INNOCENT6

 翌日目覚めると、普段ならすでに作業を進めている時間だった。

 ビニールのカーテンを開け放して眠っていたにも関わらず目が覚めなかったのは厚い雲のせいらしい。そういえば夜中遅くには雨が降っていた気がする。

 ネイは疲労の残る体を起こし、まずデバイスの通知を確かめた。デバイスの右端では鳥のイラストがおはようございますと挨拶していた。作業場からの連絡はなく、昨日爪を染めた同僚から短いメッセージが入っていた。ちゃんと出勤しているらしい。

 フォンのデバイスの電源は今日も入っておらず、さすがに胸騒ぎがした。フォンにコンタクトを取ろうにもデバイス以外の手段はなく、住まいがどこなのかも知らない。

 IDは仕事をするために一通り登録したが、住まいを知るには面倒な手続きを踏まなければならない。作業場の同僚どころか、ネイたち労働者をまとめ管理しているリーダーすら把握していないだろう。

 ただフォンはいつも徒歩で作業場に来ていたので、住まいが遠くないことは間違いないと思う。途中までなら一緒に帰路についたこともある。「僕こっちだから、また明日ね」と言われて別れた道はどのあたりだったか。近くまで行って住まいを見つけるのは非現実的すぎるだろうか……。ネイは音を立てるベッドから下り、クローゼットとは名ばかりの狭い収納スペースまでの数歩で、文字通り服を脱ぎ捨てた。新しいタンクトップを頭からかぶり、脱いだ服を拾い集める。もっと非現実的だと思いながらも、ネイとフォンの所属するグループの総合チャットで話題にしてみた。


―――フォンが職場に来ないしずっとオフライン。誰か家知らない?


 数人からすぐに応答があったが、誰も知らなかった。今日はもう作業場に行く気は出ないし、やっぱり記憶を頼りに道まで出てフォンの住まいを探してみようと決め、ネイは昨日の夕食の残りを咥えて洗面台へまた歩く。付近の地図をデバイスに映し、見覚えのある道を探しながら、長い髪を水色のファイバーでいつもと同じかたちへ括る。

 デバイスの左半分には先ほどのメンバーが続けているチャットの会話が下から上へ流れている。


―――そういえばフォンは菜園を増やすって言ってたよね。


「菜園?」

―――菜園?


 思わず声に出た言葉をデバイスが拾い、そのままチャットに流れていった。

 モードを変更すればメンバーのそれぞれの肉声が流れるのだろうが、ネイはスピーカーをオフにしている。耳に入れるのはできる限り好きな音楽のみにしたい。


―――菜園。知らなかった?

―――全然。どこ?

―――どこかは知らない。

―――あの子葉っぱとか花とか好きだから。

―――あんまりうまくいってなさそうだったけどね。

―――しっかり育つ地面がないってきいたことあるな。

―――人が使わなそうな土地を見つけて、土から変えてるって。


 フォンと一番顔を合わせているのが自分なのは間違いないのに、菜園を始めたことすら知らなかった。しかもどうやら始めてから長いこと経っていて、試行錯誤しているらしい。

 どうして話してくれなかったんだろう?あんなに花の話をしていたのに。土から育てないと成功しないと、相談どころか愚痴すら自分には少しも零してはくれなかった。そもそもフォンと仕事を終えてから何をしているかなんてひとつも知らなかった。これでも同じ作業場で働き始めてから数年は経つ。自分に話してくれれば良かったのに……。

 思わず衝動のまま、離脱も告げず無言でチャットからログアウトした。

 目の前の鏡には、口を頑固そうに結んだ顔が鏡に写っている。

 ネイは鏡の前から離れて部屋のカーテンを乱暴に閉めた。


 作業場からネイと帰るときや少し離れた食堂に寄ってから帰るとき、どこの交差点で分かれたかを思い出そうと道を歩いてみたが、正確に思い出せなかった。

 そもそも道を思い出せたとして、このあたりの人が住む建物は同じ形の薄黄色をした集合住宅ばかりで、並ぶ窓のどれがフォンの住まいかなどわかりようもなかった。一棟にどのくらいの人間が住んでいるのかもわからない。本人に偶然出会えないかとしばらく四角い建物の周りを歩いたりもしたが、住人らしき人物と出会うどころか、誰ともすれ違いすらしなかった。

 ネイは頭上にずらりと並ぶ無言のガラス窓を見上げてみた。窓は均等に並び、少しの狂いもないベランダの曲線の装飾が目にチカチカした。

 ベランダが緑色で覆われている部屋をひとつ見つけた。目を凝らすと、人間が外に出て太陽の光を浴びる隙間など少しもなく埋め尽くされた、多様な植物の鉢だった。ネイに植物の種類はわからない。でももしかしたらあれがフォンの部屋かもしれない。自分で植物を育てているのであれば、そうかもしれない……。

 しかしそれがフォンの植物であることを知る術はない。

 ネイは途方に暮れた気持ちで、両側に立ち並ぶ同じ形の建物の間を歩いた。無意味だとわかりながら、せめて端までは歩かなければいけないような気がした。いくら歩いてもフォンは見つからないし歩き続けることになんの根拠もない、自分のための慰めにすらならない、こんな行動は脳のバグだと思いながらも、歩かなければいけない気がした。

 薄黄色の建物が続く道は、まるで果てがないように感じられた。ネイは足元に目を落とす。

 見慣れた樹脂の地面が続くばかりで、植物が根を張る隙間は見当たらなかった。

 



 

 いつの間にか、先日の廃墟の近くまで来ていたところで雨が降り出した。

 廃墟にあったビニールの屋根の名残は、人ひとりが雨宿りできるくらいの面積だったことを思い出し、駆け出す。辿り着くと、朱色のビニールの下に佇んだ。店で雨宿りするにも、このあたりにはカフェなどない。一番近い薄黄色の集合住宅まで戻ったら、階段の下で雨宿りができるかもしれない。あの階段は古めかしい鉄骨製だったから、もしかしたら穴だらけだったかもしれないが思い出せない。右肩に雨が落ちることに気づき、一歩左にずれた。

「すごい雨だね」

 思わず肩が跳ねた。

 すぐ左側に、先日の被写体が立っていた。

「そうだね……。夕立だろうからすぐ止むと思うけど」

 咄嗟に返答しながら姿を改めると、ネイと同じく雨宿りに来たのか、緑色の皮膚は水をはじいて光っていた

 声も顔も先日と同じなのは間違いなかった。写らないとはわかりながらも、ある程度姿を見つめたのはつい数日前のことだ。それなのに違和感があった。しなやかな腕は伸び、身長もネイの目線より高かった。髪も長く、腰に届いている。先日はこれほど長かっただろうか。顎も細く、大人びて見えた。皮膚の色はこれほど深い緑色だっただろうか?記憶違いか、それとも人違いだろうか。被写体は確実に成長し、変化して見えたが、前回撮影したデータにはもちろん写っておらず、確認することはできない。別人で、親族かもしれない。それなら自分のことを知っているのはおかしいけれど……。

「今日はどうしたの?またシャシン?」

 やっぱり声は同じだ。ネイは混乱から抜けられず、返答を仕損じた。

「君はこないだと同じ人?」

 素直に疑問を口にしてから、なんて頭の悪そうな尋ね方をしてしまったのかとネイは少し恥ずかしくなった。たまに口を開けばこんな突拍子もないことしか言えない自分を恥じる。いつもの自分の言動から、皮肉にも冷静さの欠片を掴み、気まずくなって目をそらす。

「同じだよ。人じゃないけどね」

 驚いて顔を上げると、先日と同じように微笑みかけられた。

「人じゃないって……超常現象ってこと?」

「わからない。気づいたらいつもここにいるの」

 そう言う声は悲しそうでも不思議そうでもなかった。少なくとも声はしっかり聞こえるし、会話もできる。緑色の腕も顔も雨に濡れ、水滴がしたたっている。真横で頭を振られ、髪から飛んだ水がネイの頬に当たった。足元は雨で地面の色が変わっている。全身に豊かな質量を感じる。人間ではない、つまり実体のない超常現象の類には思えなかった。

「記憶喪失なの?」

 ネイは咄嗟に思いつき、そう口にした。それもまた現実味は薄いが、まだ現実的に思えた。緑色の皮膚を持つ人間はまだ出会ったことはなかったが、髪や爪を染めるように、皮膚の色も自分で選ぶのが普通だ。ネイの皮膚はもう何年も、色が抜けては灰色に染め直しているし、フォンはここしばらく朝紫色だ。髪が黒い時期は皮膚を赤くしていた。

 きっとこの人も(人ではないらしいが)そうなのだろう。ただ何か特殊な事情で家や職場を忘れ、この場所だけが記憶に残っているのかもしれない。ネイは自分の発言の確からしさに平常心を取り戻した。

「記憶……。確かにない。そうかも」

「デバイスは?」

「見たことあるけど持ってない」

 見たことあるということは、持っていたけれどどこかに落としたりなくしたりしたのだろうか。デバイスがあれば、個人情報のロックがすぐに解除できないとしても、履歴があれば情報は読み取れ、推測できる。何かしら判明するだろう。

「どこにあるかわかる?」

「わからない……でもわかりそう、少し考えれば……ありがとう、探しに行く」

 そう言ってネイにもう一度笑いかけると、雨の降りしきる中、ビニールの屋根の下から飛び出し、積みあがる瓦礫の上を足早に駆けていった。緑色の長い髪が揺れ、あっという間に柱の裏に消えた。

 ネイは家の心当たりがあるのかも名前すらも訊きそびれたことに気づいていたが、追わなかった。これ以上雨に濡れたくなかったのだ。

 雨はその後もしばらく降り続き、その間ネイは配信されていたダブルパートの最新話を眺めた。長いけれども少し肉のついた手足や丸い目、腰まである長い髪。皮膚も髪も色は違っていたが、どこか浮世離れした物言いも相まって、どことなく妖精のウィギに似ている気がした。

 久しぶりに知り合い以外と会話するとこんなに印象に残るものなんだな。

 ネイは目の前にかかるアクリル板の向こうに降りしきる雨を凝視するように、しばらくそこで立ち尽くした。

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