【冷たい君と星を仰ぎたい 中編】

 それから、私は学校が終わるとすぐに紗耶香の家に向かった。秋は深まるにつれて、夏の花は枯れていき、次の花を咲かせる準備をしていた。色のない花は、少しだけ目を背けたくなる光景だった。その花達を通り抜ければ、すぐに紗耶香の家についた。玄関から尋ねるのが人の家を訪ねる時のマナーかもしれなかったが、私は早く紗耶香に会いたい気持ちで、庭の方に回り、庭から紗耶香を呼んだ。その家は一階の大部屋が紗耶香の部屋になっていて、そこには庭に通ずるドアが設置されていた。紗耶香の部屋からはきっと庭が丸見えなのだろうし、庭からは紗耶香の大きなベットが丸見えだった。私はそこから紗耶香がいることを確認して、紗耶香を呼ぶのだ。


 その日も同じように庭に回り、紗耶香がベットの上にいることを確認して、私はそのドアから顔を覗かせた。


「ただいま。紗耶香、来たよ!」


 そう声をかけると、紗耶香はすぐに私に気づいた。そうして、表情を明るくさせて、嬉しそうな顔を見せた。


「葵ちゃん!お帰りなさい」


 私は、そう返事をした紗耶香の手に目をやった。


「あれ、何持ってるの?」


 私がそう尋ねると、紗耶香は笑って私に告げた。


「これはね、向日葵だよ」


 言われてみれば、紗耶香の手には複数の向日葵の束が握られていた。向日葵は夏の代名詞である花だ。その手に握られていた向日葵は、太陽のように輝やいていた。


「なんで向日葵?紗耶香の好きな花なの?」


 私がそう尋ねると、紗耶香は嬉しそうに笑ってベットを降りた。そうして私の方の向かってくると、その向日葵の束を私に手渡してきた。


「これは、葵ちゃんへのプレゼント。はい、どーぞ」


 私は突然の紗耶香の行動に、すぐには反応できなかった。紗耶香はそれでも、ふんわりと笑って私に花を手渡してきていた。受け取らないわけにはいかず、私はその向日葵をおずおずと受け取った。


「……いいの?私が貰っても。紗耶香が好きな花じゃないの?」


 私がそう言うと、紗耶香はゆっくりと首を横に振った。


「いいの。これは葵ちゃんにあげたくて取り寄せてもらったものだから。夏の終わりに渡したかったのに、もうすっかり秋になっちゃった。遅くなってごめんね」


 そう言った言葉に、私は何も違和感を感じなかった。私はありがたく、その向日葵を受け取った。向日葵は従来のものより少し小さく、手持ちサイズだった。4本の向日葵はまだ秋の訪れも知らないように、生き生きと花びらを咲かせていた。それは、純粋に美しいものだった。


「……ありがとう、紗耶香。ありがたく受け取るね。……でも、なんで向日葵?何か意味があるとか?」


 私が単純な意味のなく、紗耶香にそう尋ねた。だけれど紗耶香の顔が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ強張ったような気がした。なんというか、何かに気づいてしまったような顔。ただ、そのあと紗耶香はすぐに笑って答えた。


「……何にもないよ。ただ、明るい葵ちゃんにぴったりだと思っただけ」


「そっか……何か意味でもあるかと思ってた」


「まあ、花の本数によって花言葉の意味は変わるって言うもんね」


「そうなんだ、じゃあ何か4本なのにも意味があるのかな」


 そう尋ねると、紗耶香はふふふ、と微笑んだ。


「なぁんにも、意味なんてないよ。ただ、4本がちょうどよかっただけだから。それよりも早く、丘に行こうよ」


「あ、うん」


 私は紗耶香が手を引くまま、またあの丘へと向かった。



 それから、私達はあの紫苑の咲く丘で毎日話をした。私は学校のことやもうすぐある体育祭のこと。紗耶香は毎日ベットの上で過ごすのは、退屈だと話した。お互い、ほんの些細なことだけれども、私は私の見えている世界が、紗耶香には紗耶香の見えている世界があって、それをお互いに共有するのは面白かった。療養とは、どうやらその意味は疑いもなく本当だったようで、私は少し安心してしまった。お母さんに紗耶香のことを言われたりして、本当は何か大きな病にでもかかったんじゃないかと勘繰っていたが、紗耶香の様子からはそんな気配は一ミリも感じなかった。いつもの紗耶香だった。


 毎日話すにつれて、丘の紫苑たちも蕾を膨らませていった。涼しい風に目を覚ますように、一輪、また一輪と紫苑は丘を埋めていった。その様子を、紗耶香は嬉しそうに眺めていた。


「少しでも、見れてよかった」


 ある日、紗耶香はそんなことを呟いた。急な言葉に、私が「何が?」と問うと紗耶香は笑って、


「ん?お花のこと。この時期にいないと、紫苑の花は見れないから」


と、答えた。確かにそうか、と私は納得した。紗耶香の黒い髪が、さらさらと秋の風になびいているのを、私はただ見ていた。紗耶香は身を縮ませて、遠くの空を見ていた。初めて見た季節の紗耶香は、とても美しかった。秋らしいその儚さが、紗耶香にはよく似合っていた。嬉しそうな紗耶香を見て、私も嬉しかった。


「良かった、紗耶香とまたこの花を見れて。今年もきっと満開だよ」


 そう言った言葉の先で、紗耶香は笑ったままだった。笑ったまま、口を開いた。


「……そうだね、今年は、今年こそは葵ちゃんと一緒に、この花を見たい」


 そう言った紗耶香の言葉は、何故かどこまでも深く私の心の中に落ちていった。





 紗耶香と二人、言葉を交わす毎日が徐々に崩れ始めたのは、秋も深くなってきた

9月中旬の頃だった。その日も私は紗耶香の家の庭を訪れていた。だが、いつも開けっ放しのはずのドアは、その日は締め切られていた。「寒くなってきたから、閉じているのかな」と思い、私は正面玄関の方へ回り、インターホンを押した。すると、すぐに紗耶香のお母さんが私を出迎えてくれた。


「紗耶香のお母さん、今日は紗耶香の部屋締め切っているんですね」


 そう言うと、紗耶香のお母さんは何故か苦しそうな顔をした。


「紗耶香のお母さん?」


「葵ちゃん、ごめんね。……今日は紗耶香、体調が優れないの。紗耶香にはまた言っておくから、今日はごめんね」


 その言葉は、私の胸を貫いた。嫌な予感が、体を冷やす。


「……紗耶香は、あの、何も、無いんですよね?ただ、体調が優れないだけ、なんですよね?」


 そう尋ねると、紗耶香のお母さんはこくりと頷いた。


「ええ、季節の変わり目でしょう?少し風邪を引いたみたいだから。大したことじゃないわ。また3日後ぐらいに来てね」


 私は茫然として言われるがまま頷き、紗耶香の家を後にした。



 その足は、私の家ではなくあの丘へ向かっていた。あの紫苑の咲く丘は、いつも紗耶香を思い出させていた。紫苑と紗耶香は、似ているのだ。あのしとやかな感じと言い、紫の落ち着いた花弁といい、紗耶香の雰囲気を思い出させる。一人の時間は、紗耶香がいなくなる時間のことを私に思い出させた。私は、そういう意味では秋が嫌いなのだ。紗耶香のいなくなる季節。夏の終わりは、紗耶香の手を引いて私達を引き離すようだったから。そのあとの秋は、いつも一人だった。紗耶香が見たいと嘆いた紫苑の花を、一人で見ること。その切なさや苦しさと言ったら、何とも言えない。私は紫苑の咲く丘から、遠くの空を見た。紫苑はまだ満開とは言えない。そうなるには、もう少しかかるだろう。遠くの空には、子供たちの声とカラスの鳴き声が響いていた。静かな田舎の、よくある風景だ。


「私も帰らなきゃね」


 そうして、その丘から腰を上げた時だった。


 突然、周りの空気が変わりそこにはいっぱいの夜が広がっていた。さっきまでの夕焼けもカラスも子供たちの声もない。ただそこには蒼然と広がる夜空と、無数の秋蛍と、その蛍の光に照らされた紫苑の花があった。誰もいない、静かな丘の上で私はただ立ち尽くしていた。あたりを見渡すと、秋蛍が私の体にまとわりついていた。私は違和感しかなかった。だってここで、この丘で蛍が出た事なんて一度もないのだ。秋になれば毎年通い続けた私が言うのだから、間違いない。


(どうして、蛍なんか……)


 そうして、その蛍に手を差し伸べた時だった。カサ、と草が騒いだような気がした。すぐにそちらの方を見ると、そこには紗耶香が立っていた。紗耶香の着ている白いワンピースを、蛍は薄黄色の明かりで照らしていた。紗耶香は私のことにも気が付かず、ただ遠くを見ていた。そのうち、紗耶香はゆっくり一歩、また一歩と踏み出した。あんなに好きだった紫苑の花に目もくれず、ただ遠くを見てひたすらに歩いていく。紗耶香が私から離れていくと、秋蛍達も紗耶香に引き寄せられるように飛んで行った。秋蛍に照らされていた私の周囲は次第に暗くなり、紗耶香はぼんやりとした薄黄色に輝き始めていた。紗耶香は、秋蛍を引き連れてどんどん先へと歩いていく。私はそれを、ただ声を出せずに見ていた。


 その時、紗耶香がこちらを振り返った。その手には、あの4本の向日葵が握られていた。紗耶香は苦しそうな顔をして、私を見ていた。


 そうして何かを、紗耶香が言った。


 距離があまりにもあり過ぎてその言葉は聞き取れなかったが、なぜだか私はこれが紗耶香と会える最後なような気がした。私は途端に手を伸ばして、紗耶香に向かって走り出した。暗い足元のせいで、草や花が足に絡みつくようだった。そうして四苦八苦している間にも、紗耶香は蛍と共にどこか遠くに行こうとしていた。白いワンピースが、ひらひらと揺れているのを見た。


「待って!行かないで、紗耶香!」


 そう叫ぶが、紗耶香には届いていないようだった。そのうち、蛍の光も薄くなっていき、紗耶香は夜の帳に飲み込まれて消えていった。私は紗耶香に追いつくことも出来ず、ただ紗耶香がいた場所に手を伸ばして、そこに縋り付いていた。思わず、くしゃり、と握った手の中には、紫苑の花が苦しそうに萎んでいた。




「……っ!」


 私は勢いよく目を覚ました。そこには、さっき見た夕焼けが広がっていた。あたりを見回すともう子供たちもいなくて、カラスも遠くに飛んで行ってしまっていた。私はただ、丘の上に突っ立っていたらしい。足が、妙に痛かった。


揺れた紫苑の花、夜の帳、蛍の姿。その全ては……夢。


「なんて夢見ているんだろう、私」


 最近の私は疲れているような気がした。ここに紗耶香が来てからと言うもの、無意識にも紗耶香が消えてしまうことばかりを考えてしまう。紗耶香がどこかに行くなんて、きっとありえないのに。私はすぐに考えを切り替えた。あの夢のことなど、忘れよう。そう思い、私はすぐに丘を降りた。夜が来るのは、もうすぐそこだった。









 

「えー、何それ。不思議な夢だね」


 そう言って紗耶香は笑った。私はそれにこくりと頷いた。

 

 あの日から3日、ちゃんとおば様の言いつけを守ってからまた紗耶香の家を訪れた。流石に庭から訪ねるわけにもいかず、私は玄関から訪ねたがインターホンを押すとすぐに紗耶香が出迎えてくれた。紗耶香は元気そうに笑って、私を見ていた。


「葵ちゃん、待たせてごめんね」


 そう言って紗耶香はすぐに靴を履いて、私の腕を引き、外へと向かった。風邪がどのぐらいのものかと心配していたけれど、元気そうな紗耶香を見ていたらどうやらそこまで重病ではなかったようで、私は安心した。そのあと私達はすぐに丘に向かい、そこで私はあの夢の話をした。紗耶香はそれを不思議そうな顔で聞いていた。


「でも、神秘的な夢じゃない?」


 予想もしていなかった紗耶香の言葉に、私は驚いてしまった。


「ええ?そう?」


 紗耶香は嬉しそうにこくりと頷いた。


「うん。だってさ、秋蛍が出てくるんだよ。しかも私は何か言ったんでしょう?いったい何を言ったんだろうねぇ、気になるな」


 あの夢が少し怖かった私とは違って、紗耶香はなんだか楽しそうだった。


「何か意味があるようで、きっと何の意味もないんだよ。あーあ、変な夢見ちゃったなぁ。紗耶香は楽しそうだけれど……」


 そう言うと、紗耶香は何かを考えるようにして俯いた。


「うーん、でも秋蛍でしょ?……あ、ねぇ、もしかしたら葵ちゃんに何か伝えたかったのかもよ!ほら、虫の知らせ、なんて言うし」


 その言葉に、私はげんなりしてしまった。


「ええ、虫の知らせ?何か悪いことでも起こるのかな」


「……大丈夫だよ、葵ちゃんにとって悪いことなんて、きっと起きないから」


 紗耶香がそう発した言葉は、なんだか胸に引っかかった。私にとっては、悪いことは起きない。私にとっては?私は紗耶香にその言葉の真意を確かめようとした時だった。


「ごほっ、ごほ……、こぼごほ……」


 紗耶香は苦しそうに咳をしていた。私はすぐに紗耶香の背中をさすった。


「紗耶香!大丈夫……?咳が……」


 紗耶香はすぐに笑って見せた。


「……ふふ、葵ちゃんは心配症だなぁ。これぐらい大丈夫だよ。ごぼっ、」


「紗耶香、もう家に帰ろう。今日はもう……」


「嫌、それだけは、嫌。……せっかく葵ちゃんと会えたのに……」


「明日でも、明後日でも、いつでも会える。会いに来るから!」


 紗耶香は私にもたれるように、抱き着いてきた。紗耶香の体の重さが、私にかかった。でもその重さはあまりにも、あまりにも軽すぎた。そう、まるで亡くなる前の病人のようだった。それでも強い力で、紗耶香は私の胸に頭をすり寄せた。


「……また、会えるなら、今、会ったって、いいでしょう?お願い、少しでも長く、葵ちゃんのそばにいたいの……」


 その言葉は、私にすがりつくようだった。紗耶香は私の服を掴んで、苦しそうに言葉を吐き出していた。私は紗耶香にそこまで言われれば、紗耶香の反対を押し切ることはできなかった。


「……わかった。じゃあせめて横になって。私は離れないよ、ずっとここにいるから」


 そう言うと紗耶香は安心したように笑った。私は紗耶香を丘に横たわらせて、その顔を見た。紗耶香も私を見ていて、お互いに目が合って、笑い合った。紗耶香は私の手を優しく握っていた。


「いつまでも、こうしていられたらいいのに」


 紗耶香の言葉に、私は笑った。


「紗耶香が望むなら、いつでもこうするよ。約束。ずっとこうしてる」


 紗耶香はその言葉のゆっくりと飲み込んで、


「うん、ありがとう」


 と、呟いた。そのあとも、私と紗耶香はずっと話をしていた。紗耶香の体に負担をかけないように、ゆっくりと言葉を紡いだ。ほとんど私が話していたような気がしたけれど、紗耶香はそれでも静かに私に話を聞いていた。そうして時には頷き、時には静かに笑ってくれた。空が赤くなるまで、私達はずっと手を握り続けていた。私はあの夢から、紗耶香がどこかに行ってしまうそうな気がして怖かった。だから、紗耶香が手を握ってくれていたのはとても安心していた。あの夢のように紗耶香がどこかに行ってしまうような気がしなかったから。


 次第に風が出てきて、また子供たちの声が聞こえてきて、方ラスが鳴いていた。もう、夜の蒼はすぐそこまで来ていた。私は目を閉じていた紗耶香に話しかけた。


「紗耶香、もう帰ろうか」


 返事はない。もう一度、声をかける。


「紗耶香?ねえ、もう日が落ちちゃう。帰らなきゃ」


 紗耶香は目を閉じたまま、返事もしない。私の背中に冷や汗が流れた。私は紗耶香に体を軽くゆすった。


「紗耶香、寝てるの?起きて、帰るよ」


 どんどん体が冷えてくる。もしかして、いや、まさか……


「紗耶香!起きてよ、紗耶香!ねぇ、紗耶香!」


 大きな声で呼びかけるのに、紗耶香は一向に目を覚まさない。むしろ、その体はどんどん冷たくなっているような気がした。


「紗耶香……!紗耶香!」


 少し強く紗耶香の体をゆすった時だった。紗耶香の体は、私の手の力でそのままごろり、と力なく仰向けになった。その力のない弱弱しさが、だらり、と横たわれた体が、それはあまりにも。逆に色の白い肌も、色のない唇も、やけに黒い髪の毛も、力なく横たわわる体も、その全てが、あまりにもそれは、生きていない人間のそれだった。さっきまで笑って私の手を握っていたのが、嘘のようだった。私は声をかけることも出来ず、ただ紗耶香の頬に触れた。その白い肌は、もう冷たく生気さえも失っていた。私はその恐怖に体が震えた。自分の思考が恐ろしい。


だって紗耶香のそれは、生きている紗耶香よりも、ずっと美しかった。






そのあと、私はすぐにお母さんの連絡した。


「紗耶香が死んだかもしれない」


 そう言うと、そこから15分もしないうちに紗耶香のお父さんとお母さんが車でやってきた。紗耶香のお父さんはすぐに紗耶香の唇に顔を寄せた。そうして私に


「大丈夫だ。息をしている。眠っているだけだろう」


と、私を安心させるように言ってくれた。紗耶香のお母さんは私を優しく抱きしめると「ごめんね、怖い思いをさせて」と謝ってくれた。私はその言葉に何も反応できず、ただ車に運ばれていく紗耶香の体を見ていた。


「最低、だ……」


 私がぽつりと零した言葉に、紗耶香のお母さんは首を傾げた。


「葵ちゃん?」


「最低です……私」


 私は紗耶香のお母さんの顔を見ることが出来ず、そのまま顔を手で覆った。そのまま、私は心のなかで懺悔した。


(死んだ紗耶香の姿が美しいだなんて、最低だ)


 紫苑の花が、生き生きと咲き始める。



 







 そこから数日経っても、私は紗耶香の家に行けなかった。もしかしたら、紗耶香はまだ起き上がっていないかもしれないという恐怖と、紗耶香の姿を見るのが単純に怖かった。私は、眠る紗耶香の姿を見たら美しいと感じてしまいそうだった。その感情が、気持ちが、嗜好が、感性が、私には怖かった。私は自分が怖くて、紗耶香が死ぬのも生きるのも怖くて、誰かと顔を合わせるのも怖くて、学校に帰ってからは真っ直ぐに家に帰った。あの丘を見ることすら、怖かった。紫苑の花はよく紗耶香に似ていて、似すぎていて、あの死んだような紗耶香を思い出すから。でも、そんな私の部屋の扉を叩くように、紗耶香のお母さんから私宛に連絡がきた。電話口で紗耶香はあれからずっと眠っていること、でもそれは私のせいではないから自分を責めないでほしいこと、そうして私に伝えなければならないことがあることを、伝えてくれた。家で話がしたい、と言うお願いを私は承諾した。


 その日は、秋雨が降っていた。私は傘を揺らしながら、紗耶香の家まで歩いて向かった。雨に打ちひしがれた花や草たちを、私はぼんやりと見ていた。田舎道は泥が多く、途中でこけそうになりながら、私は何とか家までついた。紗耶香の家のインターホンを押すと、紗耶香のお母さんがすぐに出てきてくれた。その顔は神妙なようで、とても人に見せられなさそうな顔だった。私はすぐにリビングに通されて、椅子に腰を下ろした。テーブルの上には小さな花瓶が置かれていて、そこには紫苑の花が刺さっていた。わたしはそれを幻のような気持ちで見ていた。紗耶香のお母さんはすぐに紅茶を出してくれた。


「体、冷えているでしょう。お代わり、何杯もあるから飲んでね」


 そう言って差し出された紅茶を、私は遠慮なく飲ませて貰った。いつか紗耶香が飲んでいた紅茶の味がした。甘くて少しだけ苦みのある味。懐かしかった。紗耶香のお母さんも、私の正面に座って、落ち着いた目で私を見ていた。私は紅茶のカップを置いて、紗耶香のお母さんのほうを見た。紗耶香のお母さんは私を真剣な目で見ていた。


「葵ちゃん」


「……はい」


「紗耶香のことで、話したいことがあるの」


「……はい」


「紗耶香ね、もう、いなくなるの」


 その言葉を、私はどこかで覚悟していたのかもしれない。あの夢や紗耶香の言動から、もうずっとわかっていたのかもしれなかった。だから、すんなりと受け入れられたのかもしれない。私はもう、何も考えられなかった。ただ、一つだけ聞くべきことがあった。


「紗耶香は、あとどれぐらいなんですか?」


 紗耶香のお母さんは、涙目になりながら口を開いてくれた。


「あと、数週間。でも、もういつ死んでも、おかしくないと……」


「……そうですか」


 私が思うよりも、私達に残された時間はずっと少なかった。今更、紗耶香に怒りなんて感情はない。紗耶香は強い人だ。そうして優しい人だ。だから誰にも、私にも言わずに逝きたかったのだろう。紗耶香は一人ぼっちで、この世を去ろうとしていた。それくらい、強い人なんだ。


「紗耶香に、少しだけでいいの。会ってもらえる?葵ちゃんからも、紗耶香を励ましてほしいの」


 涙目にそう言われた言葉に、私はこくりと頷いた。紗耶香のお母さんはすぐに紗耶香の部屋に案内してくれた。私は息を吐いて、扉を開いた。



 そこにはあの庭で見た大きなベットがあって、その上に紗耶香が横たわっていた。目を閉じてただ安らかに眠っていた。私は扉を閉じて、紗耶香のベットの横の椅子に、腰を下ろした。紗耶香は静かに寝ている。ちゃんと寝息も聞こえる。ただ、繋がれた点滴や白い服が、私には紗耶香が死ぬことを彷彿とさせるようだった。私は紗耶香の手を探して、優しく握りしめた。まだ、暖かいその手は紗耶香が生きている証拠だった。


「紗耶香、来たよ。ただいま、紗耶香」


 もちろん、返事はない。当たり前だ。もう紗耶香は起きるかどうかもわからないのだから。でも、私はそれでも良かった。


「紗耶香、辛かったね。よく頑張ったよ。……でも、一人で逝くのは寂しいよ。せめて、最後ぐらいはみんなで見送るから。私もいる。だから、一人ぼっちで逝かないで」


 強いから、優しいからこそ、誰にも見られないで逝くなんてことはしてほしくなかった。それは私の独りよがりかもしれないけれど、それでもいい。紗耶香の死を惜しむ人が、この世には沢山いることを知ってほしいのだ。決して、紗耶香は一人ではないことを。


 その時、紗耶香の手が私の手を握り返した。紗耶香は静かに目を覚ました。私は紗耶香を笑って迎えた。決して紗耶香を不安にさせないように。


「おはよう、紗耶香」


 そう言うと、紗耶香はこくりと微笑んだ。そうしてか細い声で返事をした。


「おかえりなさい、葵ちゃん。来て、くれたんだ」


 私はこくりと頷いた。


「うん、紗耶香の顔見に来た。心配したよ」


「ふふ、もう、いいよ。お母さんから、聞いたんだよね。……隠しててごめんね。せっかく葵ちゃんと、過ごせる時間が、私のせいで暗くなるのは、嫌だったから」


 私は少し驚いたけれど、すぐに笑って答えた。


「……紗耶香が強くて優しいのは、知ってるよ。大丈夫。紗耶香がいなくなっても、私達はずっと親友でしょ」


 紗耶香は少し笑って、嬉しそうにこくりと頷いた。


「……うん、そうだね。でも、葵ちゃんには、もっと、自由に生きてほしいよ。私に、とらわれてしまうのは、嫌だ。葵ちゃんだって、好きな人と付き合ったり、結婚したり、友達と遊んだり、はしゃいだりする、の」


 手を握る力が強くなる。


「葵ちゃんには、幸せな人生が、未来が、待ってるよ」


 そう言って紗耶香は泣いた。無理をしていることぐらい、私にはお見通しだ。


「……うん。でも、紗耶香のことは、絶対に忘れない。ずっと私の大切な人だよ。紗耶香は私の中で、ずっと、これからも生きてるから。これから来る雪景色も、迎える桜の春も、今度は夏も一緒に過ごそう。ずっと、一緒に」


 紗耶香は震えた声で笑う。


「……うん、そう、だね。全部、一緒に……」


 私は沙耶香の手を強く握った。沙耶香も私の手を握ってくれた。沙耶香は泣きながら、ずっと笑っていた。きっと、死にたくなくて、生きたくてたまらないんだろう。それでもひとりで強がって笑っていた彼女に、私は救いになりたかった。何も出来なきゃ、なんのための私なんだ。沙耶香の傍にいるのが、私の務めなんだから。


窓の外は、雨に強く降り続いていた。


「あお、い、ちゃん」


「うん、どうした?」


沙耶香はか弱く笑っていた。


「ほんと、は、ね。黙ってる、つもりだった。葵、ちゃんに、こんな、弱ってる姿、見せたくなかったの。葵ちゃんの、前では、ずっと笑ってる、私で、いたかった」

 

「紗耶香は、今でもずっと笑えてるよ」


 そう言うと、紗耶香は嬉しそうに笑った。そうして、ゆっくりと、目を伏せた。


「そっ……か、良かっ、た」


 紗耶香はまた眠りにつくのだろう。私はまた紗耶香が目を覚ましますように、と願った。紗耶香は目を伏せたまま、聞こえないぐらい小さな声で、呟いた。


「あ、おい、ちゃ……」


「うん」


「びょうき、なんかで、しにたく、ないよ……」


「……紗耶香は、私の中でずっと生きてるよ」


「あおいちゃ、ん。お願い、わたしを、ころして」


「……紗耶香、そんなこと」


「おねがい、最後の、わがまま、なの」


「……っ」


「大、好きな、葵、ちゃんの、手で、死んだ方が、ずっと、ましなの」


「紗耶、香」


「ころして。あおいちゃん」


 紗耶香の手が、私から滑り落ちた。紗耶香はそのまま眠りについたようだった。私はどうしようもなく、混乱していた。紗耶香の願いをかなえてあげたい気持ちと、叶えられない現実。紗耶香の願いと、私の覚悟。紗耶香が最後に託した私への願いを、私は叶えるべきなのか、そうじゃないのか。私だけでは決められることではないけれど、これは私だけで決めなければならないことだ。私が決断すべきことだ。紗耶香の命は、全て私に託された。


「よく、考えるよ。紗耶香にとって、一番何が苦しくないか。何がいいのかを」


 その言葉に頷くように、紗耶香は微笑んだような気がした。

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