chapter 4 猫の神殿

 今は誰に語りかけられよう。

心正しい人はもういない。

地は不正をなす者に委ねられている。


 今は誰に語りかけられよう。

信頼できるものはいない。

嘆きを語るには見知らぬ者に頼らねばならぬ。(※)


― 古代エジプト『生活に疲れた者の魂との対話』 ―


         *      *      *


 愛し、憎み、栄え、滅び、手痛い失敗から学んでは、教訓を忘れて傲慢になり、疫病や戦争で追い詰められても、またじわじわと繁殖する。こんなことを何千年も繰り返していながら、人間どものしぶとさときたらゴキブリ並みだ……。砂漠の国、都市部から遠く離れた砂丘のどこかに残る神殿で、《猫の神》は今日も人間界を冷ややかに傍観していた。《デストルド》の監視役から解放された《猫の神》の役割は、今では《ウンネフェル》に加護をもたらすことだけだ。

 崩れかけの祭壇に寝そべっていると、《猫の神》と同じようにごろごろしていた《見えざる猫》……かつてここで屠られた小さな魂達がざわつき始め、神殿のそこかしこでニャーニャーと声を揃えた。



 “目ざめ、安らかなれ。 汝、安らかに目ざむ。


  汝自身をつくりし神よ。 安らかに目ざめよ。


  目ざめ、安らかなれ。 汝、安らかに目ざむ。


  天と二つの地平線の神秘とをつくりし者よ。 安らかに目ざめよ。”(※)



 祭壇に一条の光が差し込み、光条の当たった部分から、胴体の長い小動物が立ち上がった。よっこいしょ、と《猫の神》も腰を上げる。

「《監視するもの》よ。時が来た」

「早かったのう」

「これでも待ったのだ」

「もう少し、彼女らの自主性に任せてはもらえんか?」

「あの存在は《秩序》の水面みなもに波紋を立てる。もはや猶予はない」

「《秩序》か、律儀じゃな。わしらの神殿は空っぽで、像は持ち去られ、供物を捧げる者も絶えて久しいというのに……」

「ことは深刻なのだ。セクメトを遣わす」

「セクメトを?たかが二つの魂のためにセクメトをか!何やら、ただごとではないようじゃな」

「すべては《秩序》のためだ。《監視するもの》よ、そなたにも動いてもらわねばならぬ」

「やれやれ、骨の折れることじゃ」


          *      *      *



 “わしは《猫の神》。ルナよ、お前に手伝ってもらいたいことがある”


 “《うねうね》をぜんぶ封印したら、私ってやっぱ死ぬの?”


 “未来の《ウンネフェル》が何度でも《デストルド》を倒すじゃろう”


 “あのー、先輩さんも元・人間?”


 “はじめましてルナちゃん。お仕事おつかれさま”


 “ルナちゃん!冥界の《蛇》は私たちが押さえる!今のうちに元いた世界へ帰りなさい!”


 “私、人でも猫でもない、生きても死んでもいない、半端な存在になっちゃったなぁ”


 “半端な存在でもできることを、これから考えてみましょう”



 《デストルド》を人間界から冥界へ送還し、どさくさに紛れて冥界から人間界へ帰ってきたルナは、現代に不慣れなセネトを案内して世界じゅう飛び回っていた。なにしろセネトには、建物といえば石、書物といえばパピルスの時代から数千年ぶんものジェネレーションギャップがあるので、手のひらに収まるサイズの電話機でも、アイスクリームスタンドでも、摩天楼でも、何を見せてもびっくりしてくれた。

 新しいものを見るたびセネトが知りたがったのは“どうしてこうなったのか”だったが、世界史の定期テストで60点以上を取れたためしがないルナは、歴史については博物館を頼るしかなかった。セネトが生きた古代から、王様と騎士の時代、大きな船で外洋へ漕ぎ出す時代、鉄道や電灯が発明され……そこまではよかったのだが、やがて地球が人間でぎゅうぎゅう詰めになり、大勢の一般人を巻き込む世界大戦の時代の展示へ進むと、セネトはだんだん黙りがちになっていった。改めて説明してみると、人類の歴史は戦争の歴史としか思えなかった。よその土地が欲しくなったので、適当な理由をでっち上げて攻め込む。そんなことばかり紀元前の昔から、ずーっとずーっと繰り返して現代に至るのだ。無限のエネルギーを生み出せる技術で手始めに爆弾を作ってみたというくだりでは、ルナも言葉に詰まった。

 こんな様子では、後に続く月面着陸やインターネットどころか、いちばん喋りたい漫画の話も洋楽の話もできそうにない。そこで一旦博物館から出て砂漠の国へ戻ると、狙い通り、考古学博物館ではセネトが瞳の輝きを取り戻した。


 火事場泥棒のせいで荒れ放題だった展示室は、何事も起きなかったかのように整然としていて、ツアー客や家族連れやデート中のカップルで賑わっている。実感なかったけど、《ウンネフェル》の活躍が砂漠の国の平和を守ったんだなぁ……とルナは思った。展示物の数々はセネトにとって懐かしい品ばかりだったらしく、化粧道具が台所用品と一緒くたに並べられてるとか、護符の上下が逆さまだとか文句をつけながらも、ひとつひとつ詳しく想い出を語ってくれた。研究者でも解けない古代の謎を当たり前に知っている、ルナだけの特別なガイドだ!……しかし、ルナの知らない世界について嬉しそうに話すセネトを横目で見ていると、同じ《ウンネフェル》であっても、やっぱりセネトは遠い時代の人なんだな、と一抹の寂しさを感じずにはいられないのだった。

 貴族の墓から見つかった副葬品を展示してあるコーナーで、上面にマス目模様のある細長い小箱にセネトが目を留めた。

「ああ、これ!」

「何です?」

「私の名前、セネトっていうでしょ?このゲームが由来なのよ!」

「この箱が、ゲーム?」

 解説パネルの写真は、まさに墓の主が駒をつまみ上げ、《セネト》で遊んでいる場面を描いた壁画だった。

「チェス……みたいな?」

「遊んでみましょうか」

 ルナとセネトは強化ガラスをすり抜け、展示ケースの中に入った。


 セネトが教えてくれた《猫と蛇》という遊び方(トランプ遊びにブラックジャックやポーカーがあるように、《セネト》にもいろんな遊び方がある)は、現代でいう双六かバックギャモンに似ていた。

 まず、マス目模様は十個が三列で三十マスある。ルナとセネトが細長い箱の端と端に向かい合って座り、それぞれ右列手前のマスから駒を進め、右奥のマスに突き当たったら左へ折れて、中央列のマスを手前まで戻ってくる。そして中央手前のマスに突き当たったら、もういちど左へ折れ、左列最奥のマスに到着すればゴール。五つの持ち駒を全部ゴールさせるのが早かったほうが勝ち。

 駒の歩数は“投げ棒”という四面ダイス(断面が正方形となる鉛筆の各面に、1から4までの数字を書いて転がすようなもの)で決まるのだが、このとき停まったマスにセネトの駒があれば、ルナはセネトの駒をふりだしに戻せる。こうして“対戦相手を妨害できる”ところが《猫と蛇》の特徴だ。


 魔法の力で作り出した駒と投げ棒を使い、おためしで対戦してみたが最後、ルナはセネトの勝負強さを思い知ることになった。そもそも《セネト》が得意だからセネトというあだ名なのを、ルナはすっかり忘れていた。

 たとえば、ハンデとしてルナだけが投げ棒を二本使わせてもらっても、なぜかセネトの駒のほうが早く進む。投げ棒の転がし方にイカサマを疑ったルナが互いの出目を交換しても、双方の投げ棒をルナがひとりで転がしても、どんな出目でもセネトは効率よく駒を進めてしまう。持ち駒の数や投げ棒の数など、かなりハンデを重くするまで、ルナはセネトに勝てなかった。しかし対戦相手の五倍も投げ棒を使っていいのでは、もはやフェアなゲームとは言えない。圧倒的実力差……ッ!!

「なんで!?運ゲーなのに!!」

「ルナちゃん、持ち駒はひとつじゃないでしょ?遅れている駒を進めるか、先行している駒を逃がすか、妨害できる駒はないか、盤面を見て臨機応変に判断するのがコツなのよ」

「私そういうの苦手ー!!」

「時間はたっぷりあるから、少しずつ強くなっていきましょう」


 《セネト》ではボロ負けだったルナだが、セネトが元気を出してくれたのが嬉しかった。ルナは人生に嫌気が差して死んだ。それでも、セネトには人間に失望しないでいてほしかったからだ。まだまだ話したいことが山ほどある。そのための時間もたっぷり……あるはずだった。


 考古学博物館を出て、さて次はどこへ飛んで行こうかというとき、“終わり”は砂丘に照りつける太陽の中から現れた。

「つまらん!実につまらん!久々の出番と思えば、私が駆り出されるのは雑用ばかり」

 筋肉ムキムキで頭がライオンのおねえさんが、太い鎖でぐるぐる巻きにされたまま空中に留まっている。

「あれは……!」

「さっき博物館で見たやつ!」

 “たてがみのないライオンはメス”という動物番組の知識でかろうじて女の人と分かるぐらい、おねえさんは筋肉ムキムキだった。

「私達の他にも《ウンネフェル》がいたんだ!」

「《ウンネフェル》ではないわ。あれは、《燃え上がる炎》……!《力強きもの》……!」

「よく識っているな。では私の恐ろしさも識っていよう。私はセクメト、《獅子の神》なり」

「ルナちゃん、狙いはあなたよ!逃げて!!」

 セネトが白金の杖を構え、瞬間移動と見紛うほどの速さでセクメトに突撃した。

「手向かうか……そう来なくてはなッ!!」


 真っ赤に灼けた全身の鎖が弾け飛び、炎を纏うセクメトと、セネトとの空中戦が始まった。《獅子の神》であるセクメトにも、セネトの攻撃が当たらないわけではない。しかしセネトが一撃喰らわせるたび、セクメトからの的確な反撃がセネトのボディに三コンボ入る。対戦型格闘ゲームならライフゲージを七割か八割削られそうな重たい多段攻撃のトドメに、両眼から発した赤いビームの直撃を受けて、セネトは砂丘に沈んだ。

「セネトさん!」

「ルナ、ちゃ……、逃げ……ッ!」

 構わずルナも黄金の杖を振りかぶってセクメトに挑んだが、渾身の一撃はセクメトの人差し指の爪すら押し込めず、鋭い鉤爪の触れた箇所から、黄金の杖がふにゃふにゃになって熔け落ちた。

っつ!!」

「立ち向かえば認めてもらえるとでも?」

「なんでこんなに強いの……!?」

「説明してやろう」

 セクメトが大きな手でルナの首を掴み、ニワトリでも絞め殺すかのように力を込める。

「ぁ……がぁ……!!」


 むかしむかし、砂漠の都の宮殿が、王様の命令で増築されることになった。しかし、遠くの石切り場から石材を運んでくるにはお金が足りない。そこで王様は宮殿の隣の太陽神殿に目をつけ、屋根や柱の石材を再利用させた。そのころ太陽神殿は、偉ぶってばかりで何の役にも立たない神官達の溜まり場と化していたので、王様にとって宮殿の増築と神殿の解体は、自分の権威を高め神官の権力を削ぐのに一石二鳥だったのだ。

 ところが、これを見ていた太陽神が、供え物を怠ったうえ神殿まで解体しだした人間どもの愚行に怒り狂い、神の力を思い知らせてやるつもりでセクメトを派遣した。炎を纏うパンチやキックや、目から出るビームや、地震や洪水や戦争や疫病や蝗害や、その他あらゆる手段で人間を殺しまくり、あとひと息で全滅というところまで人間界を追い詰めたセクメトだったが、殺せば殺すほど死者があふれて冥界が大忙しになってしまい、神々にビールで懐柔されて神の世界へ連れ戻された。


 つまりセクメトは無類のビール好きなのだ。


 ……ではなくて、セクメトの力は地球滅亡クラスであり、《ウンネフェル》などひとひねり以下なのだ。


「猶予を与えられ、良き師を持ちながら、下界では遊んでいたようだな。《ウンネフェル》の小娘、私に手向かうなら少しはアタマを使え」

 砂漠に空間の歪みが生じ、魔法陣も呪文も無しに冥界への入り口が開く。

 そのとき……横合いから白金の杖がブーメランのように襲いかかり、ルナを捕まえているセクメトの腕を稲妻で弾き飛ばすと同時に、光の翼を広げたセネトが捨て身の体当たりを仕掛けて、油断したセクメトもろとも冥界に吸い込まれた。なにもかも鮮やかすぎるほど一瞬の出来事だった。

 セクメトの魔力によって維持されていた空間の歪みは、エネルギー源を失ったことで即座に閉じてしまい、ルナはひとりぼっちで砂漠に放り出された。

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