INNOCENT8

 ホバーボードを発進させて帰宅し、風呂に浸かるまで、夕食を注文することを忘れていた。

 空腹であり、確かに何か食べたい気分であることは間違いないのに、何を食べたいかわからず、注文履歴から適当に注文を済ませた。二日分頼んでしまったが、すべて食べきれると思った。

 今日はネイにとってわからないことばかり起きた。

 フォンの居場所もわからないまま、先ほどの会話を経た今の気持ちも、脳の中のどの引き出しに入れればいいのか決めかねていた。誰かに教えてもらいたい気分だった。


 動揺を抑えて続けた話によると、彼女のデバイスは見つからなかったようだ。いつも置いてあるところになかったらしい。ただ、この廃墟にも何度も持ってきたことがあるのを思い出したと言い、ネイはそのあと一緒に付近を探した。廃墟の周りは何も変化なく見え、こんなところにないだろうなとネイは頭の隅で思いながらも、柱の周りを見回したり、大き目の石をどかしてみたりした。頭の中は始終上の空で、むき出しの緑色の腕や脚や布のはち切れそうな腰、真剣な横顔に向けて、視線を何度も戻しては頭を振った。

 そもそもなぜこんなに興味が湧くのだろうと考えはじめ、フォンと似ているからだという理由にたどり着く前、彼女が歌う鼻歌が「ダブルパート」の主題歌であることに気づいてまた思考が途切れた。

「ダブルパート、好きなの?」

 少し離れたところで、植物の蔓を踏まないように歩いている彼女に向けて声を飛ばす。

「好きだよ、ウィギがかっこいいしね」

 その返事はあらかじめ確信していたに近い。きっとそう言うのだろうと会話のパターンがすぐに浮かんでいた。フォンのように考察が始まるのではと想像し、つい一拍以上の時間を置いてしまってから、既に用意できていた言葉を返した。

「そうか。私はピイスが好きなんだ」

 しばらく沈黙が覆った。嫌われ者のキャラクターを好きと伝えたことが否定に聞こえ、気に障っただろうかと目を凝らすと、まっすぐ背筋の伸びたシルエットが見えた。こちらを見返す二つの双眸が赤くこぼれそうに揺らいでいるのが、光源がないのにも関わらず、はっきりと見えてネイはたじろぐ。

 ぴったり合わさっていた唇の隙間に黒色が覗く。

「私、ピイスも好きだよ」

 その声の真剣さに、喉が急に閉ざされたように苦しくなった。赤い瞳の中で揺らぐ波すら見える気がする。涙かもしれないが零れてはいない。目を奪われていることを自覚する前に、ネイは蛍光グリーンのフレームを収縮させ、ピントを表情に絞って一度瞬きをした。

 深い理由を探すまでもなく、反射で撮影をした。


 その後は確か彼女からデバイスはここにないねというようなことを切り出され、解散した。

 ネイは、ことごとく何もわからないと思いながらホバーボードの速度を上げ、すっかり夜も深まった道を走った。どうして彼女にそれほど動揺させられるのか、フォンに似ているから、という一言では済まないような収まりの悪さを感じていた。

 それに、あの返事と視線にどうしてこれほど動揺させられるのかもわからず、ネイは少し考えた。フォンに似ている顔が、あんな表情をするからだとは思うが、それでは説明できない根拠が、自分にも開けられない澱の中に埋められた箱の中にあるような気がした。心が落ち着かなかった。デバイスは呑気にも普段より少し早い心拍数のことを告知してくる。

 フォンはあんな返答をしないし、真剣な表情も見たことないな。

 もう一度確認したくなり、先ほど勝手に撮影した画像を呼び出してみた。

 そこには闇があるばかりで、彼女の姿は写っていなかった。

 ネイはしばらくその写真を見つめ続けてから削除した。

 すぐに箱は澱の中にまた隠れた。残るのは見慣れた闇だ。

 

澱の中を手探りしてまで、箱の扉を開けるはずがなかった。





 家に帰ってから、今日を終えるための質量をすべて消化できた気がせず、ネイはデバイスに届いていた通知を遡った。

 しばらくタイムラインは追っておらず、放置されたままの情報を一つずつ消していった。もちろんすべて好きな小説やイベントや映画、アニメにゲーム、必要な娯楽に関する通知だ。しっかりパーソナライズされているのですべてネイの好むものに間違いない。けれど点滅する通知を多く溜めてしまい、煩わしくなったのだ。片端から目を滑らせる。すべて確認するのにかかった時間は思ったほど長くなかった。

 ネイは通知を確認し終えて、何も瞬かなくなったデバイスに安堵する。

 もう勘弁してくれ、と思った。

 今日という一日を終えるための情報や出来事が、すべて読んだはずなのに圧倒的に足りなかった。いつもと同じ一日のはずなのに、何が足りないのか、自分を探っても、行動を顧みてもわからずに、いらつく気持ちばかり増幅した。体を浸している水面が小刻みに揺れる。

 ネイはこの気持ちを強制終了するため、左半分に垂れ流していた新着動画のウインドウを閉じ、滅多に使わないアプリケーションを起動した。ログインせずに動画選択をはじめる。

 その作業が終わって一息つくと、すっかりのぼせていた。体は熱く、立ち上がろうにも少しの動作すら怠い。水温を下げるよう操作するためにデバイスの隅を見ると、久しく見ていなかったランプが点灯しているのに気付いた。ネイは目を疑いながらもその小さくささやかな点滅を凝視した。

 フォンのデバイスがオンラインになっていた。


 見間違いかと思い、凝視する。柔らかく呼びかけるように見えるのは間違いなく無機質なランプの点滅だった。個別メッセージを送る。


フォン? どうしてたの?


 しばらくバスタブに立ち尽くしたままフォンの応答を待ったが、髪から落ちる水滴の音以外聞こえなかった。デバイスは音沙汰なく、点滅のみを続けている。

 そのゆっくり瞬く小さな赤いランプが弱弱しく見えて、焦燥感が募る。

 ネイはランプに注目していたつもりだったが、意識は落ち着いていなかったらしい。

 そもそもネットワークの向こうの誰かがオンラインのとき、ランプは点滅せず点灯のままのはずだった。

 メッセージが届いているのだ。

 それに気づいて受信トレイを開く。フォンからだった。見慣れたはずのIDに鼓動が跳ねる。メッセージを開く目線が緊張して目じりが細かく震える。いっぱいに開いたウインドウの余白が目に眩しく感じた。フォンからのメッセージが一行だけだからだ。


ごめんね。


 受信日時は、フォンと仕事をし、一緒に食堂でダブルパートの話をして、その表情を撮影した日の夜だった。それからもう何日も経っている。

 ネイは放心しそうな意識をを引き寄せ、マイクを起動してからフォンへ音声通信をリクエストした。フォンの名前のスペルと、先日の笑顔や瞳の色、揺れる髪のファイバー、朝紫色の皮膚、並んだ白い歯が、脳の中の波浪に乗って打ち寄せた。波は鼓動と同じ速度で打ち寄せては引き、フォンの残滓がネイの砂浜に積み重なっていく。

 その隙間に祈りを詰めながら、ネイは待った。

 

 そのまま体温がすっかり奪われるまでバスタブに立ち尽くしたが、フォンからの応答はなかった。

 オンラインを示していた小さなランプが、煙のように消えていた。

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