INNOCENT5

 翌日早めに作業場に到着した。フォンはいない。

 その日の作業も前日と変わらず現像の仕事で、ひたすらフィルムを手にとっては、右手に構えた道具で汚れを落とし、二種類の液体を経由し、その後二本の貧弱な柱をつたう、壊れたケーブルに背面を貼り付け、風に晒す作業を繰り返した。ケーブルが写真で埋まれば、付近のゴミの山から細めのケーブルを引っ張り出し、短ければ繋げて柱にくくりつけ、乾かす場所を増やした。

 作業を始める前にフィルムに手元のライトを当てながらよく見つめ、こびりついた泥の厚さを想像する。鉄でできた平べったい道具は網目模様が細工されている。この網目模様のサイズによって、同じように手の力をかけたとしても、削り取れる汚れの深さが変わる。どの網目模様を選び、どのくらい手に力をこめればフィルムを傷つけることなく削り取れるか。最初の段階で工程を想像し、それが的確であれば、現像液に入れた瞬間、乾かさずとも被写体の輪郭がはっきりと浮かび上がる。その時点ですでに成功は確信となり、風に吹かれながら過去の情景がだんだんと鮮明になっていくのを穏やかに見つめることができる。

 ネイは汚れを落とすコツを掴み、薄汚れてしまった過去の山を写真に変えていった。


 この日も作業を終えたのはすっかり日が落ちてからだった。深呼吸をしても、うまく息が吸えない気がした。頭と腕を支える首が重くて動かない。折り重なる疲労を実感する。

 向かいに座る同僚は両手首まで定着液に浸したまま居眠りをしている。きっと同僚の爪には液体の色が移り、伸びきって切り落とされるまで紫色だろう。肩に手のひらを置いて揺すり起こし、うなだれる同僚の染まり切った爪を笑ってからネイはゲートを出た。


 前日と同じように風呂で夕食を齧っていると、デバイスを流れるチャットの上にポップアップが表示された。すでに眺めているウインドウを邪魔してまでされる通知は、ネイにとって重要度が高い、つまり特に気に入っている情報の証だ。それは写真家の新規投稿だった。

 ネイはデバイスいっぱいに通知元の画像を表示させ、これこそ自分の切り取りたい景色だとすぐに思った。時間は宵の口だろう。その画像の彩度は僅かで、日は完全に落ちているものの、空気中に明るさの名残が残っているかのように周囲はうすぼんやりと柔らかく、無彩色の中のグラデーションを仔細に写していた。光がないにも関わらず、崩れた石の冷たい質感や朽ちた木の水分のなさが否応なく見て取れるところが、何のメッセージも持てなくなった物体と相反していてネイの好みだった。もちろん生物や植物の気配すらなく、もとは川辺だったようにも見える景色だが水はまったく写っていなかった。それぞれの質感はわかるにも関わらず、まるで一枚の布のごとく、滑らかな気配が画像の隅々まで包んでいる。

 ネイはこの写真を撮ったのが自分だったらよかったのにと湯に浸かりながら思った。この写真家にそう思うことはこれまでもあったが、今日がそのピークであるように感じられた。もちろん撮影したのは自分だと吹聴したり自分の作品であるとネットワーク上に発表したりしようとしているわけではない。そんなことはせずとも、これほど自分の理想とする景色がすでに当たり前のように他人の手で紡がれていながら、これまで通り廃墟に赴き撮影し、数人の同志にお決まりのリアクションをもらう、今まで当たり前だったその流れを踏襲することに価値を感じなくなる一瞬だった。

 

 自分が心から欲しいと思うのは、お決まりのリアクションどころか心からの賞賛でもないのだ。欲しいものは、この景色。あまりにも好みでずっと見つめていられるような景色。部屋中をその景色で埋めても後悔しない、ずっと浸っていたい空気感。せめて切り取ることができたなら、生きている限りは繰り返し眺めることができる。それを行いたくてカメラをはじめたが、自分の力量では到達できない域なのかもしれない。


 いつも頭の片隅に浮かんでは浸食しようと蠢く澱を、行動することで振り払ってきた。


 時に自分の写真を見返したり、また別の時には自分もすばらしい景色を切り取るべく飛び出したり、次に撮影するイメージを強く固めたりすることで、自分の中にある欲望を熱意に変え、見つめ直してきた。今日はその方法のどれを思い浮かべてもどこかぎこちない。澱は色を深めたままじわじわと四肢に伝わり、ネイを捕える気がした。

 ネイはまとまらない思考の中で、これまでもしてきたように、自ら見つけては赴いて、撮影して切り取った好きな景色のことたちを思い浮かべ、かき集めた。様々な景色たちは魅力的で、すぐにその場所にまた行きたいような、それなのに繰り返し作ってきた気に入りの画像たちをすべて削除してしまいたいような、どう形容すべきかわからない気持ちは熱意には変わらず、文字通りネイの頭の中をただ揺蕩っていた。

 ネイが閉じ込めた景色たちの表面には、まるで薄いフィルターがかけられているようだ。そのフィルターには「魅力的」と書いてある。デバイスのアクリル板を通して覗く蛍光グリーンのファインダーは、目の前にある景色をそのまま切り取ってきたはずだ。

 柔らかい澱が体内を巡る。バスタブから投げ出され、外気に晒された腕の産毛に触れては逆立てている。

 どの気持ちにも傾倒することができず、冷めかけた湯の中に身を横たえたまま、ネイはかろうじてデバイスの電源を落とした。

 フォンももしかしたらこんな気持ちになって電源を切ったままにしているのかもしれない。そう思いながら、もうしばらくネイは水に身体を浸けていた。

 目は閉じなかった。


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