第2話 第2回
第2回
「……真理子?」
「……ねえ、真理子ってば」
真理子の視線の先、光っているのはパソコンの液晶画面。
明日までに仕上げて上司に提出する予定の、ペットショップの特設コーナー企画書だ。
一字の間違いもないように、入念に最後のチェックをしなければならないのだが、ページのスクロールはだいぶ前からほとんど動いていない。
「もう!日浦真理子ー!」
「うわっ」
突然大声で自分の名前を呼ばれ、真理子は椅子から飛び上がらんばかりに驚いた。
見れば、真理子の同期である、堀口美鈴と景山絵里が、机の向こうから呆れ顔でこちらを見ている。……同期といっても、二人とも真理子よりは年下だ。美鈴は涼平と同じように大学院を卒業してからの就職なので、真理子より三つ年下になる。絵里は大学を卒業してからすぐの就職のため五つ下という計算になるが、真理子は、二人が年下だという実感を持ったことはあまりなかった。
「あ、……ごめん」
「もー、全然気付かないし」
二人は帰り支度を済ませて、薄手のコート姿だった。オフィスには軽く暖房が入っているけれど、それでも壁際から寒さが忍び寄ってくるぐらいには気温は低い。
もう11月の初旬である。少しずつ、寒さは本格的になってきていた。
「もう帰るからね。一緒に飲みに行きたかったけど、残念。また今度ね。
扉に鍵かけとくから、セキュリティすぐ作動させたほうがいいよ」
「……あ、うん。ありがと」
声をかけた美鈴はにっこり笑うと、お疲れ様ー!と声を張ってから入り口のほうに歩き出した。絵里も頑張ってね、と声をかけて後に従う。二人に笑顔で手を振り返しながら、真理子も立ち上がり、絵里が扉に鍵をかけたのを見計らって、セキュリティシステムを作動させる。
……急に、がらんとしたオフィスが真理子の前に迫ってきた。
今日は、2回目の宿直だ。
真理子の会社では、宿直は主に3年目までの社員が担当する。3年目までの社員は15人いるから、大体2週間に一度宿直がまわってくる計算だった。今日は前の宿直からちょうど2週間後の金曜日。例によって社員は早々に退社して夜の街に繰り出し、まだ9時には少し時間があったが、オフィスには誰もいなかった。
……真理子を除いては。
真理子はふうっと溜息をついて、自分の椅子に座った。
外に投げた視線が捉える、2週間前と変わらぬオフィス街の夜景が美しかった。
ふと、ざっと真理子の脳裏を擦るように閃く、二つの小さな夜景。
あの夜の、夜景を映した、……涼平の双眸。
真理子は殆ど無意識のうちに、唇を噛み椅子を回して、パソコンに顔を戻した。
思い出さないために。あの夜のことを。
しかし、思い出すまいとすればするほど、あの夜の出来事が克明に真理子の胸に迫ってくる。
……もう、何度も反芻した映像だった。
あの夜。
涼平が帰った後、一人取り残された真理子は、結局ほとんど眠れなかった。
何とか定められた宿直業務をこなした後は、風呂に入って念入りに体を洗った。……涼平の手の感触を忘れたかったからだ、もちろん。
その後ベッドに入り、もう寝ようもう寝ようと自分に言い聞かせながら横になっていたが、結局まんじりともせずに夜が明けてしまったのだ。
……体が疼いているのを、認めないわけにはいかなかった。
気付かないふりをしても無駄なくらい、はっきりと体の芯が熱を持っていた。
それを認めまいと、真理子はずっと体を硬くしてベッドに横になっていたが、その疼きには到底抗えないと気付くのにそう時間はかからなかった。
観念して……真理子はベッドの中で、そっと自分の秘部をまさぐった。
一人での行為は初めてではなかったが、これまで数えるほどにしかしたことがなかったし、……当然というべきか、気持ちよさなども感じたことがない。よくわからない、というのが正直なところだった。
……けれど。
「うっ……」
自分のクリトリスにわずかに触れた瞬間、思わず呻き声が漏れた。
電流が走った、ような気がした。
その電流はみるみるうちに増幅して、どこか真理子の中の柔らかい部分をなぶる。……求めるものはわからないくせに、ひどく明確な力で煽られる、……渇き、にも似た何か。
もっと……もっと。
その渇きに背中を押される形で、少しずつ、クリトリスを押さえる指先に力がこもってゆくのを、止められなかった。
「……はあっ」
知らぬ間に吐息が漏れる。
ひとしきり、真理子は自分のそれを触っていたが、疼きは増すばかりだった。
未熟な手は、その渇きを煽りこそすれ、それを癒し、おさめる術は知らない。……そのことに気付いて、真理子はもう触るのをやめた。
脚を固く閉じ、この数時間のことを忘れなければ、と目をぎゅっと瞑って……それでもやはり、冴えるばかりの眼。思考。
ぐるぐると体の中で出口を探すその疼きと、押さえきれない……羞恥。
涼平にキスされただけなのに。時間外ではあったけれど、仕事中だったのに。
会社のオフィスで、……仮眠室のベッドで、こんなことをしてしまうなんて。
――あれから2週間、
目の前にあったあの真っ直ぐな瞳と……自分の唇を愛撫していた、涼平の唇と舌の感触を何度思い出しただろう。
さすがに時間が経つにつれ、眠れないようなことはなくなったが、あのときの映像は少しも色あせず、不意に真理子に襲いかかってくる。
社内での真理子と涼平の会話が激減したことに、誰か気付いただろうか。
普段どおりにしなければ、と思っても、やはり無理だった。涼平のことを知らず避けてしまう自分がいた。
それなのに、涼平と何度も目が合った。
そのたびに、はっとして視線をそらして……外した眼の奥で、どうしようもなく湧き上がる動悸を抑えようと深く息を吸う。
廊下ですれ違うとき。仕事場で何気なくパソコンから顔をあげたとき。
涼平はいつもその眼の奥に、秘密を共有したものだけが持つ光を湛えていた。
……真理子は、そのたびに心臓が鳴るのを止められなかった。
そして2週間が過ぎて、
真理子は誰もいないオフィスで、自分の周囲を照らす蛍光灯を残し、他をすべて消した。
部屋が暗くなり、窓から見える夜景がぐっとその存在感を増す。
……もうすっかり、パソコンの書類を見るのも諦めて、窓の外の夜景を眺め続け、どれくらいの時間が経っただろうか。
カチャッ、とドアのノブが回る音が聞こえた。
時間は11時。静かに扉が開く音。
入り口のほうは薄暗くてよく見えなかったけれど、見えなくても、来たのが涼平だと真理子には解っていた。
涼平はまた、ここへ来る。今夜、2回目の宿直の夜に。
涼平と何度も視線を合わせながら、何となく交わしていたのかもしれない、……何か、確信のようなもの。
扉が開く音を聞いても、驚きもしなかった。
ただ、少し心臓の動きが速くなっただけ。……胸を押さえつける緊張だけは、どうしようもない。
自分は、何で今涼平を待っているのだろう?
また二人になってしまったら、どうなるかわからない。……また前みたいに、……キス、されるかもしれない。いや、キスだけでは済まないかもしれない。
そのことを考えるたび、自分は確かに、……どうしよう、と、不安に押しつぶされそうになっていたのに。
何で今自分は、涼平が来るのを待っているのだろう。
わからなかった。
……ただ、涼平のあの真っ直ぐな瞳を何度も思い出していた。
涼平は2週間前と同じ、仕事帰りのままのスーツ姿だった。
今日は同期で飲み会の予定があった。さっき最後まで残っていた美鈴と絵里も、あれからすぐに飲み会の会場に向かったはずだ。真理子は宿直だったから、当然参加することはできなかったが、自分以外の4人は参加することになっていたと思う。勿論涼平もだ、……途中で抜けてきたのだろうか?
涼平はまた、真理子の左隣の机までくると、どさっと椅子に座った。
無言で涼平の姿を見返して、少し遠く、いつもの静かな黒い瞳と目が合って……2週間前と同じ配置に、自然真理子の体は固くなる。
自分を律しないと、椅子からがばっと立ち上がって逃げてしまいそうだった。
「飲み会じゃなかったの」
何も言わない涼平に間がもたず、真理子は口を開いた。
ん?と涼平は真理子の質問を聞き、ああ、と面白そうな笑顔になる。
「途中で抜けてきたよ。
用事があるって言ったら散々突っ込まれた。全くあいつら、プライベートってもんが皆無だよな」
楽しそうに言った後で、涼平は口調を改めて、言葉を発した。
「……ねえ、なんで何にも言わなかったの?」
涼平の瞳からは、2週間前にあったような思い詰めた光は消えていた。
椅子の背もたれに体を預けてふうっと息をついたその姿は、むしろリラックスしているようにさえ見える。
その涼平の表情に、真理子は知らず、ほっと肩の力が抜けるのを感じながら、……しかし予想外の問いかけに、えっ?と思わず声が出た。
「何って?なに?」
2週間前、答えを待ってるから、と言われたことだろうか?
確かに、それについて何もコメントしていないのも少し気にはなっていたが……。
「いや、だってさ」
屈託ない笑顔を顔に浮かべる涼平の表情は、途端に年下の男のそれになった。
「俺、この2週間ずっと辞表持ってたんだよ。
真理子が誰かにこないだのこと言ったら、やばいだろ?そしたらすぐさま辞めなくちゃって。
でも誰にも言ってないみたいだから」
「……ああ」
確かに、男女の区別なく宿直をさせているこの会社は、宿直中のトラブルに関しては非常に敏感だった。真理子が一言「セクハラされました」と言えば、一瞬で涼平の首は飛んだだろう。
そうなれば、涼平はすぐ会社を辞めるつもりでいたのだ。その思い切りのよさに真理子は内心少し驚いていた。
「かといって、こないだ俺が言ったことにも特に反応なしだし。
なんかもー、だいぶ神経すり減らしちゃって。この2週間」
はあー、と背もたれにもたれたその姿は、確かに疲労していた。そして、その内心の葛藤をやっと吐き出せる、という安堵の表情が窺えた。
遠くからの視線だけでは、そこまで涼平が心を砕いていたとはまったく読めなかった。……この2週間、心穏やかでなかったのはお互い様か、と思い至って、少しおかしくなり、笑いが口の端に上ってくる。
「何?何で笑ってるの」
いやいや、と手を振って、形だけパソコンのほうに向き直る真理子を見て、涼平はふっと真面目な口調になった。
「何で黙ってくれてたの?」
「……」
自分でもよくわからなかった。
確かに、上司に報告すればそれで終わりだ、と思ったこともあった。……しかし、実際に行動に移す気にはなれなかった。
2週間後、また涼平が夜のオフィスに来ることもほとんど確信していたのに。
「……どうしてだろうね。よくわかんないよ」
真理子は正直に答える。
今、二人でこうやって対峙して、自分は何を彼に伝えたいのか。
「そんなこと言われると俺、勘違いしちゃうけど、いいの?
男ってほんと単純なんだよ」
少し語尾を笑いに紛らせて、涼平は真理子を見る。そのいたずらっぽい視線に、不意にどきっと胸が鳴った。
おそらく涼平も、真理子が自分を待っていたことを察しているのだろう。……そしてその言葉は、真理子に本音を言わせるための布石であることも、なんとなくわかっていた。
「……涼平」
ぎゅっと胸を掴む緊張とともに……言葉を絞り出す。
「私……彼氏がいるし、彼氏と……祐輔とは、別れるつもりはないの。
気持ちは嬉しかった。ごめんなさい」
これだけは言わなくてはいけない、と思っていたことだった。すんなり口に出来たことを感謝する。
恋人である及川祐輔とは、幸か不幸か、あの晩から一度も会っていなかった。前半は向こうが出張で家を空けていたし、後半もお互いの仕事の都合ですれ違っていた。
もし会っていたら――涼平の瞳に怯える自分と対峙していたら、祐輔は何かを気付いただろうか?
考えただけで恐ろしかった。
――でも。
今涼平に伝えたいことは、このことだけなんだろうか?
「うん。知ってる」
涼平は静かに頷いた。全てを予期した眼だった。
その眼を見て、稲妻が光るように瞬時に理解する。
……涼平は間違いなく、今日、決着をつけにこのオフィスまで来たのだ。
この男に、こんな沈着な一面があったなんて、
もしかしたら自分は涼平のことを、もの静かという印象以上、実は何も知らないのではないか?
この2週間幾度となく思いを巡らせていた、眼の前の同僚。松下涼平という同期入社の男。
法律が専攻で、確か司法書士だったと思うのだけれど、資格を取るために勉強していたらしい。そのまま勉強を続けていれば資格をとれそうだったらしいのに、なぜか今の会社に就職してきた。
その理由は、社会を見たくなったから、という涼平の一言で片付けられているが、真偽のほどはわからない。……趣味はといえば、映画が好きで、同期にしょっちゅう映画の話をせがまれている。
真理子には、そのくらいしか涼平についての知識はなかった。容姿についても、中肉中背で、あまり男男した雰囲気はかったが、ひとつあげるなら、真っ直ぐな髪が綺麗だといつも思っていた。飲み会のたびに髪をぐしゃぐしゃして羨ましがり、けっこう嫌がられていたような気がする。
あくまで、真理子と涼平の間には、きちんとした距離が保たれていた。……2週間前まで。
その距離感が、距離をきちんと保って交わす会話がとても自分には居心地がよくて、……でもその距離は壊れてしまった。
そして2週間前と今日、二人きりの時間、ふと涼平が見せる新しい表情に、ついていけない自分がいる。
「真理子が祐輔さんをすごく好きなことも知ってる。
でも、……自分の中だけで押さえておけなかったんだ。
ごめん。悪かったと思ってる。
あのときのことは忘れてほしいとか、そんな勝手なこと言える立場じゃないけど……もう普通に戻るよ」
涼平はそう言うと、じゃあ、と静かに立ち上がった。
真理子は何も返す言葉が見つからず、涼平を見上げる。
二人はほんの何秒か、そうやってお互いを見ていた。
ふと、涼平は一歩前に出ると、ゆっくり腰をかがめて、真理子の顔を覗き込んだ。
一瞬、その表情を見遣ってから、そうっと……そうっと顔を近づけて、涼平は真理子の唇に自分のものを寄せた。
触れるか触れないかというくらいの掠めるだけのキスをして、すぐ体を離して……息を体じゅうに吸い込んだ、その眼にサッと差した色を、涼平はぎゅっと眉を寄せ目を細めて隠した。……否、隠そうとした。
刹那、息を止めて……その努力も虚しく、零れ落ちる言葉。
「――なんで、そんな顔、するの?」
涼平の瞳に、2週間前と同じ、射るような光が宿っているのを真理子は見た。
その声を聞いた瞬間、サッと真理子の頬に赤みが差して――思わず椅子を後ろに押し、離れようとする。
「ちが――」
「違わない」
強い調子で真理子の言葉を遮る涼平の声に……その眼に、思わずぶるっと体のどこかが震える。
……気付いていたのだ。
さっき一瞬、涼平の顔が近づいてきたとき、キスされると思ったとき、動けなかったことを。
逃げようと思えば、いくらでも逃れられたのに。
でも動けなかった。……いや、動かなかった、のだ。
「そんな顔されたら、俺――」
瞳の光が……強い。
二週間前と同じ真っ直ぐな視線をぶつけられて、真理子はその瞳から眼を離すことができなかった。
その瞳に静かに燃え上がる……何か、熱いもの。
でも、……同じようで、違う。
その炎は、2週間前と同じように熱かったけれど、こんなに……静かではなかった。
前はもっと、激情に駆られ方向を見失ったかのような、支離滅裂な熱さだった。……こんなに、自分だけを見据える、静かで落ち着いていて、でも熱いような、ものじゃなかった……。
真理子は反射的に、立ち上がろうとして、……逃げようとして、
しかしその腕を、涼平が掴んだ。
「……いっ」
ぐいっと後ろに引っ張られて、真理子は涼平のほうに倒れ掛かる。その体を受け止め、涼平は二人の横にあった窓に真理子の体を押し付けた。涼平は真理子の両腕を自分の手で押さえつけると、そのまま……真理子の唇に自分のものをぶつけた。
「うっ……」
その唇と、挿し込まれる舌の感触を感じた瞬間、
自分の体から力が抜けていくのを、真理子は感じた。
抵抗したいのに。
抵抗しなければならないのに。体が動かない。
――自分が待っていたのは、これだったのだ。
確かめたかったのは、この唇の感触だったのだ。
いま真理子は、そのことをいやというほど覚らされた。
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