第3話 仮眠室


 涼平の唇と舌の動きは、2週間前のそれとは全く違っていた。

 強引に口の奥まで入れられた舌が、真理子の反応など無視して動き回る。その、真理子の唇と奥を味わいつくそうとでもいうような、絡みついてくる動きに、……犯されているのだ、という感覚が沸き起こって、頭のどこかがじいんと痺れるような熱に襲われる。

 その口元から首筋にかけて、サアッと鳥肌がたち……その波は体の下のほうへ向かっていく。


 涼平は真理子の唇を吸ったまま、真理子の胸にゆっくり、手を伸ばした。

 カットソーの裾をたくし上げて、布地を持ち上げ、自分の手を差し込む。……素肌に直接手が触れるその感触に、びくっと体が震えた。

 大きくて、ごつごつして、……そして冷たい、その手が、ブラジャーの上からさわさわと胸に触れる。……確かめるかのように。

 

 その手は時折、胸の頂点を掠める。

 その度に、真理子の体は反応して、……ビクンと震えるその体が、それをはっきりと涼平にも伝えてしまう。

 はあっと、吐息とも声ともつかぬ音が、重なり続けている唇の隙間から漏れる。……声を出さないように、必死でこらえているのだ。

 ブラジャーが、その頂点に擦れるだけで、真理子は堪らず息を詰めて……身を捩った。


 涼平はその要求を受け入れ、真理子のブラジャーの上から少し指を差し入れると、真理子の右の乳首に優しく触れた。


「ううっ……!」


 その瞬間、声が漏れた。

 我慢できなかった。乳首から全身に走った電流に耐えられない。いつも声を出す場所とは違う、頭の後ろから絞り出すような声。

 その電流と、声の振動は、もちろん涼平にも伝わっただろう。乳首を押さえる指の力が増した。人差し指で、一番高いところを擦る。また真理子の全身に電流が走る。

 

 真理子は激しく身を捩った。右腕は涼平の左手でがっちり固定され、全く動かすことが出来なかったが、自由になる左手で、乳首に触れている涼平の右手を掴み、体から離そうとする。

 その力に、涼平はやっと真理子から顔を離した。

 少し離れて、視界に入った涼平の表情は、微かに頬に赤みが差している以外はほとんど変わらなかったが、その瞳に浮かんでいるものは、……恐らく、自分がこの2週間ずっと体の奥に押し込めていたものと、同じ……。


 疼き。

 その言葉が脳裏に閃いた瞬間、ぞくっと鳥肌が背中を走った。

 

「涼平、やめて……」


 唇が自由になり、真理子ははあっという吐息と共に、言葉を絞り出した。

 涼平の唇は、お互いの唾液でぬらぬらと光っていた。……と、ちろっと赤い舌が覗いて、その唇を舐めた、その仕草に、またカッと頬に熱が上る。 

 もう自分の顔は真っ赤だろう……恥ずかしい。こんな顔を見られることも、そもそもキスされたことから恥ずかしいし、自分の反応も相手に全て伝わってしまっているであろうことがとにかく恥ずかしかった。

 涼平は唇を真理子の耳元に持って行き、そっと耳たぶを噛んだ。


「――なんで?」

 

 また、びくっと体を震わせながら、真理子はか細い声で嘆願する。


「や……怖い……」


 咄嗟に口から零れ落ちた、怖い、という単語は、しかしはっきりと真理子の胸のうちを言い当てていた。

 怖い。涼平に触られることが、キスされることが怖い。

 そして何よりも、どうしようもなく反応してしまう、自分自身が……怖い。

 涼平はさらに真理子の耳たぶを舐めて、またびくっと真理子の体が震えた。


「……無理だよ。もう止められない。

 ――真理子だって、そうじゃないの?」

 

 耳元で、少し掠れた涼平の囁き声がする。

 その声を聞いた瞬間、真理子の体にまた電流が走った。


 覚られている。

 

 確かに、真理子は怖かった。

 これ以上涼平に全身を愛撫されたら、自分がどうなってしまうかわからない。祐輔の顔が脳裏を掠める。このままでは、自分は確かにどこか、入ってはいけない領域に足を踏み入れてしまう……。


 ……しかし、その恐怖と同じくらい、いやもっとかもしれない。

 涼平に続けてもらいたがっていた。もっともっと愛撫してほしがっていた。

 やめて――なんて、何いい子ぶってんの?

 止めて欲しくなんてないくせに。

 そんなふうに自分を嘲笑う声が、どこかから聞こえてくる。

 ……そしてその葛藤をどうしようもなく押し流してしまいそうな、この全身の感覚。

 

 真理子の体を愛撫しながら、涼平は確実に、真理子の体の奥の疼きを感じ取っていた。……この2週間、体の奥底に追いやろうとして、しかしずっと消えることはなかった疼き。

 そしてその渦はどんどんその大きさと速さを増している。

 ……もうそろそろ、真理子の理性も限界だった。


 涼平はその右手を乳首から離し、さらに下に伸ばした。

 真理子のスカートの裾をたくしあげ、下半身の中心、その部分に、涼平の手が優しくあてられる。

 ショーツの上から少しその部分をまさぐって、涼平は一瞬その手を離した。


「――濡れてるね」

 

 少し、面白そうな笑いを含んで、涼平の声が真理子に告げた。

 涼平は少し顔を離して、真理子の顔をまともに見る。真理子は眼を固く瞑って下を向いた。恥ずかしさに気が遠くなりそうだった。

 ……けれど、その言葉に、さらに真理子の秘部が熱を持ったのも確かだった。真理子の体から本格的に力が抜けかける。

 その体を支えるため、そして涼平にこれ以上自分の顔を見られないために、真理子は自分の腕を伸ばして涼平にしがみついた。

 涼平の体が、少し震えたのがわかった。

 真理子はほとんど無意識のうちに、しがみついたところにちょうどあった涼平の首筋に、自分の唇をそっと押し当てていた。……はっきり、涼平がぴくっと反応した。

 

「――あっち行こう」

 

 涼平は真理子の体をきつく抱きしめると、囁いた。

 あっち、とは、仮眠室のベッドのことだろう。まず間違いなく。

 涼平の声に、さっきまで漂っていた余裕がなくなっているのを真理子は感じた。体を密着させると、涼平の男の部分が固くなっているのが伝わってきて……またその感触が、真理子の羞恥と熱を煽る。

 

 ――と、真理子の机の上に置かれていた携帯が、ピピッ、ピピッ、と規則正しい電子音を発した。

 

 電子アラームだ。

 ハッと我に帰って、真理子はオフィスにある時計を仰ぎ見る。

 12時だった。見回りの時間だ。

 涼平も時計を見て、ふうっと溜息をついた。……その溜息とともに、涼平の理性が急速に戻ってきている気配が伝わってくる。


「お仕事の時間か。残念」

 

 涼平は真理子の体を離すと、側にあった椅子に座らせて、手を離しながら真理子の耳元で囁いた。


「いってらっしゃい。

 ――仮眠室で待ってるから」


 くるりと踵を返して、涼平は足早に部屋を出て行く。

 真理子はそのまま、……じっと椅子に座り込んだまま、呼吸を整え、しばらくしてようやくのろのろと立ち上がると、服の乱れを直してオフィスを出た。

 



 ペットショップの子犬や子猫たちの様子を見るためのモニター室は、社員のデスクが並べてある部屋とは別の場所にあった。廊下に出て、右側に少し行けばモニター室であり、その廊下を逆に左側に行った突き当りには仮眠室があった。

 涼平がその部屋にいるのだと思うと、自分でもよくわからない感情で胸がつぶれそうになる。

 恐怖と、緊張と……あと、なんだろう?

 この、崖っぷちを歩いているような……研ぎ澄まされた、それでいて全く何も見えないような感覚。

 

 ゆっくり部屋を出て右折すると、モニター室の扉を開ける。そこには壁にいくつかモニターが並べてあり、ペットショップの売り物たちが眠る部屋が、いろいろな角度から映されていた。

 今日も、子犬や子猫たちは、自分たちの幸せを信じて疑わない無垢ないでたちで深く眠っていた。

 モニターを見、報告書に型どおりの記入をしながら、……どうしようもなく滲み出る苦い思い。

 

 自分も、この子たちのように何も考えず眠れたらいいのに。

 このままぐっすりと眠って、朝を迎え、眼を覚まして……また最初から、新しい一日が始まる。

 

 ……けれど、もう自分は、そんな明日の迎え方はできない。

 

 涼平のところに戻るか、このまま会社を出るか。どちらかを選ばなくてはならない。

 どちらを選んでも、迎える明日はあの子犬や子猫たちのような、幸せなそれではないだろう。真理子はそう思った。……少なくとも、これまでと同じ日々は来ない。間違いなく。

 何よりも、これまで自分が味わっていた、涼平との間の心地よい空気はもう戻ってこないであろうことが悲しかった。

 なんで涼平は、二人の間の距離を壊すことを選択したのだろう?

 あんなに居心地がよかったのに。ずっと続いて欲しかった。続くと信じて疑わなかった。それを壊してしまうことが、涼平にとってはあの空間を維持することよりも重要だったのだろうか。

 たぶん涼平も悲しいのだろう、とは何となく解っていた。それでも壊さずにはおれないくらい、2週間前の涼平は切羽詰っていたのだろう。

 そして今日涼平は、その空間を少しでも修復しに来たのだと思う。きっと。

 

 ……それをぶち壊したのは自分だ。

 

 もう、あの心地よい空間に戻ることはできない。

 これまでにも、戻るチャンスはいくらでもあった。それなのに、そのチャンスを全て無視し、素通りして、ここまできてしまった。

 

 ……これは、自分の意志、なのだ……。


 


 仮眠室は、6畳の部屋にベッドが置いてあり、奥の窓際に椅子がひとつ置いてあった。入ってすぐ左手にはドアがあって、トイレとバスルームになっている。よくあるホテルの一室のような造りだ。

 その窓際の椅子に座って、ぼんやりと外を眺めていた涼平は、カチャッ、とドアが開く音に弾かれるように後ろを振り向いた。

 真理子が、するっとドアを開けて入ってきて、後ろ手にドアを閉めたのが目に入った。オフィスのほうも完全に戸締りをしてきたらしく、手に荷物を抱えている。

 

「――びっくりした」

 

 涼平は眼を見開いて一言だけ、声を発した。

 もう、真理子は来ないと思っていたのだ。きっと今頃、冷静さを取り戻して誰かに通報しているに違いない、と。次にこの部屋に誰かが入ってくるときが、全てが終わるときなのだろうと覚悟を固めて、全てを受け入れるつもりで……ここに座り続けていたのに。

 ここに一人で来て、少し落ち着いてきた今、……大変なことをしてしまった、と、今更ながら、後悔の念が頭のなかを渦巻いていた。

 いくら、あの真理子の瞳に期待の面影を見て、激情に駆られたとはいえ。取り返しのつかないことをしてしまった……。

 恐怖の色が差した、涙混じりの瞳とその声が、脳裏にまとわりつく。

 

「――絶対来ないと思ってた。

 通報されて、今度こそ辞表の出番だと思ってたのに」


 真理子は無言で、扉の脇にどさっと荷物を放り投げると、すぐ後ろの扉のほうを振り返り、ガチャン!と鍵をかけた。

 その音は思いのほか大きく響き、涼平はどきっと胸が鳴るのを感じた。


「真理――」

「何で?」

 

 言いかけた涼平の言葉を遮って、真理子は言った。

 強い調子に、その表情を見返して、涼平は口をつぐんだ。

 

 真理子がその眼にいっぱい、涙を湛えているのに気付いたからだった。


「何で、……涼平があのときキスなんかしなければ、こんなことにはならなかった。

 あれから、何かがおかしくなっちゃって、どうしようもなくなって、

 今日だって、私のことなんか放って帰ればよかったのに、何で、」


 真理子の眼から、ぽろっと涙が零れ、……しかし、真理子は首を横に振り、声を絞って言葉を継いだ。


「いいや、違う。涼平のせいじゃない、わかってる。

 全部私が悪いんだよ、……でも、もう止められない。

 ……いい歳してバカみたい。ほんとバカみたいよね」

 

 最後のほうはもうほとんど支離滅裂な台詞を連ねながら、真理子はぽろぽろと涙をこぼした。 

 真理子の言葉の真意を掴みかね、その表情を見返して、……涼平は何も言えず口を閉ざした。こんな真理子を見るのは初めてだった。

 

 平均よりはだいぶ小柄で、一見すると儚げな印象だが、実際に関わると、その第一印象とは真逆の性質であることがすぐにわかる。決して他人に寄り掛からず、いつも真っ直ぐに立って、真っ直ぐに相手を見る。

 その視線はいつも、あっさりと自分の体など突き抜けて、全て見通されるかのような力を含んでいて、……そのくせ、自分の内面、心の奥まった部分は絶対に外に見せない。

 その真理子の、鎧とでもいうべき外側を剥いた、その姿を目の当たりにして、……おそらく自分のせいで、

 しかしその、真理子の眼からこぼれる涙の透明さに、涼平は息をのんだ。

 

 涼平は真理子の側まで近寄ると、恐る恐るその肩を抱き寄せた。

 予想よりもすんなりと、真理子は体を涼平の胸に預けた。……じっとりとワイシャツの布を濡らして、真理子の涙の熱さが伝わってくる。

 涼平はぎこちなく後ろに腕を回し、真理子の背中をさすった。真理子は何度か体を震わせたが、言いたいことを言ってすっきりしたらしい。やがて涙は止まったようだった。

 涼平は、真理子が落ち着いたのを見て取ると、思い切って息を吸った。


「……何で今日、俺が来るのを待ってたの?」


 今日、夜のオフィスに来てから、ずっとわだかまっていた疑問だった。

 真理子が自分と、自分に付随した何かを待っていたのはすぐにわかった。――そして今も、真理子はその何かを求めてここまで来たのだろう。間違いなく。

 ……でも、何を?

 まさか自分を求めているのではないだろう。ついさっき、はっきりと振られてしまったのだから。

 しかし、ここできちんと聞いておかないと、勘違いしてしまいそうで、期待してしまいそうで怖かった。……振られるなら徹底的に振られないと困るのだ。

 

 真理子は少し無言だったが、やがて呟くような小さな声で、答えた。


「確かめたかった、から」

 

 涼平も真理子にだけ聞こえるような小さな声で、……何を?と重ねて問う。

 真理子はまた、少し考えているような、口に出すのを憚るような沈黙を漂わせたが、やがて答えた。


「……あのときから、2週間前から、ずっと何か足りないような感じがして、

 でも何が足りないのかわからなかった。

 それを確かめたかった」

 

 そして涼平の反応を待つように一呼吸あけたが、涼平が何も言わないつもりなのを察すると、真理子は観念したように呟いた。


「続き、してほしくて、

 ……ほんとは最初からわかってた。でも認めたくなかった。

 もうダメだってわかったから、ここに来た」


 真理子は言ってしまうと、頭を涼平の胸に押し付けた。


「……あー、ひどい、我ながら……」


 涼平は真理子の言いたいことをやっと理解して、どうしようもなくなって、無意識のうちに顎の下にある、真理子の頭を撫でた。


「……わかった、……たぶん」

  

 恐らく、きっと、……気持ちは自分にはないくせに、体だけを自分のものにしてほしいと言っているのだ。目の前の女は。  

 そして、この真っ直ぐな眼で、その言葉と表情で自分の予想を裏切り続ける目の前の相手に、どうしようもなく参ってしまっている自分。

 ……なんて強かな、我儘な欲求だろう、と、しみじみ思う。

 けれど、この体を抱きしめてしまっている自分には、もう選択の余地など、余裕など残ってはいない。

 

 涼平は真理子の肩を持つと、少し体を離して、真理子の顔を見た。

 恥ずかしさと……隠し切れない願望とで頬を染めた真理子の表情を、……綺麗だと思った。

 その気持ちはどこか別の場所でもいいから、この体を悦ばせ、高みにのぼらせてやりたい。

 ……そして、めちゃくちゃに征服してやりたい。


「つまり、アイとかコイとか、そういうのとは別の問題ということね。

 ……いいよ。俺もそんなにガキじゃないつもりだし」

 

 そう言って、涼平は真理子の首筋にキスをした。

 その首筋がぶるっと震えたのがわかった。


「言っとくけど俺変態だからね。覚悟しろよ」

 

 ――まあ、男はみんな変態なんだけどね。と続けて、真理子は思わず笑いを漏らし、

 その表情を自分だけのものにしたい、という欲求に、胸を絞られるような痛みを感じて、……それを誤魔化すために、涼平はその唇を塞いだ。



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