではなかったように思う。
「――まあ、ここまでくると、もう俺らには入る隙はないよな。二人の問題だし。
落ち着いたら、いろいろ教えてもらわないとね」
真哉はにっと笑って、こっちはこっちで楽しくやるか!とビールを持ち、二人のグラスにぶつけた。
真理子はのろのろと、駅から自分の家に向かう道を歩いていた。
店を出てから、どのくらいの間、繁華街を歩き回っていただろう。……涙が見えないよう、マフラーをぐるぐる巻きにして。
いつの間にか涙も乾き、体も冷え切ってしまって、もう帰らないと風邪を引いてしまう、と、真理子は電車に乗ったのである。
――なんで、泣いてしまったのだろう。
悲しくて悲しくて仕方なかった。
……何が、悲しかったんだろう?
涼平が彼女と別れてしまったことが?
――いや違う。真理子にはわかっていた。
多分もう、公園で一緒に歩いたあたりから、自分は涼平のことが好きだったのだ。
祐輔に対する好きと同じなのか、違うとしたらどう違うのか、……そのあたりはよくわからない。……ちゃんと考えられていない。
ただ、自分はそれをひたすら隠して、気付かないふりをしていた。……そして結局、涼平は、自分から離れていってしまった。
自分がそのことを涼平に告げれば、涼平はきっと、今からでも、自分のことを受け止めてくれようとするだろう。
……けれど、もうそれは出来ない。
そのことが、悲しかったのだ。
何で出来ないのか?
田代とセックスをしてしまったことは、別に、涼平とは関係ないじゃない……と、心のどこかで声がする。
しかし真理子は、この汚されてしまった自分の体に、もう触れられたくなかった。
体だけではない。心も、すべて汚されてしまったのだ。自分が軽率だったがゆえに。
――こんなに汚いのに、
こんなに汚いのに、これ以上、涼平に優しくしてもらったら、もう自分で自分が許せないだろう。そう思ったのだ。
しかし、さっきの真理子の涙を見て、涼平はどう思っただろう?
涼平だけじゃない。同期の皆で一緒に楽しく飲んでいたはずのあの場所も、台無しにしてしまった。
――そろそろ、潮時だ。
真理子は静かにその心の声を聞いた。
真理子が住んでいるアパートの入口が見えてきた。
……と、エントランスの明かりの横に、人影が見えた。
壁に凭れている、見慣れたコート姿。
涼平だった。
真理子は涼平に気付いて、マンションの入口のだいぶ前で歩みを止めた。
――なんで涼平がここにいるのだ?
何で自分の部屋の場所を知っている?
焦る自分の気持ちとは裏腹に、そういえば、と冷静に思い出していた。……確か前に一度、飲み会の帰りに涼平にここまで送ってもらったことがあった。去年の夏ぐらいのことだったような気がする。
あのとき、自分と涼平はどんな話をしたのか、もう殆ど思い出せない。ただ、酒を飲むと笑い上戸になる真理子は、他愛もない話をしては笑いこけていたような覚えがあった。何だか無性に楽しかったような気がする。
あの、何も考えずひたすら楽しかったときに戻れたら、どんなにいいだろう。
――でも、ほんとうに戻りたいの?
涼平の気持ちと、その体を知らなかったあの頃に?
――逃げなければ、と、唐突に思った。涼平から逃げなければ。
どうしよう?
マンションの裏口から入るか?
――しかしおそらく、既に涼平は真理子に気付いているはずだ。たぶん真理子が気付くよりずっと前から、
真理子は無駄だと思いながら、歩く進路を変えた。少し横にそれて、裏口に向かう。
案の定、その人影は弾かれたように壁から離れて、歩き出した。
……ダメだ。逃げ切れない。
真理子は観念して、道の途中で立ち止まった。
「――何で逃げるんだよ」
声が聞こえるくらい近くに来ると、涼平は声を発した。……立ち止まったままの真理子に一歩、近付く。
引き結ばれた唇と、真理子を見据えるその眼光に、思わず体が竦んだ。
その表情は怒りで強張っていた。……こんなに怒っている涼平を見たのは初めてだった。
「……いったい、何なんだよ。なんで真理子より俺が先に家に着くんだよ。
どこほっつき歩いてたわけ?心配するだろ」
強い声音に、じっと黙っている真理子の眼を見据えて、涼平は一瞬間を開けたが、低い声で言葉を継いだ。……強い口調になろうとするのを、必死で抑えているのが、すぐにわかった。
「――なんで泣いてたの」
真理子は答えられなかった。
……口を開くと、全部言葉にしてしまいそうだったのだ。
――と、涼平はぐいっと真理子の手を掴むと、体を引き寄せた。
ぎゅうっと力任せに真理子を抱きしめ、耳元で呟いたその声はまだ怒っていた。
「もう全部、おまえのせいだからな。
なんでいつもいつも、おまえは俺の決心を挫いてくれるの?自分でわかってる?
――もう知らん」
涼平が苦々しく呟いた、その瞬間、腕の力が緩んで、……真理子はその隙間に、自分の手を入れて、涼平の体を渾身の力で押した。
涼平の体は温かかった。その暖かさを全身で感じて、また、乾いていたはずの涙が浮かび上がってくるのを感じていた。
その眼に一杯に湛えられた光を見て、涼平が怯むのがわかった。
「……もう帰るから、」
言葉に詰まり、真理子は首を振った。
「ごめん、ごめんなさい……」
涼平はこれまで見たことがなかった光を真理子の瞳に見た。動揺が胸を走る。
……しかし、その真理子の表情に、もう何も考えられず、涼平は真理子の顎に手をかけ、引き寄せて、……唇を重ねた。
んんっ、と真理子は唸った。
前と同じように、体から力が抜けていくこの感覚。涼平の舌に絡めとられてしまいそうな自分。
真理子を求める涼平の気持ちが伝わってくる。……そして、涼平を求める自分の気持ちも流れ出してしまっているだろう。
涼平は真理子の体を引き寄せ、右手をコートの中に入れて、セーターの上からそっと、胸を優しく包み込んだ。
びりっ、と真理子の体が否応なしに反応する。
――しかし、真理子はありったけの力をこめて、体を離した。
「……ダメなの」
それだけ言って、……涙が止まらなかった。
涼平はわずかに訝しげな顔をした。
「――どうした?……何かあった?」
真理子は無言で、首を横に何度も振った。
何も言うつもりはなかったが、すぐ目の前に涼平の顔がある。黙っていると、その瞳に飲み込まれそうで、思わず言葉を継いでいた。
「もう私、……あなたに優しくしてもらう資格、ないの」
――なに?と涼平は怪訝な表情で目を細めた。
涼平に次の言葉を言わせないために、真理子はさらに言い募る。
「私、涼平を裏切ってた。自分が気持ちよくしてほしいって、それだけのために利用してた。……あなたの気持ちもわかってたのに、知らないふりしてた。
こんな最悪な人間にはもう構わないで。今日、泣いちゃったのはほんとに悪かったって思ってる。……ほんとに、ごめんなさい」
自分の気持ちにも知らないふりをしてた、とは言えなかった。
……言ったら、もう気持ちが止まらなくなるとわかっていたから。
しかし、涼平はじっと真理子の眼を見て、言った。
「それだけ?……じゃないよな?」
おそらく、真理子の全身は、その言葉以上に、涼平に何かを伝えているに違いなかった。
涼平の体が、暖かい。
ダメだ。早くこの体から離れなければ。
必死でかけているブレーキが利かなくなってしまう。
真理子は力いっぱい、涼平の体を押した。不意をつかれたのか、さっきよりもすんなり、その体が離れた。
「もういなくなるから。あと少しで」
真理子は急いで言葉を継いだ。
「転勤届け、出してるの。通らなかったら会社辞める。――これは自分のためなの。もうこれ以上涼平を見たくないの。見てるとつらいの。
ほんとにごめんなさい。もう私はあなたの前から消えるから」
涼平の瞳が見開かれ、――何言ってるの?という疑問が、その表情に走って、
しかし、涼平がそれを言葉にする前に、真理子はばっと涼平の横をすり抜け、駆け出した。
「真理子!」
涼平の声が聞こえた。
びくっと心臓を掴まれたような衝撃を感じながら、それでも真理子は走るのを止めず、そのままマンションの入口に飛び込んだ。
階段を駆け上がり、自分の部屋に入って鍵をかけ、そのまま扉の内側にもたれる。
ずるっ、と真理子は扉を伝ってしゃがみこんだ。
嗚咽が漏れた。
……なんで、こんなことになってしまったのだろう?
でも、この方法しかない。
もう、自分にできることは、……いや、自分がやらねばならないことは、これしかないのだ。
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