第16話
十六
夫
二人との会合を終え、家に帰ると沙月はいなかった。平日の夜の十時、普段なら絶対に外出をする時間ではない。携帯電話にかけてみても繋がらない。行方不明になっている呉谷のことが頭に浮かぶ。こちらも警察に通報すべきだろうか。
いや、しかし大人が夜、外出しているだけだ。今の段階ではまともに取り合ってもくれないだろう。何か行先が分かる何かを残してないか。私は部屋の中をくまなく探した。
一時間ほど経った後、二階の彼女の部屋を探っているときに、玄関の扉が勢いよく開いた音がした。雰囲気が慌ただしい。急いで階段を下りて見てみると、沙月が靴も脱がずに荒い息を吐いていた。少し震えてもいる。
「どうしたんだ! 何があった?」
「何でもないの。ちょっと散歩してただけ」
妻は呼吸を整えながら答える。その顔は少し強張っていた。
「そんなわけないだろう。そんな状態で」
「最近運動不足だから、ちょっと走ってたのよ。でもこの時期はまだ夜は寒いね」
私はなんと返したら良いか思いつかなかった。
「ごめんね、もう寝る。疲れたから。夜は食べてきたんでしょ?」
そう言って、妻は先程まで私がいた自分の部屋に上がっていった。
妻
呉谷が奴らにどのように詰められたのか、はっきりとは分からない。時折低い怒鳴り声と、何か固いものが固いものにぶつかる音が聞こえてきた。
だが、沙月は呉谷自身への心配より、呉谷に握られている弱みを奴らに知られないかどうかという心配の方が大きかった。そしてその不安は的中することになった。
色眼鏡の男は、しばらくの間沙月と一緒に申し訳程度の応接セットがある小さな部屋で共に座っていたが、何も言わずに一度部屋を出ていった。そして十五分ほどして戻ってきたころには、呉谷と沙月の間の事実関係を大体把握していた。
「あなた、結婚してるそうですね。不倫は良くないなあ」
沙月の全身に、きつい鳥肌がたった。
「あなたには関係ないでしょ」
平静を保とうとしても、その動揺が声を震わせる。
「いやね、あなたも災難だなぁと思って。あの男はろくな男じゃないんですよ。それなのにこんなに綺麗な人を意のままに操っている。弱みを握られてるんですって? 昔の犯罪歴ですか、あいつの方がよっぽどあくどいことをやってるんですよ。それを棚に上げて…… 本当にしょうがないやつだ」
どうやらこの男はもう大体事情を知ってしまったようだ。これから私はどうなるんだろうか。不安が大きくなりすぎて、逆に麻痺してきた。
「犯罪歴じゃないわよ! 捕まってもないんだから。今さら証拠もなにもないわ。人聞きの悪いこと言わないで」
「あなたもご存じでしょう。いつの時代も人は印象でしかものを見ないんですよ。一度流れた醜聞がつけたイメージはなかなか拭うことができない」
「どうするつもり?」
それまでは気丈に振る舞っていた沙月も、そろそろ限界に近付いていた。
「いえいえ、我々はあなたには何の恨みもない。そこをほじくり返そうとは思っていませんよ。むしろ正直なことを言うと、あなたは非常に運が良いと思っている」
「どういうこと?」
「あなたもお気付きかもしれないが、ここ数時間で私達が行ってきたことのほとんどは違法行為です。我々もこういう手段は取りたくなかったが、呉谷君が意外と逃げるのが巧くてね、多少荒っぽい方法じゃないと捕まらないと思ったんですよ。だから今回は、特に彼が油断しているであろう情事のタイミングを狙いましたが」
「何が言いたいの?」
「あなたの口を封じることが前提にあるんですよ。今回の行動は」
恐れていたことが現実になった。やはりこんなところまでついてくるんじゃなかったという大きな後悔が、沙月を襲う。
「ああ、そんな怯えた顔をしないでください。だから何もしませんって。運が良いとはこのことですよ。あなたを殺さなくても、今回起きたことは誰にも言わないでしょう? 自分の秘密を守るために」
「言わないわ! 絶対に。だから解放してください。お願いします」
沙月はなりふりかまわず、何度も頭を下げた。
「ええ、もともと殺人はリスクが大きいですからね。特にあなたのような既婚者は厄介だ。私もほっとしているところですよ。ただ、今日見たことは絶対に墓場まで持っていくということを誓ってもらえますか。まあ、あの男との密会に関しても、どうやら誰にも言っていないようなので容易なことだと思いますが」
「わかりました。もちろん誓います!」
沙月が食い入るように返事をすると、色眼鏡の男はポケットから煙草の箱くらいの小さな機械を取り出して机の上に置いた。
「だが、我々としてもあなたのことがまだよく分かってない。リスクヘッジはしておきたいので、しばらく監視をつけさせてもらいます。もちろん目立たないようにしますが。あと、盗聴器を渡しておくので、常に会話を聞かせてもらいます。ここからあなたの声が聞こえなくなった時点で、こちらからあなたをお訪ねすることになります」
「そんな! 困ります。女性には色々と人に聞かれたくない音があるんですよ。それにお風呂のときとかはどうするんですか」
「こちらにスイッチがあります。トイレや風呂のときは一言そう言ってからスイッチを切ってください。ただ、トイレの時は十分、風呂は二十分までです。就寝のときもそう伝えていただくと、それ以降沈黙が続いても結構です。ただ、スイッチは切らないでください」
色眼鏡の男はそれだけ言うと立ち上がって、沙月の手に盗聴器を押し付けた。
「勘違いしないでいただきたい。これは恩情措置だ。本来ならばあなたを殺さなければならないところを、人手を割いてまでそうせずにおくのだから。あなたに拒否権はないものと思ってください」
「なぜ、そこまでして私を生かそうとしてくれるんですか」
この男の考えが、沙月には全く分からなかった。
「不必要な殺人はしたくない、ただそれだけです」
彼はそう言ってから扉を開いて部屋の外に出ると、沙月を外の車まで誘導した。
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