第16話

 少し面食らった気持ちであれこれ思考が乱れていた私だが、最後の妙子さんの言葉には思わず声が出てしまった。

「妙子さんが? 愚痴?」

 私からすると妙子さんはベテラン中のベテランでプロ意識も強く、崇め見るような存在だったのだ。だから妙子さんの言葉が心底意外で驚かされていた。

「そりゃ。旦那なんて私にとっては愚痴るために存在しているようなもんで」

 ふと、この施設にいる妙子さんと──考えてみれば当然なのだが──プライベートな空間である自宅にいる妙子さんとがばらばらに頭に思い浮かんだ。後者は見たこともないし、想像がつかない。

 いつも一緒だが、私にとって妙子さんは師匠であり、尊敬する先輩であって、どういう人なのかということはそれ以外にはあまり考えていなかったことに気づいた。

「妙子さん」

「え」

「妙子さんも愚痴るんだって聞いて、私今ほっとして涙出そうになっちゃいました。こういう言い方、何ですけど」

「あー」

 妙子さんは癖なのか、片手を額に上げて天を仰ぐようなしぐさをした。

「そうかー。それは盲点。そりゃそうよね、真理ちゃんにとってはそうよね。私もうかつだった」

 それから腕時計に目を落とし、

「今日、うちにくる? ここでは話しづらいことも話せるよ。今日でなくてもいつでも」

 少し退く感覚もあったが、私は思い切って返事をした。

「はい、ぜひ!」

 自転車を引きながら妙子さんの行く道を通る。いつも門のところで方向が左右に分かれるので、妙子さんの家に行くのは初めてだった。

 この土地は私にとって古くからなじみのある場所ではない。優爾と結婚した時にこの土地で家を買って、住むようになったけれど、駅や駅前の商店街を通り抜けた先のマンションが私たちの家だったので、この「ほほえみ」に来る以外にはあまり来たことがない土地だった。

 ゆっくりと周りの景色を見渡すと、おおよそ新興住宅、しかも一戸建てが多い。スクールゾーンの印が書き込まれていて、近くに小学校があることが分かる。

 ところどころ畑があって、豆とかトウモロコシとか、里芋の大きな深緑の葉っぱとかが畑いっぱいに広がっている。

「真理ちゃんはここに越してきてどのくらい」

「まだ1年にもなっていないです」

「じゃあ、この辺にはなじみがないでしょう」

「そうですね。せいぜい駅との往復ばっかりです」

「来る用事がないものね」

 妙子さんは軽く笑う。

「あそこの雑木林の向こうに私の家があるの」

 指さす先には一本道の、ほとんど農道と言っていい辛うじて舗装はされているだけの細い道が続いていた。

「旦那の実家。私はお嫁さんできたの。最初は慣れなくて。私って都市部で育ったから」

「そうなんですか」

 いつも近くにいて、でも聞いたこともなかった妙子さんの話に少しずつ興味を持ち始めていた。

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