始まりは夜のオフィスで

@Mizuki_Mai

第1話 始まりは夜のオフィスで


 今日は、真理子の初めての宿直の日だ。

 

 真理子の勤める会社は、いくつかのペットショップを経営している。

 業界ではそれなりに名の通った会社で、近年のペットブームに乗ってその規模も拡大中だった。……生き物を扱う仕事であるため、普通の会社とは少し違う特殊な部分がいくつかあったが、宿直の仕事もその一つだ。

 宿直は、夜中にペットショップの商品たちの様子をチェックする仕事である。ペットショップの売り物である子犬や子猫たちが眠っている部屋にはテレビカメラが設置されており、会社にそのモニターが集められ、定期的にその様子をチェックする仕組みになっている。本当なら、ショップごとに宿直者が寝泊りするのが一番いいのであろうが、そこまでの予算はつけられない、というのが正直なところなのだろう。

 真理子は今年の春に入社した、いわゆる新人である。研修期間を経て、だいぶ仕事にも馴染んできた10月から、宿直の仕事をまかされることになったのだ。

 

 宿直の仕事は、面倒くさいと嫌がる先輩たちも多かったが、真理子はこの日を楽しみにしていた。

 夜中、誰も居ないオフィスを独り占めなんて、わくわくする。

 ペットショップの子犬たちは入念な世話を受けているから、夜中に状態が急変することはほとんどない。定期的にカメラの映像をチェックして、簡単な報告書に記入をすればそれでいいのだ。万一様子がおかしいなという状況であっても、提携している病院に連絡を入れ、対応してもらう手筈になっていた。ぬかりはない。

 定期チェックの時間以外は、特に拘束されない。寝ていてもかまわないのだ。……おまけに、宿直者用の洗面所、バス、ベッドも完備だし、業者による掃除も毎日行われている。ホテル並みに快適だ。

 いつもは、周りで働いている同僚たちの眼が気になってあまりネットも見れないが、今日は一人だから思う存分パソコンも使えるし、少し集中して遣り込みたい仕事も残っている。


 夜9時。オフィスにはもう誰もいなかった。

 8時頃までは、残業をする同僚の姿がちらほら見られたが、もう彼らも帰ってしまっている。……今日は金曜日だから、おおかた仲間と飲みにでも行ったのだろう。

 書類を仕上げるべく、真理子は集中してパソコンに向かっていた。




「……真理子?」

 

 突然かけられた声に、真理子は息が止まりそうなほど仰天した。

 もう誰もいないので、セキュリティーシステムを作動してある。侵入者が現れた場合はその存在をサイレンで知らせるはずだから、声の主は社員なんだろうけれど……!

 そんな考えが頭に浮かぶ間もなく、はっと顔をあげた机越しに、スーツ姿の男が立っているのが見えた。

 

 ……涼平だ。

 

 真理子はほうっと息をつくと、自分の慌てっぷりに笑ってしまいながら涼平を軽く睨んだ。


「涼平か!

 ……もう、ほんとびっくりさせないでよ」

「ごめん。……入ってきたの、気付いてるかと思って」 

 涼平も真理子の驚いた顔に苦笑いする。

 

 松下涼平は真理子の同期入社だった。

 今年の入社は5人。会社にしては少ないほうらしい。しかし少ないのが良かったのか、5人は研修期間から不思議とウマがあい、今でもよく飲みにもいく関係だった。

 涼平は机をまわって真理子の左隣の椅子に座った。真理子の机はオフィスのなかでも壁際にある。すぐ後ろは窓である。

 ビルの7階に位置するその窓からは、夜のオフィス街がよく見えた。もう時間も遅いのでだいぶ人通りも減り、暗くなってきているが、それでも周囲のビルにはまだ結構な数の明かりが点っている。

 

 涼平はオフィスの入り口に設置してあるコーヒーメーカーでコーヒーを淹れてくれていた。手にした二つの紙コップのうち、一つを真理子の側に置いて、どうぞ、と手で促す。

 いくらパソコンに集中していたとはいえ、涼平がコーヒーを淹れてくれてたのに気付かないなんて。真理子は苦笑いしながら、礼をいってコーヒーを受け取った。


「真理子、今日は初めての宿直だったなと思って。

 ……どう?気分は」

 

 真理子はコーヒーを飲みながら、涼平の言い草に思わず笑って答える。


「どうって、まだ始まったばっかりだよ!

 ……でもこうやって、誰も居ないオフィスで仕事できるのっていいよ。集中できるし」

「――でも、オフィスに一人なのって怖くない?幽霊でも出そうでさ」


 真理子は涼平の子供っぽい台詞に吹き出した。……涼平の初宿直は、シフト上もう少し後なのだ。  

 

 真理子は、大学を卒業してすぐにこの会社に就職したわけではない。転職してきたクチだ。

 涼平は大学院を卒業してすぐにこの会社に就職したから、歳も三つ下だったし、同期の5人のなかでも一番物静かで大人しかった。その大人しい性格と相まって、真理子はいつも弟と話しているような気分で涼平に接していた。


「まさか、幽霊なんて出るわけないじゃない!別に私霊感ないし、全然大丈夫だって」

 

 笑いながら、ないない、と手をふる真理子を見て涼平も笑う。

 そのまま、話題は何とはなしに雑談へと移った。今抱えているプロジェクトがどうのとか、同期の話とか、いつも顔を合わせたときにする他愛もない話だ。

 涼平は他人のテリトリーに抵抗なく入ってくるようなタイプの人間ではなかったから、他の同期のように突っ込んだ話はほとんどしない。その距離感が適度で心地良い、といつも真理子は感じていた。静かで、落ち着いていて、……安らげる。

 

 真理子はふと、涼平が仕事帰りそのままのスーツ姿なのに違和感を感じ、首を傾げた。


「でも涼平、何で戻ってきたの?忘れ物?」


 真理子の記憶が正しければ、涼平はもう一時間くらい前に、他の同僚と一緒に帰宅の途についたはずだ。

 その時、これから飲みにいくような話をしていたと思ったのだが……。


「……うん、ちょっと忘れ物」

 

 涼平は曖昧にそう言うと、真理子のパソコンの画面に目を移した。……あ、と声をあげる。

「それ、新店舗の企画書?」

 

 真理子はペットショップ部門、企画課に所属しており、数ヶ月先にオープンを控えた新店舗の内装を手がけるプロジェクトに参加していた。……新しいコーナーについて斬新なアイデアはないか、と上司につつかれていたのだ。


「そうそう。新コーナー。もうほんとに、全然アイデアが湧かなくて」


「ちょっと見せてくれない?」

 隣の机から、涼平が身を乗り出してパソコンの画面を覗き込んできた。

「だめだめ!恥ずかしいでしょ」

 真理子は慌てて、企画書のウィンドウを最小化してしまう。

 ちぇー、と大袈裟に言いながら、涼平はなおもパソコンの画面を覗き込んだまま動かない。

 パソコンの画面は、今は背景の無機質な青色だけだ。その画面の三分の一程度に、作りかけのファイルのアイコンが配置されている。

 

 何となく、真理子は手持ち無沙汰になって、インターネットを立ち上げると、いつも見ているニュースのサイトを開いた。

 すぐ横に、涼平のスーツの肩のあたりが位置している。

 ……ふと真理子は、そのスーツから微かにではあるが、タバコの匂いが漂ってくるのに気付いた。涼平はタバコは吸わない。むしろ嫌煙家だ。

 さらに、微妙に、酒と煙が混ざったような匂いもする。涼平は酒もあまり飲まない。……これはスーツに染み付いた、居酒屋の匂いだ。

 ということは、涼平はやはり、さっき退社してから、同僚と一緒に飲みに行ったのだろうか?……そして会社に戻ってきた、ということか?

 忘れ物って言ってたけど、何をとりに来たんだろう?


 特にニュース画面を熱心に読むでもなく、ぼんやりとそんなことを考えていた真理子の耳に、突然ふっと生温い息がかけられた。

 びくっ、と驚いて、涼平の方を向こうとしたその瞬間、真理子の耳たぶを何か熱くて、柔らかいものが包み込んだ。

 

 涼平の唇だった。

 

 ひっ、と真理子は首をすくめ、一瞬固まった。

 ……ビリッ、と電流のような衝撃が、真理子の左半身と、その頭の中を走った。

 続いて、ざらざらとした感触。舌だった。

 それは、真理子の耳たぶを弾くように転がした。……ざわっと真理子の左耳から首筋にかけて、鳥肌がたった。

  

 おそらくその時間は数秒もなかったと思うが、ふいうちをくらった真理子は全く動けなかった。

 何か震動にも似た、衝撃が体中を駆け抜け、……その衝撃から少し時間をおいて、やっと真理子の体が動いた。


「なに……」

 

 何するの、と言いたかったが、あまりにも驚きすぎて口が回らない。

 ただ、涼平から逃れようと、真理子は足を踏ん張って椅子を右側にずらそうとした。

 しかし涼平は、真理子が体を動かすよりも先に、机についていた右手をはずして、真理子の頭の後ろに回していた。左手は机についたままだ。

 体を動かそうとした真理子の後頭部を涼平の右手が包み込んで固定した。ぐっ、とその手に力がこめられるのを感じた。


「ちょ、ちょっ……」

 

 頭に感じる涼平の手の平は、ごつごつしていた。

 涼平の顎が真理子の頬に少し触れて……顎にわずかに生えているらしい髭の先がちくっと頬を刺激する、その微かな感覚さえも鋭敏に真理子の背中を駆け抜けて……その震えをさらに煽る。

 いつも会社で見慣れている涼平の顔は、つるっとして髭なんて生えているようにはとても見えないのに……。

 

 ……怖い。

 ふっと、真理子の脳裏を駆け抜けたものは、恐怖だった。

 ―― 手の力が、強い……!

 

 夜のオフィスは少し寒いくらいだったのに、真理子は手のひらに微かに汗が滲んでくるのを感じた。……冷や汗だ。

 こんなバカな真似、早くやめさせなくては……!


 と、涼平はするっと真理子の耳たぶから唇を外した。

 そのまま、顔を真理子の首もとに埋める。

 右手は真理子の頭を支えたまま、左手で真理子の肩をつかんで、力をこめて自分のほうに肩をまわした。真理子は少し涼平のほうを向いた形になる。

 

 涼平は自分が今まで座っていた椅子に座り込んだ。


「……ごめん」

 

 ほとんど呟くように、涼平は言葉を発した。

 その声の静かな調子、あまりにもいつも通りの涼平の声に、真理子は却ってぞっとした。

 涼平は真理子の首もとに自分の顔を埋めたままだ。その表情は見えない。


「――涼平、やめて。何でこんな」

 

 何でこんなことするの、と言いたかったが、最後まで言葉が続かなかった。

 真理子は自分の声が驚くほど震えているのを感じた。

 怖かった。

 今まで一度も、全く意識したこともなかった涼平の手の力が、首筋にかかる湿っぽい息が……こわい。


「――ごめん。こんなこと、したくなかった」


 涼平が言葉を発するたびに、熱い息が首筋にかかる。……そのたびにぞわっと立つ、鳥肌。

 ダメだ。真理子は必死で、鳥肌をたてまいと平静を装った。

 怖かった、……その鳥肌が、自分の理性を超えたところで自分の体を動かし始めるような気がして、怖かったのだ。


「今日も、飲みにでも行けば、真理子が宿直だってこと忘れられるって思ってた。

 でもやっぱり、真理子がオフィスで一人だって思ったら、いてもたってもいられなくなって……。

 二人きりで話が出来る機会なんて、そうないと思ったんだ。

 今だって、ほんとうは冷静に話だけしようと思ったのに……。

 ほんとにごめん」


 涼平はそこまで言って言葉を切ると、観念したようにふうっと大きな溜息をついた。


「ずっと……好きだったんだ。真理子のこと」


「……」

 

 突然の告白に、真理子の頭の中は混乱した。……つまり真っ白になった。

 

 ちょっと、待った。

 今この男は、自分のことを好きと?

 ……それは、つまりどういうこと?

 ずっと前から……って、つまり……どういうこと?

 

 涼平はやっと、真理子の首もとから顔をあげた。

 至近距離でぶつかったその瞳の光に、またぞわっと鳥肌がたった。思わず体を後ろに引こうとして、……その頭と肩を固定した手の力に、ぐっと引き戻される。

 こんなに思い詰めた涼平の瞳なんて見たことがなかった。……その瞳に心臓を鷲掴みにされて、今にも握りつぶされてしまいそうな恐怖が真理子を襲う。

 真理子は思い出したように両手を上にあげて、すぐ目の前にある涼平の胸を手で押そうとした。


「ちょ、ちょっと……落ち着いて」

 

 多分、落ち着いてなどいないのは自分のほうだ。

 頭のどこかでは冷静にそんなことを考えながら、真理子は必死にこの場を逃れる言葉を探した。


「――で、でも、涼平、彼女いるでしょ。

 ……冗談も、そのくらいにしないと……」


 涼平には、大学時代から付き合っている彼女がいるし、涼平が就職してからは遠恋のはずだ。

 必死に記憶を辿る。つい最近の飲み会でも、涼平から話を聞きだし、ラブラブじゃん、とからかった覚えがある。

 そうだ。あのときは涼平も照れつつ嬉しそうにしていたはず……こんなこと、嘘だ。何かの間違いだ……!


 涼平は真理子を見据えたその眼を少し細めた。

 そのまま下を向いて、すっと視線を真理子から外す。


「――こないだ、別れ話、した。

 今度会ってすっぱり別れるつもり」

「えっ!?」

 

 その言葉に思わず声を出して、……少しずつ、この状況に順応しつつある自分を感じる。僅かに平静を取り戻した思考が、慌てて言葉を被せるような感覚。


「何で!?あんなに楽しそうだったじゃない!」


 早く、この至近距離から逃れなければ。

 涼平の目をさめさせなければ。何か血迷っているのだ。

 こんなことを涼平に続けさせてはいけない。


「涼平、落ち着いて。こんなことしないでよ。……別れるなんて、そんなこと本気で思ってないんでしょ?」

 

 涼平はまた顔をあげて、まともに真理子の眼を見た。……落ち着いたはずの心臓がまたビクンと飛び跳ねて、息を詰める。

 こんなに悲しそうな、苦しそうな顔をする涼平も……初めてだったのだ。


「――だって、仕方ないだろ?

 他にどうしろと言うの?」 


 二人のすぐ横にある窓から、向かいのビルの明かりが入ってくる。

 その明かりを反射して、涼平の瞳はきらきらと光っていた。

 

 きれい……。

 

 一瞬、今自分が置かれている状況も何もかも忘れて、真理子はそう思った。


 その一瞬を涼平は逃さなかった。

 ぐっと頭を支えていた手に力をこめると、涼平は真理子の顔を引き寄せて……その唇に自分のものを重ねた。


「っ……」

 

 声にならない叫びをあげて、真理子は涼平の胸を押していた手に渾身の力をこめたが、その体はびくともしない。

 真理子の唇を割って、遼平の舌が侵入してきた。

 必死にそれを追い出そうと自分の舌で押すが、逆にその舌をからめとられて……また首筋に鳥肌が走る。

 

 唇を重ねたまま、涼平は器用に自分の座っている椅子を少し動かすと、真理子と真理子の座っている椅子を窓際に寄せた。……窓に押し付けられ、後ろに逃げられなくなる。

 そのまま涼平は腰を浮かして、真理子に体重をかけてきた。……左手を真理子の頬にあて、その重みからは想像もつかない繊細な動きで優しく撫でられ、ぎゅうっと体の中心に力が入る。

 

 涼平は、自分の胸を押している真理子の腕の間を縫って、右手をそっと真理子の胸に伸ばした。


「……や、やめて……」

 

 口を塞がれていて言葉にならなかったが、振動で涼平には伝わったはずだった。

 しかし、その手と舌での愛撫が、少しずつではあったが、自分の理性を剥がしつつあるのに、薄々真理子は気付いていた。

 



 ……熱い……溶けそう……。

 



 どこか体の奥のほうから……上がってくる、熱。

 その熱を振り払うように、真理子は声を振り絞った。


「か、かれし、が……」

 

 なおも喉を震わせ、振動で涼平に伝える。

 真理子には恋人がいた。もちろん涼平も知っている。もう付き合って5年になる。


「……ごめん」

 

 涼平が喉を振動させた。

 何でこんなときなのに、謝ってんのコイツ……!?

 そのくせ、がっちりと体を窓際に固定されて全く動けないのに……!


 涼平は、左足は床につけたまま、右足の膝を真理子の脚に乗せた。

 そのまま、真理子の膝を割って体重をかける。スカートを穿いた脚が、涼平の体の重みのままに開く。

 ほとんど二人分の重みに、真理子の後ろの椅子がわずかに軋んだ。

 真理子の太腿の付け根に涼平の体重がかかった。……その重みに、真理子の中心がじん、と反応したのがわかった。その部分から、鳥肌が真理子の首の部分まで駆け上ってくる。

 押さえきれず、はあっ、と真理子は息を漏らしていた。


 やっと、涼平は唇を真理子の唇から離した。

 そのまま、真理子の首筋に唇を這わせる。……涼平の舌が触れた部分が、びりっと震えた。

 真理子の胸のあたりを優しく撫でていた右手が、少し動いて、真理子のブラウスのボタンをひとつ外した。


「いや……いや!やめて……」

 

 真理子は、自由になった口で声を絞り出した。

「お願い、お願い……涼平」

 すぐ自分の顔の下にある、涼平の頭に向かって懇願する。……その声が聞こえているのか、涼平の手の動きは一定のスピードを保って止む気配がなかった。

 

 指先が、ブラウスの隙間から真理子の肌に伸びてきた。

 直接肌に触れた指が、優しくそこを撫でながら……ブラジャーの場所を確認するように動く。

 ――と、少しだけブラジャーを持ち上げて、するりと涼平はその指を胸のふくらみに沿わせた。

 びくっ!と、自分でも驚くほど、体が反応した。

 

 恐怖と、

 ……そこにない交ぜになった、自分でも制御しきれない、電流のような感覚とで。

 

 


 体が熱を持ってきているのが自分でもわかる。

 感じ始めている。きっと涼平にも伝わっているはずだ。……そう思うだけで、真理子は恥ずかしくて火が出そうだった。

 

 いつも大人しくて、人の話を黙って聞いているだけの、静かな涼平。ぽつぽつと喋るその寡黙な語り口に幼ささえ感じていた同僚。

 ……その涼平に、少し体を触られただけで、こんなにも反応してしまうなんて。

 

 恋人の顔が脳裏をちらつく。

 こんなことをされて、次会ったときどんな顔をすれば……?何て言えばいいのだろう……?


 しかし、ほんとうに怖いのはそこではないことを、……真理子は、何となくわかっていた。

 そのことよりももっと、……涼平の唇と手に、理性とは別の部分で反応し始めている自分が怖かったのだ。

 恋人との暖かいセックスを自分は好きだったけれど、……それとは全く違う、心の底から震えがくるような感覚。

 この感じは、いったい、何……!?

 

 そして、あくまでも涼平の手は、とても優しかった。

 その手から伝わってくる、涼平の気持ち。

 

 いつの間にか、真理子の頬を涙が伝っていた。


 その涙が首筋まで伝って、涼平は気付いたらしい。

 涼平はふと愛撫をやめ、顔をあげて、真理子の眼を見た。

 変わらずその瞳にはまっすぐな強い光があったが、真理子の涙に濡れた瞳を見て、涼平はその眼を細めた。


「りょ、涼平……お願い」

 

 涙声で懇願する。

 涼平はそっと、ブラウスのボタンを留めなおすと……真理子を優しく抱きしめた。


 ……ほんとごめん、と呟く声が、胸を通して直接響いてくる。


「俺、いつも真理子には謝ってばっかりなんだよな。

 ……好きな人を守れるくらい、もっと強くなりたいのに」


 最後はもうほとんど独り言のように言うと、涼平は真理子から体を離し、立ち上がった。

 真理子をじっと見つめた、その真摯な――何もかもを見通したような眼差しに、真理子は思わず眼を逸らした。




「こんなことして、嫌われても仕方ないって思ってる。

 ……でも俺、本気だから。

 真理子の答え待ってるから」




 そのまま、くるりと踵を返すと、揺るぎないテンポで足音を刻み、

 

 涼平はオフィスから出ていった。

 

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