第5話

      五


      夫


 夏の暑さが厳しくなり、八月になろうとしていた。沙月と目が合う回数は心なしかまだ少なかったが、それ以外は特に変わりないようなので、私は安心していた。

「行ってくるよ」

 その日も、私は変わらず出勤した。午前中はデスクで資料をまとめ、いくつかの書類に判を押した。午後になると得意先を回るために一人で会社を出て、社用車を走らせる。

 隣町との境界線に差し掛かるくらいの時に、部下からの電話で、次に回る予定だった取引先から急遽打ち合わせをリスケする要請が来たことを知った。

 私は時間を潰すためにコインパーキングに車を停め、見知らぬオフィスビルの一階に出店していた、そこそこ有名なチェーン店のカフェに入ることにした。

 中途半端な時間だったこともあり、店内は空いていた。二人向けのテーブル席の、外が見える椅子に座ってその次の訪問先についての資料を見返していると、後ろから私を呼ぶ声がした。

「お前、もしかして宮野か?」

 振り向くと、私のすぐ左後ろで、高校のバドミントン部で同期だった加藤が顔をこちらに傾けていた。

「おお! やっぱり宮野じゃないか。随分と久しぶりだなぁ、なつかしいよ」

「加藤、お前か。何してるんだ、こんなところで」

「こっちのせりふだよ。俺はここのビルの5階のN生命で営業やってるんだ。お前こそなんでここにいるんだよ、まさかこのビルのどこかで働いてるとか言わないだろうな?」

「違うよ、ここには初めて来たんだ。偶然近くまで来る用事があって」

「それを聞いてほっとしたよ、今まで知らないままでずっと近くにいたのかと思った」

 そして加藤はおもむろに私の向かいの席に腰を下ろして、私の方に身を乗り出してきた。

「ところでな、俺は今、同窓会を企画しようと思ってるんだ。ここで会ったのも何かの縁だ。誰か連絡がつくやついないか?」

「同窓会ってバド部同期でか? もう誰が何してるかも分からないなあ」

私は沙月と結婚したことを、昔の同期達には教えていなかった。

「そうかあ。もう十五年前だもんなあ、最後に会ったの」

 高校時代、私たち同期は確かに仲が良かった。しかしそれは学校においてだけの関係だった。私たちは休日に集まることもなければ、お互いの連絡先を知っているわけではなかった。

 私達が学生のころは、今みたいに携帯電話がこれほど普及していたわけではなかった。もしかしたら持っていた者もいたかもしれないが、私たちの集まりは皆そういったものに疎かったのだ。

 学校に行けば会うことができる、私たちにとってはそれで十分だった。しかし、その関係性はやはり希薄なものだったのだろう。部活の引退を機に、私たちはほとんど会わなくなった。そしてそのまま卒業式の日は、私たちは部活の後輩たちに集められての見送りはあったが、共に校門を出たのはクラスの友達であり、そのまま向かった打ち上げもクラスのものだった。その後のバドミントン部の同期たちの動向はほとんど知らなかった。

「まあ、いいや、でもここでせっかく再会できたんだ。奇妙なことに俺ちょうどこの前偶然呉谷と会ったんだよ。この三人でだけでも一回飲みに行かないか?」

 加藤のその言葉で、私は回想から引き戻された。飲み会か。結婚してからは、私はほとんど同僚や後輩と飲みに行くということをしなくなっていた。元々そういった人付き合いが得意な方ではなかったし、酒もそんなに強くはない。しかし、昔の仲間で会うのもまた楽しいかもしれないと思った私は、その誘いを二つ返事で了承した。



      妻


 呉谷とは二週に一回くらいのペースで会い、沙月は向こうの気が済むまで身体を明け渡した。最初、呉谷は自分のことについては全く話さなかったが、三回目に呼び出されたときくらいから、徐々にこれまでの人生について打ち明け始めた。

 彼は高校を卒業後、とある国立大の経済学部に進学し、経営コンサルタントとして国内でも有数のコンサルティングファームに就職した。

数年間は順調に仕事をこなし、昇給のスピードも同年代の中ではだいぶはやかったらしいが、入社して十年程経ったとき、中規模程度のプロジェクトであればマネージャーを任されるようになったころ、大きなトラブルが起きた。クライアント企業の機密情報が外部に漏洩してしまったのだ。

 部下の人為的ミスが原因だったらしいが、責任者であり、相手企業の怒りを買った彼の評判は地に落ちた。彼は今、かつてとは比べものにならないほど安い給料で、ほとんど仕事も回ってこない日々を過ごしているらしい。

 呉谷の恨みのこもった声を聞いていると、沙月はなぜ彼が今になって自分を求めてくるのか分かったような気がした。呉谷は元々、勝廣に常に嫉妬していた。

 勝廣は気付いていないようだったが、それほど裕福な家庭ではなく、ずっと公立の学校でコツコツ成績を上げ、何とか国立大学に進学した叩き上げの呉谷は、会社経営者の家に生まれ、偏差値的にもそこを凌駕する私立大に推薦で進学を決めていた勝廣に、ことあるごとに敵意の眼差しを向けていた。

 あの時も今も、呉谷がこの身を求めたのは勝廣に対する一方的な復讐だったのだろう。呉谷は勝廣に知られないまま、勝廣が好意を寄せる沙月を思うままにすることで、勝廣に対するコンプレックスを晴らそうとしているのだ。



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