第9話 涙のタイムスリップ

「そうなんですか……お腹に赤ちゃんがいるのにご自分のお名前も分からないなんて……。私はまだいい方ですね。私は美羽みうといいます。実は私もこの時代の人間ではないんです。


 別の場所にあったこのお地蔵様の前で倒れてしまって……。気が付いたら、時を13年もさかのぼっていたんです。だから、このお地蔵さまにお願いしたらまた戻れるかもしれないと思って、ここまで探してきたんです」

 美羽は同情しながらも、まだ希望があることを女性に伝えたかった。



「このお地蔵さまに? そうなのね?

 私がこの辺りで倒れていたのも、きっとこのお地蔵さまとタイムスリップが何か関係があるせいかもしれないわね」


「そうですよ! このお地蔵さまがきっと元に戻してくれると信じてます!」

 美羽が真剣に言うので、女性は「美羽さん、私も一緒にお祈りしていいかしら? 全て思い出せるように。そしてお互い早く家族の元に戻れるように」と美羽のとなりにしゃがんで一緒に手を合わせた。




 しばらく沈黙ちんもくが続いた。遠くでキビタキ(*注)の鳴く甲高かんだかい声が聞こえていたが、今の二人の耳には何も届かなかった。夕暮れの真っ赤な空が山裾やますそからだんだんむらさきに変わり始めてきた。

 それでも二人は動かずにじっと祈り続けた。



 すると突然、女性がフラフラと揺れ始めた。美羽がハッと隣を見ると、女性は不安そうな顔で「なんだか眩暈めまいがしてきたわ」と言って美羽の方を見ていたが、美羽は女性の周りの風が変わったことに気づいた。

 少しもやが掛かったようになり、女性の姿がぼんやりし始めてきたのだ。


 ああっ、声を出したのは女性の方だった。かすんでいく姿で美羽に向かって声を張り上げて話し始めた。


「美羽さん、私、思い出したわ! 思い出したのよ! 私は3ヶ月後に赤ちゃんを産むのためにこの近くの病院に入院してたの。

 この子は……私の赤ちゃんは、お医者様が女の子だって教えてくれたわ。早く逢いたい、けど怖いの……お医者さまが、この子を産んだら私の命が危険だとおっしゃって……。ああ、私は生まれた子をこの手に抱くことができるのかしら……。


 夫と2人で赤ちゃんの名前を考えようって言ってたの。でも、私がこんな病気になってしまって……。

 そうよ、美羽さん、優しいあなたと同じ名前がいいわ! 美羽みう、とてもいい名前ね。美しいはねで自由にどこへでも羽ばたいていってほしいから。頂いてもいいかしら?

──でも、この子一人を置いて私がってしまったら……。


 毎日、病院の近くにあったこのお地蔵様にお願いしに来てたの。お地蔵さまは子供の神様だから、きっと願いを聞いてくれると思ったのよ。

『どうか私を娘に会わせて下さい。一目でいいから会わせて』と。そうしたらここに来てしまった……。

 これから元に戻れたら、たとえ私に何があっても、この子を産むつもりよ!」

 女性は涙を流しながら、渦巻うずまく風の中で美羽に向かって話し続けた。




 両手で口をおおいながら女性の話を聞いていた美羽の瞳から涙がポロポロとこぼれた。

 女性は最後に涙声で言った。「美羽さん、 私の名前は結子といいます、美坂結子みさかゆいこ。みうさんも……お元気で……」



 美羽はハッとして涙をぬぐうと、急いで女性にけ寄った。

「お母さん! お母さん! 私があなたの娘の美羽なんです! ちゃんと無事に生まれて、こんなに元気に育ったのよ! 産んでくれて、ありがとう! でもお願い、お願いだから生きていて!」

 声の限り美羽は遠退とおのく母親のかすんだ姿に向かって叫びつづけた。


 手を伸ばして消えかけている結子の指に美羽の指が触れた。白く細い指先があたたかかった。最後に優しく美羽に微笑ほほえんでいる結子の顔が見え、そして消えた。


 ほこらの前でたった一人美羽は立ち尽くしていた。母は消えてしまった……。たった十数分だけだったが、一目逢いたかった母にやっと逢うことができたのだ。




 そのとき美羽にも目眩めまいが起きた。ああっ! そのまま倒れて地面の底深く落ちていく感覚に陥った。美羽の目にはまた涙が溢れていた。

 どこまでもどこまでも空間に落ちていきながら、美羽は心の中で繰り返していた。

「お母さんに、会いたかったお母さんに……やっと逢えた。だけど、私を産んだせいで、私のせいでお母さんは……」

 どれくらい落ちていくのか自分では分からなかった。でも、美羽は溢れる涙の粒に包まれながらどこまでも落ちていった。




 そのときだった。「美羽、どうしたの? あなた大丈夫?」突然頭の上から掛けられた声で我に返った。

 ハッとして見上げると、そこには少し目尻に細かいシワの寄ったシスター伊藤の心配そうな顔があった。



 ──元に戻れたんだわ!


「美羽、あなたなぜこんなところに寝転んでいるの? 転んでしまったの?  大丈夫? どこも怪我してない?」

 心配そうに抱き起しながら美羽の背中の砂埃を落とし、怪我はないかあちこち体を見てくれた。


 少し年を召したシスター伊藤の変わらぬ優しい顔が懐かしくて「シスター!」と美羽は安心と同時に涙が溢れてきて思わず抱きついた。


「あらあら、美羽、どうしたの?」

「大丈夫です。シスターに会いたかったんです!」とギュッと抱きついたまま答えた。


「おかしな子ね。今朝も会ったばかりでしょ?」とくすくす笑っていたが、美羽が怪我をしていないと分かるとホッとしたように


「あ、そうそう大切な書類を仕舞しまってる引き出しの整理をしていたときに、あなたがここに来た時に毛布に添えられていたお手紙を見つけたの。記録簿きろくぼには2022年9月22日に本人に渡して欲しいと書かれていたけど、今朝すぐに渡せなくて遅れてしまったわ、ごめんなさいね」

 そう言ってずっとバッグに入れて大事に持っていた手紙を渡してくれた。



 ありがとうございますと礼を言ってシスターと別れると、美羽は手紙を読まずにそのままバッグにそっと仕舞いこんだ。まずは一刻も早く裕星に会って安心させたい。そしてこの奇妙なタイムスリップの事を話したい。そう思いながら、急いで電話を掛けるとなつかしい呼び出し音がした。

 

 ルルル……通じた。


 するとすぐに<美羽! どこにいるんだ?>第一声から取り乱したように心配する裕星の声が大きく響いてきた。


「裕くん、ここよ。あの神社の鳥居の前よ、お地蔵様の祠の……」

 そう言って地蔵の祠の方を見ると、さっきあった祠と地蔵の影も形も無かった。

「え?」美羽が呆気あっけに取られていると、<どうした? 何かあったのか?>裕星の声が耳元で叫んでいる。



「あ、ううん、大丈夫よ。ごめんなさい」

<今すぐ行くから、今度は動かずにそこにじっとしてろよ!>と電話が切れた。美羽は裕星と連絡が取れたことで安心して、はぁーと大きく息を吐いた。


 辺りにはもう参拝客はなく、時折会社帰りの人たちがまばらに歩いているだけだった。

 近くの店のセールの貼り紙で、今日があの日と同じ9月22日であることを知った。

 しかし、商店街の時計塔はあのタイムスリップする前から4時間後を示していた。


 3日間過ごしたはずの過去の世界から戻って、たった数時間しか経っていなかったということだ。

 美羽はさっきシスター伊藤から受け取った手紙のことを思い出し、裕星を待っている間に封を開けた。


 そこに書いてあったのは……。





(注* キビタキは主に長野などの山に住む夏鳥ですが10月上旬まで見られるそうです)

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