第15話

 家に帰ると、夫の優爾ゆうじが先に帰っているのが分かった。マンションのドアからすでに、すぐにそれと分かるシチューのいい匂いが漂っていた。

「ただいま。ごめん。晩御飯、用意してくれたの」

「ああ、おかえり。今日は出先から直帰だったからさ」

 夫はごく普通のサラリーマンだが、営業をしているため、出先から帰ってくることも多かった。でも大概は私の方が先に帰宅するので、自ずと私が夕飯を準備することが多い。けれど、優爾はな方で料理も嫌いではないらしく、頼まなくても出来るときにはよくキッチンに立つ。

「ありがと。お皿は私が洗うからね」

 そう言いながらテーブルに着いた。着替えるのも億劫なくらい心身ともに疲れていた。バッグを椅子の下に置いた。

 優爾はちょうど大鍋を掻きまわしていたところだったが、そういう私をちらりと見てから、平たいスープ皿を取り、シチューをよそいはじめた。

 本当はご飯くらいは自分が、とも思ったが、一度腰かけると立ち上がる気になれない。夫はまるで何もかも了解していると言わんばかりに、手際よくシチューのお皿を二つ分テーブルに置き、さらにご飯茶碗を取る。

「悪いね」

 私はもう一度言った。夫は微笑んでいる。

 いつの間にか涙が滲みかけていた。

 目頭が熱くなったところで、私は立ち上がり、洗面室に駆け込む。しゃべるとむせびそうだった。タオルで目を押さえつけ、次に水で濡らしてさらに冷やすように軽く拭く。

 そうやってから鏡を見たが、赤みが少しまだ残っていた。

 困りつつ、用もないのにトイレに入る。少し時間をおこう。

 そうやっているうちに、ドアの外で気配がした。抑え気味の声が聞こえる。

「真理ちゃん、どしたの。具合でも悪い?」

 すごく私に気を使ってくれているのが分かる。そのことにまた出そうになる涙をさらにきつくタオルで押さえ込み、私は明るい声で夫に返す。

「ううん。ごめん、今行くから、戻っていて」

 そう言って、タオルを同じ場所にある洗濯機の中に投げ入れてからキッチンに足を進める。テーブルはもうしっかりと用意されていた。

「美味しそうー」

 弾んだような声を上げて席に着く。優爾は黙ってお箸とスプーンを手渡してくれた。

 

 この話を、翌日何気ないつもりで妙子さんに話すと、素っ頓狂な声を出された。

「何で? 何でそんなに旦那さんに遠慮してるの? もっと甘えればいいのに」

 私はびっくりして彼女の表情を窺う。彼女も表情を戻して、それから言った。

「だって、仲はいいんでしょ、お宅」

 「お宅」と言われたのが妙にしっくりこない。が、黙っていた。

「私なんて、家帰ればまず旦那つかまえて愚痴ってるわよ」

 そう言って妙子さんはほがらかに笑った。

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