第八話 ルナとテツヤの冥界旅行(後編)

人間界は偶然と誤謬の国であり、個々人の生活は苦難の歴史である。

しかし神に救いを求めるのは無駄であり、地上に救いがないというこのことこそが常態である。

人間はつねに自分みずからに立ち還るよりほか仕方がない。(※)


― ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第五十九節 ―


          *      *      *


 ルナが姿を見せなくなってから、夜ごと昼ごとに夢を見るたび《うねうね》の数は増え続けた。衝撃波で吹っ飛ばしたり、必殺光線で薙ぎ払ったりしても、フォアシュテルングだけでは俺の目が覚めるまでに《うねうね》を殲滅できないことがあり、討ち漏らしたぶんが次回の夢に加算されたのかもしれない。このままでは、いずれ夢の世界が《うねうね》に埋め尽くされてしまう……そんな焦りを感じ始めていたとき、転機が訪れた。


 不思議な猫と話す夢だった。

 最初、そいつこそ《うねうね》の親玉ではないかと疑ったが、夢の中の猫は《猫の神》と名乗り、(ルナから聞かされていた通り)やたら上から目線で、俺にこう告げた。

「ルナを救うチャンスをやろう」

 ルナを助けに行くことが、俺自身を《うねうね》から救うことにもつながるらしいのだ。

 《うねうね》とは、冥界のエネルギー。わかりやすく言い換えれば、ネガティブな感情の集合体だ。俺が《うねうね》に悩まされているのは、他ならぬ俺自身のネガティブな気持ちが《うねうね》を夢の中に召喚したからで、ルナが《うねうね》を引き寄せたわけではなかった。

「俺のせいだったのか……」

「《蛇》どもは死臭を嗅ぎつけ、お前の魂を喰らいに来たのじゃ。……テツヤよ、そんなに死にたいか?」

「あんたの知ったことじゃない」

「お前は《蛇》に人間の夢という餌場を教えてしまった。それゆえ、お前にも責任の一端がある」

「だからルナを助けてこい、と?」

「助けたいのではないか?」

「どうやって?《ウンネフェル》に変身するには死ななきゃいけないんだろ?」

「冥界へ行く方法は他にもある」

 《猫の神》がニャゴニャゴ呪文を唱えると、地球儀でも回すかのように猛スピードで足元の地面が流れ去り、海と大陸を渡って静止したところは砂漠の遺跡だった。

「ここは《猫の神殿》。祭壇に横たわり、目を閉じよ」

「……」

「どうした。怖じ気づいたか?ルナを助けてこい」

「そこで寝るとどうなるのかぐらい教えてほしいな」

「呆れた奴じゃ。意気地無しめ」《猫の神》が溜息をついた。「お前は夢の中で冥界の夢を見る。夢の世界で使えた能力は冥界でも使える。ただ行って、帰れば済むように、なにもかも支度が整っておる。案ずることなどない」

 砂に埋もれかけている石段を登り、硬い寝台に横たわった。深呼吸して目を閉じると……首筋に冷たい金属が触れるのを感じ、白い衣と白金の装身具で着飾った浅黒いおねえさんが、猫の仮面を着けた巫女に刃物で頸動脈を掻き切られるイメージがオーバーラップした。


 びっくりして跳び上がったら、いつもの操縦席だった。俺の喉はなんともなかった。

 星々が瞬く暗闇の世界をフォアシュテルングが緩降下してゆく。降りた先にあったのは、後ろ半分が欠けた馬鹿でかい卵。天井を成す卵殻は見上げるほどの高さ。スポーツや音楽ライヴに使われるドーム・スタジアムぐらいはあるだろう。ソファーとテーブルと暖色の照明スタンドが並ぶ、まるく平らな床の表と裏で、素っ裸の人間達が重力の向きも互いの姿もまるで気にせずくつろいでいた。


 ……俺も素っ裸だった。


 卵の床に飛行形態で接舷したフォアシュテルングの黒い胴体を、世界史の教科書の最初のほうのページでしか見たことがない、古代壁画のコスプレファッションみたいなおねえさんがノックしている。なぜこの人だけ服を着ていられるのか……?全裸の俺は居留守を決め込んだが、フォアシュテルングが勝手にハッチを開けてしまい、顔だけ出して挨拶せざるを得なくなった。

「ホシヅキヨ・テツヤ様ですね?」

「どーも。ええと……」

「申し遅れました、セシャトです」

「セシャトさん。俺、《猫の神》に命令されて《ウンネフェル》のルナって子を迎えに来たんですけど、ここ冥界?」

「はい。冥界を航行する《魂の船》です」

 夢を見てるだけ。夢を見てるだけ。俺は“あの世”の夢を見てるだけで、死んだわけじゃない。……たぶん。

「ルナは船には乗ってないんですか?」

「別の《ウンネフェル》を追って《裁判所》で降りられました」

「別の?“セネト”とかいう人か……?」

「実は、そのあと非常に厄介なことになってしまいまして、テツヤ様の案内を仰せつかっています。ちょっと失礼しますね」

 首から上の挨拶で済ますつもりが、セシャトはフォアシュテルングに乗り込もうとする。そして、あろうことかフォアシュテルングが騎体の後ろから細長い腕を伸ばしてきて、セシャトを優しく手のひらに載せ、コックピットの入り口まで運び上げた!

「おいおい何やってんだフォアシュテルング!まずいって!あああー!!」

「ご心配なく。人間の方々は皆様同じですから」

「へ、へぇ……」俺は股間をキュッと引き締めた。


 案内役のセシャトを乗せたフォアシュテルングが《魂の船》から離れ、俺達はルナが向かったという天国、《葦の野》を目指した。その道のりはラクではなく、セシャトの次に俺達を出迎えたのが《うねうね》の大群だった。冥界が闇の世界なのは黒い《うねうね》の巣窟だからではないかと思ってしまうほど、全方向が隙間無く《うねうね》まみれで、しかも、そいつらがみんなフォアシュテルングに体当たりをかまそうとした。《猫の神》の言葉を借りるなら、“俺の魂が死臭を放つから”だろう。《魂の船》に接舷したとき、これほど大歓迎を受けなかったのは、船の護衛部隊がエスコートしてくれていたおかげだそうだ。

「冥界って地獄なの!?」

「いいえ。強いて言うなら夜の世界。沈んだ太陽が再び昇るため死と新生を繰り返す、墓であり子宮でもあります」

 フォアシュテルングの溜め撃ちで景気よく《うねうね》を撥ね飛ばし、闇の中にトンネルを掘る。

「進行方向以外の《蛇》は無視して下さい!蛇の姿に見えるのは、この世界のエネルギーのゆらぎ。迎撃にこだわってもきりがありません。先を急ぎましょう」

「了解ッ!!」


 溜め撃ちを繰り返しながらしばらく飛ぶと《うねうね》の圧迫感が失せ、遠くに白い壁が見えてきた。

「躱せフォアシュテルング!!」

「いいえ、そのまま真っ直ぐ!」

「ぶつかるけど!?」

「あれは門!通れます!」

 セシャトの言う通りだった。ぶつかる寸前に、フォアシュテルングが通れるギリギリの広さまで門の扉が開き、くぐり抜けると次の門が現れ、そこもギリギリで通れた。この辺りは《裁判所》で無罪を勝ち取った死者に試練を与える《丘》というエリアで、セシャトが俺についてきたのは、まさにこのときのためだったのだ。セシャトは《文書を司るもの》。知識の神の書庫で働く地味な司書さんとはいえ、面倒な手続きを経ずにどこへでも行ける特別な存在のうちの一柱だった。

「“顔パス”ならぬ“神パス”だぁー!!」

 門の真ん中あたりをめがけて飛ぶ限り、どんなにスピードを出しても絶対ぶつからずに扉を通れるので、門から門までの見かけ上の間隔がだんだん圧縮されてきて、やがて白い通廊になった。


 最後の門から飛び出した先は青空だった。


          *      *      *


「間に合った!テツヤ様、ここが《葦の野》です!」

 太陽光を反射しフォアシュテルングの騎影を映す鏡のような田園地帯が眼下に広がった。

「セシャトさん、ホントに天国で合ってます?田んぼといい、瓦屋根といい、電柱といい、どう見ても日本の田舎としか……」



“somnus”



「何だって……そこか!!」

 いつか夢で見た独楽に似た三角形の飛行物体がフォアシュテルングをかすめてすれ違う。不快感の放射源は、前方、後ろ、右斜め後ろ、の三つ。

「《ウンネフェル》を探して下さい!もう近くに居るはず!」

「その前にソムヌスを!」

「きゃあっ!!」

 フォアシュテルングの上半身と下半身が展開して、人型ロボットとなった騎体に空力ブレーキ(空気抵抗による急制動)がかかり、操縦席の背もたれにしがみついていたセシャトが前につんのめって悲鳴を上げた。視界の端でおっぱいが揺れる。

「ソムヌスなら俺の担当!」

 自由落下しつつ両腕を空へ伸ばし、緑の光線の乱射で弾幕を張る。大きく弧を描いてソムヌスが接近してきたら、懐に入られたと見せかけ、膝を突き上げて真っ二つにへし折ってやった。二つの破片を別々のソムヌスめがけて手裏剣のように投げつけ、敵の飛行姿勢が乱れたところで左右の腕からトドメの狙撃。あっという間に三機撃墜。墜落して水田に突き刺さったソムヌスの残骸は、光の粒子と化して蒸発した。

「あっちに《うねうね》が出て、こっちにソムヌスが出る。厄介事ってコレのことですね?」

 セシャトは俺の隣で目を回していた。


「助けに来てくれたんだ!おーい、ほっしー!!」

 手を振る人影を目印にして民家の玄関先に着陸。フォアシュテルングが屈み込んで片膝をつく。ハッチが開いてしまったが、咄嗟に引っ込めた俺の身体はいつの間にやら服を着ていた。

「ご無事で何よりです」

「セシャトさん!」

 フォアシュテルングの足元には、おじいさんと、おばあさんと、かぐや姫と、なぜだか見覚えのある浅黒い外人さんとが揃っている。

「ルナ……?」

「ルナだよ!ほっしー!」

「なんつーか、変身が解けるとフツーだな。ずっと猫人間のイメージだったから」

「フツーで悪かったわね!!」

 おじいさんとおばあさんが笑った。


 死んで肉体を火葬されたルナは《ウンネフェル》の姿が基本で、昼間だけ制服姿の人間に“変身”できる……はずなのだが、《葦の野》ではどういうわけか猫人間に戻れないらしい。褐色の外人さんも、ルナと同じく猫人間に戻れない《ウンネフェル》のセネトということらしかった。ルナが手短に俺を紹介し、互いの事情を説明した。初対面同士に囲まれて、こうもテキパキと……。俺には真似のできないコミュ力だと思った。

「悪いけど、助けてほしいのは俺なんだ。俺の夢に《うねうね》が出るのは、ルナじゃなくて俺のせいだった」

「どうやって冥界へ?まさか、ほっしーも《ウンネフェル》に?」

「よく分からないが、たぶん死んではいない。夢の世界で冥界の夢を見られるように《猫の神》が協力してくれた」

「そうだセネトさん、ほっしーの夢の中に召喚してもらおうよ!これで、ほっしーとも知り合いだもん」

「私は……」セネトが俺を見る。この褐色美女は間違いなく祭壇で喉を裂かれていた人だ。生け贄にされて死んだのなら、わざわざ天国から連れ出そうというんだから迷うのも無理はない。だがルナはセネトを連れ出したがっている。

「持ち駒はひとつじゃないでしょ?」ルナが言った。「全部の駒をゴールさせるまで、私の戦いは終わってない」

「……そうね、帰りましょう。おじいさん、おばあさん、お世話になりました」

「孫をよろしくね」


 飛べない《ウンネフェル》達をフォアシュテルングの右手で掬い上げたとき、にわかに空が暗くなり、東西南北すべての地平線が赤く染まった。

「太陽が……!《葦の野》で日蝕などありえないのに!」

 セシャトの見上げた方向から人間が降下してくる。

「役者が揃ったようだな」

 間髪入れずフォアシュテルングの左手で狙い撃ったが、光線は田んぼの泥しぶきを跳ね上げただけだった。褐色肌に白い衣の古代壁画コスプレ野郎は水面すれすれに立ったまま浮かんでいる。

「ふふふ……無駄だよテツヤ君。黒幕みずから身を晒すと思ったのかね?」

「誰だ!」

「あの格好、セネトさんが話してくれた“悪い神官”!?」

「《デストルド》を人間界に解き放った者が、有罪でないはずがないわ」

「ご明察。この姿は君達にも分かりやすい“悪者”。私は誰にでもなれるし、誰でもない」

 “悪い神官”が片手を挙げて合図すると、その姿が消えると同時に、日蝕の暗い空の彼方から《うねうね》と三角形のソムヌスの群れが湧き出した。


「一体どうなってんだ?《うねうね》の正体はソムヌスで、あのハゲがソムヌス星人の親玉だったのか?」

「私は誰にでもなれるし、誰でもない」“悪い神官”の声がコックピットに響く。「ソムヌスの正体は私も知らない。君達には、ひと波乱引き起こしてもらいたいのだよ。そのために君達の敵を利用しただけだ」

「何を言ってやがる!?」

「私は君達にとってのデウス・エクス・マキナ。『魔法少女ウンネフェル』と『現想騎フォアシュテルング』の物語を絵画のように俯瞰している者。物語を糧として生きる者。“カタルシス・イーター”だ。

 私は物語なしには生きられないが、物語をゼロから紡ぐことができない。それゆえ別次元の物語に介入し、ときには物語と物語を混ぜ合わせ、主人公達に苦難を与えることで新たな物語とする。ミツエダ・ルナ君、ホシヅキヨ・テツヤ君、君達こそ悲劇の主人公にふさわしい。世界が憎いだろう……?」

「私達が主人公?」

「だんだん読めてきたぞ。《猫の神》は、あいつを倒させるために、わざと俺達を冥界へ来させたんだ」

「《猫の神》のやりそうなことだよ。ひょっとしたらセクメトもオシリスも、み~んなグルだったのかも」

「そういうことに……なるんでしょうか……」セシャトは申し訳なさそうにしょんぼりした。「二つの世界の《秩序》を乱す存在……それ以上は私にもよく分かりません」

「別次元からちょっかい出してくる敵なんて、どうやって倒せばいいの!?」

「とりあえず……逃げる!!」


 フォアシュテルングの右腕以外が高速飛行形態に変形し、呑気に手を振って見送る老夫婦から敵の群れを引き離すために急発進した。囮になったつもりだったが、ソムヌスも《うねうね》も地上には目もくれず、フォアシュテルングだけを追いかけてきた。右手のひらに乗せたルナ達を気にして振り向けば、二人とも猫人間になれないままフォアシュテルングの黒い指にしがみついている。こんなときでも手を繋ぐ二人。“セネトさんと離ればなれなんて、やっぱり嫌なの。セネトさんが大好きなの!!”……。俺の周りの女どもときたら、ネムとカガミといい、どうして、こうまでイチャイチャベタベタと……!

「《ウンネフェル》は追っ手を迎撃できないみたいだ」

「ここは私が引き受けます。ひとまず《葦の野》から脱出しましょう」

 セシャトが猫人間に変身した。斑紋のある黄色い毛皮は猫というより豹だが。

「セシャトさんも《ウンネフェル》だったのか」

「いいえ。魔法を使うとき見た目が変わるだけです。この姿の私はマフデトとお呼び下さい」

 追ってくる敵の群れに対して、左手と両足からの光線で弾幕を張って牽制している隙に、セシャト……改め、マフデトが呪文を唱えた。



“《葦の野》を守護する者よ、世界を取り囲む蛇よ、扉を開けよ。地平線より再び昇る太陽のために扉を開けよ。”



 高高度から見下ろす《葦の野》は、まるで地球だった。日蝕の空の下、ぐんぐん高度を上げてゆくと、《葦の野》へ入ってきたときにも通った《丘》が見えてきた。試練の門はフォアシュテルングを通すとすぐさま扉を閉ざしたが、ソムヌスと《うねうね》も扉が閉じるか閉じないかのギリギリで門をくぐって追いすがる。マフデトがさらに何か呪文を唱え、フォアシュテルングの後方に四角い結界が発生して《うねうね》を弾き返したが、ソムヌスには結界は効かなかった。

「やはり擬態ではなく、異質の存在そのもの……!」

「どうやって逃げる、どうやって……?いや、これは夢だ。目を覚ませば冥界から俺の夢に戻れる!」

「ふふふ、果たして上手く逃げ切れるかな……?」

 結界を素通りしてきた四機のソムヌスがフォアシュテルングと併走し、俺達を囲む四面体のフォーメーションを組んだ。

「ぐああああああああああああっ!!」

 ソムヌスの形成した力場が俺の頭蓋骨を四方から激しく圧迫して、コックピットがぐらりと揺れる。トップスピードで直進しているフォアシュテルングは、もし意識を掻き乱され操縦を誤れば、白い通廊の壁に激突して木っ端微塵になりかねない。

「テツヤ様!?」

「がん……ばれッ……フォアシュテルング……!!」

「よい夢を……」


 俺は夢の中の夢で夢を見た。

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