第9話 司教

 玉座の前に控える司祭服をまとった男はぎゅっと唇をかみしめていた。目の前に座っているのは教皇パディクト・クルクト。心ここにあらずといった風情で、どこか物憂げなように見受けられる。


「概ね首尾よく運んだと聞いておる。委細は書面にて提出せよ。大義であった」


 聖地奪還という偉業をさも当たり前のように告げるその対応に、パディクトの前に膝まづく男の胸中は波立った。


「はっ、ありがたきお言葉、かたじけなく存じ上げます猊下」


 その言葉を告げた時、パディクトはすでに席を立ちあがっていた。手にした錫杖を杖のように突いて歩く姿はひどく老けて見えた。膝まづく男はしばらくその姿勢のまま動かなかった。パディクトへの尊崇の念からではない。悔しさののためだ。

 男の名はオーサ・ジクト、ナザレット教皇国大司教次席という高位の聖職者だ。今回の聖地奪還作戦を立案しただけでなく、実際に指揮をとった人物だ。

 オーサが床に着く手は傍目には分からないが小さく震えていた。悔恨が沸き上がってくる。


「それで聖女の行方は分からないのか?」


 震える手をようやく治めて、ゆっくりと立ち上がり、付き従う従者に小声で問い掛けるが、首を横に振る仕草で否定されてしまった。

 王宮もろとも王族のほぼすべての殺害は確認されている。教会も瓦礫となった。ただ聖女には逃亡されたという報告がなされている。後を追ったものの、簡単に振りほどかれてしまったという。まるで襲撃が分かっていたような周到さではないか。


「瑕瑾にすぎない。王家と教会の後ろ盾がなければただの小娘だ。だが追跡の手は緩めるな」


 小さな傷が大きな爪痕のような気がしてならない。このような嫌な予感は得てして的中してしまうものだ。

 聖女を小娘呼ばわりはしたものの、オーサもまだ若い。まだ三十歳をいくつも越えない年齢だ。この歳で大司教次席は異例の出世だと世間ではもっぱらだ。いずれ教皇に上るのではないかという噂も絶えない。


「こんなところでつまづく訳にはいかないのだ……」


 教皇であるパディクトは歳を重ねるにつれ、政務から徐々に離れていき、現在ではほとんど祭祀のみを務めている。大司教主席は順送り人事でただその席に座っているだけのようなもの。この国は実質オーサによって動いている。

 ナザレット教皇国は祭政一致国家だ。聖書者とはいえ、政治が絡めば信仰心だけあればよいという訳にはいかない。もちろん高い徳も必要なのはいうまでもないが、その手腕が問われる局面はいくらでもある。


「聖地の奪還など通過点にしかすぎないのだ、私は登らねばならないさらなる高みへと」


 オーサは両親を知らない。物心ついた頃には、悪所にある教会に養われていた。捨て子だったのだ。名前を付けてくれたのは拾ってくれた教会の司祭だった。教義は公平に信仰心を照らしてはくれるが、人は平等ではない。小さい頃から骨身に染みている。

 幸いにもオーサには並外れた聖霊力があり、養い親の司祭はその力を認め引き延ばしてくれた。決して豊かな生活ではなかったが、温かい手がいつもオーサを包んでくれていた。その養い親の尽力もあって、教皇国立の学院に入学したオーサは、一度も主席を譲らず卒業した。学院始まって以来の俊英と謳われたオーサは迷わず法王庁へと進んだ。

 この国で生まれれば、信仰は息を吸うように当たり前だ。神の前にあっては身分は関係ない。高い徳に加え、優れた才幹を持つ者が政治を司る。組織の中でめきめきと頭角を現したオーサは時に権謀術数を用いもしたが、基本的には謀略家ではない。切れすぎるきらいはあったものの、理非善悪を愛した。

 法王庁で順調に出世を続けていたオーサに一つの転機が訪れた。養い親である司祭が病死したのだ。


 オーサに迷いはなかった。司祭死去の報を聞くや否や法王庁を辞め、悪所の教会の司祭を継いだのだ。そのような場所にある教会の司祭になろうとする者などいない。オーサの願いは簡単に受理された。司祭に就任するとすぐに教会に孤児院を併設し、身寄りのない子供たちを引き取った。それが亡き司祭への恩返しだった。

 今振り返ってみれば大変な時期ではあったが、法王庁に出仕していた頃とは違った充実した日々だった。


「法王庁へ再度出仕せよ」


 一通の命令書が届いたのは、司祭を継いでから三年ほどが過ぎたころだった。オーサは迷わず拒否した。教会を見捨てる気にはなれなかったし、何より子供たちとの生活を手放したくはなかったのだ。

 それでも再三再四、法王庁からの命令書が届いた。


「教会の司祭との兼任であれば出仕致します」


 到底受け入れられないだろうと高を括っていたのだが、意に反する形でそれは認められた。一人の者がいくつかの役職を兼任する非常時などではなかっただけに、意外に思う者も多かったが、オーサに意にも介さず法王庁に再出仕した。今でも住まいは高級官僚の宿舎ではなく、教会から通っている。


 謁見の間から下がるオーサは現在に至るまでを思い返していた。オーサが歩く際には右肩が大きく下がる。生まれつき右足が麻痺しているのだ。その後ろ姿には迷いはない。片時も休まず歩んできた道のりに間違いはない。オーサは常に自分にそう言い聞かせながら生きてきたのだ。


【拙い文章ですが、最後までお読みいただきありがとうございます。聖女系の小説嫌いじゃない、先がちょっとだけでも気になっちゃったという方、ゆっくりペースでも気にならないという読者の皆様、★評価とフォローを頂戴できればありがたいです。感想もお待ちしています。作品の参考にさせていただきます】

https://kakuyomu.jp/works/16817139557963428581#reviews

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