第15話
十五
夫
一月になってから、私と加藤、そして鈴木愛香を交えた会合が開催された。店は例によっていつもと同じところだった。
「彼からまだ連絡がないの……」
挨拶もそこそこに、鈴木が心配そうに切り出す。
「だから早く警察に届け出ろって言っただろう? そんな金銭トラブルがあったらなおさらだよ。何回この話をさせるんだ」
加藤はそう言ったが、私はまだそのレベルで話をしているのかと耳を疑った。警察に届けるのは前提だと思っていた。
「だって彼が、何があっても警察には行くなって言い残したんだもの」
「なんでまたそんなこと……」
弱みでも握られていたのだろうか。
「でも状況は変わったじゃないか。もう何ヶ月も音信不通なんだろう?」
「だってなんか今さら言っても…… なんかもっと早く言わなかったんだってお義父さんとかお義母さんに怒られそうだし」
呉谷の両親には、私も高校時代の文化祭の時に一度だけ会ったことがあるが、少し気難しい人達であった記憶がある。
「聞いてくれよ、宮野。こいつ少しでも呉谷の場所を探ろうとして神戸の組事務所の近くまで行ったんだぜ?」
なんだって? どういう感覚を持っていたら警察に届けるより前にそんな行動がとれるのだろうか。少なくともそんな危険な行動をこれ以上させるわけにはいかない。
「分かった。俺と加藤も付き添うから、呉谷の両親に会ってそのまま警察に行こう」
私達はその週末に、朝から動き出すことにした。
妻
それは呉谷に体を預けている最中だった。大きな音がしてホテルの扉が開かれた。男が数人、中に踏み込んでくる。
「何? ねえ、何なの?」
沙月は必死に布団を手繰り寄せて身体を隠した。
「知らないよ、何も分からないんだ俺は!」
「さあ、そこまでだ。お前らがヤッてるのを見てるほど俺たちは暇じゃないんだ」
先頭にいた男が口を開く。
沙月は革の黒手袋をしている手で強引に呉谷から引きはがされた。粗末で小さいベッドから転がり落とされると、乗り込んできた男たちがよく見える。
全員黒いスーツで、それほど着崩してもいないが絶対に普通のサラリーマンではなかった。
基本的にはずんぐりむっくりな体型をしている者が多いが、細身な男一人だけは眼鏡をかけており、レンズにはわずかに色が入っている。
呉谷と共にいたのは安っぽいビジネスホテルの一室だった。最初に呼び出されたときはそこそこ良いホテルのスイートルームだったのに、随分と差ができていた。
最近は仕事にも行かずにウィークリーマンションを転々として自堕落な生活を送っているため、持ち出したわずかな手持ちのお金も随分と減っているらしい。
なぜかゴリラが姿を消して、最初は訝しんで外出も極力控えていたそうだが、最近は油断していたのだろう。居場所を特定された。呉谷はそう思ったが、実際は少し違った。
「お前の弱みを見つけるためにずっと監視してたんだがな。やはり女がいたか、見た感じ素人だったから愛人だろうと当たりをつけたが正解だったみたいだな」
色眼鏡の男が冷静そうにそう言った。呉谷はすっかり動転している。
「分かった。金は返すから。その人には手を出さないでくれ!」
呉谷はまだベッドの上にいたが、そのシーツの上に額をこすりつけた。
「もちろん返してもらうさ。お前が門戸と結託して俺たちから盗んだ金をな」
「え……」
「俺は土田組じゃない。シン・アライアンス株式会社だ」
それを聞いた呉谷は言葉もなくうなだれた。
「一体どうしたのよ! 何のことなの!」
沙月は恐怖を押し殺し、ようやく口を開くことが出来た。だが、呉谷からは何の反応もない。
何も答えない呉谷に代わって、色眼鏡の男が次のように説明してくる。沙月に対しては丁寧な口調だった。
「この悪い男は土田組っていうヤクザ組織の門戸っていうゴリラみたいな男と、うちの会社から金をだまし取ったんですよ。一年くらい前の話かな」
「違うんだ。俺はほとんど知らないんだ。あいつが勝手にやったことで……」
「うるさい!」
この男の声からは、刃物のような鋭さがあった。
「うちの税理士を抱き込んでうまくやったと思ってるかもしれないが、甘かったな。 そいつにはもうけじめをつけさせてる。門戸は武闘派だったから厄介だったが、夜中に一人で歩いてた時に始末できた。残ったのはお前だけだ」
夜中に一人で歩いてた? まさか、兵庫のとき?
「違う、違うんだ。金は返すから……」
「まあ、話はうちの会社で聞くさ。お姉さんも協力してくださいますか? 表に出る時はさも知り合いかのように振る舞っていただきたい。ほら呉谷、立て」
二人で服を着て身支度を整える。今のところ沙月には乱暴な言動はそこまでないが、この連中も明らかに堅気ではない。なんとか隙を見つけて誰かに助けを求められないだろうか。沙月は、落ち着きをとりもどそうと深呼吸した。
ホテルの部屋から連れ出されると、色眼鏡の男から念を押された。
「今から、ロビーを通りますが、くれぐれも変なことはしないでくださいね。呉谷とは時間を置いて別々に行きますが、何かあったらその時点で呉谷の命はないと思ってください」
沙月にとって、脅迫者である呉谷の命はそこまで惜しくなかったが、今ここで呉谷との関係が明らかになると、今まで耐えてきたことが水の泡だ。トラブルを起こしたのは呉谷なのだし、ここは様子を見てみよう。
しかし、表に出て乗せられた黒いミニバンに他にも男達が乗っていたのを見た時、その思いはすぐに猛烈な後悔に変化した。
呉谷は別の車に乗せられたようで姿が見えない。普段は疎ましい存在だが、こういう状況では、彼のような存在でも知っている人がいないと心細い。
「お姉さん、あの男とどういう関係なんですか?」
色眼鏡の男は沙月に随行しており、車の中でそう訊ねてきた。
「あなたには関係ないでしょ、あいつとはそんな深い関係でもないわ。だから私を早く解放して」
「まあまあ、協力さえしてくれればあなたには危害は加えません。ただあなたがいた方が、あいつが言うことを聞くと思いましてね。少しの間我慢してください」
ホテルという難所を抜けたせいか、この男からさっきより余裕が感じられた。
その後、随分と長く車で走った。周りの景色に自然が多くなっていく。
「どこまで行くのよ」と聞いても無表情で沈黙を貫いている。
唐突に、とんでもない思いつきが頭をよぎった。このまま殺されるのかもしれない。彼らは沙月に会社名を名乗った。今やっていることはほとんど誘拐だ。さっきは脅迫もされた。彼らが沙月を解放するなんてことが今後あるのだろうか。
沙月が呉谷に弱みを握られているなんて彼らは知らないはずだ。このまま沙月を解放しても警察に駆け込めば危ういのは奴らだ。沙月はこの考えに今まで至らなかった自分を責めた。もっと人目の多いところで逃げ出しておけばよかった。
沙月はこの前テレビでやっていたある特集を思い出していた。全国では年間八万人以上の人が行方不明になっているらしい。死体が見つからない限り、警察は殺人として捜査はしないから、その中の何人が犯罪に巻き込まれたのか、命を落としたのか分からない。
「急に黙りましたね。そして周りをきょろきょろ見ている。逃げようとしているんですか? 心配しなくても殺したりはしませんよ」
心が読まれてるのだろうか? こんな得体の知れない男に言われたからといって、信用などできるわけがない。しかし、周りの風景はすでに見知らぬものだった。人通りもほとんどない。ここまで来てしまうと、もう沙月にはどうにもできそうになかった。
そこからまたしばらく走ると、少し周りに建物が増えてきた。ただ、通行人はびっくりするほど少ない。そこからさらに五分ほど走って三階建てのビルの敷地内に車が入っていった。周りはそれほど密度の高くない住宅街だった。
沙月はそこそこ丁重にエスコートされ、車から降ろされた。もう一台からは呉谷が降ろされている。そっちは散々な扱いだ。
このビルには簡素ではあるが会社名が書かれた看板が張られていた。この会社が一応普通にオフィスを構えている会社なら、ここで殺されることはないだろう。沙月は必死にそう信じようとした。
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