INNOCENT4

ネイは風呂という存在を、カメラを知ったのと同時期に知った。

 それまでは他多数の現代人と同様、シャワーで済ませていた。そもそもわざわざ水をたくさん使って洗い流さずとも、髪や皮膚を清潔に保つ方法はたくさんある。シャワールームが残った物件がたまたま安く借りられたので、ネイはそこに拾ってきたセラミックのバスタブを持ち込み、薄く入っていた表面の亀裂には余りのホットメルト剤を当て補修した。ネイはたまにしか浸からないが風呂も好きだ。

 乳白色の湯に浸かりながら、デバイスを操作してパーソナライズ設定を確かめた。

 今日訪れた廃墟になぜ花は咲いていたのだろう。そもそもあの土地では植物が育たなくなって久しく、周囲に暮らしていた人間が集落ごと土地を移して廃墟となったようだ。種が誰かによって持ち込まれ、促進剤か何かで特別早く育てられたのかもしれない。もし最近に土まであわせて持ち込まれていたのなら、土壌の情報が更新されず、設定ではじかれなかった可能性はある。

 その情報を閉じ、先ほど撮った写真を開き、眺めてみた。

 太陽が落ちた後だったおかげでオレンジ色は消え失せ、影の中で目をこらせばわかるほどの無彩色のグラデーションが美しかった。廃墟の柱で偶然作られたフレームの中は、その奇跡に似つかわしくなく、何も納められていない。忍び寄り始めたばかりの長い夜が無言で佇むばかりだった。現実に存在していたはずの人物も、若く瑞々しかった植物の蔓や黄色の花びらも痕跡すらなかった。

 意味があったものは崩れ、また偶然生まれた、使い方によっては活かされる景色も、その意味を発揮できぬまま夜の中へ沈んでいた。


 図らずとも、デバイスの設定のおかげで好みの写真になってしまった。


 ネイは迷ったが、自分の意図によって作り出されたわけではないその写真を自身のページで公開することはやめ、非公開のフォルダに移した。

 そのあとは風呂でよくするように、数人のグループで繋がっているネットワークをチェックした。ほぼ全員がデバイス上の何かを操作している。ネイがデバイス上の何をしているかがこのグループにいる全員に伝わるように、何をしているかはランプの点灯と通知の表示でいつも筒抜けだが、誰もそんな些末なことを気にしない。珍しくネットワーク上にいない者もいたが、ほかの前時代的趣味に時間を溶かしているのだろう。

 グループのメンバーには紙を愛する者もいて、ネイの通う作業場は度々羨ましがられた。修復された紙や、新たに束ねられたインサツ物を盗んでくるよう懇願されたこともあるがネイは断っていた。もちろん自分のイノセントに抵触するからだ。

 固定されたサーバーに入ると、グループメンバーたちが今日も撮ったばかりの画像を公開していた。朝焼けの中できらめく湖の水面、タクシーの窓の上を後ろに流れていく水滴、大人の人差し指を握る小さな人間の拳、自身でプログラムしたゲームキャラクターの笑顔が浮かぶ部屋の壁。どれもネイの好むものではなかった。仲間とは言え、仲間たちのつくる作品を素晴らしいと思っているわけではなかった。


 濡れた左腕をバスタブの外に伸ばし、サイドテーブルと呼んでいる、拾ってきたワゴンに載せた今日の食事をひとつ摘まむ。セロファンを剥がしてから、白く丸く柔らかい表面に前歯を立て、力を入れる。いつもの食事のように食べようとすると、この白い食べ物は切れずに伸びてしまうが、勢いよく噛み、同時に手を遠ざければうまく嚙み切れることをネイはもう知っていた。

柔らかく、弾力があって、水気も含み、しっとりしていてうまい。


 少しだけ付けた甘い粉末の味と歯ごたえを奥歯で味わいながら、ネイはそれがついに液体になってしまうまで、必要以上に噛んでから飲み込んだ。もう一口、もう二口、同じ手順で時間をかけ、噛み続けた。

 しばらくして腹が膨れてきたころ、ネイは風呂を出ることにし、水を抜くため栓を抜き、立ち上がった。髪から流れる水滴はすべて足に向かって流れていき、上半身は外気にさらされる。

 室温は保たれているのでいくら入っていてもいいのだが、もう食べ物がなくなってしまった。

 瞼を上げ、かけていた音楽を止めようとデバイスの右上を見やると、フォンのデバイスの電源が入っていないのに気が付いた。退席中のランプではない。例えデバイスを装着していないのでも、ほかのことをしているのだとしても、まずデバイスの電源は切らない。そういえば先ほど食堂で会ったとき、フォンのデバイスの電源が切れかけているランプが点滅していた。気づかずにそのまま放置してしまったのだろうか。それならば、気づいたときに充電を試みるだろうが……。

 バスタブの水はすべて抜け、足元に小さく薄い水たまりができた。適温なはずの室内で、下半身は急速に冷えていった。





 次の日もいつも通り職場に向かったがフォンは来ていなかった。電源が入っていないデバイスの理由を尋ねるつもりだったのに、来ない可能性を考えていなかった。

 しかし実際フォンは時々仕事を休むし遅刻も多い。理由は寝坊だったりはぐらかされたりいつも要領を得ず、今回もそのたぐいかもしれないと思いながらネイは作業場に向かった。

 作業場の不揃いな古い椅子につくと、今日はフォン以外に三人も欠員がいた。仕事は一日の定量がその日によって定められていて、出勤者が何人だろうと当日の分を全員で終えなければ帰れない。出勤しなければ給料が入らないのでネイはなるべく毎日出勤するようにしていたが、これほど人数が少ない日は久しぶりだった。

 今日は廃墟に行けそうもない。目の前の作業に集中した。


 ふと顔を上げると夕闇の中だった。

 手元を照らす曖昧な光の中を凝視していて気づかなかった。今日の作業は久しぶりに現像の仕事で、かなり没頭していたらしい。日に焼けてしまったアンティークとも呼び難いほどの古いフィルムの汚れをまずは目の違う様々な繊維を固定した道具で削り落とし、次に色の差を浮かび上がらせる薬品の中に漬けてから、そっと定着液へ移動する。うまく過去のフィルムが復元できれば成功で、この用紙たちは貴重な過去の資料になるらしい。乾かしてから、しかるべき研究機関に送られる。過去を紐解く研究機関も費用が与えられないため、復元作業するまでの人員がおらず、こうしてネイたちが勤める弱小の民間へ依頼されている。古いフィルムの発掘作業はもっと安い給料で、さらに小さい民間企業が行うのだ。最近では、復元する業者にフィルムを受け渡す際の料金を水増しするため、古くもないデバイスから適当に画像データを抽出し、いかにも過去のもののように古めかしくフィルムを汚し、業者に受け渡す詐欺も多いらしい。しかしネイの勤める作業場ではその真偽を確かめる者はいない。どんなフィルムもただひたすら復元に専念し、すべて研究機関へ受け渡す。作業場に知恵は必要なく、手の数はいくらあっても良かった。それらを経てから行われる研究とは何なのか、ネイは知らない。

 向かいに座っている同僚が、瞬きもせずに作業に没頭しているのが目に入る。最近フィルムは大量に発掘されたようで、脇にあるトタンを立てただけの小屋の中で薄汚れたまま麻袋の中に詰められ、積まれているのが肩越しに見える。

 まだしばらく、少なくとも数日はこの作業が続くのだろう。ネイは自分の右手の横に重なっていた今日の分の封筒がなくなったのを確かめ、深く息を吐いた。肩が凝り固まっていて力を込めないと息をすべて吐き出せなかった。急に空腹にも気付いた。今日は廃墟に行くのをやめ、また長風呂しながら夕食をとることにする。何を食べるかデバイスの表示を見ながら考えた。最近食べているお気に入りの食事の写真が円形に表示されている。そして毎日同じ変わらないアナウンスを聞いた。


 INNOCENT SUCCESS!


 ネイはその日も帰宅するとまず作業着にしているゴム製の上着を脱ぎ捨て、湯を貯めて身を浸した。

 夕食も前日と同じものを選び、ソースだけをかえた。今日はきつね色の粉末を選んだ。これに水を混ぜ、つけて食べると控え目な甘さがおいしく気に入った。

 今朝クリップした情報の中から、遠くの国で開催されたイベントのストリーミングを選んでアクセスする。ヒーロー映画のファンイベントだった。一般人がそれぞれキャラクターを模した衣装をまとい、表情を似せて笑っている。会場は映画内の宮殿のごとく多くの窓に金糸のカーテンが垂れ下がり、きらびやかに装飾されていた。爆発しているように見える明かりも束ねたファイバーで再現され、そこかしこで点滅している。まるで鼓動のようだ。

 内容が薄いその映像を眺めているとネイは不意に眠気を感じ、腕をバスタブの外側に放り出して肩まで湯に浸たした。瞼を落とせば暗闇に包まれると思ったが、金色の明かりが瞼の裏までも浸透し、オレンジ色に点滅していた。ネイは暮れる夕日の中の廃墟を連想し、目を開けた。


フォンのデバイスは今日も電源が入っていない。


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