05-2 犬井、吞みながら考える
一缶目のビールが空になった。
犬井は冷えない内に鶏肉をかじる。
チーズは意外とビールに合ったし、賞味期限切れとも思えなかった。
さて犬井恭二が生まれた時、すでにプレタ病に関する狂乱は始まっていた。このせいか、当事者となるまで彼は、この事態に対し特段の感慨も、使命感も無かった。それに文系科目で学生生活と受験戦争をやりすごしてきたので、ろくに自然科学の教養がない。原子記号表も最後までいえない。
まあ今日引っ張り出した本の導入も、いつもの流れだった。
始まりは、とても静かなものだったらしい。
噛爪癖、抜毛症、自傷行為の患者数が増え始めた。自分の爪を噛む、毛を抜く、裂傷、とにかく自分の体を傷付ける。
これが世界規模で増え始めた。
医学界は、衝動抑制障害の一種と目星をつけて対応を始めた。が、発生因子にまったく定説がつかない。精神医学者、心理学者やら社会学者やら教育者、評論家やコラムニストにいたるまで、多くの自称有識者が現代ストレス社会や構造が原因だとかそれらしい論文と記事を乱発した。およそ都市生活に無縁な地域でも事態は深刻化していたのに。
まあそんなものだろう、と犬井は思う。
精神病や時代病というコトであれば個々の解決はラクじゃないが、脅威としてはとらえやすい。さほど悩まずにすむ。責任転嫁先がいくらでもあるからだ。
『時代が悪いんなら、永久に続くわけじゃない』
誰もがそう思った。いや思いたかっただろう――と犬井は考える。安心できるものを人は好むし売れるので、事実を追っているつもりで、自分の欲しいモノだけを追って買う。しかし事実はいつの時代でも、得てして残酷である。
そして天才というのはいつの時代でも、颯爽と現れるらしい。
見せびらかしの乱痴気騒ぎの中に彼女は突風のように登場し、有象無象の詐欺師をなぎ倒しながら、世界を救った。
リタ=マリア・ローゼンフーバー。生国は独逸。
第2ファーストネームは家系の信仰上のもので、あまり使わないらしい。
外科医師の実父、政治家の兄と化学教授の弟を持ち、彼女自身はまずドイツ国内で医学博士号を取得している。その後、神学校に籍を置くが1年と半期で哲学履修に転身。かと思えば2年経たぬうちにまた学籍を退いている。
その後、彼女は国内最大手の総合医薬学メーカーに入社。携わった業務内容は企業秘密。まったく明らかにされていない。しかしこの間、母校医学部の客員教授を兼務しつつ、共著を含め多数の書籍・論文を発表。その内容は天文学、倫理学、果てには占星術から教父哲学研究、古代史にまで及ぶ。
フツーここらでまあ天才の伝記ならオチがつきそうなところだが、彼女はついに真実を世界にたたきつけた。
『生存のため、ヒト組織の摂取を要する病が存在する』
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