第11話

      十一


      夫


 大事はないと思うが、夜中に体調が急変してもいけない。今日はずっと起きていて、何があっても対応できるようにしておこう。

 沙月も自身の体調について詳しくは教えてくれなかったから、どの程度悪いのかよく分からない。私はテレビをつけながらも、時折隣の部屋に通じる扉の方へ意識を向けていた。

 その状態で二時間程落ち着かない時間を過ごしていたが、ふと気付くと私の携帯電話に新着のメッセージが入っていた。呉谷からだった。

 私は文面を読んですぐ、外出の準備をした。沙月のことも心配だが、子どもではないのだし大丈夫だろう。しかし驚いた。呉谷まで兵庫に来ているなんて。私は沙月を起こさないようにそっと扉を閉め、廊下に出た。



      妻


 勝廣がいないかどうか気を付けながら、ホテルのエントランスから百メートル程離れたコンビニエンスストアの前まで小走りで向かい、待たせていたタクシーに乗り込んだ。

「急いでるの。すぐに出して」

 予約していた時に目的地も指定していたので、運転手も「承知しました」と一言だけ発し、車はすぐ走り出した。そのあと運転手との会話はほとんどなくなった。

 こんな夜中に一人でタクシーに乗り込み、ホテルからホテルに移動する軽装の女がまともなはずはない。しかし、周囲が抱くであろうそういった思いを想像するだけでも面倒だ。

 沙月の視線は、明かりが徐々に少なくなっていく、都市と田舎が混ざり合ったような郊外特有の景色に向けられていた。

 車がほとんど走っていない夜中の県道を、制限速度を十キロほど超過して軽快に走るタクシーは、一時間弱ほどで目的地に着いた。

 指定の部屋に着くと、バスローブを着た呉谷がベッドに腰かけて待っていた。

「何なの? まさかセックスするためにこんなところまで呼び出したんじゃないでしょうね?」

「そんなにつんけんするなよ、まあ、座れ。じっくり話をしよう」

 そう言って呉谷は自分の隣を手で示した。沙月は部屋に入り、呉谷に近づきはしたが、腰を下ろすことはしなかった。必要最小限の物だけ入った小さな鞄も、手に持ったままだ。

 その様子を見た呉谷は肩をすくめ、足を組んだ。そのきざなしぐさに、沙月の怒りが増してくる。

「最近夫婦生活は上手くいってるのか? あんな凡庸で察しが悪い男をよく我慢してる」

「余計なお世話。あんたよりは何十倍もマシよ」

 呉谷は余裕な顔を崩さない。

「ひどい言い草だ。あいつにとってもな」

「そんなことより、なんで勝廣と会ったの?」

沙月が一番問い詰めたかったことだ。

「ああ、あのことか」

呉谷はなんでもないように言う。

「あのことかじゃないわよ。何? 私に対する脅し?」

「随分とひねくれてるな。単に加藤が誘ってきたから行っただけだよ。聞いてないのか? それよりも感謝してほしいくらいなんだぜ。あいつらには、今の俺たちのことは何も喋らなかったんだから」

「当たり前よ。要求には全部応えてるじゃない、これで言ったらあんたは最悪の人でなしよ」

「ま、俺が人でなしじゃないって保証も、もとからどこにもないがね」

 彼は立ち上がった。

「どういう意味?」

「俺はあれから色々大変だったんだよ。一緒に事業を立ち上げる予定だった友人に金を持ち逃げされてな。資金繰りがダメになった。この前お前も見ただろう。あんなゴリラみたいなやつにまた延々付きまとわれるようになった」

 呉谷の語気がどんどん荒くなっていく。

「分かるか! この俺が! あんな頭の悪い野蛮人に頭を下げて機嫌をとらなければいけないこの屈辱が!」

「自業自得でしょ? そいつが逃げなければあんたが持ち逃げするつもりだったんじゃないの? 単に先を越されただけでしょ」

 沙月は、精一杯の軽蔑の眼差しを呉谷に向けた。

「相変わらず口が減らない。昔はそんなんじゃなかったのになぁ!」

「ほっといて。いつまでも清廉じゃいられないのよ」

「いいよ、今の方が好きだぜ。それだけ賢くなったってことだ」

「あんたの好意なんかいらない」

「そんなこと言うなよ、そうやって誰からの好意も無下にするつもりか?」

「私のことを本当に好きな人なんかいない」

「どうしてそう言い切れる? 宮野の奴も、好きじゃないやつにそんな額の金銭的援助はしないだろう」

「あの人はただ私より上に立ちたいだけ、好意じゃない。支配欲よ。それかただの憐憫かもね、同情しているだけよ」

「まあ、俺にとっちゃどっちでも良いことだけどな。俺にとって重要なのはそれじゃない」

 呉谷はさりげなく沙月と扉の間に移動していた。沙月の退路が塞がれている。しまった。そういえば呉谷の今日の目的を、まだ聞いていなかった。

「さっきも言った通り、俺は借金を返すあてを失ったんだ。もう利子を払う金も残ってない。ただ、それでも期日は迫ってくるからな。誰かに払ってもらうしかない」

「やめてよ! 私に自由に動かせるお金はないのは知ってるでしょ? 何のために今まで身体ですませてきたと思ってるのよ。夫に迷惑はかけられない」

「そう言うと思ったよ。だからお前には頼んでない」

「どういうこと?」

「急に察しが悪くなったな。それか考えることを拒否してるだけか?」

 まさか。沙月は頭によぎったその考えを必死に頭から追い出そうとした。

「ようやく顔色が変わったな。もう気付いただろう。あのゴリラが今頃お前の夫に会ってる」

 嘘だ。そんなことがあっていいわけがない。

「あの人がそんないわれのない金を払うわけないじゃない。もし暴力沙汰で金を巻き上げでもしたら、それこそ刑務所行きよ」

「そりゃあ保証人にもなってないのに他人の借金を返すやつなんざいないさ。ただ、それが他人じゃなければどうだ?」

「他人じゃない?」

「お前だよ。あいつが返すのはお前の借金だ」

「何ですって?」

「長いこと貧乏に暮らしてきた妻はその反動で抑えていた物欲が爆発し、夫に内緒でとてつもない浪費をするようになった」

「何よ、何のことよ!」

「妻による借金ならあいつも金を払うだろう。必要な書類もようやく準備できた。あのゴリラにこの案を話したらすぐに乗り気になったよ。あいつも、俺みたいなもう金を搾り取れないやつより、金持ちのボンボンにたかりたいんだろう」

 こんなことをしている場合ではない。勝廣の元に行かなければ。沙月は扉に向かって走り出そうとしたが進行方向に回り込んでいた呉谷に押しとどめられた。手首をつかまれる。

「あのゴリラがこの案に簡単にのってきた理由が分かるか? それはな、その借金を背負わされる妻が俺に弱みを握られていて、このことをどこにも訴えられないからだ。やめろよ、沙月? 馬鹿なこと考えるな。発覚するのが借金よりも犯罪と不倫の方が、お前にとってダメージがでかいだろう?」

 呉谷は沙月の両手首を持ってベッドまで引っ張っていき、押し倒した。屈辱で沙月の表情が歪む。

 夫にだけは、迷惑をかけるわけにはいかなかったはずなのに。


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