第9話 遭遇

遭遇



 15分後。

 真理子はオフィスが入っているビルのエントランスを歩いていた。

 もうこの時間になると、ビル自体にもロックが掛かっているから、エントランスに設けてある時間外入口でIDカードをリーダーに通し、ロックを解除する。

 このビルは、祐輔の家から電車ですぐ二駅のところにあった。街はクリスマスイブらしくネオンで彩られ、この時間でも行きかう人々は多かったが、オフィスビルが並んでいるその界隈はひっそりとしていた。 

 がらんとしているホールを抜け、オフィスがある階までエレベーターで上がる。

 

 オフィスはもう誰もいないようで、入口にセキュリティーロックが施してあった。

 真理子は自分のIDカードでそのロックを解除すると、入口から中に入った。廊下をしばらく歩き、社員のデスクが並べてある部屋のドアロックをまたカードで解除する。

 

 緊張で胸がつぶれそうだった。

 

 洗ったままの髪だ。メイクだって、途中クリームを塗ったくらいで、ほとんどしていないに等しい。……どう考えても、今の自分の状態が尋常でないことは、すぐにわかると思う。

 心臓の音が回りに聞こえてしまいそうな静寂。

 少し躊躇してから、意を決して静かにドアを開け、中に入ると、予想に反して中が薄暗いのに驚く。一つだけ蛍光灯が点いているようだった。

 その明かりがついた部分に目をやると、その照明の下で、涼平が自分の椅子に座り、雑誌を読んでいるのが目に入った。

 涼平はスーツ姿だったが、靴を脱いで足を机に乗せ、リラックスした格好だった。完全にオフの自分だけの時間を楽しんでいる、という雰囲気を漂わせている。

 

 ドアが開く音に気付いて、涼平は真理子のほうに顔を向けたが、一瞬間をおいて、慌てたように足を机から下ろした。

 その表情は何も変わらなかったが、……凍りついた、といったほうがいいのかもしれない。

 雑誌を持つ手もそのまま、涼平は真理子を凝視した。

 真理子は黙って涼平のほうに近づくと、隣の椅子にすとん、と腰を下ろした。


「……どうしたの」

 

 そう言った涼平の声は、少し掠れていた。

 真理子は恐怖と、恥ずかしさで、涼平の顔を全く見れなかった。下を向いたまま、答える。


「――会いたくて」


 しばらく、沈黙が流れた。


「――ルール違反でしょ」


 涼平はほとんど独り言に近い、抑揚のない声でぼそりと言葉を発した。

 

「わかってる。ごめん」


 小さな声で答えてから、真理子は初めて顔をあげて、涼平の顔を見た。


「……なんか、無性に来たくなって……」


 真理子の顔を見返した涼平の瞳に、動揺が走ったのがはっきりとわかった。

 また、しばらく沈黙が流れた。


 ――と、涼平は何の前触れもなく、手にしていた雑誌をバン!と力任せに机に叩きつけた。

 突然の仕草に、真理子はびくっと体を震わせた。


「あのね」

 

 涼平はぐるっと椅子を回して、真理子のほうに体を向けた。

 ぎゅっと寄った眉と、細められた眼。見たこともないその表情。

 その声は必死で抑えているのだろうが、明らかに震えていた


「もう一度言うけど、俺はあんたに惚れてるの。

 わかる?バカみたいに惚れてるの。

 でもあんたには彼氏がいる。だから今忘れようと頑張ってるとこなの」

 

 真理子はその言葉を聞いて息をのんだ。……何でいきなり涼平はこんなことを言いだすのだろう?

 涼平は真理子の表情には全く構わず、低い声で続けた。 


「――こないだ仮眠室でも言ったけど、最初は、体だけでもいいって思った。

 でも、あんたに触ったり、抱いたりすると、すごい苦しんだよ。

 いくら抱いたって、あんたは別の男のものだ。俺のものじゃない。

 でも、抱けば抱くほど、俺のものにしたいって思っちゃうんだよ。

 ガキくさいって自分でもわかってる。でもどうしようもないんだ」


 涼平もこの1ヶ月、ずっと耐えてきたのだ。

 何度、また真理子を抱きたいと思っただろう。もうこういう関係はよくないとか、彼氏がとか、そんなことはどうだっていい、と何度も、……何度も考えた。

 しかし、真理子を抱く度に大きくなる涼平の中の渇きが、それを押しとどめた。……その渇きは、真理子を忘れることでしか失くせないとわかっていたからだった。

 それでも、また夜のオフィスで二人は対峙し、均衡が破れてしまった。……本音をぶちまけ始めると止まらなかった。


「あんたは、会いたかったってそんな顔で言われて、俺がどんなふうに思うかわかって言ってるの?

 よりによってイブの夜なんかに?

 彼氏と一緒だったんでしょ?でも俺にも抱いて欲しいってこと?俺とすると気持ちいいから?

 ――俺は、そんなふうに割り切れないんだよ。

 もう、そういう感情抜きでするのは無理だって思ったから、同僚に戻ろうって言ったの」


 ぎっと細められたその眼の奥で、強く光る瞳を見ながら、真理子は自分の最初の宿直のときを思い出していた。

 ……あのときも、涼平はこんな瞳をしていた。

 あれからもずっと、涼平は自分のことを思ってくれていたのだ。

 

 自分は、おそらく意図的に……そのことは考えないようにしていた。

 体だけだと割り切ってくれていると思い込もうとしていた。そんなに心が簡単にコントロールできないことくらい、当たり前のことなのに。

 そういう自分の何気ない動作が、ここまで相手を苦しめていたとは。

 ……少し考えればすぐわかることだったのだ。つまり考えていなかったのだ。

 なんて馬鹿なんだろう。……自分の浅はかさに、じわっと涙が目の奥から湧き出てくるのを感じた。


「こういう関係、続けるべきじゃないっていう気持ちももちろんある。

 ――けど、それだけじゃない。

 コドモの癖に、真理子の体だけでも欲しいって思った俺が悪いんだ。……ごめん」


 真理子は少し前から、ほぼ無意識のうちに、首を横に振り続けていた。


「ご、ごめんなさ……」


 後は、流れ落ちてきた涙で声にならない。

 目の前の、涼平の瞳が、涙とかいろんなもので直視できない。

 

 強い意志を秘めた、綺麗な瞳。

 ……その光が、辛そうに歪んでいるのは、自分のせいだ。


 涼平に会いたいと思ってここまで来た。

 前の逢瀬が忘れられず、抱いてほしいと、体の渇きを解消してほしいと思っているつもりだった。ただ体を求めているだけなのだと。

 けれど、実際に涼平の顔を見ると、そんなことはどうでもよかったような気もした。

 しかし、真理子は祐輔の家から来たのだ。さっきまで祐輔とセックスしていたのだ。

 祐輔との会話やセックスの物足りなさを埋めてくれる存在として、涼平に価値を見出しているだけなのかもしれないのに。だからこそこんなにシンプルに、会いたいと思えるのかもしれないのに。

 その気持ちを涼平にぶつけるのはルール違反だ。――そのくらいのこと、よくわかっているはずなのに。 


 バン、と涼平は椅子を後ろに払って立ち上がると、近くの窓のほうに歩いていき、真理子に背中を見せた。

 椅子が勢いよく後ろに下がっていき、壁にぶつかって止まる。


「……出てって」


 窓の外の、キラキラと光るクリスマスのネオンを睨みながら、涼平は押し出すように言った。


「早く。頼むから」

 

 ――もって、あと30秒くらいだ。

 全身が、涼平に告げていた。

 あと30秒以上、真理子があの椅子に座っていて、あんな表情を晒され続けていたら、間違いなく自分はショートする。

 振り向いて、距離を詰めて……思い切り抱きしめてしまう。

 

 ……カタン、という静かな音がした。

 真理子が無言で椅子から立った音だった。続いて、ドアが開き、閉まる音。

 

 フウッ、と涼平は全身で息を吐き出した。

 ――そのまましゃがみこんで、目の前の窓に掌を当て、体重を支えて、……その冷たさだけではない、寒気に、体が震えるのがわかった。




 真理子はオフィスを出て、エレベーターに乗った。

 知らぬ間に、涼平をどのくらい傷つけていたのだろう、と思うと涙が止まらない。

 いや、突き詰めれば、考えればすぐわかるであろうことをあえて考えずに、涼平に甘えていた自分自身が情けなくて、……どうしようもなかった。

 ――でも、心のどこかに、開き直る自分も確かにいる。

 この渇きを、疼きを癒すために、どこに救いを求めればよかったのか?

 早くこのビルから出てしまいたかった。……家に帰って、とりあえず寝てしまいたかった。

 エレベーターが1階に着き、ドアが開くのももどかしく、早足で真理子は歩き出すと、玄関のドアロックを解除しようと鞄からIDカードを出した。


「――あ、ちょっと」

 

 誰かが、真理子を呼び止める声がした。びくっとして振り返ると、宿直らしい警備員が立っている。ネームプレートには、田代、とあった。


「日浦真理子さんですか?」

 

 真理子は急いで涙を拭いながら、怪訝な顔をして頷いた。泣き顔を見られるのが恥ずかしくて仕方ない。もう深夜だから、IDカードを確認しているのだろうか?真理子はそう思い、カードを差し出そうとしたが、警備員はカードには目もくれず続けた。



「――日浦さん、11月2日の金曜日に、仮眠室でエッチなことしてたでしょ」




 真理子の全身に、冷たい水でも浴びせかけたような衝撃が走った。一瞬で涙が止まった。 

 11月2日は、真理子の2回目の宿直の日だったのだ。

 田代という警備員の表情は、目深に被っている帽子のせいでよく見えないが、その目つきが舐めまわすように自分を見ているのに真理子は気付いた。


「まさか、俺が宿直の日にまた来るなんて思ってもなかったよ。イブに宿直なんて最悪だって思ってたけど、ラッキーだったな」


「……何の話?知りません」


 何とか声を絞り出した真理子の表情を見返しながら、田代は口を曲げてニヤッと笑った。……まだ若い。下手したら10代かもしれない。

 パッと見た感じ、大人しそうな表情と目つきをしているが――その奥の、黒く鈍い光に、寒気が走る。


「あんたのオフィスの防犯カメラに映ってたんだよ。変な時間に部屋に入っていく男と、あんたの姿がね。

 あんとき宿直だった、俺しか気付いてないと思う。ちょっと調べてみたら仮眠室だったし、どう考えてもおかしいだろ?

 あれから念入りに調査したんだ。あのときの宿直は誰だったのか、一緒にいた男は誰だったのかってね。

 あのときのお相手は、今日宿直してるの?……松下涼平、だったよね」


 涼平の名前が出て、真理子はさらに背中に冷や汗が流れるのを感じた。

 ――調べられている。完全に。

 警備員という立場をフルに活用して、この1ヶ月半、この男は真理子のことを詳細に調べていたのだ。

 個人情報も漏れているかもしれない。

 真理子は知らず、ぶるっと震えた。


「否定しないとこ見ると、ビンゴ?

 もしかして振られちゃったの?泣いたりして」


「――何が言いたいの」


 自分でも驚くほど、冷たい声が出た。

 田代という警備員は、すこし怯んで真理子を窺った。ぞんざいな口の利き方を演出しているが、おそらくその実は、内気で臆病なのではないかと思わせた。……しかし今、田代には切り札がある。そのおかげで強い態度に出られているのだ。


「……話が早いね、日浦サン。

 このことばらされちゃったら、あんたは終わりでしょ?そしてきっとお相手の松下サンも。

 ――しばらく相手してよ。宿直ヒマだしさ」


 真理子にも、田代の言いたいことくらいはわかった。

 相手をしなければ秘密をバラすと脅されているのだ。

 その相手とは――体を出せと言っているのだろう。間違いなく。

 真理子は何かで頭を殴られて、目の前に火花が飛んだような、少し意識が遠のくような感覚を覚えた。

 

 ――どうする?

 助けを呼ぶか?

 オフィスには涼平がいる。

 エントランスから出れば、誰か通行人もいるだろう。


 ……しかし、そんなことをすれば、確実に仮眠室での秘密を会社に通報されるだろう。

 ただ部屋に入っていく映像だけではあるし、何もなかったと主張しても、少なくとも男である涼平は解雇される。間違いなく。

 自分のことはどうなってもいい。けれど……涼平にまで害が及ぶのは耐えられない。

 自分は涼平を散々に傷つけ、弄んでしまったのだ。ついさっきも。

 ……これ以上、涼平を傷つけたくない。


 どこか投げやりな自分がいるのも、確かだった。……そしてそれはさっき、涼平に拒否されたからだということに、薄々気付いてもいた。

 ……もう、いい。自分がどうなっても別にいい。 

 どうせ自分は、抱いて欲しいだけで、気持ちよくしてもらいたいだけで涼平を求めるような、軽薄な、……馬鹿な女なのだ。

 ここで、自分を出し惜しみしたって……どうせ、何の価値もない。

 

 気持ちよくしてもらえるんなら、誰だっていいんじゃないの?


「――わかったわよ」

 

 真理子は低く呟いた。

 

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