【冷たい君と星を仰ぎたい 前編】

 前書き


 この作品は死を冒涜した意味が含まれていたり、殺人を推奨するような作品ではありません。そういった思想は一切ございません。


 読後の体調不良等の苦情等(感想は別途)は受け付けませんので、ご了承ください。


 人が亡くなる、殺人、死体などを表現したシーンがありますが、それは殺人や死を助長させるものではありません。 


 大丈夫な方だけ、お読みください。






 冷たい秋初風に、私は目を覚ました。濃紺の夜空が、私の視界を埋め尽くす。遠くには、幾千もの星が瞬いていた。銀色の星達は、ただ限りある命を燃やしている。幾年も瞬き燃え続けるその姿は、とてもは儚く尊く美しい。私はその星達をただ、眺めていた。吹き続ける秋の風はひんやりとしていて、私の肌を荒く撫でる。その冷たさに私は身震いしてしまう。でも、この痛いほどの風を私は忘れたくなかった。この身に焼き付けて、体に覚えこませたかった。だって今、この瞬間は、もう二度と来ないから。肌で、感触で、全ての五感で、今この瞬間を覚えておきたかった。この、かけがえのない時間を。この冷たい風を、綺麗な夜空を、揺れる花の香りを。もう、二度と来ることはない、紗耶香といる時間を。


 私は花が咲き乱れる丘から、ゆっくりと体を起こした。遠くに聞こえていたはずの鈴虫の声が、やけに近くに聞こえる。その鳴き声が、さらにこの場所の静寂を引き立てる。この、私と紗耶香しか知りえない場所で、私と紗耶香の時は全て止まったのだ。この丘に、私達は今夜全てを置いていく。その覚悟で、ここに来たのだから。


 私は隣に目を向けた。そこには花に包まれて、眠るように死んだ、紗耶香の死体がある。私は紗耶香の顔に、手を伸ばした。まだ温かいその頬は、彼女が少し前まで生きていたことを意味していた。私は紗耶香の頬を優しく撫でた。


「紗耶香にも、この花を見せたかった」


 その言葉に、誰も答えない。当たり前だ。彼女はもう、死んでいるのだから。でも、それでも私は彼女に言葉をかけることをやめられなかった。だって、私は紗耶香に言えなかったことが、あまりに沢山あるのだ。本当は、紗耶香に聞いて欲しかったことが、沢山あったのに。彼女はそんな私の気持ちも知らずに、永久の眠りについてしまったのだから。でも、私だっていけないのだ。もっと早く、紗耶香に色んなことを伝えておけば良かったのに。私達に与えられていた時間は、あまりにも短すぎたのだ。たった一言さえも、言う間もないままに。


「……これで、良かったんだよね?紗耶香」


 私は紗耶香がしてほしかったことを、ちゃんとこなせたのだろうか。ただ、そのことだけが心残りで、私は答えない紗耶香に尋ねてしまった。未だに、紗耶香は本当にあんなことを望んでいたんだろうか、それをするのが私で良かったのかと思う。そんなことを、どれだけ思ったところで、もう本人から答えは聞けないのだけれど。その時、突発的に強い風が吹いた。私は思わず目を閉じてしまう。そうして風が止んだところで目を開けると、そこにはなにか頷くように揺れる花の姿があった。それはもしや、紗耶香の思いを代弁しているのだろうか。


 冷たい秋の夜に、私達は二人ぼっちだ。見上げた星空には、銀色の星たちがごうごうと命を燃やし続けていた。



 放課後、私はすぐに家に鞄を置いて紗耶香がいるという家へ向かった。お母さんが書いてくれた簡易的な地図を元に田舎道を走り、咲き乱れる金木犀の横を通り過ぎて、住宅地から随分と離れた道をずんずん進んでんでゆくと、静かな山のふもとにその家は見つかった。ここの田舎には無いような、白い洋風の建物で少し古びた感じだった。私はその敷地内に、恐る恐る足を踏み入れた。あまりもの物珍しさにもう少し観察したい気持ちになり、私は家の周りをうろうろとして回った。伸びた草が、くすぐったかったが、何とかそれをかき分けて進むと、庭のようなところに出た。そこには、白いテーブルと椅子が置かれていて、優雅なティータイムを思い浮かばせられた。また、周囲をぐるりと見渡すと、どうやら私は家の横に来ていたらしく、部屋の中が見えた。否、その部屋のドアが開けられていたのだ。そこから、大きなベットが見える。そのベットの上には黒髪の少女が……、


「葵!」


大きな声で名前を呼ばれて、思わず体が跳ねる。私を呼んだのは紛れもない、その少女だった。少女は私の姿を見るなり、ベットを飛び出して、裸足のまま庭に出てきた。服装はパジャマのままで、髪の毛は整えられていない。でも、少女はそんなこと気にも留めず私に駆け寄ってきた。


「あ、……沙耶香」


「葵!半年ぶり、ただいま!」


そう言ってその少女・沙耶香は熱い抱擁をしてきた。私は沙耶香の細い腕の中に押し込まれる。


「さ、沙耶香、苦しいよ!」


「うん、でも、半年ぶりだよ?……私の事、忘れてた?」


抱きしめられてるせいで表情は見えないが、少し切なげな声でわかるような気がした。私も沙耶香の背中に腕を回す。


「……そんな訳ない。ずっと待ってた。おかえり、沙耶香」


そう言うと、沙耶香は嬉しそうに


「ただいま!」


と、言った。


すると遠くで「あら、葵ちゃん、」とまた私の名前を呼ぶ声がした。沙耶香との抱擁を解いて声の方を見ると、そこには沙耶香のお母さんがいて、部屋の中から私たちを見ていた。


「葵ちゃん、お久しぶり。来てくれたのね」


と、沙耶香のお母さんは嬉しそうに笑ってくれた。沙耶香が私の手を引いて、庭から部屋の前まで招いてくれる。


「お母さんから今日、沙耶香が来たって聞いて。すぐに駆けつけてしまいました」


そう言うと、沙耶香のお母さんは


「よく迷わないで来てくれたわ。さあ、家に上がって、!今、お茶とお菓子をいれるから……」


と言って準備をしようと部屋の奥に戻って行った。続けて私も家にお邪魔しようとすると、沙耶香が私の手を引っ張って止めた。


「……?沙耶香、?」


沙耶香は俯いたままで、私の手を握っている。


「どうかした?」


そう尋ねると、沙耶香は勢い良く顔を上げた。


「葵ちゃん、2人で、話したい事があるの。あの丘で……」


その顔は、不安げだった。


「だから、その、丘にいかない?後でお茶やお菓子は振る舞うから……」


 沙耶香は申し訳なさそうに、そう言った。でも私は沙耶香がそう言うなら、と私は奥にいる紗耶香のお母さんを呼んだ。紗耶香のお母さんは出てきてすぐに返事をしてくれた。


「はぁい、なぁに?葵ちゃん」


 そう言ってキッチンから出てきて紗耶香のお母さんに、私は申し訳な顔をして告げた。


「紗耶香のお母さん、ちょっと紗耶香と外に出てきていいですか?お茶は後でいただきますので」


 そう言うと、おば様は困ったように紗耶香を見た。


「紗耶香、体調は大丈夫なの?」


  紗耶香はすぐに、


「今日は具合がいいって言ったでしょ、大丈夫。ね、行ってきてもいい?」


 と、紗耶香のお母さんにせがんだ。紗耶香のお母さんは形だけのため息をついて、


「1時間までには帰ってきてね」


 と、私と紗耶香に告げた。私は紗耶香のお母さんに感謝を告げた、すると紗耶香は


「早く行こう」


 と言って私の手を引いた。私が


「着替えなくていいの?」


 と、尋ねると紗耶香は


「いいの、どうせ誰も見ないし」 


 と言って、そこに置いてあったサンダルを履いて私の手を引いた。私は紗耶香に手を引かれるがまま、紗耶香と庭を出た。

 









 私達は紗耶香の引っ張るまま丘に向かった。紗耶香は田舎の道を歩きながら、右に左にと顔をうろうろさせて、


「ここは本当に変わらないね」


 と言って懐かしそうに笑っていた。ここに数回しか帰省しない紗耶香にとってはこの田舎の景色はいつもと変わらないように見えるだろう。私もここの景色の変わらなさにはうんざりすることもある。それでも季節によって空や雲、日の落ち具合、畑の風景はいつでも表情を変える。私はそんなところが好きなのだ。紗耶香にとっては何も変わらない景色でも、私にとっては色を変える。それを私は紗耶香にも教えてあげたかった。


「今から秋模様に変わっていくよ。紗耶香もここにいれば見れる」


 私がせめてもの慰めでそう言うと、紗耶香は「そうだった、そうだね」と言って立ち止り、私の方を向いた。


「紗耶香?」


 私がそう言って、紗耶香を見ると紗耶香は笑って私に告げた。


「実はね、今日は葵ちゃんに言いたいことがあったの」


 そう言って紗耶香は笑う。私はそれをぼーっと見ていた。


「今年は、帰省してこなかったの。それが理由?」


 紗耶香はこくり、と頷いた。


「葵ちゃん、それはあの丘で話したいの。今年帰ってこれなかった理由も、この時期になってここに来た理由も」


 今度は私がこくりと頷いた。


「聞くよ。紗耶香の話なら、私はなんでも聞くから」


 そう言うと、紗耶香は懐かしい笑顔で「うん」と笑って見せた。




 私達には、思い出の丘がある。そこは昔からの私達の秘密の場所で、私達の憩いの場所で、私達の別れの場所だった。紗耶香がここに帰省すれば二人で家を抜け出してそこの丘に行き、紗耶香が帰るときは二人でその丘で別れを言い合った。そんな、思い出の場所。そこは、ただの丘では無い。紗耶香はいつもこの場所を離れる時、あること惜しむのだ。それはここの丘に、紫苑の花が咲くことだった。紫苑とは9月の花で、紫色の小さな花弁を咲かせる綺麗な花だ。紗耶香は毎年それを楽しみにしては、見ることが出来ず帰っていくのだ。私はその度に紗耶香に「来年こそは見れるよ」と言う慰めの言葉をかけていた。紗耶香はその言葉を私から聞く度に「ありがとう、葵ちゃん」と言って笑うのだった。


 そんなことを話しているうちに、私と紗耶香はその丘にたどり着いた。まだ8月を終えたばかりの丘には紫苑など咲くはずもない。私は少し残念な気持ちで紗耶香を見た。それは紗耶香も同じだったようで、紗耶香は丘を見るなり眉を下げて少し残念そうにした。


「流石にまだ、咲いてないよね」


 紗耶香はそう言って残念な気持ちを隠し、私に笑いかけた。私も紗耶香に合わせて「まだ9月に入ったばかりだしね」と笑った。紗耶香はそれでも


「うん、気持ち良い風。もうすっかり秋だよね」


 と言って、丘に腰かけた。私もその隣に腰かける。紗耶香は丘からその遠く先を見ていた。その紗耶香の目に何が映ってるの私にわからなかったが、きっと紗耶香が眺めているものなら、綺麗なんだろうなと思う。私の感じえない事を、私の気づかない全てを紗耶香はきっと知っているのだと思う。いつか、紗耶香の見ている世界を見てみたいと思ったことがある。でも出来るならば、その光景や景色を紗耶香の口から聞きたいと思うのだ。紗耶香が紡ぐ言葉で、聞かせてほしい。そんなわがままが叶うとも思わないが、いつも紗耶香がする旅行の話は綺麗だから。だからきっとこの丘から眺める光景も、その紗耶香の言葉で聞きたいと思うのだ。そんなことを思っていると、紗耶香は顔を俯けた。


「紗耶香?」


 そう尋ねると、紗耶香は私の方を苦悩した表情で見た。


「葵ちゃん、私ね、9月からずっとこっちにいるの」


「……そうなんだ。遅い帰省だね。学校は大丈夫なの?」


「うん、でも、そうじゃないの」


 紗耶香は重苦しい顔をしていたが、伺うように私の顔を見ると不器用ににこりと笑って見せた。


「しばらくこっちで療養することになったの」


 その紗耶香の言葉は、その笑顔は、私の不安を一気に搔き立てた。私は動揺を隠しながら、紗耶香に告げた。


「体調、良くないの?紗耶香のお母さんもさっき言ってたけど……」


 そう言うと紗耶香は笑ったまま、


「みんな心配し過ぎなだけ。学校で倒れて、数日間ぐらい目を覚まさなかったことがあったの。それをお母さんお父さんがとても心配しちゃって。そうしたらお医者様が田舎に帰って療養した方がいいって言うの。だからこの時期に帰ってきちゃった」


 と、言った。その話を聞いて、私は心配が隠し切れなかった。


「大事じゃん、目を覚まさなかったなんて。帰ってきて良かったよ。療養ってことはしばらくこっちにいるんでしょ?」


 紗耶香はこくりと頷いた。


「うん、少なくとも9月いっぱいはこっちにいる。だから今年は、葵ちゃんといつもよりもっと長く居れるね」


 そう言って紗耶香は嬉しそうに笑った。紗耶香が喜んでくれるのはいいが、でも私はやっぱりそんな紗耶香が心配だった。


「でも、あんまり良くないんでしょ?ゆっくり休みなよ。私が紗耶香の家に行くから」


「うん、でも、私は葵ちゃんとはなるべく、この丘で話がしたい。時間が許すなら、ずっと。……それに私、葵ちゃんの前では元気でいたいからさ」


 紗耶香はそう言って笑った。私は紗耶香にそう言われてしまえば、何も言えない。紗耶香は見えないところで気が強いから、きっと人に自分が弱っている姿なんて見せたくないのだろう。私はそれを知っていたから、ただ、頷くことしか出来なかった。

 


「なら、体調がいい時はこの丘でずっと話そう。その為だったら学校だって休むし、紗耶香が呼んだらいつだって駆けつけるから」


 私が言葉を振り絞ってそう言うと、紗耶香は声を上げて笑った。


「あはは、そこまでしなくていいのに!でも嬉しい。ありがとう、葵ちゃん」


 紗耶香はそう言うと目を閉じて、そのまま丘の草原に倒れこんだ。ふわり、秋の風が草原を揺らして、私達の肌を撫でる。紗耶香の黒い髪が、風にさらさらとなびいていた。もう、すっかり9月の風が私達を訪れてた。夏のあの入道雲や煌めく暑さなんてものは、すっかり姿を消してしまった。いつも紗耶香との思い出は夏のひとときだけだったけれど、今年は紗耶香が秋を連れてここに来た。初めて過ごす、夏以外の紗耶香との時間。それがどんなものになるかは、私には見当すらつかなかった。私は夏の紗耶香しか知らないのだから。太陽を仰いで、暑いねと笑う、麦わら帽子をかぶったその紗耶香が、今のところ私の知る紗耶香の全てなのだから。


 パジャマのまま、草原に寝ころぶ紗耶香はとても気持ちがよさそうだった。その視線に気が付いたのか、紗耶香が私の腕を引っ張った。


「葵ちゃん、葵ちゃんも寝ころびなよ。気持ちがいいよ」


 そう笑顔で告げる紗耶香に言われるがまま、私は無言でそのまま寝ころんだ。寝ころんで見た空は、とても広かった。もう夕方に近いせいか、少し空は赤い。いつも、毎日見てきたはずなのに、ただここに寝ころんで隣に紗耶香がいる。それだけで、その景色は何にも代えられないほど美しく見えた。そうして二人、ただ空を仰いで眺め続けた。私は制服のまま来てしまったので、半そでの服に入り込む風が少しだけ肌寒かった。私は、紗耶香も肌寒いのではないかと思い隣を見たが、紗耶香は長袖のパジャマにカーディガンまで来ていたので、どうやらその心配はいらなそうだった。紗耶香は閉じていた目を開けて、口を開いた。


「ねぇ、葵ちゃん」


 紗耶香は草原から私に声をかける。私は、


「なぁに」


 と、返事をした。


「葵ちゃんは紫苑の花言葉、知ってる?」


 唐突な質問に私は考えるようにして目を閉じた。だが、頭には何も浮かばない。


「……花言葉なんて、私疎いし。全然知らないよ」


 そう言うと、紗耶香は「そっか」と言って話を続けた。


「……あのね、紫苑の花言葉は君を……、じゃなくて、追憶、なんだ」


「ついおく?」


「うん、追憶。過去の物事や、親しくしていた人のことを懐かしく思い出す 事だよ。過去を偲ぶ、つまり懐かしむ、とも言える」


 紗耶香はその豊富な知識で私に説明してくれた。私には少し難しかったけれど。


「そんな意味があるんだ。なんだか切ないね。……でも私には無関係かも。あんまり過去のことなんか思い出さないし」


 そう言うと紗耶香は小さく呟いた。


「……そうだね。後ろばっかり見ていちゃ、駄目だもんね」


 その言葉に、私は何故か違う何かを感じた。今は確か、紫苑の花言葉をしていたはずなのに。何故か私は、紗耶香の言葉に違う意味があるような気がした。……きっとそんなのは気のせいだろうけれど。


「……そうだよ。私達は未来ある若者なんだから、もっと前を見て生きないと!」


 そう言った言葉に、紗耶香は少し時間をおいて「うん」と頷いた。


「でも、でも……葵ちゃん」


 その瞬間、紗耶香は勢いよく起き上がって私の方を振り向いた。その顔は、何故か泣きそうな真剣な顔をしていた。


「……忘れ、ないでね。頭の片隅でいいから、置いておいて」


 私はその紗耶香の表情にびっくりしたけれど、とりあえずこくりと頷いた。


「……忘れない、絶対に忘れないよ。ちゃんと覚えとく。せっかく紗耶香が教えてくれたことだから」


 私にとっては何気ない言葉だった。けれど、紗耶香は酷く安心そうに、笑っていた。






 今になって、私は後悔している。この時、もっと早く気が付けたら。そうしたら、きっと紗耶香を安心させられたはずだったのに。








「話は終わり。もう日が落ちるし、帰ろっか。お菓子とか紅茶は、また明日食べに来て。一緒に食べよう」


 そう言って紗耶香は重い腰を上げて立ち上がった。遠くからは、遊び疲れて帰る子供たちの声がしている。気づけば空は真っ赤だった。


「本当だ、もうこんな時間。紗耶香、家まで送っていくよ」


「ううん、大丈夫。私を送って行っちゃったら、葵ちゃんが帰る頃には真っ暗になっちゃう。それに、ここから一人で帰れるようになりたいから」


 そう言われてしまえば、私は何も言えなかった。そう言う紗耶香を無理強いして送るわけにもいかない。幸い、まだ夕日は落ちなさそうだから、暗くなる前には帰れるだろう。私は心配する気持ちを抑えて、草原から起き上がった。


「……そっか、わかった。帰り道、気を付けてね」


 紗耶香はこくりと頷いた。


「うん、葵ちゃんもね。じゃあ、また明日」


「うん、また明日」


 そう言って私達はそれぞれ別れて帰路についた。群青がかった空には、白い一等星が秋の訪れを伝えるように瞬いていた。












「ただいまぁ」


 そう言って玄関の戸を開けると、ちょうどお母さんがそこに立っていた。


「葵、お帰り」


 お母さんは私を見て、お帰りと言ってくれた。その手には洗濯物が抱えられていた。私はスニーカーを脱ぐために、玄関に座り込んで、紐に手を付けた。


「紗耶香ちゃんとこ、行ってきたの?」


「うん」


 靴の紐を丁寧に解く。


「紗耶香ちゃん、体調大丈夫そうだった?」


「うん、全然。元気そうだったよ?」


 紐を解き終わり、私はスニーカーを揃えて隅に置いて、立ち上がった。そうして振り返ると、そこには神妙な顔をしたお母さんが立っていた。


「……何、変な顔して」


 思わずそう言うと、お母さんは洗濯物のタオルをぎゅっと握りしめた。


「葵」


 お母さんは顔をしかめて、言った。


「……紗耶香ちゃんのところ、あんまり行っちゃ駄目よ。紗耶香ちゃん、療養しに来ているんだから。遊びに来たんじゃないんだから」


 私はその言葉に一瞬固まってしまった。が、すぐに笑って


「わかってる。私が紗耶香に無理させるわけないじゃん」


 と言い返した。その言葉に、お母さんは


「わかってるならいいの」


と言って、リビングに入っていった。私は小声で「変なお母さん」と呟いた。






 私は私服に着替える為に、自分の部屋に戻った。最近、夜は冷え込むからなと思い、私は長袖のパーカーをチョイスした。そうして夜ご飯まで少し、とベットに横になった。私は天井を見ながら、今日のことを思い出していた。半年ぶりに会った紗耶香はほんの少しだけ、大人びていたように思う。あのサラサラの黒髪や華奢な体は何も変わっていなかったけれど。それにしても、と思う。


「やっぱり、良くなってないんだ」


 自分で放った言葉は、意外にも胸に深く突き刺さった。


 紗耶香は病弱だ。未熟児で生まれ、小さい時は運動はおろか外に出ることさえ制限されていた。実際私と紗耶香が初めて会った日も、紗耶香は布団の中にいた。元気な私を見て「羨ましい、私もお外で遊びたい」と言われてショックを受けたのを、今でも覚えている。その時の私は、世の中には外で遊ぶことが出来ない人もいるなんてことは知らなかったのだ。親戚の集まりの時は「いとこ同士仲良くしなさい」と言われ、紗耶香の寝ていた和室で遊んでいた。最初のころは室内での遊びなんてつまらなくて仕方がなかったが、紗耶香の仲良くなってからは「紗耶香が早くお外で遊べますように」と願うようになっていた。結局紗耶香と外で遊ぶのを許されたのは、小学生の高学年になってからだった。その頃には紗耶香の体も成長して、運動するぐらいは出来るようになっていた。


 それでも、紗耶香は風邪や流行りの病気に弱かった。親戚の集まりも「紗耶香の体調が悪いから」といった理由で来ないこともあった。夏休みには毎年こちらに帰省していたけれど、時々熱中症になっては寝込んでいた。私はその度にぐったりとした紗耶香の姿を何度も見た。それでも紗耶香は私が来ると、笑って「心配かけてごめんね」と謝っていた。そんな紗耶香の姿はほんの少しだけ痛々しくて、私は見ていられなかった。


 そんな紗耶香が、今年の夏は帰省しなかった。理由は「紗耶香の体調が優れない」と言うもので、学校に通うのも制限されていたと聞いた。急な知らせに、私も今年の夏休みは気が気ではなかった。それに紗耶香のいない夏はとても寂しかったから。紗耶香がこちらに来てくれたことや、しばらくこちらにいることは嬉しいけれど、「紗耶香の療養」と言う意味での心配は消えない。私に出来ることと言えば、ただ、紗耶香の体調が良くなることを願うばかりだった。


「早く、良くなるといいな」


 紗耶香の体調が良くなることで、紗耶香と離れ離れになってもずっと会えなくても、私はいい。紗耶香には紗耶香の暮らしている世界があって、ここではない。それに私は紗耶香にとってただのいとこでしかないのだから。だから、こんな気持ちも知られなくていいし、報われなくていいと思うのだ。私の気持ちより、ずっと紗耶香の体の方が大事なのだから。


「葵、ご飯よ!」


 下から、お母さんの呼ぶ声が聞こえた。私はベットからすぐに起き上がって、下のリビングに向かった。家の中でさえも、少し寒いあの風が肌に残っていた。

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