オネエ系悪役令嬢は双子の姉と入れ替わって婚約破棄を目指します!

七森香歌

オネエ系悪役令嬢は双子の姉と入れ替わって婚約破棄を目指します!

 エルムがその知らせを受け取ったのは、昼食を終えて一度、自室へと戻ろうとしたときのことだった。そのときのエルムは、午後の授業のために、教科書とノートを取りにいこうとしていた。

「エルム様、ご実家から緊急のお手紙が届いております」

 身の回りの世話をするためにエルムの留学先であるブリューテ国へとついてきた茶髪のメイドの娘――セルマは、廊下を歩くエルムを常に冷静な彼女にしては珍しく血相を変えて呼び止めた。

「緊急の手紙?」

 エルムはその温厚な性格の通り、普段は穏やかな光を湛えている緑の双眸に訝しげな色を浮かべる。彼は、セルマから手紙を受け取り、注意深くその封筒を眺めた。封筒の表には実家の執事であるメイガンの流麗な文字でエルムの名前が記されており、裏には家紋のあしらわれた封蝋が施されている。

 怪しげな手紙とかではなく、本当に隣国の実家であるオーランド伯爵家からの何かしらの連絡らしいと判断し、エルムはその場で手紙の封を開けた。この手紙を認めたメイガンの丁寧な人柄がよくわかるきっちりと折り畳まれた便箋を広げ、文面へと視線を走らせる。

 冒頭から視界に衝撃的な内容が飛び込んできて、エルムは頭が真っ白になった。顔を強張らせて固まるエルムを見て、側に控えていたセルマは彼を案ずるように声をかける。

「エルム様? エルム様、どうなさいましたか? どうかしっかりなさってください」

 セルマの呼びかけにより、現実に意識を引き戻されたエルムは、焦りと困惑を表情と口調に滲ませながら、

「セルマ、一旦部屋へ。ここで話すには少々差し障りのある内容だから」

 承知しました、とセルマは頷く。エルムはセルマを伴って、学生寮の中に与えられた自室へと足を急がせた。

 自室の扉を閉めると、途中で誰かが入ってこないようにエルムは鍵をかけた。黙って彼に付き従っていたセルマは、彼と二人になると口を開いた。

「エルム様。ご実家からのご連絡とは、どういった内容だったのでしょうか?」

「リーリエが……リーリエが、死んだ。自殺した、って……」

 セルマの問いにエルムは唇を震わせながら蚊の鳴くような声で答える。自分で言っていて何だか現実感が湧かなくて頭がふわふわするし、全身が何だか冷たくなっていくのを感じる。急速に冷えていっているのは、エルムの体だけではなく心もなのかもしれなかった。

 リーリエはエルムの双子の姉である。彼女は艶やかな黒髪と緑の瞳の持ち主で、大人しくて控えめな性格の少女である。十六歳になった今年、エルムが留学のために実家のあるロテュルス王国を出る間際に彼女には格上のレンブラント侯爵家の次男と縁談が持ち上がっていたはずだった。貴族の令嬢としては順風満帆な人生を送っていたはずの彼女が、どうしてこんなことになってしまったのだろう。元々繊細なところはあったが、何が彼女をこうさせてしまったのか。

「エルム様。失礼ですが、そのお手紙を拝見させていただいてもよろしいでしょうか?」

「う、うん……」

 エルムは手が震えるのを感じながら、手紙をセルマへと渡す。セルマは手紙の文面を読み進めていくと、

「エルム様。ショックなのはわかりますが、きちんと続きを読んでください」

「え?」

 エルムは緑色の瞳を瞬いた。ここです、とセルマが指で指し示している辺りの文章に、エルムは恐る恐る視線を向ける。

「結果的に未遂に終わり……一命を取り留めた……?」

 エルムは安堵のあまり胸を撫で下ろすと、へなへなとその場に座り込んだ。

「エルム様、安心されたのはわかりますが、そのようなところに座り込まないでください」

 呆れたようにセルマは自らの主へと苦言を呈すと、手を差し伸べて彼を立ち上がらせる。そのままセルマはエルムをソファへと連れて行く。

 セルマはカモミールが香るリラックス効果のある茶をエルムのために手際よく用意しながら、

「どうされますか、エルム様。手紙には一度国へ戻ってきてほしいとありましたが」

「そうだね。僕としては、リーリエがどうしているか気になるし、一度帰りたいかな。なるべく早く、帰国の準備を進めてくれる?」

「承知しました」

 セルマは頷くと、抽出が終わった茶をティーカップへと注ぎ、エルムの前へと置いた。エルムを気遣ってか、彼が最近好んで食べているチョコレートが近くに添えられていた。

 ありがとう、とエルムはセルマへと礼を告げると、茶へと口をつけた。甘い香りが口の中を満たし、動揺していた心が少しずつ落ち着いていくのを感じた。

 やるべきことはたくさんある。家への返事、自分の身の回りの荷物の荷造り――急な帰国となってしまったため、移動手段と途中の宿泊場所の手配や学校への届け出など、セルマの負担が大きいため、自分でできる範囲のことは自分でやってしまおうとエルムは思っていた。

 まずは実家への返事――急ぎ帰国する旨を認めるべく、エルムは空になったカップをテーブルの上へ戻すと立ち上がった。


 エルムがロテュルス王国にある実家に帰り着いたのは、知らせを受け取ってから一週間後のことだった。

「お帰りなさいませ、エルム様」

 そう言って彼を出迎えたのは初老の執事――メイガンだった。

「メイガン、今戻ったよ」

「エルム様、長旅お疲れ様でした。まずはどうか少し休まれてください」

 メイガンが目で合図を送ると、栗色の髪のメイドの娘がやってきて、玄関先に置いたエルムの旅行鞄を重そうに運んで行こうとする。

「アマラ、ありがとう。だけど、重かったらそこに置いたままにしてくれて構わないよ。そのくらいのことなら、僕、自分でやるし」

 エルムがアマラを気遣ってそう声をかけると、彼女は頬を染めて首を横に振ると、

「いえ、滅相もございません。エルム様もお疲れでしょうし、どうかお気遣いなく」

 アマラがぱんぱんに膨れ上がったエルムの旅行鞄を引きずるようにしながら、危なっかしい足取りで階段を登っていくのを見送りながら、

「……大丈夫かな。やっぱり僕が自分でやった方がよかったんじゃあ……」

「まあまあ、エルム様。あれもアマラの仕事です。お優しいのは結構ですが、あまり使用人の仕事を奪ってはいけませんぞ」

 メイガンに諌められ、エルムはそうだね、と頷いた。

「ところで、随分と大荷物でしたが、あの中には一体何が……?」

「こっちへ戻ってくる途中で泊まった街や馬車の乗り継ぎをした街で、リーリエへのお見舞いというかお土産をいろいろ買ってきてみたんだ。リーリエは可愛い瓶に入った香水とか、綺麗な刺繍の入ったハンカチとか、ああいったものが好きだろう? 僕は何があったか事情を一切知らないけれど、それでも何かリーリエの心を慰めるようなものがあればいいんじゃないかって思ってさ」

「それであの量ですか……。まったく、エルム様はリーリエ様のこととなると途端に節操というものがなくなりますね……。セルマに怒られたでしょう?」

 呆れたように肩を竦めるメイガンに、エルムは苦笑しながら頷いた。彼はすっと笑みを消して真顔になると、

「ねえ、メイガン。それで、リーリエはどうしてこんなことに――自殺なんてしようとしたんだ? 一体、リーリエに何があった?」

「それが……」

 その話題を切り出した途端、メイガンの顔が曇った。言い淀む彼の眼鏡の奥の黒瞳は躊躇いで揺れていた。

「メイガン?」

「いえ、他でもないリーリエ様のことです。エルム様にはきちんとお話しするべきですな。

 エルム様には申し上げにくいのですが、リーリエ様はどうにも婚約者のオーティス様と上手くいっておられないようなのです」

 オーティス・レンブラントはリーリエの婚約者だ。レンブラント侯爵家の次男で、リーリエより三歳年上ということくらいしか、社交界に出られる年齢になって早々にブリューテ国へ留学してしまったエルムは彼のことを知らなかった。しかし、格上の家との縁談が決まったことで、リーリエの未来は安泰だと喜ばしく思ったエルムは、留学先から彼女を寿ぐ手紙を送っていた。


 貴族社会において、格上の家と縁を結ぶことの意味は大きい。伯爵家とは名ばかりで、さほど裕福なほうでもないオーランド伯爵家にとって、婚姻を介して格上のレンブラント侯爵家と縁付くことができるのは大きかった。家と彼女の双方にとって良い話だと思っていたこの婚約は一体何をもたらしてしまったのだろうか。

「リーリエはオーティス様と不仲なのか? だけど、それだけのことで自殺しようとするのはあまりにも短絡的じゃあ……」

「不仲といえば、不仲なのでしょうな。何と申し上げればよろしいのでしょうか……エルム様はこちらにいらっしゃる間、あまり華やかな場へ顔をお出しになられなかったので、ご存知ないかもしれませんが、オーティス様は少々気の多いお方でして……。エルム様が留学されてからは、リーリエ様は婚約者として、オーティス様に伴われて社交の場へとおいでになることも多かったのですが、そういった場でオーティス様と他の女性が睦まじくされているところを度々見せつけられていたとかで……」

 要はオーティス・レンブラントには浮気癖があるということかとエルムは理解した。心の底で怒りの炎が静かに燃え上がり始めるのをエルムは感じた。

「……最低だな。許せない」

「失礼ながら、私も同じ思いです。リーリエ様は、そういったオーティス様の度重なる行ないに、傷つき、だんだんと塞ぎ込まれることが多くなり……そして此度のこの一件が起きてしまったのです」

 己の半身がそれほどまでに思い詰めていたにもかかわらず、そんなときに彼女の傍にいてやれなかったことが悔やまれた。彼女が一人で苦しんでいるときにどうして自分は傍にいて支えてあげられなかったのだろう。

「その……リーリエ様はよく眠れない日が続いていたので毎晩就寝前にお薬を飲まれていたのですが、先日ご自分の意志で大量にお薬をお飲みになってしまったようで……。翌朝、あまりにもリーリエ様が起きていらっしゃらないことを案じたメイド――ルゼが様子を見に行ったことで発覚しました。その後、医者を呼び処置をしていただき、リーリエ様は一命を取り留められました」

「そんなことが……。……メイガン、リーリエは今どうしてる?」

「午前中、一度、錯乱状態になられて鎮静薬をお飲みになられましたので、まだお眠りになられているかもしれません。よろしければ、お会いになれる状態かどうか確認して参りましょうか?」

「すまない、お願いできるかな?」

 エルムがそう告げると、メイガンは一礼し、リーリエの私室がある二階へと階段を上がっていった。


「エルム様、リーリエ様がお会いになりたいとのことです」

 程なくして戻ってきたメイガンに呼ばれ、エルムはリーリエの部屋へと足を向けた。

「リーリエの様子はどう?」

「先ほどお目覚めになられたばかりで、今は落ち着いておられます」

「そう、よかった」

 リーリエの部屋の前に着くと、エルムは扉をノックした。中で人が立ち上がる気配がし、内側から扉が開いた。リーリエに付き添って世話をしていたと思われる藍色の髪に茶色い瞳のメイドの娘は、エルムの顔を認めると、

「エルム様、どうぞお入りください」

「ありがとう、ルゼ」

 ルゼに招き入れられ、エルムはリーリエの部屋へと足を踏み入れた。

 部屋の奥にある天蓋付きの寝台の上で、エルムによく似た顔立ちの白百合のような雰囲気を漂わせる少女が身を起こしていた。腰まであったはずの長い髪はなぜか肩の辺りで切り揃えられてしまっていたが、エルムは今はそれに触れるべきではないと判断した。

 少女の体はひどく華奢で、エルムの記憶よりも随分と痩せてしまっていた。顔色も優れず、青白い。少女からは今にも消えてしまいそうな儚さを感じる。

 ルゼがエルムの元へ椅子を運んできた。エルムはルゼへと目で礼を告げると、椅子へと腰を下ろす。

「ただいま、リーリエ」

 名を呼んで、エルムが寝台の上の少女の手へとそっと触れると、彼女は大きな緑色の双眸を潤ませて、

「エルムっ……ふぇっ……エルムぅっ……」

「リーリエ、落ち着いて。僕はここにいるから。だから泣かないで。ね?」

 嗚咽を漏らし始めたリーリエの細い背中をエルムはゆっくりと撫でる。背骨の浮き出たその背中は暖かく、この生命の熱があともう少しで知らないうちに失われてしまうところだったのかと思うとエルムの胸は締め付けられるように痛んだ。

「エルムっ……あのねっ……あのね、わたしっ……」

「大丈夫。大丈夫だよ、リーリエ。ゆっくりでいいからね」

 しゃくりあげながらも何かを話そうとするリーリエの背中をぽんぽんと撫でながら、エルムは大丈夫、と彼女を落ち着かせるように何度も優しく繰り返した。

「あのね、エルム……わたし、オーティス様との婚約……もう嫌っ……もう嫌なのっ……」

「うん」

「オーティス様はっ……いつも、わたしのこと……蔑ろに、してっ……他の女の子のこと、ばかりでっ……」

 言葉とともにリーリエの涙と感情がぽろぽろとこぼれ落ちていく。

「オーティス様とっ、一緒に、夜会にっ…出てもっ……いっつも、わたしのことなんてっ、ほったらかしでっ……! これ見よがしに……取り巻きの、女の子たちと、べたべたしてっ……」

 そのように婚約者に蔑ろにされるなど、貴族令嬢としてはひどく屈辱的な仕打ちだ。それが度重なっていけば、繊細なリーリエの心が追い詰められていくであろうことは、彼女とは生まれる前からずっと一緒にいるエルムには想像に難くないことだった。大人しくて控えめなリーリエのことだ、オーティスのそのような言動を不快に感じていても注意することができなかったに違いない。

「オーティス様の周りの、女の子たちにもっ……いろいろっ、嫌がらせ、されたりしててっ……オーティス様には不釣り合いだって、言われたり……、ドレスを、汚されたりっ……装飾品をっ、引っ掛けて壊されたり……足を引っ掛けられたり、髪を引っ張られたり……」

「なっ……」

 エルムは絶句した。改めて言葉にしてみて、また辛さが込み上げてきてしまったのかリーリエの呼吸が荒くなる。

「いけない! エルム様、どいてください!」

 ルゼはフリルのあしらわれたエプロンのポケットから紙袋を取り出すと、エルムの身体を押し除け、浅く荒い呼吸を繰り返すリーリエの口元へとあてがった。エルムと同じ緑色の双眸には苦痛の色がありありと浮かんでいた。

「エルム様。リーリエ様の体調が落ち着かれましたら、またお声がけします。ですから今は……」

「でも……」

 苦しむリーリエの側を離れることをエルムは躊躇った。しかし、こういったときに一体どういった対処をしたらいいのかを知らず、今のエルムが彼女にしてやれることなど何一つなかった。

「……わかった。ルゼ、どうかリーリエを頼む」

 そう言うと、エルムは立ち上がり、リーリエの部屋を出ていった。


 エルムはリーリエの部屋を出ると、溜息をついた。

 リーリエを追い詰めていたのはオーティスだけではなかった。まさか社交界において、その周囲からもそんな壮絶な嫌がらせを受けているとは想像していなかった。

 許せなかった。そんなふうにリーリエを追い詰め、未遂に終わったとはいえ自殺にまで追い込んだ人々を絶対にエルムは許せないと思った。

「エルム様。リーリエ様とのお話は済まれたのですか?」

 リーリエの部屋の前で待機していたメイガンにそう問われ、

「大方の話は聞いたよ。ただ、リーリエの調子が悪くなってしまって……」

「さようでしたか」

「ねえ、メイガン。さっき、リーリエから聞いたんだけれど、リーリエはオーティス様に蔑ろにされている上に、オーティス様の取り巻きの女性たちから陰湿な嫌がらせを受けているって、本当なの?」

 エルムは先ほどリーリエ本人から聞かされた話の真偽のほどをメイガンへと問う。エルムはリーリエが嘘をつくはずはないと思っていたが、こればかりは違うと誰かに否定してもらいたかった。しかし、メイガンは重々しく頷き、肯定の意を示す。エルムの僅かな期待はあっさりと打ち砕かれた。

「ところで、エルム様。リーリエ様の髪をご覧になられましたか?」

「うん。せっかく綺麗な髪をしていたのに、どうしてあんな……」

「あれも、オーティス様の取り巻きの方たちにやられたものです。二週間ほど前の夜会の折のことです」

「そんな……!」

 エルムは声を震わせた。

「そんなのもう犯罪じゃないか! 大体、どこかの屋敷での夜会なら、警備の者だっていたはずだろう! 何でそんな……」

「……オーティス様の取り巻きの御令嬢の一人のお屋敷での出来事でしたので、恐らく黙認されてしまったのでしょう」

「……許せない」

 エルムは静かに怒りを募らせる。

「こんな婚約、すぐにでも解消するべきだ。いくら相手が格上の侯爵家だとしても、こんなんじゃこの先リーリエは絶対に幸せになれない。身も心も傷つき続けるだけだ」

「私もエルム様とは同意見でございますが、旦那様はリーリエ様のご婚約は解消するおつもりはないようでして……」

「何故だ! 自分の娘がこんなことになったっていうのに、父上は何を考えているんだ!」

「旦那様はリーリエ様のご婚約に際して、レンブラント侯爵家にいろいろと領地のことで便宜を図ってもらったとかで、こちらから婚約解消の申し入れはしづらいとのことでして……。リーリエ様のことは今回は表沙汰になさるおつもりもないようです」

 エルムは歯噛みする。貴族は体面を重視する。そんなくだらないものによって雁字搦めにされて、リーリエは今のこの苦しみから逃れられないというのか。

 何か策はないだろうか。エルムは逡巡し、はっとした。今、メイガンは何と言っていただろうか。

「ねえ、メイガン。リーリエの婚約って、こちらからは断れなくても、先方からの解消の申し入れがあった場合は別だよね?」

「ええ、そうですが……エルム様、一体何を?」

 エルムの問いにメイガンは怪訝そうな顔で頷く。

「メイガン、僕に黒髪のウィッグを作ってくれ」

「ウィッグ、ですか?」

「ああ。僕とリーリエは髪色以外はよく似ているし、背だってそんなに変わらない」

 リーリエは黒髪、エルムは赤毛と髪色こそ異なっているが、一卵性双生児の二人はそれ以外は非常によく似ている。男性にしては小柄なエルムは、リーリエと比較してもその身長差は僅か五センチ程度であり、おそらくは靴のヒールの高さでごまかせる程度の誤差だ。幸か不幸かあまり男らしい体格に恵まれなかったため、多少の工夫は必要かもしれないが、女性ものの衣服もその気になれば着られないこともないと思われた。

「まさか……エルム様、リーリエ様になりすまして何かを……?」

 恐る恐るといったふうにメイガンはエルムへそう問うた。その目には止めるべきか止めないべきかという感情と立場の葛藤が揺れている。

「ああ、そのまさかだよ。僕はしばらくリーリエと入れ替わって、オーティス様と交流し、向こうから婚約解消を申し入れてもらえるように仕向けようと思う」

 エルムは決然とそう言い放った。

 オーティスとリーリエの婚約を解消したいのはもちろんだが、彼やその周囲に対してせめて一矢報いることができれば、ともエルムは思っていた。

 髪に白いものが混ざった初老の執事は、やれやれと肩を竦める。エルムの意志は強いと悟ってのことだった。

「仕方ありませんね。先日の夜会の後に、職人に整えさせたときのリーリエ様の髪があります。それを使ってウィッグを作るよう手配いたしましょう。

 それに、私自身も使用人の皆もこのままではリーリエ様があまりに不憫でなりません。旦那様とて、本心ではこのようにリーリエ様を苦しめるオーティス様に怒りを覚えておられるはずですから」

 現状誰も何もできずにただリーリエ様のご様子を見守ることしかできなかったのです、とメイガンは言う。

「大丈夫。僕が絶対にどうにかしてみせるから」

 リーリエをこの苦しみから解き放ってあげられるのは僕しかいない。リーリエのために、必ず彼女のこの縁談を破談にしてみせるとエルムは己の心に強く誓った。


 締め上げられた腹が苦しくて上手く息ができない。幾重にも重なったスカートは見た目よりも遥かに重いし、空気に触れてすうすうとする足が何だか心許ない。細いヒールは何だか足元がぐらぐらするし、一体どうやって歩けというのだろう。こんな不安定な足元でワルツなんて到底無理だ。

 社交界の花々はこうした不快感を水面を泳ぐ白鳥のようにおくびにも出さず、日々美しく咲き誇っているのかと思うと、その苦労が偲ばれる。

 セルマは今にも倒れそうな青い顔でふらふらとしている赤毛の少年へ気遣わしげに声をかける。

「あの……エルム様、少しコルセットを緩めましょうか? よろしければ靴ももう少しヒールが低いものに変えることもできますし……」

「うん、そうしてもらえると……。セルマ、世の女性たちは皆いつもこんなのを耐えていたんだね……僕、知らなかったよ……」

「おしゃれとは即ち我慢と同義ですから」

 虚ろな目でそんなふうにこぼすエルムへとセルマはさらりと恐ろしいことを言ってのける。中性的な容貌をしているとはいえ男として十六年間生きてきたエルムには、美のためならば快適さなどゴミか何かのように簡単に投げ捨ててしまえる世の女性たちの心理が理解できない。

 セルマは一度エルムのドレスを脱がせると、体をきつく締め上げているコルセットの背中の紐を解いていく。圧迫されていた肺にようやく空気が入ってきて、エルムが安堵していると、間髪を開けずに再びセルマによって背後から締め上げられた。

「うぐっ」

ぎりりと肋骨が悲鳴を上げ、思わずエルムの口から情けない声が漏れた。痛いし苦しいし、緩めると言っていた割に先程と何が違うのかまったくわからない。そもそもセルマのあの細腕のどこからこんな怪力が発揮されているのかも理解できないし理解したくもない。

「申し訳ありません、エルム様。ですが、これ以上緩めるわけにもいかなくてですね……」

 彼女は謝罪を述べながら、てきぱきとエルムにドレスを着せ直していく。もう好きにしてくれという半ば投げやりな気分でエルムはされるがままにしていた。

「さて、もうあまり時間もありませんし、お化粧をしていきますね。早くしないと、オーティス様がお迎えにくる時間となってしまいます」

「ああ、うん……」

 エルムは鏡台の前に連れて行かれ、椅子へと座らされる。セルマはぺたぺたと複数種類にわたる謎の液体をエルムの顔面に手際よく塗りたくっていく。

 そのまま、セルマはエルムの顔へ粉をはたき、紅を差していく。

 エルムは肌の上に乗せられた化粧品に煩わしさを覚えながら、

「女の人って本当に大変だね……」

「これでもドレスも化粧もリーリエ様は控えめなほうですよ。リーリエ様は清楚な装いを好まれますから」

 世のお嬢様方はもっとパニエを重ねてスカートを大きく膨らませますし化粧ももっと濃いですよとセルマは言う。エルムはげんなりとしながら、

「これで控えめなほうなんだ……」

「ええ、もう少し華やかになさっても、リーリエ様ならお可愛らしいと思いますけどね」

 そう言いながら、セルマは身支度の仕上げにエルムの頭に長い黒髪のウィッグを被せ、ピンで固定していく。鏡の向こうではエルムによく似た姿の双子の姉が驚いたように目を丸くしていた。

「すごい、リーリエだ……」

 鏡に映る自分の姿が、エルムにはもうリーリエにしか見えなかった。元々髪色以外はよく似た一卵性双生児だとはいえ、身支度をしてくれたセルマの力量に感心してしまう。

「セルマ、ありがとう」

 エルムが礼を告げると、セルマは微笑んだ。

 今の自分はエルムではなく、リーリエだ。リーリエとして振る舞いつつ、どうにか婚約を解消してもらえるようにオーティスに接さねばならない。

 これから向かう夜会は、エルムにとっては戦いの場も同然だった。エルムの一挙一動はリーリエのこの先の未来を決めうるものだ。

 エルムは自分の双肩にかかるものの重みに、そのことを改めて自覚する。エルムは覚悟を決めると、セルマの手を借りながら立ち上がった。


 オーティス・レンブラントはクズだ。リーリエやオーランド家の使用人たちから事前に聞いていた話でエルムはそのことを理解していたつもりだった。

 百聞は一見にしかずという言葉があるが、あれはこういうときに使う言葉だったのだなと実体験をもってエルムは感じていた。

(クズ過ぎる……)

 オーランド家の屋敷に馬車で迎えにきたオーティスは両隣にエルムやリーリエと同じ年頃の着飾った少女二人を従えていた。

 夜会が行なわれる貴族の屋敷へ向かう道中も、馬車の座席は彼と彼女たち二人で独占されイチャイチャと随分よろしくやっていたようだった。その間、エルムは何故か気の毒そうな顔をしたレンブラント侯爵家の御者の隣に座らされていた。

 今夜の会場である貴族の屋敷に着くやいなや、待ち構えていた令嬢たちの群れに取り囲まれたオーティスはリーリエを放り出してどこかへ行ってしまった。オーティスに群がる少女たちの中には、エルムを嘲るような目で見てくるような者もいた。リーリエ――エルムなどオーティスの婚約者としては不釣り合いもいいところだとでも言いたいのだろう。

(確かにあのけばけばしい人たちに比べたらこの格好は地味だよね)

 今日のエルムの格好は淡い青色に白いレースをあしらった清楚な印象のドレスだ。頭には白のリボンを結わえ、花の形を象った上品な印象のダイアモンドのネックレスが胸元を彩っていた。白百合のように清らかな雰囲気のリーリエにはとてもよく似合う装いではあるが、派手さに欠ける感は否めない。

 リーリエは絶世の美少女ではないとはいえ、決して不器量ではない。弟としての贔屓目がないとは言い切れないが、彼女は年齢相応に可愛らしい少女だ。周囲の派手な装いのせいで埋没してしまい、相対的に地味で貧相だと思われてしまっているのだろう。こういった場はいかにセンス良く最先端の流行を取り入れながら華やかに着飾れるかを競う場でもあるのだとセルマが言っていたが、なるほどと納得せざるを得ない。どれだけおしゃれに金を掛けられるかというのは貴族の女性としての一種のステータスだということもセルマから聞かされた。それを踏まえれば、他の令嬢たちからリーリエが軽んじられてしまう理由はわからないでもない。

(ごてごてと盛れるだけ盛って誤魔化しているだけで、大して綺麗でもないくせに)

 これでもかというくらい塗り重ねた化粧でわかりにくくなっているだけで、このような華やかな世界とはいえ、冷静に周囲を観察するエルムの視界に映るのは美人ばかりではない。上半身のボリュームに対して一体どれだけコルセットで補正しているのか恐ろしいぐらい腰のラインがくびれている者もいれば、異常なまでにパニエを重ねてドレスのスカートにボリュームを持たせている者もいる。各家の使用人たちの腕と自分たちのお嬢様を少しでも美しく見せようとする執念には舌を巻くばかりだが、視線操作でどうにか乗り切ろうとしている意図が見え隠れしている。本人たちだけでなく各家に仕える使用人たちが己の主人を介してマウントを取り合っているような気配を感じ取ってエルムはげんなりとする。貴族の女性社会というのはなんでこんなにどろどろとしているんだ。

 エルムは肩口に衝撃を覚え、たたらを踏んだ。真紅の派手なドレスを身に纏った少女が何人かの令嬢たちを従えて嫌な笑みを浮かべていた。

「あら、このわたくしにぶつかっておいて謝罪もなしですの? それに何でこんなところに貧相なメイドが紛れ込んでいるんですの?」

 エルムのことをメイド呼ばわりした少女は手近なテーブルからフォークを手に取ると、彼の喉元に突きつける。先端が皮膚にめり込み、肉を抉ろうとしてこようとするのを感じ、エルムは呻く。

「痛っ……」

(いやいやいやいや……こんなのもう嫌がらせの域を超えているじゃないか……! これ普通に傷害だから! 立派に犯罪だから!)

「嫌ですわね、どこの家のメイドかしら? 謝罪の一つもできやしないなんて無礼にもほどがありますわ……少々躾が必要なようですわね」

 ドレスと同じ真紅の唇から凶悪な言葉を少女は紡いでいく。その冷酷な口調と眼差しにぞっとするものをエルムは感じた。エルムは身を捩ってフォークの先端から逃れる。こつんと靴の踵が壁にぶつかる音がした。エルムは覚悟を決めると顔を上げ、緑色の双眸できっと少女を睨みつけた。リーリエはいつもこういった仕打ちを受けていたと知ってしまったからには、何か少しでも言い返してやらないとエルムの気が済まなかった。少女はエルムに思いがけず強気な視線を浴びせられ、たじろぎながらも声を荒らげる。

「っ……何ですの、その目は! 生意気ですわ!」

「あらぁ、嫌だわあ。無礼は一体どちらなのかしらねえ? 見た目を取り繕うのに必死で、肝心の心の醜さが隠せていないなんて、可哀想な方もいたものねえ。あらやだ失礼、醜いのは見た目もだったわねえ。アナタ、人に喧嘩売ってる暇があるなら、ちょっと鏡をよく見たほうがいいと思うわよお?」

「なっ……」

 リーリエに似せるために屋敷で練習してきた裏声でエルムは言い返した。思わぬ反撃に少女は戦慄いている。少女の手からぽろりとフォークがすり抜け、カランカランと音を立てて床を転がった。

 一方、エルムはこうじゃないという思いながら、内心で頭を抱えていた。リーリエはこんな話し方はしない。今のエルムの口調は、以前、留学先のブリューテ国でできた友人のカイエルに強引に連れて行かれた女装したガタイのいい男性が接待してくれる夜の店の店員のオネエ様方のものに酷似していた。異文化交流のために留学していたとはいえ、現地の妙な文化を吹き込んでくれた悪友をエルムは恨んだ。

 とにかくこれはまずい。リーリエの名誉を考えたらこれは非常にまずい。ドレスの背中を冷や汗が伝っていく。

 とりあえずこの場から逃げようとエルムは決めると、そんなことはおくびにも出たずに勝ち誇った笑みを浮かべる。

「アタクシはこれで失礼するわあ。それじゃあね、子豚ちゃんたち。アナタたち、今最高にブサイクよお」

 うふふ、とエルムは含み笑いを漏らしながら、靴のヒールをカツカツと鳴らしながら、悠然とその場を立ち去った。


 あの夜会の日から五日が過ぎた。やらかした感しかなかったにも関わらず、レンブラント侯爵家からはエルムの振る舞いについて特に苦情が来ることもなく、時間だけが過ぎていた。

(それほどまでに、オーティス様はリーリエに関心がないということか)

 オーランド伯爵家の領内の問題もあり、親同士が勝手に決めた婚約者だとはいえ、オーティスはリーリエに対して冷たすぎる。刺激と華を好むように見えるオーティスからしたら、リーリエのように控えめで大人しい少女はつまらないのだろう。

 この分では、先日の夜会での一件をオーティスが把握していない可能性すらありうる。

 エルムはレンブラント侯爵家から何の反応もないことに拍子抜けしつつも、今夜に迫った夜会が憂鬱だった。

「エルム様、いつまでもそんな顔をしていないでください。リーリエ様はそんな不細工な顔をなさいませんよ」

「だけどセルマ、リーリエはあんな話し方絶対しないよ……僕、今度こそちゃんとリーリエを演じきれるかな……」

 頬杖をつきながらそんなふうに愚痴るエルムをセルマはばっさりと容赦なく切って捨てる。

「いつまでも過ぎたことをぐちゃぐちゃと仰っていないでください。それにご自身の言動には責任をもっていただかないと。エルム様がリーリエ様と入れ替わるのをどうして旦那様がお認めになったと思っておられるのですか」

「それはそうだけど……」

 エルムが帰国し、リーリエになりすますことを決めた日、執事のメイガンはこの家の当主であるアルバート・オーランドにエルムの意向を伝えた。現在、オーランド伯爵家は昨年、領内で発生した水害に関してリーリエの婚約と引き換えにレンブラント侯爵家に支援をしてもらっている状態だ。そのため、オーランド伯爵家側からはリーリエの婚約を破談にしづらい状態にあった。しかし、アルバートとて、リーリエの立たされている状況を父親として案じてもいれば、憤りを覚えてもいた。領民の生活と愛娘の双方を天秤にかけた結果、領主として正しい選択をせざるを得なかったアルバートはメイガンから聞かされた話に苦悩した。レンブラント侯爵家を欺くことをアルバートは躊躇していたが、それでも大切な娘がこれ以上苦しませないで済むならと、エルムの好きなようにさせていいと最終的には許可をした。あくまでエルム個人が勝手にやったことであり、アルバート自身は関与するつもりはないという意思表示でもあったが、エルムにはそれで充分だった。ブリューテ国の学校へ休学届を書いてくれたのは、アルバートからエルムに対する最大限の支援として彼は受け取った。

「ほら、エルム様。そろそろ今日の夜会の支度を始めますよ。ああもう、そんな姿勢をなさらないでください。顔がむくんでまいます」

「うん……」

 煮え切らない返事をするエルムの背をセルマはさあさあと強引に押して、エルムの身支度を始めるべく部屋を移動した。


(やたらと視線を感じる気がする……)

 自業自得と言ってしまえばそれまでではあるものの、他の貴族令嬢の視線をやたらと感じる。地味で大人しいと思われていたリーリエ・オーランドが他の貴族令嬢に反発して噛みついたらしいだとかまるで別人のようだったなどと言うことが噂好きな人々の間で囁かれているようだった。

(まあ別人みたいっていうか、遺伝子レベルまで限りなくそっくりな別人なんだけど)

 こうして好奇の眼差しに晒されても仕方のないことをした自覚はある。今夜の招待客の中にもあの場にいた人間は多くいる。

(セルマも言っていたけれど、過ぎたことを気にしても仕方ないか。大事なのは今夜も同じ失敗を繰り返さないようにすることだ)

 エルムはどうにか気持ちを切り替えると、いかにも気にしていないといったふうを装って涼しげな表情を浮かべる。

 それに問題はこれ以外にもある。そもそもエルムがリーリエと入れ替わってこういった場にいるのは、オーティスとリーリエをどうにかして婚約破棄させるためだ。しかし、まだエルムはオーティスとろくに話せてすらいない。今夜こそどうにかオーティスと話す機会を作らねばならない。

(とはいえ、オーティス様はいつも御令嬢方に囲まれてるから近くに行くのすら大変なんだよね)

 今日もオーティスは色とりどりのドレスに身を纏った令嬢たちに取り囲まれている。何だか目がチカチカするし、彼女たちの黄色い声がこめかみに突き刺さってずきずきとする。

 オーティス・レンブラントは甘く整った顔立ちに色気のある声色の青年だ。身に纏った服も洗練されているし、跡継ぎではないにせよ侯爵家に生まれた彼は身分も高い。見た目も良ければ身分も高く、金もある――オーティスがこういった場でモテるのもわからないでもない。生まれながらにそれだけの要素を兼ね備えていれば、さぞかし女遊びも捗ることだろう。

 格上のレンブラント侯爵家がリーリエをオーティスの婚約者にすることを承知したのは、婚約者ができれば放蕩癖のあるオーティスも少しは落ち着くことを期待したがゆえだという。しかし、その目論見は見事に外れ、オーティスの女遊びは激しくなっていくばかりだった。

 両家の思惑に巻き込まれた結果、リーリエがこんなことになってしまったのかと思うと、むかむかと何かが腹の底から込み上げてくる。取り巻きの令嬢たちを薙ぎ払ってでも一言彼に物申してやろうとエルムは決める。

「オーティス様」

 エルムは令嬢たちに群がられている茶色の髪に紫の双眸の甘やかな顔立ちの青年――オーティスへと歩み寄り、声をかける。今日のエルムはライトグリーンに淡いクリームイエローのドレスという例によって控えめな出立ちだが、発情期の猫のように騒がしい少女たちに負けるつもりはなかった。

 オーティスはしなだれかかる一人の少女の頬に指を這わせながら、鬱陶しそうにこちらにちらりと一瞥をくれる。婚約者を適当に放り出して、他の令嬢たちといちゃついていたにも関わらず、悪びれる様子はまったく見られない。

 エルムは内心で苛立ちを覚えながらも、にっこりと嫋やかな笑みを浮かべてみせる。エルムは腹の底に力を込め、通る声で言葉を重ねる。

「その子たちはどちら様なのかしらあ? アタクシに紹介していただけないかしらぁ? アナタのお友達ともなれば、婚約者のアタクシも仲良くしたいものお」

 エルムの口をついて出たのは、なよなよとした先日同様のオネエ口調だった。またやってしまったとエルムはこめかみを引き攣らせる。唐突なエルムの奇矯な言動にオーティスもぽかんとしている。

 しかし、これはチャンスかもしれないとエルムは思い直す。オーティスもエルムのこの振る舞いを目にしたことで、婚約破棄を考えてくれるかもしれない。いくら興味がなくとも、普通は婚約者がこんな変な娘だったら嫌だろう。リーリエには悪いが、もう後には引けない。覆水盆に返らずというやつだ。エルムはオーティスから取り巻きの少女たちに視線を移すと、

「アナタたちはあのヒトが呼んだ娼婦の方たちでよろしかったかしらあ? こんなところでまで、お仕事熱心で本当感心するわあ」

 含み笑いをしながらエルムがそう言い放つと、途端にオーティスに群がっていた少女たちは気色ばむ。

「娼婦とは何ですの、馬鹿にしないでいただけるかしら!」

「あなたなんかがよくもそんな口が利けたものね!」

「あらあ、そのけばけばしい化粧に露出の激しいドレス、それに恥を知らないその下品な立居振る舞いはどう見ても娼婦以外の何物にも見えないわあ。それにアタクシはこのヒトの婚約者なのよお? アナタたちこそよくそんな口が利けるものねえ。アタクシ感心しちゃうわぁ」

「……ッ!」

 言い返す言葉がないのか、少女たちの怒りを孕んだきつい視線がエルムを刺す。その中には先日、難癖をつけて折檻しようとした令嬢のものも含まれていて、エルムは内心で舌を出す。

(まあ、因果応報ってやつだよね。この間は人のことをメイド呼ばわりして痛めつけようとしてきたわけだし、このくらいの意趣返しはあって当然)

 怒りで顔を赤くする令嬢たちに、エルムは平素の穏やかさの消えた緑の目で冷たく一瞥をくれる。そして、エルムは呆気にとられているオーティスへと向き直ると、

「古来より浮気は男の甲斐性なんて言葉があるけれど、限度っていうものがあるわよねぇ? 婚約者のアタクシを蔑ろにして、他の女との火遊びばかり……その歪んだ性根をちょぉっと叩き直してあげましょうか?」

 エルムは銀細工で可憐な花模様があしらわれた扇を取り出すと、

「恥を知りなさいな」

 それを振り翳し、思いっきりオーティスの頬を打った。パァァァンという音が鳴り響き、その場にしんと静寂が降りた。

「何だあれは……」

 オーティスは赤くなった頬を押さえながら呆然としてそう呟いた。カツカツと靴音を響かせて、周りの物言いたげな視線をものともせずに、颯爽とその場を立ち去っていく黒髪の少女の背中を見送りながら、自分の婚約者はこんな娘だっただろうかとオーティスは考える。

 リーリエ・オーランドはオーティスからしてみれば、地味で大人しくて、何の主張もしないつまらない少女だった。親同士が勝手に決めた婚約者ということもあり、何の興味も持てなかったため、婚約が決まった後も刺激を求めて数多くの令嬢たちを相手に恋愛の一番美味しいところだけをつまみ食いする生活を続けていた。

 しかし、どうやら自分はリーリエのことを見誤っていたようだとオーティスは思った。あの少女があんな烈しさを秘めているとは思ってもいなかった。オーティスの周りにいる少女たちは、彼に好かれようとするあまり、媚びと色気を振りまこうとする者ばかりで、間違っても彼に手を上げる者などいなかった。

 オーティスの心臓がどくりと鳴る。あんなふうに諌められ、ましてや叩かれるのは彼にとってひどく新鮮な体験だった。

「……面白い女だ」

 婚約してから今までずっとぞんざいにしか扱っていなかったリーリエのことをオーティスは初めて知りたいと思った。


「……ねえ、一体何がどうなってこうなったんだと思う?」

 エルム宛の手紙を彼の居室へと届けにきた執事のメイガンを捕まえて、エルムはそう愚痴をこぼした。受け取った手紙の差出人がオーティスであることを確認すると、エルムは中身を確認することなく屑籠へと放り込む。

「この前の夜会で、扇で引っ叩いてやったっていうのに、本人からもレンブラント侯爵家の当主からも何の苦情も来ないどころか、毎日毎日手紙が届くようになったとかって一体どういう風の吹き回しなんだ?」

「高価な贈り物も毎日のように届いておりますしね。エルム様、あちらはどうなさいますか?」

 エルムの部屋の隅に積まれた贈り物の箱の山を手で示しながら、メイガンはそう問うた。エルムは嘆息すると、

「母上やリーリエ、セルマたちが欲しいものがあるようならあげちゃって。いらなければ捨てるなり売ってお金にするなり好きにしていいよ」

 承知しました、と初老の執事は頷いた。

 エルムがオーティスに手をあげてしまったあの夜会以降、毎日のように彼から甘ったるく情熱的で歯の浮くような言葉が綴られた手紙や高価な贈り物が届くようになっていた。

 あの夜の諫言がオーティスの心に刺さったからなのかどうなのかは不明だが、これまで続いていた彼の遊び癖もこのごろは嘘のように鳴りを潜めているらしいとオーティス伯爵家に仕えているメイドたちが話しているのをエルムは小耳に挟んでもいた。

(今更、すぎるんだよな)

 オーティスが最初からこうであればきっと違っていたのだろうと思う。しかし、もう遅い。何があのオーティスのことを改心させたのかはわからないが、今更彼のことを許すことなどできはしない。

 そもそも、今更すぎるとはいえ、こうして急にオーティスに好意を抱かれる理由がエルムにはわからなかった。ここ最近のエルムの言動は、彼に嫌われる要素ならいくらでもあるものの、好かれる要素など皆無であるように思われる。

 うーん、と無意識に声に出して考え込むエルムの様子を怪訝に思ったメイガンは、

「エルム様、どうなさいましたか?」

「いや、何というか……今更、オーティス様にこんなふうに好かれる理由がわからないな、と思って。この前の夜会で僕がオーティス様やその取り巻きの御令嬢方に何をしたかメイガンにも話しただろう?」

 そうですね、とメイガンは相槌を打つ。

「だからこそ、不可解なんだ。話し方は例によってあんなふうだし、気持ち悪がられたり嫌がられたりするのが普通だろう? やってることだって、ブリューテ国で最近流行っている悪役令嬢モノの主人公みたいだしさ。それなのに何で……」

「……人の好みというのは十人十色、人それぞれでございますから」

「……」

 適当な言葉で誤魔化されたような気がして、エルムはメイガンの顔をじっとりと見上げる。しかし、そんなエルムの視線を特に気にしたふうもなく、メイガンはどこ吹く風だった。

 メイガンの言う通り、実はオーティスの好みがそういう感じだったらと思うと少し怖い。あの極めて手の早い男のことだ、そこはかとなく貞操の危機を感じてエルムは寒気を覚えた。今はこうしてリーリエのふりを演じているが、別に女装癖があるわけでもなければ、そういう性癖があるわけでもない。いくら中性的な容貌をしているとはいえ、エルムの性自認は紛うことなき男性だし、恋愛対象は女の子だけだ。

 コンコンとエルムの部屋の扉が叩かれた。エルムが入室の許可を出すと、失礼しますとメイドのアマラが困ったように顔を覗かせた。

「エルム様、オーティス様がお見えになっておられます」

「オーティス様が?」

 エルムは眉を顰めた。彼が来るような予定は特に聞いてはいない。

「お帰りいただくよう伝えてもらえる?」

 エルムがそう言うと、アマラは可愛らしい丸顔をますます困ったように曇らせた。

「それがその……どうしてもお会いになりたいそうで……。お会いできるまでいつまででも待つと仰っておられます」

 お出かけになられているとお伝えしたんですけど、とアマラは嘆息した。仕方ないと思いつつ、アマラに指示を出そうとし、エルムは一計を講じることにした。

「アマラ、セルマを呼んできてくれ。オーティス様については、応接間から離れないようにしばらく相手をしておいて欲しい。その間に、庭に茶の準備をしておいてもらえるようルゼに伝えておいて欲しい」

「承知しました」

 エルムの指示にアマラは少し不思議そうな顔をしながらも、彼女はエルムの部屋を辞して去っていった。

「メイガン、シャノンを借りてもいいかい? 父上の若いころの服を探してきて、シャノンに着替えておいてもらいたい」

「シャノンをですか?」

 メイガンはエルムの意図を図りかねて聞き返した。

 シャノンはメイガンの息子であり、オーランド伯爵家の御者兼庭師である。それ以外にも若い男手の少ないこの家において、力仕事の多くを担っている。幼いころからの顔見知りでもある彼は、立場の違いこそあれ、リーリエとエルムにとって良い兄のような人でもある。リーリエにとって初恋の相手であったことを知っているエルムはこれからしようとしていることに多少の罪悪感を覚えないでもないが、これも彼女のために必要なことだと己に言い聞かせる。

「エルム様、一体何を考えておいでで?」

「シャノンに手伝ってもらってちょっと一芝居打とうかと思って。目には目を、歯には歯を――ただのちょっとした意趣返しだよ」

 メイガンに問われ、そう答えたエルムの緑の目の奥には悪女としての素質の片鱗が見え隠れしていた。


「よろしければ庭でもご覧になりませんか」

 オーティスがそう声を掛けられたのは、彼が婚約者のリーリエに会うためにオーランド伯爵家を訪れてから一時間ほどが経ったころだった。リーリエは外出しているとのことで、応接間で待たせてもらっている間、メイガンという名の執事がオーティスの相手をしてくれていたが、彼が退屈していないか案じた茶色い髪のメイドがそう言って案内を申し出てくれた。

「今はちょうど、薔薇が見頃なんですよ」

 対応にそつはないし、見た目も悪くないが、あまり愛想のないメイドだなと思いつつ、ほうとオーティスは相槌を打つ。

 赤、ピンク、白、紫、オレンジ、黄色――さほど大きくないながらもきちんと手入れされた庭に咲く花々を眺めながら、オーティスはメイドに誘われて歩く。淡い黄色の薔薇がふいに目に入り、彼は足を止めた。

「どうかなさいましたか?」

 いきなり立ち止まったオーティスを怪訝に思ったのか、メイドが振り返り彼へとそう問うてくる。

「いや……先日のリーリエ嬢のドレスに映えそうだと思っただけだよ」

 あの夜のリーリエの姿が、声が、言葉がオーティスの心に焼きついて離れなかった。こんなにも誰かに心を奪われたのはオーティスにとって初めての経験だった。いつもの快楽目的で遊ぶ少女たちに対してこんな想いを抱いたことはない。これは重症だなと思いつつも、視界に飛び込んでくる些細なものからも彼女を思わずにはいられない。

「お気に召されたのであれば、後ほどお持ち帰り用にブーケを作らせますね」

 メイド――セルマは黄色の薔薇の花言葉を思いながら、内心でほくそ笑む。彼女は十七本でブーケを作るように後でシャノンに伝えることに決めた。

 セルマは時折薔薇の解説を挟みながらオーティスを伴って、庭の隅の四阿へと向かって進んでゆく。そろそろよい頃合いのはずだった。

「あら」

 アーチ状に咲き誇る蔓薔薇の下をくぐり抜けるとセルマは足を止める。視線の先には四阿があり、そこには指を絡ませ合いながら仲睦まじそうに談笑する黒髪の少女と亜麻色の髪の青年の姿があった。

「どうかされましたか?」

 そう問うてきたオーティスに対し、セルマはわざとらしいくらいの不自然さを装いながら、

「いえ、なんでもございません。戻りましょうか。そろそろリーリエ様もお帰りになっておられるかもしれませんし」

 セルマの言動から何かを隠そうとしていることを嗅ぎ取ったオーティスは彼女とその主の思惑通り興味を示し、四阿のほうへと視線を向けた。

「あ……」

 オーティスは思わず声を漏らした。婚約者であるリーリエがどこかの貴族の令息と思しき青年に顔を寄せ、何かを囁いていた。青年の顔に触れそうなその唇は、清楚な薄桃色をしているにも関わらず、何だか妙に艶かしく見えた。

 呆然とするオーティスの顔にリーリエの緑色の視線が向けられた。彼女は彼の存在を認めると、特に慌てるふうもなく、くすりと笑ってみせた。

(この私が負けたというのか……こんなどこの馬の骨とも知らない輩などに……!)

 今までにオーティスの思い通りにならない女などいなかった。この容姿や侯爵家という身分、百戦錬磨のテクニックを持ってすれば、陥とせない女などいなかった。それなのに、目の前のこの光景はどういうことなのだろう。

 何かどろどろとしたどす黒い感情が腹の底で沸き立つのを感じる。それはオーティスが生まれて初めて感じる感情――嫉妬だった。

 どうすれば、自分の姿は彼女のその瞳に映してもらえるのだろう。どうすれば、彼女の心を自分へと向けることができるのだろう。どうすれば、自分が彼女にとっての一番になれるのだろう。

 これまでの人生において、色恋の相手に不自由せず、こういったことで悩んだことのなかったオーティスにはその答えがわからなかった。

「……っ……、失礼する」

 自分以外の男と仲睦まじげにするリーリエの姿を見ているのが辛くて、オーティスはそう告げると踵を返した。

「あっ……オーティス様っ!」

 狼狽えたようなメイドの娘の声が背後から追いかけてきたが、オーティスは足を止めることはなかった。

 オーティスの姿が遠ざかっていくのを見て、ふうとセルマは息を吐いた。四阿では亜麻色の髪の青年が肩を揺らしながら笑いを噛み殺している横で黒髪の少女がひどく疲れきった顔をしていた。

 程なくして屋敷の前に止まっていた馬車が遠ざかっていく音を聞いたセルマは改めて四阿へと近づく。

「エルム様、お疲れ様でした」

 セルマが黒髪の少女にそう声をかけると、彼は力ない笑みを浮かべながら、

「セルマこそいろいろありがとう。急な話だったのにシャノンも協力してくれて助かったよ」

「いやあ……エルム様の熱演、男だってわかっててもゾクゾクしちゃいましたよ。伯爵家の跡継ぎなんてやめて、俳優でも目指したらどうですか? 演技派の脇役、とかいかにもハマりそうじゃないですか」

「シャノン……それは褒めてるのか貶してるのか一体どっちなの……? それに僕の恋愛対象はちゃんと女の子なんだからそういうのやめて……僕、今そういうの間に合ってる……」

 シャノンの笑いを含んだ軽口にエルムはげんなりしながらそう返す。セルマがシャノンへとじっとりとした視線を向けると、彼は小さく肩をすくめた。

 エルムたちはオーティスへの仕返しのため、一芝居打った。アマラは他の使用人たちへの連絡、メイガンは応接間でのオーティスの相手、ルゼは四阿で茶の用意をし、セルマはエルムの着替えと庭でのオーティスの誘導、シャノンはエルムの浮気相手の男役――オーティスを快く思っていなかったオーランド伯爵家の使用人が一丸となって、エルムの指示の下、彼の策略に協力した。

 リーリエと彼女に扮したエルムがこれまでにされた仕打ちを一部とはいえ、そのままやり返してやっただけのことではあるが、エルムの狙い通り、ショックを受けた様子でオーティスは帰っていった。今までいい加減な扱いしかしてこなかった婚約者に対し、最近になって異常に関心を示すようになった彼にはいい薬になっただろうとエルムは思う。こんなふうに婚約者の浮気現場をありありと間近で見せつけられたら、普通はショックを受けて婚約について考え直すものだ。エルムが晴れてお役御免となるのももう時間の問題のはずだった。

「いやあ……リーリエ様があんなことになった諸悪の根源の色男がどんなもんかと思えば、エルム様の思惑にまんまと嵌められて逃げ帰るとか大したことなかったですね。それにしても……エルム様って悪女の才能もあるんじゃないですか? 最近、休憩時間にルゼが読んでる娯楽小説の悪役令嬢、みたいな……」

「あっ……! ちょっと、シャノンさん、失言ですよ」

 シャノンの軽率な発言をセルマがたしなめるが遅かった。エルムは、はははと乾いた笑い声を上げると、

「僕も本当にそう思うよ……ブリューテ国でもちょうどそういうの流行ってたしさ……」

「ええと……留学先で随分と最先端の文化を勉強なさってきたみたいですね……?」

 面白がってブリューテ国のいろいろな文化を留学生のエルムに友人のカイエルが吹き込んでくれたことが、無意識のうちに悪い方向へ活かされていることを思い、エルムは頭を抱える。色々とこんなはずではなかった。

 セルマは嘆息すると、

「エルム様、お部屋に戻って着替えましょう。その間にアマラにお茶を新しく用意させておきますから、しばらくゆっくりなさってください」

「うん……ありがとう、セルマ」

 エルムはセルマへとそう礼を述べる。さあ、とセルマに促されるままに虚ろな目で立ち上がると、彼女に誘われてエルムは屋敷の中へと戻っていった。


「いついかなるときもあなたのそばにいることをお許しいただけませんか? 私はあなたと共に生きていきたい――いえ、もう私はあなた無しでは生きていけないのです」

 その日、エルムは朝から何となく嫌な予感がしていた。その日はレンブラント侯爵家が主催する夜会が予定されていた。婚約者として、リーリエの名前でエルムも一応招待されていた。義務的かつ事務的になされた一応の招待だとエルムは思っていた。

 家まで迎えにくるなり、デコルテと背中が大きく開いた珍しく露出が多いとはいえど周りに比べれば地味なことの上ない薄い紫のドレス姿を歯の浮くような美辞麗句を並べて褒めそやされたと思えば、そのままきちんとレンブラント公爵邸までエスコートされ、夜会の会場である大広間へ入るなりオーティスは大勢の招待客の前でそんな求愛の言葉を口にしたのだった。

「……っ……生憎だけどお、アタクシ、クズにはこれっぽっちも興味ないのお。ごめんなさいねえ」

 度肝を抜かれながらもエルムは無理矢理平静を装いながら何とかそう言い返すが、努力も虚しく声が僅かに隠しきれなかった動揺で裏返る。口をついて出たのは例によってオネエ様方の口調と同じものだったが、最早そんな瑣末事になど構ってはいられなかった。

 先日、訪ねてきたときに見せつけてやったあの光景が、最近婚約者に興味を示すようになったオーティスにとって堪えなかったはずがない。それなのに公衆の面前でこんなことをするなんて、一旦どういった了見なのだろう。

 オーティス・レンブラントは婚約者に興味がなく、女遊びにうつつを抜かしている――そう思っていたほとんどの招待客たちは信じられないといった面持ちでオーティスとエルムを注視していた。

「あなたに他に想う人がいたとしても構いません。その事実ごとあなたを愛してみせます」

 扇情的な紫色のオーティスの双眸には真摯な光が宿っていた。己に酔っているかのような言い回しを聞きながら、帰国する少し前に留学先で観た舞台にそんな台詞があったなあとエルムはぼんやりとどうでもいいことを考えた。異国の最新の舞台の内容を把握しているのはさすが遊び歩いてばかりいる金持ちの道楽貴族だと感心しないでもないが、オーティスが引用しているのはなぜかヒロインの台詞だった。

 オーティスの手がすっとエルムの顔へ伸びる。甘く端正なオーティスの顔がエルムの顔へと近づいてくる。エルムは顔を引き攣らせた。リーリエに扮して女のふりをしているとはいえ、男とキスをするのはいくらなんでもごめんだった。

「……っ」

 エルムは身を捩り、素早く顔と顔の間に扇を捻じ込んだ。唇の純潔をどうにか守り抜いたことに内心で安堵しつつも、エルムは嫣然と微笑んでみせる。

「あら嫌だあ、そう簡単にオイタはさせないわよお? いーい? 物には順序ってモノがあるのよお? 今までのことを脇に置いて、順番をすっ飛ばせるような立場だったかしらあ?」

 エルムが強気にそう言い放つと、ほうとオーティスは芳醇な色気を孕む双眸を細めてみせた。

「それでは、順序を守ればいずれは私のことを見てくれる……そういうことでいいのですね? 我が愛しの婚約者――リーリエ」

 うっかり言葉尻を捉えさせてしまったのはエルムのミスだった。

「あっ……あらあ、悪いけれど、アタクシがアナタに目移りする日なんて一生来ないわよお? 諦めて他所を当たった方が建設的ってモノじゃあないかしらあ? だって」

 このままじゃ恐らく埒が明かないと判断したエルムは覚悟を決めた。きっぱりと自分のことを諦めさせて、婚約を解消させるように仕向けるには、最大の切り札を叩きつけてやるしかなさそうだった。エルムはオーティスの耳に口元を寄せると素の口調で囁いた。

「残念ながら、僕はリーリエじゃない。リーリエじゃないどころか、女ですらない。だから、僕があなたを好きになることなんて絶対にあり得ないんだよ、オーティス様」

 一瞬、オーティスの双眸が見開かれた。しかし、何かに納得したようになるほど、と頷くと、見る者の心を蕩かす蠱惑的な笑みを彼は浮かべた。

「あなたがたとえ何者であっても、私のこの想いは変わることはありませんよ。それに、今のあなたの言葉がどこまで本当なのか、あなたが本当は何者なのか――いずれ、確かめさせてもらいますよ。私は決してあなたを諦めない――私の心があなたのものであるように、いつかはあなたの心も私のものになるのですから」

 そう言って跪くと、オーティスは恭しくエルムの手へと口付けを落とした。嫌悪感でぞくりとエルムの背筋に悪寒が走った。

「な……」

 言い回しこそ大仰だが、本気しか感じないオーティスの言葉にエルムは絶句することしかできなかった。男であるという最大の手札を切ったにもかかわらず、エルムのことを諦める様子のないオーティスに驚きを禁じ得ない。婚約破棄を引き出すための押しの一手を打ったつもりが、逆に宣戦布告され、追い詰められているとエルムは感じた。

「せ、せいぜい頑張ればいいんじゃなあい? その無駄な努力がアタクシに届くことなんて一生ないんだけれど、ね」

 エルムはあくまで強気の姿勢を崩すことなく、そう吐き捨てるとふんと鼻を鳴らす。恍惚とした表情を浮かべてエルムの手を愛でようとするオーティスの手を振り払う。オーティスの唇の感触が残る手がひどく汚いもののように思えて、エルムはレースのハンカチを取り出してごしごしと拭った。

 エルムはリーリエとオーティスの婚約を破談にするためにここしばらく努力してきたはずだった。淑女としての立ち居振る舞いに不慣れなこともあり、エルムが知っているリーリエとはかけ離れた言動が多少なりともあったことは認めるが、どう考えてもこんなふうになるはずはなかった。

 自分はリーリエではないし、女ですらないと告げたにも関わらず、何故かオーティスの関心がエルムから離れる様子はない。逆にオーティスの興味を余計に煽ってしまった感すらあった。

 リーリエのためだけでなく、エルム自身のためにも、レンブラント侯爵家とオーランド伯爵家の間に結ばれたこの縁談をどうにか断ち切らねばならない。さもなければ己の貞操すら危うい予感がした。

 オーティスとの婚約をレンブラント侯爵家に解消してもらうまでの道のりはひどく遠く険しいものになりそうな気がした。この先に待ち受けているだろう苦労を思うとエルムの頭はずきずきと痛んだ。

 オーティス・レンブラント――彼はひどく手強そうだった。

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オネエ系悪役令嬢は双子の姉と入れ替わって婚約破棄を目指します! 七森香歌 @miyama_sayuki

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