第15話


 天柊家が所有する別邸での暮らしは、琴美にとって存外悪いものではなかった。今は、鈴音との登校や、家族一同揃って夕食を取っていた時間とは離れ、それら全てを一人で行っている。最初の頃は、隣に居るのが当然だと思っていた鈴音が居ない事実に打ちひしがれ、独り部屋の中で泣いていることもあった。だが、一か月もすればあらゆることに慣れが生じ、それが段々と当たり前に移り変わっていった。

 それでも、琴美の心の中には刺さって抜けない棘のような疑念が残っている。

 

「お姉様からの返事、まだこないなぁ」


 琴美も晴れて中学を卒業し、鈴音が通う高校での学校生活が始まった。だが、待てど暮らせど鈴音宛に書いた交換日記が返ってくることはなく、琴美の一人暮らしの時間はそれだけを気掛かりに進んでいった。

 鈴音が多忙過ぎるが余り、返事を書く余裕もないのだろうか。それとも、そもそも明臣が裏切っていて、鈴音の元に日記が届いていないのか。まさか、鈴音に完全に見捨てられたなんてことは…。などと、無数の可能性が琴美の脳裏を渦巻いていたが、手掛かりを探す立場にも無い琴美は、ただ辛抱強く状況に変化が訪れるのを待つ他なかった。

 それから、二か月、三か月―――と時間の流れと共に季節は移ろい、それに連動するかのように琴美の周囲の環境も変化を見せた。

 しかし、人生とは自分の思い通りにならないのが常で、琴美が切望していた変化は、悪意を持って訪れることになる。


「なぁ見ろよ。天柊家の落ちぶれ者が今日も醜態晒しに来てるぜ」

「あはっ、ほんとだ。家でも学校でも居場所がないなんてかわいそ~」

「おい、聞こえるって」

「聞かせてんのよ。もうあいつは天柊家の人間じゃないんだから、何を言っても罰されることはないし」


 嘲弄。


「才能もない癖に鈴音様の妹を名乗るなんて烏滸がましいのよ。当然の報いだわ」


 妬み。


「あの…すいません。そこ私の席…」

「……。でさー、その時俺の親なんて言ったと思う?」

「んー…あ! もうお前は私の子ではない。…とかか?」

「ははっ! んなわけねーだろ。どっかの誰かじゃあるまいし」


 無視。

 

 時間が進むにつれて、琴美が天柊家の人間ではなくなったことが徐々に認知され、クラスメイト、ひいては学校の中からも孤立していった。そこで初めて、琴美は自らが嫌っていた天柊という名前が皮肉にも自分を守る盾であったことを痛感したのだ。

 だが、琴美はそれらを虐めとしては認識してなかった。初期の方こそ、かつて経験したことのない孤独感に苛まれていた琴美だったが、慣れてしまえば些末なことに感じられるようになる。自分のキャリアに傷が付くことを恐れた彼らが直接手を出してこなかったことも、琴美に心の余裕を持たせた一因であったのは間違いないだろう。

 いや、あるいはそう自分に思い込ませることで、現実から目を背けていただけかもしれないが。


「はぁ…」


 そんな日々が続いたある日の放課後。家に戻る気力もなく、かといって教室にも身の置き場がない琴美は、独りで校庭にある中庭の椅子に腰掛けて放心していた。


「―――籠の中の鳥みたいですね、まるで」


 すると、どこからともなく声が聞こえた。ふと顔を上げて横を向くと、人一人分空けた先にいつの間にか見知らぬ男が座っていた。


「……は」

「あぁ、すいません。この学校でそこまで暗い顔してる人珍しいからつい。…って、そんなに睨まないで下さいよ。気分を害したなら謝りますから」

「気分を害した訳ではありませんが…。知らない人を警戒するのは当然です。誰ですか貴方は」


 初対面の割には妙に馴れ馴れしい男の言葉に、琴美は敢えて語気を強くして返答する。珍しさで言うなら、何処に行っても邪魔者扱いされる琴美に話しかけてくる人の方が珍しいと思うが。


「…全く知らないですか? 僕の事」

「知らないです」

「見覚えもありません?」

「ありません」

「廊下でも何回かすれ違ってますけど、それすらも記憶してませんか?」

「…だから!」


 琴美の「貴方は誰か」という質問には明確な答えを提示しないくせに、自分勝手に質問攻めしてくる男に対して、いよいよ琴美の我慢が限界に達する。ただでさえ人と話し慣れていないというのに、落ち着く暇さえ与えられずに距離を詰められれば、苛つくのも当然だろう。琴美の感情の天秤は今や警戒より不快の方に傾いている。


「あぁ待って! 分かった、分かりましたから! 自己紹介しますから! だからそんな怒らないで下さい」

「……」

「えーっと、僕は月城透真。クラスは違うけど、琴美さんとは同級生です。えーと、そうだな…えー…。あ、趣味は人と話すことです…。はは、どうも」

「なんですかその趣味は。じゃあ私は今貴方の趣味に無理矢理付き合わされてるんですか?」

「まぁ…客観的に見たらそうなる…かな?」

「なら帰ります」


 この月城透真と名乗る、コップを胡散臭さで満たしたかのような男は、琴美に趣味で話しかけたのだと言う。特に重大な要件でもないなら琴美がこれ以上無意味な会話に時間を割く必要もない。

 早くこの男との会話を終わらせるために、琴美は「話しかけるな」とでも言いたげに冷ややかな目線を送ると、椅子から腰を浮かした。


「待って待って待って、そんな決断を急がなくてもいいじゃないですか。僕は客観的に見たら、って言ったんですよ。それに、僕自身にはちゃんと君に話しかけた理由があるんですから」

「はぁ…分かりました。要件くらいは聞いてあげます。…ですが、言っときますけど、下らない悪戯だと判断したらその時点で帰りますからね」

「相変わらず気の強さを取り繕うのは上手いな…。分かりました。それでいいですから、僕の話を聞いてください」

「どうぞ」


 琴美がこれだけ苛立ちを前面に押し出しても一歩も引かない男に、琴美は辟易する。ここまで来たら、話したいことを喋るまでは逃がしてはくれないのだろうと踏んだ琴美は、嫌々ながらも了承する。正直、男の提示する内容がなんであったとしても、琴美は何食わぬ顔でその場を去る気でいた。

 ―――だが、そうは出来なかった。


「琴美さんは今、姉である天柊鈴音と連絡が取れない状態…なんですよね」

「……っ。そうですが、それが何か。というか、なんで貴方がそれを―――」

「その天柊鈴音が琴美さんに対して内心どう思っているのか、知りたくはないですか」


 それは男が―――月城透真が放った一言が、琴美の感情を大きく揺さぶってしまったから。


「なっ、ぁ…。な、なんで、貴方が、そんなこと…っ」

「…どうやら、僕の話をちゃんと聞いてくれるみたいですね。その疑問にも答えたいところですが、ここは人目に付きますし、場所を移しましょう。内緒話をするのにもってこいの場所を知ってるんです」

「……」

 

 琴美は首を縦にも横にも振らず、無言のまま透真の目を訝しげに見つめ続けた。それを静かな同意だと受け取った透真は、琴美の横を通り過ぎていった。

 透真が数歩先まで離れたところで、琴美もその背中を追わんと歩き出す。


「……」


 校庭から正門を抜けて、歩道へと繰り出した二人は、互いに何も言わないまま一定の距離間を保って進む。

 妙な緊張感が琴美の心を支配していた。突如として現れた得体の知れない男が、何故か自分の実情を把握していて、更にはその答えまで持ち合わせている。そんな状況で、何も疑わないという方が無理な話だった。どう考えても、何か企みがあるとしか思えない。そうは分かっていても、鈴音の本心と言う喉から手が出る程欲しい情報を餌として吊り下げられれば、食いつかずにはいられなかった。

 だから琴美は、薄れていた警戒心を先程の何倍にも引き上げて、透真の一挙一動を注意深く観察しながら歩みを進める。


「―――よし、ここです」

「これは…カフェ?」

「そうです。不服ですか?」

「嫌とかでは…いや、うーん…」


 やがて、裏路地に入った透真が小さなカフェの目の前で足を止める。その動きに合わせて琴美も立ち止まってから外観を見回すと、苦い顔を見せた。

 琴美がその反応を見せたのは、見た目の汚さが原因だ。まず、薄暗い裏路地に建てられているせいで、視覚的な雰囲気が悪い。店名が書かれていたであろう吊り下げ看板は、年月に侵され読み取りにくくなっているし、コンクリート壁には所々ヒビが走っているのも不安にさせる要因の一つだ。


「やっぱ見た目が気になりますよねぇ。僕もマスターには立地と見た目が悪すぎるって何度も伝えてるのですが、『見た目に惑わされる人間はここに立ち入る価値はない』だとか言って聞く耳持ってくれないんですよね。全く…店が客を選ぶなっての」

「こ、こだわりが強いマスターなんですね」

「それは良く言い換え過ぎですよ。…どうします? 嫌なら別の場所にしても構わないですけど」


 わざわざ労力を要して耳当たりの良い言葉に変換したというのに、利用者が否定するならこれ以上のフォローは無理だと琴美は割り切る。店の外観のせいで透真への不信感が更に増すが、ここまで怪しいと寧ろただの店選びが下手な高校生にも思えてくる。

 本人の口ぶりから察するに、どうやら他にも候補があるようだが、最初の紹介がこれならそこまで期待はできないだろう。


「…良いですよ別に。話さえ聞ければ問題無いので」

「そうですか、では」


 半ば観念して小さく首を縦に振ると、透真は小さく微笑み、店の扉を引いた。


「おぉ、少年じゃないか。お! 後ろにいるのはもしや彼女―――ではないみたいだな。んんっ! どうぞ、ごゆっくり」

「マスターがそのまま喋ってたら僕へのヘイトが更に溜まるところでしたよ。あ、話するだけなので、ごめんだけど今日は注文無しで。奥の席使わせてもらいますね」

「はいよ、お好きに」


 扉を開けるとまず最初に出迎えてくれたのは、好々爺と呼ぶに相応しい如何にもと言った感じのマスターだった。マスターは透真の来店に気が付くと声高らかに話しかけて、更に後ろの琴美の存在を認識すると愉快そうな笑みを浮かべた。だが、その振る舞いに対して琴美が鋭い睨みを効かせると、何かを察したマスターが背筋を正してから恭しく一礼してみせる。

 それにしても、透真がマスターと慣れた口振りで話すところを見ると、やはり常連なのだろう。飲み物を頼む必要がないのも、こういった場所には滅多に訪れない琴美としては助かる。

 

「どうですかここ。意外と中は良い雰囲気でしょう。その辺のギャップも含めて僕のお気に入りなんですよ」

「正直、予想から掛け離れすぎてて驚いています。色々と覚悟していたのですが…杞憂だったようで」


 店内に通されると、二人は円形のテーブルを挟んで向かい合って座っていた。

 透真の言う通り、内装はあの自然の遊び場となっている外装からは想像もつかない程手入れが行き届いており、マスターの強い拘りがそこかしこに見受けられる。客の数こそ少ないが、居ない訳ではない。正に、これぞ知る人ぞ知る隠れた名店というやつなのだろう。

 きっと味わい深いコーヒーを提供してくれるのだろうが、今はその時ではない。

 

「…前置きはここまでにしましょう。そろそろ教えていただけますか」

「人の話を聞く態度としては満点ですね。見つめられ過ぎて、逆に僕の方が恥ずかしくなってきましたよ。僕の顔、そんなに好きですか?」

「…茶化さないで早く本題に入ってください。私は貴方と違って無駄話を趣味にはしてないんです」

「…やれやれ、返答の仕方は0点ですね。強引に会話の主導権を握ろうとするのは焦りが見えるのでかえって逆効果ですよ。話をしながら自然と自分のペースに持っていくのが、話術の基本ってもんです。ちゃんと覚えて下さいね」

「私はそういう話をしたいわけじゃ…! あぁ、もう! じゃあ良いです。話す気がないなら私帰りますから!」


 透真から本題に入る素振りが中々見られず、とうとう痺れを切らした琴美は店から出ようと勢いよく席を立った。

 すると―――、


「…あ、れ?」


 突然、琴美の視界が明滅して、世界が歪みを見せた。

 訳も分からないまま平衡感覚を失い、琴美はその場に倒れ伏す。


「何…が」


 辛うじて意識はあるが、その意識も風前の灯火だ。直感的に命の危機を感じ、どうにか状況を打開しようとして頭を回すが、琴美の鈍い脳は何も答えを提示してはくれない。


「―――遅効性の催眠ガス、ようやく効いてきたみたいだな」

「ガ…ス…?」


 そんな琴美の頭上から声が聞こえた。その声質は間違いなく透真の物だった。だがしかし、口調や声色が先程まで言葉を交わしていた透真のそれと一致しない。


「だ…れ?」

「話術の基本ついでにもう一つ教えてやるよ」

「うっ」


 湧いた疑問をそのまま口にしてしまう程余裕を失っている琴美に対して、返ってきたのは欲しい答えでは無かった。

 目の前まで来た透真であった人物に頭を持ち上げられ、琴美は鈍痛に呻く。


「どれだけ警戒しても、相手の誘導したテリトリーに入ってしまった時点で死を覚悟した方が良い。これは話術よりも大事な処世術ってやつだ。ちゃんと覚えろな。―――まぁ、教えたところでもう意味はないかも知れないが」

「だれ…か…たす…け」

「はっ! 今更誰に助けを求めてるんだか。知ってるだろ? お前を助けてくれる人間なんていないことくらい」

「ぁ…」


 何を言われているのかさえもう曖昧だが、相手の言葉に耳を傾けている場合ではない。琴美は窮地を脱しようと掠れた声を懸命に張って助けを求めるが、透真の言う通り、誰一人として琴美を助けようと席を立つ者は居なかった。もしかして、他の客も同じ被害に遭っているのだろうか。それともまさか―――。


「もういいぞお前ら。さっさと次の仕事に取り掛かれ」

「はい」


 琴美が別の可能性に行き当たった矢先、まるで答え合わせでもするかのように状況に変化が訪れる。透真の放った一言だけで、琴美以外のカフェに居た客達が次々と席を立った。つまり、最初から何もかもが仕込まれていたのだ。今更それに気が付いたところで、もう手遅れだが。


「…さて、俺も次の準備に取り掛からないとな。じゃあまた後でな、天柊琴美。―――あ、そうだ。最後にもう一つ」


 もうほとんど意識の残っていない琴美に、透真は最後と言って耳元でこう囁く。


「お前が知りたがってた鈴音の本心については安心して良いぜ。俺は嘘は吐かないからな」

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