INNOCENT7
その翌日は作業場に行った。
昨日雨に濡れて帰宅してからは体を乾かし、甘いものだけで腹を満たしては欲のままに眠り、眠れなくなってからは好きな映画を眺めた。
たっぷり眠って怠惰に過ごし、翌朝になってみれば、作業場に行ってもいいような気がしたので気が変わらないうちにゲートをくぐったのだ。
幸い作業内容は引き続きフィルムの復元で、積まれた麻袋は減るどころかおとといよりも増えていた。発掘作業に力が入っているようだ。
さっそく道具を手にして汚れを落とす作業に入ったが、すぐにきれいになるものばかりで、ネイはますます興に乗った。写真を完全に乾かすにはただでさえ時間がかかる上、ネイの作業場には申し訳程度の屋根しかなく、昨日のような雨が降ればまた乾燥させ直すので出荷できるまでかなり日数がかかることは間違いなかった。
しかし納期を調整するのはネイの仕事ではない。
ネイは作業に没頭した。ネイの背丈以上に高さのある柱に渡されたケーブルの数は多く、そのすべてに隙間なく写真が貼り付けられ風にそよがれていた。手を止めて見上げると、一番上のケーブルに張り付けられたものは定着液の色も薄れ、本来撮影されたままの色が浮かび上がり始めていた。今日も曇天なので日光は期待できないが、あと一日でも晴れた日があれば、きっとあの辺りの写真たちは色も復元され、完全に乾いた状態で出荷できるだろう。
どことなく満足感が沸き上がり、ネイは一度伸びをした。今日はこのままどうにか曇天を保つだろう。余裕がある時間に帰れるかまだわからないが、帰れそうなら曇り空の下の廃墟を撮りに行こう。そう決め、背後を振り返り写真を乾かそうとするも、ケーブルにもう隙間がなかった。
「ケーブル探してくるね」
すぐ横の廃棄物の山からはあらかた使えそうな細長いものを取りつくしたので、作業を続ける同僚に軽く声をかけ、ネイは隣の地区のゴミ捨て場まで歩き出した。隣の地区とは言えおよそ五十メートルほどで隣区だ。産業廃棄物のゴミの山は道の先に丸く点々と見えている。一番近くにあるその山のふもとに足をかけ数歩登ると、つま先で崩す。何かの基盤やアクリルや樹脂の欠片、衣服の一部だったと思われるシリコンの切れ端、分解すればパーツを販売できそうな汚れた何かのコントローラー、臓物の抜き取られたと思われるPP製の何かのボックス、母体と切り離されたスイッチたちが姿を現してはふもとへ転がり、またゴミの一部に紛れて静かになった。それらの間から除く黒や水色や蛍光イエローのケーブルを抜き取り、短すぎるものはその場で別のものと固く結んである程度の長さにした。
そろそろいいか。
腕に三重ほど巻き付け、今日の分は間に合うだろうと引き上げかけると、まだ新しい青色の塩化ビニールがとぐろを巻いているのを見つけた。少し太いがかなり長そうで、このまま使えそうだった。その端を掴んで引っ張ると、同じ種類の色違いと思われる紺色もそばに落ちていたのでそちらも引っ張った。レトロな色味は昔から製造されてきた物だろう。誰かが不要になって捨てたばかりかなと思いながら、それも持ち帰るため腕に巻き、抱え直す。低いゴミの山を下りかけたところで立ち止まり、思わず腕の感覚を失いかけた。足元に溢れるゴミの隙間から、見慣れた赤いファイバーケーブルが細く伸びていた。
……………………。
数秒立ち止まってからしゃがみ込む。
まるでこちらに向かって進む蛇のような細いそのファイバーの先に、抱えた塩化ビニールがまた解けてしまうのもいとわず触れる。半透明の赤いシリコンの端は千切られて、その内側にある細い導線が露出していた。
フォンは自身の赤い髪を、赤いファイバーで纏めて飾り付けていた。ちょうどこのファイバーと同じ赤色だったように思う。
ネイはその赤色を引き抜いて握りしめ、ほかのケーブルとまとめて抱えて立ち上がった。少し震える指先がまるで自分のものではないように感じたが、いつもと同じ表情で作業場に戻り、ケーブルを柱に括りつけては写真を乾燥させる作業に戻った。
赤いファイバーケーブルなんて量産品、フォンのものなわけがない。
ネイの感情は凪ぎ、戻る足を速めた。
*
その日も作業場での仕事は夜遅くまで続いた。
振り返ると、昼よりも増えた写真たちが風に吹かれ乾いた音を立てて揺れている。ぼやけた僅かな明かりに照らされた写真はほぼすべてが闇に溶け、内容は確認できなかった。乾いた音はまるで羽虫のはばたきのようで、昼に見上げたときに感じた満足感は消え、微かな静けさが何かの前触れのようだと思う自分がおかしく、ネイは口の端で笑った。
ゴミの山から拾った赤色のファイバーをポケットに入れ、いつものアナウンスを聞く。
INNOCENT SUCCESS!
闇の中をホバーボードで滑り、廃墟へ向かう。
先日の被写体に会うつもりだった。今日もきっといるだろうと思った。その確信の根拠はない。ただ今日は誰とも会話しておらず、フォンともまた会えなかった。その余白があるままでは、一日を終える質量に満たない気がしたのだ。予定通りのはずだった空白は、必ず他の何かで埋め合わされる。繰り返してきた一日は夜になるから終わるのではなく、総量を消費することで終わるのだとネイは感じていた。そのことを言語化するほど思考してはいなかったが、その証拠にネイは廃墟に向かうことを迷わずに選んだ。
左右に流れる薄黄色の建物たちの形が視認できないことで、ホバーボードのスピードを普段より上げていることに初めて気付いた。いい作品を生み出したい焦燥感なら覚えがあるが、今日の気持ちの出どころは自分でもわからなかった。こんな気持ちの動きをそのまま作品として表現できたなら、誰かの心を動かすことができるかもしれないのに、自分でも正体がわからないなら世話ないなと自嘲して、ボードを停めた。植物が蠢いているベランダがこのあたりだったと思ったのだ。見上げても、どこにもそのベランダは見つからなかった。前後の棟も見渡してみても、見たばかりの異質さは見当たらない。ネイの記憶違いで、まったく別の棟に今もあるのか、それとも住人の引っ越しで消えてしまったか、幻を見たのか。
フォンはどこにいるのか、どうしてデバイスを切っているのか、赤いファイバーの持ち主はフォンなのか、自分はどうして焦っているのか。
自分のことや狭い自分の周囲のことなど、こんなにもわからないことばかりだったのかと、改めてわかった。
何も知らないことばかりだったのだ。自分の気持ちも、友人の居場所も。
ネイはまたホバーボードを発進させた。闇の中へ目を向ける。
最初に会った時と同じく、崩れ落ちて傾いた梁の上に腰掛ける人影がぼんやり見えてきた。やっぱりいた、とネイは思い、軽く手を挙げ、減速する。相手も気づいたようで、手を振り返してきた。
「今日はもう帰ろうかと思ったよ、シャシンさん」
そう言って梁から飛び降り、ネイと目を合わせてくる。その顔を見るなり、ネイは次ぐべき言葉を失った。
こんなに赤い色の瞳だっただろうか。
腰までの長さだった髪は、今日は足首に届きそうだ。材質はわからないが、よく見る髪型の形に括られている。微笑む表情も明らかに以前と違い、年を取って見えた。背も高く、目線の高さはほぼ変わらない。今日目の前にいる彼女はネイと同年代のようだ。
何より、その笑顔も髪型も、フォンに似ていた。
「どうしたの?」
黙ったままのネイを覗き込む仕草すら似ている気がする。瞳の赤色と、かすかな土の匂いに、寂しさにも喜びにも似た気持ちが込み上げる。名前を呼んでほしいと思ったが、それ以上に知りたいことがあった。
「君は、フォンのことを知ってる?」
問いに願いを込めるのは初めてだった。
「うん、知ってるよ」
花の名前を訊いたときのフォンのように、嬉しそうに集まる目じりの皺が懐かしかった。
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