第50話

      五十


      夫


 沙月が今までどれほど苦しい思いをしていたか、ぽつぽつと語られる沙月の言葉に胸を締め付けられる。引き裂かれそうになる。

 私が追い求めてきた凛と咲く高嶺の花は、実はもうこれほど弱々しく、助けを求めていたのだ。歩み寄るのを諦めるべきではなかった。

 後悔の念が胸を突く。しかし、沙月を狙う現実的な脅威がいる以上、次の行動を起こさなければならない。

 この地域は自家用車で来れるようなところではない。私もバスに乗ってきた。しかし、もう今日のバスは最終便が出てしまっている。

 この家の老婆に聞くと、その男はこの周辺を探してから再びこの家に戻ってきて、ここで寝泊まりするそうだ。ということは、もう時間の猶予はほとんどない。

 どこか私達が身を隠せる場所はないかこの老婆をさらに問いただすと、数十メール先にすでに持ち主が手放している別荘があるらしい。そこもその男が捜索している危険性は高いが、それでもここで指をくわえて待っているよりも、行動を起こした方が良い。

 もう夜になるので私も沙月もさらに厚い防寒具で身を固め、教えられた方角へ。雪が舞うようになって視界が悪くなり、嘘の情報を教えられたのではないかと不安になったが、数分ほどで何かの建物の輪郭がぼんやりと見えてきた。

「もうすぐ着くよ」

 私は少し後ろを歩く沙月に言った。沙月の体調はまだ万全ではないが、その足は止めずに何とかついてきてくれている。

 丁度その家の玄関口に着いたときだった。かすかに、雪を踏みしめながら走る独特な足音が聞こえた。気付いたときにはもう遅く、振り返ったときには、もう身を隠す時間はなかった。

 人相の悪い男がこっちに向かって走ってくる。何を言っているか全く判らないくらい喚き散らしているその声には、明らかな怒気が含まれていた。



      妻


 沙月は恐怖のあまり、その場に座り込んでしまった。勝廣がとっさに沙月をかばうように前に出る。男は、獣のように止まることなく走ってきていた。

 勝廣も走り出した。途中でこの家の門近くに立てられていた「立ち入り禁止」の木の看板を掴む。それはいとも簡単に抜けた。

 拳を振り上げて突進してくる男に向かって、看板を横から振るう。しかし、男は難なくそれを受け止めた。

 だが、勝廣はその一瞬の隙を逃さず、肩からタックルした。それほど体格は違わなかったが、その男は全体重を込めたその体当たりでもほとんど揺るがなかった。しかしそれでもほんの一瞬、相手をひるませることができた。

 すぐさま勝廣は左手を軽く握り、目や鼻を狙うようにして勢いよく突き出す。それもしっかり相手の顔にミートしたが、むしろ怒らせただけのようだった。すさまじい拳の速さで殴り返される。

 しかし、あまり見えていなかったのか、勝廣の頭の数センチ先をかすめた程度の空振りだった。


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