第8話 元の同僚?
元の同僚?
「――ねえ、実菜子ってMだったりする?」
北木実菜子は、ちょうど口に含んでいたチューハイをぶはっ!と吹き出した。
幸い、その量はわずかだったので、辺り一面に飛び散ることはなかったが、そのまま実菜子はげほげほと咽る。
「……なに?何言いだすの、いきなり」
ここは、真理子の家の近くにある居酒屋である。今日は12月の23日だった。明日はクリスマスイブだ。街の中も店内もクリスマス一色だったが、二人はそんな装飾や雰囲気はほぼ無視して飲み食いと話に集中していた。
実菜子は、真理子の大学時代の同級生だ。学生のときからよく一緒に遊んだし、親友といってもいい存在だった。大学を卒業してもう5年以上経つが、今でもちょくちょく連絡を取り合って飲みに行っている。
二人はともに経済学が専攻だった。真理子が今のペットショップの会社に転職したとき、なんでそんな違う業界にいったの?と実菜子に聞かれたものだ。「ペットショップの子たち、かわいいでしょ」と答える真理子の言葉は本音なのだが、実菜子には未だに訝しがられている。
その日、実菜子が久しぶりだし飲まない?と真理子にメールを送ってきたので、二人はこの店で待ち合わせて、ひとしきり近況報告に花を咲かせた。二人の家はそう遠くなく、歩いて行ける距離だったので、家の近くの居酒屋か、どちらかの家で飲むのが毎度のことだった。
……そして話題が切れたとき、突然真理子が、冒頭の質問を実菜子に投げかけたのである。
真理子が涼平と公園で待ち合わせしてから、もう1ヶ月近くが経とうとしていた。
同僚に戻る、という約束通り、あれから涼平と仕事以外では顔を合わせていなかった。オフィスで話をするタイミングになることも時々あったが、内心はともかく表面上は、涼平の態度は以前と全く変わらなかった。
……以前、といっても、涼平は会社ではいつも寡黙で控えめだったから、これまでもそう話をする機会は多くなかったのだ。真理子は今更ながら、今まで自分が思っていたよりもずっと、涼平との接触が少なかったことに驚いていた。
……正確に言えば、「会社向けの」涼平の顔はそれなりに知っていたかもしれない。けれど、その顔の奥に隠された涼平の素顔については、ほとんど何も知らなかったのだ。
面白そうに笑うときの顔とか、吹き出すのをこらえる顔や、真剣な気持ちをぶつけてくるときの強い眼差し。そして真理子を愛撫するときの、理性と本能がない交ぜになった、……そのまま自分を絡め取ってしまいそうな、視線。
初めて見る表情ばかりだった。そういう意味では、最初の宿直のときから涼平と過ごした時間が、真理子の知りえる涼平のほとんど全てだったし、その姿と会社でのギャップに少し戸惑う自分がいる。
涼平のことに考えが至る度に、真理子は意識して、その思考を頭から追い払っていた。
もう涼平はただの同僚だ。……あの日のことは、思い出にしなければならない。
実菜子は、きれいに色づいた唇を、面白そうにちょっと曲げた。
実菜子はいつも抜かりなく化粧をして、自分によく似合う服を着、その洗練された女っぷりと男に媚びないその態度に、真理子はかっこいい、という尊敬の念をいつも抱いていた。大学に入った当初、なんで自分なんかと仲良くしてくれるんだろう?と不思議に思ったし、実は今でも時々思う。まるごと信じられる、自分を出せる数少ない相手だった。
「あたしは自分でMっ気あると思うけどね、
どしたの?何があった?真理子にこんなこと聞かれるとは思わなかったよ」
真理子は少し不満そうに、首を傾げた。
「……なんでみんな、同じようなこと言うんだろ。
そんなに私、こういう話しなさそう?」
「真理子はそういうのオクテでしょ。自分で気付いてないとこが一番厄介よね。……でもそういうのも、いいとこだとあたしは思ってるけど」
実菜子はそういって言葉を切ったが、突然真剣な表情で身を乗り出してきた。声を落として、
「――どうしたの?
及川くんとなんかあったの?」
実菜子は、祐輔と職場が同じ。同期なのだ。
真理子は実菜子に引っ張り出された飲み会で祐輔と一緒になり、何気なく連絡先を交換した。何故か祐輔から連絡があり、何度か二人で会ううちに、付き合うことになったのだ。
祐輔と実菜子の話をそれぞれ聞いていると、二人はかなり良好な同僚関係を結んでいるようだった。……自分と涼平も、そうなれたのかな、と、真理子は少しだけ、胸を刺されたような思いを味わう。
形の上では、もとの同僚に戻ったけれど、ほんとうの意味での元には決して戻れない。前のように気さくに笑い話なんかできない。
仕方ないとわかってはいるけれど、理屈を通り越した部分で胸を刺すその思いは、どうしようもなかった。
実菜子の言葉に、真理子は慌てて両手を胸の前で振った。
「や、ないない。何もないよ。
私Mなのかなー、ってふと思ったから。それだけ」
言いながら、罪悪感がどうしようもなく胸を刺す。
実菜子は親友だし、隠し事などしたくなかったが、涼平とのことは言えない、と思った。
実菜子にはきっと詰られるだろう。そして自分は、涼平とセックスしたことについて、何も実菜子を納得させられる理由を言えないだろう。
真理子は涼平と過ごした時間を後悔してはいなかった。むしろ、自分には必要なものだったのだ、という妙な確信があった。
けれど、理由は自分でもわからない。……自分でもわからないものを、実菜子に説明できるわけもなかった。
実菜子はチューハイを置き、サラダを口に運びながら、あっさりと言った。
「ん、真理子はMだと思うよ。こういう話しないから、これまで言わなかったけど」
「ええ!?知ってたの!?」
実菜子は真理子の剣幕にちょっとたじろいだ。
「知ってたの、って……一緒にいれば何となくわかるよ。特に真理子の場合はわかりやすいし」
そうなのか……とショックを受ける真理子の表情を見て笑いながら、実菜子が続ける。
「あんま真理子ってそういうの興味ないでしょ?何で急にそんな深刻な顔して聞くのよ。
……ほんと、及川くんと何かあったのかって思っちゃうじゃない」
真理子の脳裏に、一瞬、……「何でって、すぐわかるよ」と言った涼平の顔がよぎった。
この1ヶ月、だいぶあの日のことを――公園で待ち合わせした日のことを、思い出すまい、と努力してきて、こういうふうにさっと映像が閃くことも少なくなったが、それでも、あの日のことを思い出すたび、真理子は身を硬くしてその映像に耐えた。
心の奥底にずっと横たわっている、感覚をゆり起こさないために。
あの日、涼平に与えられた、全身を揺らす感覚。全身が熱くなって、真っ白になってしまうような、あの震え。
そして同時に、どうしようもなく燻ってくる欲求。……またあの感覚を味わいたい。また、……涼平に触れられたい、という欲求。
……いつか、この欲求はなくなってくれるのだろうか?
そもそも、なくなってくれるものなのだろうか?
真理子は隙あらば頭をもたげてくるこの疑問を、いつもすぐに頭から追い払うようにしていた。……深く追求したら、取り返しがつかなくなるような気がしていたからだった。
「――そういえば」
黙った真理子の表情の変化を知ってか知らずか、実菜子は思い出したように話をつないだ。
「今日会社で久しぶりに及川くんに会ったけど、何か落ち込んでるみたいだったよ。
それで、真理子と何かあったのかって思っちゃったのもあるんだけど。最近忙しいみたいだから、仕事のことかもしれないし。何か言ってた?」
真理子は、ここしばらくの祐輔の様子を思い返した。
特にこれといって、思い当たるふしもない。穏やかに話をし、穏やかに真理子を求める、いつもの日々が繰り返されている。
「特に何も言ってなかったけど……明日会うから聞いてみようかな」
真理子が首を傾げながらそう答えると、実菜子もうんうんと頷いた。頷きながら、改めて店内のクリスマス一色の装飾に眼を遣る。
「明日はイブだもんね」
家に戻り、ゆっくりお風呂に浸かって、いつものようにベッドにもぐりこむ。
ふう、と体の疲れを感じながら目を閉じると、突然、首筋がぶるっと震えた。……涼平の唇の記憶を呼び戻したのだ。
これも、もういつものことだ。
日中、忙しく仕事をしているときはいい。けれど、夜になりベッドに入ると、必ず涼平に抱かれたときの感覚が蘇る。
この記憶は、いつかそのうち薄れていくものなのだろうか?
……この、身を焦がすようなじれったさも?
真理子は上半身をベッドから起こすと、机の脇にある棚の引き出しを開けて、何か小さなものを取り出した。
あの日、帰り際に、涼平からもらったローターだった。
面白そうに笑いながら「開拓がんばってね」って言われたっけ。
真理子は慣れた手つきで、ローターを自分の性器にあてると、スイッチを入れた。
ブーン……というモーター音が暗い部屋に響く。
規則正しい刺激に真理子は溜息をつく。左手で、自分の乳首をつまんで刺激した。ちくちく、と心地よい快感が走る。
体の中をぐるぐるとまわっていたじれったさが、収束してくるのがわかる。
思わず真理子は脚を踏ん張って、腰を浮かせた。男のものを迎え入れるように。
「あ、はあ……ああっ、あっ、あっ」
真理子は静かにオルガズムに達した。
ホテルの中で体を拘束されたときのあの光景と、真っ直ぐ自分を見ていた涼平の瞳がちらっと頭をよぎった。
次の日、真理子は会社帰りに祐輔の家に来ていた。
簡単な料理を作り、いつものように二人で食べる。クリスマスらしく小さなケーキだけ買ってきていた。祐輔は別段変わった様子もなく、ここ最近の仕事の様子についていろいろ話してくれた。
この、静かに流れていく二人の時間が、真理子は好きだった。
「――そういえば、実菜子が心配してたよ?
祐輔がなんか落ち込んでるみたいだったって。仕事忙しいのかもって言ってた」
真理子の問いに、祐輔は驚いたように目を丸くした。
「そうなの?北木ちゃんそんなこと言ってたのか。
別になんもないんだけどなあ。確かに仕事は忙しいけど、だいぶ出口も見えてきたしさ。
昨日会ったときは、会議の後だったから、疲れて見えたのかなあ」
しきりに首をひねる祐輔の姿に、真理子は笑って、わかったわかった、と手を振る。
「心当たりがないならよかったわ。実菜子にも伝えとくね」
内心、少し心配だったのだ。
もしかして、涼平のことを気付かれてはいないだろうか、と。
祐輔との付き合いは変わっていないし、涼平とも同僚に戻った。もう大丈夫だろう、という思いはあったが、それでも不安は決して頭を離れない。
……この不安も、長い間ずっと続くのだろう。これは自分にまわってきたツケのようなものかもしれない。真理子は何とはなしにそう思っていた。
その日は、祐輔の家に泊まることになっていた。
寝る準備を終え、ベッドに入ると、いつものように祐輔が真理子を求めてくる。
「なあ、真理子」
真理子を優しく抱きしめながら、祐輔がいつもの静かな口調で言う。この声で話しかけられると、いつも落ち着く。真理子は祐輔の背中に手を回しながら、うん?と答えた。
「年が明けたら、どっか旅行でも行かない?仕事もひと段落しそうだから」
「ああ、うん、いいね。どこ行く?」
「そうだな、どこでもいいけど、温泉とか?疲れを癒す感じで。
伊豆のほうとか、俺の実家もあるから、寄っていけるしさ、泊ってもいいし」
「えっ?」
唐突に発された言葉に面食らう。
祐輔の両親とは、顔を合わせたことこそあるが、ごく短時間に挨拶したくらいで、一緒に食事や、まして泊まるなど、したことがない。……付き合っている相手の両親に会うというのは一大事だ。いきなり、何でもないような口調で、そんなこと言われても、反応に困るというか……。
真理子が祐輔から体を離した気配に、祐輔は不思議そうな顔をして真理子を見返す。
「どうした?……何でそんな驚くの?
もう付き合って長いんだし、親に会うのも、別に不思議でもないだろ?てっきり待ってるんだと俺は思ってた」
「――待つって、何を?」
真理子は素っ頓狂な質問をする自分の声を聞いた。祐輔はますます不思議そうな表情をしながらも、少し改まった口調で答えた。
「俺はそのうち、結婚したいと思ってる。すぐってことはないけど。
……真理子は違うの?」
ガツンと、頭を殴られたような衝撃と、……その衝撃を受けたことに、ますます深まる混乱。
……確かに、結婚したいと思っていなかったわけではない。そういう言葉を待っていた時期もあったような気がする。しかしこの1ヶ月は、自分の頭の中はそれどころではなくて……。
そんなときに、こんな重要な話題を振れられても困るというか、……いや、そもそもそういう問題なのか……?
「違うことないよ。――なんか、いきなりすぎてびっくりしちゃって。
わかった、考えとく」
無意識のうちに、真理子は無難な回答を選択した。――とりあえず後で考えなければ。今はまだ考えがまとまらない。
うん、よろしく、と祐輔は優しい声で言うと、真理子をぎゅっと抱きしめた。真理子のパジャマを脱がせると、その胸を優しく揉み、舌を這わせる。
乳首を口に含み、舐められる。真理子はびくっと反応して、少し声をあげた。……しかし、祐輔は少し乳首を舐めただけで、すぐに舌を下げていってしまう。真理子ははあっ、と吐息をもらしながら、身を捩る。
その手と舌の感触に、昨日のことのように1ヶ月前のあの日の映像が、感触が蘇ってきた。
……祐輔のものとは違う、涼平の手と唇。
涼平と会ったあの日から、一つだけ変わったことがあるとすれば、祐輔の求めに応じない日が増えていた。
祐輔とのセックスを避けてしまう一番の理由は、あの日のことを思い出すからだった。……祐輔の淡白な愛撫を体に受けるたび、もっと、もっと、と真理子の体がどうしようもなく欲するのだ。そしてどうしようもなく……あの日のことを、涼平のことを、思い出すのだ。
正直に、もっとたくさん愛撫して欲しい、と言えばいいのかもしれない。しかし、何で急にそんなこと言うの?と返されれば、答えられない。
真理子は自分の体に起きた変化を覚られるのが、そしてなんで変化したのかを覚られるのが怖かった。
祐輔は真理子の茂みに手を伸ばした。割れ目を優しく指でなぞる。
その指が、知ってか知らずか、時折クリトリスを掠め、そのたびに真理子はうっ、と声を詰まらせた。
祐輔の指が真理子の蜜壷に入れられ、また抜かれる。その秘部がしっとりと熱と湿気を持っているのが自分でもわかる。
もっと、もっと弄んで欲しい……。
祐輔は手を離すと、真理子の腰を持ち上げて、自分のものを真理子の中に沈めた。ゆっくりと突き上げる。
ずしん、ずしん、と真理子の奥のほうにその震動が響き、突き上げられるたびにあっ、あん……と小さな声が漏れた。
しばらく腰を揺らすと、祐輔はあっ、と低い声を発して射精した。びくびくと祐輔のものが中で痙攣する。
祐輔は真理子の横に横たわると、優しく真理子を抱きしめた。
祐輔が果てた後も、真理子の体の疼きは増すばかりだった。中途半端に体を愛撫され、渇きを煽った状態で捨て置かれるに等しい。
また明日、自分の部屋でローターを使い、この疼きを癒してやれば済むこと、なのかもしれない。
しかしその瞬間、真理子の頭のなかで、何かがバチッ、と音をたてたような気がした。
自分は、祐輔と結婚したら、ずっとこの体の疼きに耐えなければならないのか?
そのうちこの疼きは消えるのか?前のように、祐輔の愛撫にフィットした自分の体が作られていくのか?
――そもそも、何で自分はいつもいつも、こんなに耐えているのか?
そしていったい何に耐えているのか?
……いまのは何の音?よくわからない。
それは、真理子がずっと奥に奥に押し込めていた疑問や矛盾が、はじけて外に出てくる音だったのかもしれないし、奥底の本音の上にがんじがらめに巻かれた何かが切れる音だったのかもしれない。
そのきっかけは祐輔が口にした結婚の話かもしれなかったし、とくにそんな話をしなくても、いずれはじけてしまうさだめだったのかもしれなかった。
無意識のうちに真理子はベッドから起き上がっていた。
「ごめん、会社に忘れ物してきちゃった」
真理子は平然と言う自分の声を聞いた。
「明日の朝イチまでの書類なの。取りに帰って、家で作業しなきゃ。
……ほんとごめん、今日は帰るわ」
祐輔は枕もとの時計を見た。
「でももう11時だよ。明日早く行くんじゃだめなの?」
「ちょっと、大事な書類だから、早くあげなきゃいけなくて。
……ほんと、ごめんね。またメールする」
ばたばたと服を着て、祐輔に異常を感知される前に急いで外に出る。
祐輔の家から歩いてすぐの駅に向かい、ちょうど来た電車に飛び乗って、初めて真理子はほうっと息をついた。
もちろん、忘れ物の書類などない。
――嘘をついて、出てきてしまった。
いつものように、寝てしまえばよかったのに。
こんなことをして、祐輔に訝しがられないとも限らないのに。
……でもなんだかもう、そんなことが全て、よくわからなくなっていて、どこか遠くに霞んでいくような感覚があった。
今日は、会社で涼平が宿直をしているはずだ。
涼平に会いたかった。
会って、この体を……そしてぐるぐると頭の中を巡る何かを、開放してもらいたかった。
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