第3話
三
夫
午後三時半、取引先の会社が入ったビルを出た私は、車で我が家に帰った。沙月はいなかった。
買い物にでも行ったのだろうか、そう思って近所のスーパーマーケットにも行ってみたがそこにも妻はいなかった。沙月は普段から頻繁に外出するような人間ではない。友人と呼べる人間もほとんどいないはずだ。
沙月はどこにいるのか。非常に困惑したが、すぐに義母がいる病院かもしれないと思いなおした。沙月の母親は、私が紹介した優秀な専門医がいる病院で治療を続けている。都内にあるその病院まで行ってみようと思い再び車に乗ったが、エンジンをかけた途端部下から電話が入った。
緊急の要件だったので、私は病院に行くことを断念せざるを得なくなった。
妻
Tホテルのエントランスを抜けると、入口のところに停まっていた三台の大型バスから、数十人もの団体客が降りてきているのが見えた。どこかの会社の慰安旅行のようだ。
沙月と同じような格好をした女性客も多かったので、その集団に紛れることで、受付を通さず目的の五階まで上がることができた。ホテルに着いて早々エレベーターに直行する、一人の女への好奇の視線を浴びることを避けることができたことはありがたかった。
505号室の鍵は開いていた。中に入ると、見知った男が正面を向いて椅子に座っていた。両肘を自分の腿に乗せた状態で、顔だけを上げてこっちを見ている。その男は高校時代にバドミントン部だったときの同級生の一人、
「そんなに驚いた顔をしてないな」
呉谷はニヤニヤ笑いながらそう言った。
沙月があの電話を受けてそれほど当惑しなかったのも、どう考えても危険なこのような誘いに簡単にのったのも、相手がこの男であるとうっすらと勘づいていたからだ。
万引きをしていた時、一度だけ呉谷を同じスーパーで見かけたことがあった。いくつかの商品を素早く鞄に入れた後、あの男がいることに気付いたときは戦慄した。沙月が万引きを辞めたのはそれがきっかけだった。
そのときはこっちの方には全く気付いていない様子だったので、胸をなでおろした記憶がある。しかしどうやらその認識は甘かったようだ。
この男は出会った時から嫌いだった。一見純真そうな性格を装っており、いじられ役に徹していたが、その視線は常に抜け目なく様々なところを観察していた。十数年経って、外見上の唯一のとりえであった童顔もだいぶ崩れてきている。
身に付けている衣服や装飾品も良いものであるのだろうが、どこか古臭く年季が入っていた。こういった要因も相まって、元々小柄である体格がさらにくたびれて見える。このような男にかつて数回体を許したことは、沙月にとって恥ずべき記憶だった。
高校二年生の時に勝廣と最初に付き合い始めたが、その関係はありえないくらい淡泊で、三年生になるとデートの回数すら格段に少なくなった。
告白をされたときは、彼の真面目に練習に励むところや、決して友人を傷つけようとはしない言動に好感を持ち、彼の申し入れを受け入れたが、付き合い始めてからの、勝廣のあまりにもそれまでと変わらない接し方に、沙月は自分が悪いのではないかと思い始めた。自分自身の魅力にどんどん自信を無くしていった。そんな時に声をかけてきたのが呉谷だった。
呉谷は沙月たちが付き合っていることにも気付いていた。その上で、二人の間に強い絆が生まれていないことにも気付いていた。呉谷のことは嫌いだったが、彼が語ってくれる自分の魅力を聞くことに、沙月はどんどん快感を覚えていくようになっていった。
呉谷としばしば二人で会うようになるのに、大して時間はかからなかった。勝廣に対して多少の罪悪感はあったが、向こうの態度に問題があるとも思っていたので、その気持ちも段々と薄れていった。
沙月の勝廣に対する好意は、本当の好きまで届かなかったのだ。
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