第4話
四
夫
午後六時、仕事を終え帰宅すると、沙月も家に帰っていた。
「今日どこかに行っていたのかい?」
「どうして知ってるの?」
妻は少し驚いた様子で答えた。
「ああ、少し時間があったから昼過ぎに一度帰ってきたんだ。朝少し具合が悪そうだったから」
「そうだったの、ごめんなさいね。買いたいものがあって少し遠出したの」
「そうか、言ってくれたら買ってきたのに。体調は大丈夫かい?」
「ええ、問題ないわ。安心して」
そう言って沙月は夕食の支度に戻った。
私はキッチンに向かう彼女のエプロン姿の背中を見て、思わず笑みがこぼれた。私は本当に運が良い。かつて本当に好きだった女性と再びめぐり逢い、今夫婦としてともに暮らしているのだから。
私は高校三年生になったときに、彼女と会う回数を減らした。その理由は当然のことながら受験である。私達は同じ学年であったため、本来であれば気兼ねする必要はなかったのかもしれない。
しかし、私と彼女の境遇は大きく違っていた。私は指定校推薦で進学することがほぼ既定路線で、それに向けて成績を維持するために一年生のときから計画的に勉強していた。私の両親が望んだ大学への推薦枠が、通っていた高校に毎年一枠回ってきていたのだ。私はそのまま行けば十分この枠を勝ち取ることができた。
一方彼女は一般入試での受験を予定していた。私は日頃から、勉強に割く時間は人より多いことは自負していたが、ある一定期間の全てを勉強に捧げる、いわゆる受験勉強を経験してはいなかったので、それに対するコンプレックスを持っていた。今でもあるかもしれない。
私は彼女の邪魔をしてはいけないという一心で、ほとんど連絡もできない日々が続いた。夏に部活を引退してからは会う回数も一気に少なくなり、私は沙月の近況すらほとんど把握できなくなっていた。
私は彼女との恋人関係を持つのにふさわしい人間ではない。そのような不甲斐なさは自分が一番よく分かっていた。しかし、私にはできなかった。頑張っている人間に、頑張れと言うことも。集中して一点を見つめるその視線を、こちらにそらせることも。
妻
「今日どこかに行っていたのかい?」と勝廣が訊いてきたとき、沙月の心臓は跳ね上がった。なんとか声だけは上ずらないように返答することはできたが、この動揺は勝廣に伝わってしまったのだろうか。きっと大丈夫だろう。勝廣は昔から、そのようなささいな変化には全く気付かないのだから。
あの後、呉谷は沙月が万引きをしていたときの写真を見せてきて、これを勝廣にばらされたくなければと、昔と同じように身体を要求してきた。
沙月はそれに応じたが、勝廣への罪悪感は不思議と湧かなかった。十数年前にそのリミッターを一度壊されていたからかもしれない。今の生活を守ること。沙月の頭にあることはただそれだけだった。
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