夏休みを覚えてる?

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夏休みを覚えてる?

 夏休みだからって夜ふかししてApexやっててチーターにボコボコにやられてブチ切れてコントローラーを投げ出して不貞寝したところから物の見事に寝過ごしてしまった俺を叩き起こしたのは鬼の形相の母親だった。


「遅刻するでしょ、早く学校行きなさい」


 夏休みなんだからちょっとくらいの寝坊は許してほしい。と思ったところで「学校?」と気付いた。


 確か夏休みの終盤に一日だけ登校日があったので、それかと思ったが、カレンダーを見てもそういう記入はない。まあ書き込んだ覚えもないから当然だ。学校からもらったプリントに登校日が書いてあった気がする……と思ったが、机を漁ってもそれらしいプリントは見つからない。どこに埋もれてるんだか。


「今日って登校日だっけ?」


 母親に尋ねてみるも、なに馬鹿なこと言ってんの、と相手にしてくれない。朝食を摂るあいだに友人の多崎にもメッセージを送ってみたがどうせ未読スルーだろう。あいつは携帯電話を携帯しないタイプだからな。


 結局、半信半疑のまま制服に袖を通して家を出た。これで登校日じゃなかったらお詫びに何か買わせよう、と企みながらしぶしぶ足を動かしていたが、学校に近づくにつれて学生服を見かける頻度が高まっていくので、現実を認めざるをえなくなった。ほんとに登校日じゃん。危なかった。


 久々の教室に入って、一ヶ月足らずでこんなにも懐かしく感じるものなんだな、と感慨を覚えながら、隣の席の多崎に「今日ってなにやんの?」と訊くと、「一限目は現国だな」と返ってきた。いやおいおい。「登校日になんで授業やるんだよ」と笑いながら自分の席に座ったが、多崎は怪訝な顔をして「おまえ、もしかして宿題やってないな?」とくる。夏休みの「宿題はやったけどさ」と返すと、「現実逃避するなよ」とせせら笑うので、なにか話が噛み合っていないなと思いつつ話題を変える。


「残りの夏休みってなんか予定ある? 暇ならどっかいかね?」


「休み? 次の土日か?」


「いや、夏休みだよ。明日はどう?」


「明日も学校だろ。まだ現実逃避してんな。ってか夏休みってなんだよ。春休みと秋休みと冬休みもあんのか?」


 急に不安が重みを増した。

 

 多崎の態度はふざけているような感じじゃない。なんだこれは。


 周囲を見回す。よく見るとみんなきちんと教科書を机に出している。黒板には日直の名前が書いてある。夏休みを示すような掲示物はなにもない。


 「夏休みだよな?」と口の中で呟く。


 もはやそれを誰かに尋ねる勇気はなくなっていた。


 授業はつつがなく始まった。始まってしまった。「夏休みはどうだった?」などと教師が言うのを願っていたがそんな前置きは何もなかった。いつもの普通の授業だ。宿題どころか教科書すら持ってきていない俺に対してカップラーメンを作れるくらいの時間が説教に費やされたが、いまの俺には何のダメージでもなかった。なんとなれば夏休みが存在しない理由を考えるのでキャパオーバーだったのだ。


 いったいどうなってるんだ。


 昼休み、面白がって話しかけてくる多崎を振り切って、俺はひと気のない部活棟まで逃げてきていた。すでに心は落ち着いていた。わかったわかった。現実を受け入れよう。世界は常に正しい。間違っているのは俺だ。夏になると全国の学校が一斉に長期休暇をとるなどという異常妄想を抱えた狂人が俺だった。こんな世界に誰がしたのか、神か仏か知らんが、夏休みを消したいというなら消せばいい。ただし明日は学校も消してくれ。頼んだぞ。


「夏休みを覚えてる?」


 不意に、涼やかな声がした。いつのまにか背後に女生徒が立っていた。ワンレングスのショートボブ。手足の長いすらりとした体型。らんらんと輝く大きな目が、意志の強い印象を与える。モデルみたいだと思う。


 こいつの名前は、そう、遠藤だ。遠藤すみれ。


 今年、同じクラスになるまで、彼女とはまったく関わりがなかった。いや、今年に入ってからだって、会話をした記憶すらない。だが彼女のいまの発言はまったく聞き流せなかった。


「夏休み?」


「覚えてるんでしょ、朝、多崎くんと喋ってた」


「遠藤は……」


「覚えてるよ?」


 そう言って彼女は、夏休みの思い出を列挙しはじめた。京都への小旅行。田舎への帰省。テレビの特別番組。宿題の内容。そして今日になって夏休みが消えたことも。彼女も混乱の極みに叩き落されていたところに、俺と多崎の会話が聞こえてきたのだと言った。


 快哉を叫んで抱きあいたい気分だった。ギリギリで自重した。行き場をなくしていた不安が噴き出るように、俺も自分の身に起きたことを喋り尽くした。途中で昼休みが終わるチャイムが鳴った気がしたが、そんなものは関係がなかった。俺と遠藤は気が済むまで話し続けた。


 その最後に遠藤が提案した。


「ねえ、本当に夏休みが無くなったのか確かめにいかない?」


 それから、放課後に夏休みの痕跡を探すのが俺たちの日課となった。


 まずはネットで検索してみたが、「夏」とか「休み」とかがバラバラにヒットするだけだった。幼稚園から大学、社会人に至るまで、夏に長期休暇を取るという習慣が存在しなくなっていることをあらためて確認した。


 書店へ行って小学生向けの自由研究のコーナーでもないかと探したが当然のように存在しなかった。遠藤は「懐かしい」と有名な児童書を手にとっていた。俺も好きな作品だったのでひとしきり話に花を咲かせた。


 図書館で夏が舞台の青春小説なんかを探して片っ端から開いていった。遠藤が「小説より漫画を読みたい」と主張したので、次の日は二人で漫画喫茶に入ったけど、やっぱり夏休みの痕跡はどこにも見つからなくて、最後のほうは普通に作品を楽しんでいた気がする。


 夏休みが舞台だったはずの青春映画を一緒に観た。ストーリーが改変されているのか、授業だとかの描写はちゃんとあったし、「夏休み」という単語もまったく出てこなかった。遠藤は「ヒロインの消極的な態度がムカつく」と文句を言っていた。


 遠藤から夏祭りに誘われた。あまり夏休みと関係がないのではと思ったが、遠藤が「夏祭りは多分に夏休み的である」と強く主張したので、待ち合わせをして一緒に回った。かき氷をシェアしているところを、たまたま来ていた多崎に目撃されて冷やかされた。


 次は花火大会があるというので、少し遠くまで足を伸ばした。その日の遠藤は浴衣姿で、思わず絶賛したらやたらと照れていた。遠藤と並んで座り、夜空と色彩を眺めてぼんやりしていると、ふと「いまは夏休みだ」という錯覚にとらわれた。錯覚なのだろうか。これだけ楽しいなら十分に夏休みだと思った。


 日々が楽しすぎて、気づけば八月三十一日が過ぎていた。


 夏休みじゃないけど夜ふかししてApexやっててチーターにボコボコにやられてブチ切れてコントローラーを投げ出して不貞寝したところから物の見事に寝過ごしてしまった俺を叩き起こしたのは鬼の形相の母親だった。


「今日から学校なんでしょ、いつまで夏休み気分なの」


 夏休みがなくなったんだからせめてちょっとくらいの寝坊は許してほしい。と思ったところで「夏休み?」と気付いた。


 登校すると、教室には「宿題やった?」だの「焼けたねー」だのとはしゃいだ声が飛び交う、あの夏休み明け特有の空気が充満していた。「久しぶりじゃん」と声をかけてきた多崎をスルーして、俺はまっすぐ遠藤の席に向かった。ワンレングスのショートボブ。手足の長いすらりとした体型。らんらんと輝く大きな目が、こちらを見据えていた。俺は口を開いた。


「夏休みを覚えてる?」

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