第14話 『親代わり』
次に思い出したのは、今から丁度三年前の鈴音が中学卒業を間近に控えたあの日の事だった。仲睦まじかったはずの姉妹を取り巻く環境に大きな変化が訪れたのは、間違いなくあの日からだ。
天柊家には、食事は必ず家族全員で食卓を囲んで行うというルールがある。一見どこの家族にあってもおかしくない普遍的なルールだが、天柊家はそうではない。天柊家に属する者はそのルールを基本遵守しなければならず、もし無断で背くようなことがあればそれなりの罰が与えられるという点が異質であるのだ。
その日の夕餉時も例に漏れず、天柊家の家族四人は時間通りに集まり、運ばれた料理に舌鼓を打っていた。その間、一日の出来事を共有し合い、世間話に花を咲かせ、家族水入らずの団欒を過ごしていた。───なんてことは一度もなく、そこにあったのはただ、凍えるように張り詰めた空気と、四方に発散する銀食器同士が接触する音だけだった。それ以外の何かがあったとすれば、稀に発される父親の声ぐらいのものだろうか。
琴美は、私生活の中でこの時間が一番嫌いだった。その理由は勿論、ただ息苦しいだけの食事が苦痛だったのもあるが、それ以上に────。
「それで…俺が課していた課題はそろそろ済んだか。琴美」
「あ、お父様。…えっと、その、申し訳ないのですが、課題に関してはまだ完璧とは言い難く…」
琴美と鈴音の実の父親────天柊
琴美は、龍尊が定期的に尋ねるこの質問が痛く苦手だった。しかも質の悪いことに、龍尊が質問するのは決まって家族が集まる食事の時間に限られていた。そのせいで琴美は父親に加えて、母親と鈴音の前でも辱めを受けざるを得なかったのだ。
「you don't have to answer. I am just asking as a formality. I don't expect you to succeed beyond the six-month time frame I set.」
(別に答える必要はない。形式上訊いただけだのことだ。設けた半年の期間を超過している時点でお前の成果には期待していない)
「えっと…?」
「はぁ…この程度も聞き取れんか。最早呆れを通り越して笑えてくるな」
唐突に、龍尊の口から流暢な英語が発せられる。文字通り言っている意味が分からず、返す言葉を見失っている琴美の様子に、龍尊も落胆を隠さない。
「なぁ琴美。俺は出来損ないのお前の為を想って、本来三カ月の期間を半年にしてやったんだぞ? だと言うのにお前は、この一年を棒に振って、俺の優しさを蔑ろにしたんだ」
「……」
龍尊に言い返す言葉が無い。実際に、琴美が一年間を通して怠惰に過ごしたか否かはこの際問題ではない。言語の中では簡単な部類である英語ですら琴美には分からない現状が全てなのだ。だから、この場の誰も龍尊に反抗しない。
「一方で鈴音がお前の歳の頃に習得していた言語の数は四つ。それだけではなく、天柊家を継ぐにあたって必要不可欠な経営学や心理学も一定の水準を満たしていた。今ではもう天柊グループの実務を一部担ってもらっている」
比較対象として、鈴音の異常極まりない実績が挙げ連ねられる。中学一年生が為したとは到底思えないような内容だが、それが鈴音であれば話は別だ。
「全く…姉妹であるはずのお前らのこの差は一体なんだ?」
最初から全てを手に入れ、周りの者を惹きつける魅力を持つ鈴音と、努力しても何も得られず、周りからは疎まれている琴美。顔も、才能も、人望も、何もかも違う二人が姉妹として生まれたのは、きっと酔っ払った神様が悪ノリでもした所為なのだろう。
故に、二人の生みの親である龍尊は、冷ややかに問う。
「―――お前、本当に俺達の子か?」
「お父様…! それは!」
地を這うような低い声で発せられた言葉に、これまで沈黙を貫いていた鈴音が過剰な反応を見せる。琴美は父親の意図を見抜くことはできなかったが、鈴音の見せた反応からこれがただの質問ではないことは読み取れた。
「鈴音は黙ってなさい。俺は今琴美と話をしている」
「し、しかし……」
「俺だってこんな質問をするのは不本意だ。だが致し方ないだろう? 『愚図には適切な処罰を』。それが天柊家に代々伝わる風習なのだからな。…まさか鈴音は俺に同じこと言わせないよな?」
「―――っ。出過ぎた真似でした。大変、申し訳ございません…」
息を殺させるような鋭い眼光が鈴音に突き刺さる。その静かながらも無理矢理意思を感じさせるような視線には、鈴音の身体を竦ませるだけの十分な力が宿っていた。そして、鈴音に放たれた威圧を受けるはずだった琴美も、龍尊の言葉でようやく理解を得る。
―――これは、『排除』の過程なのだと。
「気に病む必要は無い。鈴音の優秀さは歴代の代表と比べても頭一つ抜けているのだからな。これくらいは大目に見てやる。…それでは―――」
実の父親が自分を排除しにかかっている。その結論に辿り着いた途端、琴美に向き直った龍尊の一挙手一投足から目が離せなくなる。
「返事を聞こうか、琴美」
「私は…わ、わたしはぁ…」
呼吸が荒くなり、額には冷や汗が滲んでいる。その目立った身体の変化はきっと目の前で端然と座っている男にも伝わっているだろう。だが、男は顔色一つ変えず、琴美の返事だけを待っている。喋ることを禁じられた鈴音は固唾を飲むことしかできず、母は我関せずと言った面持ちで食を進めている。
故に、この場で口を開くことが許されているのは琴美だけだ。そして、その言葉もほぼ指定されているようなものだった。
「私は…あ、天柊家の人間では、ありません…」
「そうか」
羽虫も止まるようなか細い声と短い返事を最後に、天柊親子の会話と関係はいとも簡単に途切れたのだった。
*
龍尊の厳然たる相槌から、更に耐え難くなったあの空間から逃げるように、琴美は席を立った。まだ腹は十分に満たされていなかったが、そんなことを気にする余裕なんて、あるはずもなかった。一刻も早く、どこかへ行ってしまいたかった。
普段なら、全員の完食を待たずに離席する行為は、天柊家では重罰として扱われる。しかし琴美が席を離れた際に何も言われなかったのを見ると、龍尊は本格的に琴美を家族として認識していないのだろう。母も同様だ。自分達が育てた子が家に不必要ならその場で切り捨てる。実に冷酷で、家訓に忠実だ。
「…いや、それは違うのかな」
食事室から退室し、自らの部屋に続く長い廊下を歩きながら、琴美は呟く。
階段を上る途中、何人かの使用人とすれ違うが、誰も琴美にお辞儀をしない。それどころか、琴美がまるで存在しない人間かのように通り過ぎる者や、明らかな嫌悪感を剥き出しにして舌打ちする者まで現れる始末だ。
その態度を目にした琴美は口だけで笑いながら呟く。
「私、皆からずっと邪魔者扱いされてたんだなぁ…」
いつからかは分からない。だが少なくとも、この嫌われようは今に始まったことではないのだろう。何年も、何年も琴美は家の人間から疎まれ続けていたのだ。それが態度に出された今やっと気付けた自分の鈍感さが阿保らしくなってくる。最早乾いた笑いすら出ない。
「あ…えと…昭臣さん?」
時間をかけて自分の部屋の前まで来ると、馴染みのある見た目の執事が立っていた。その執事の名は、
「これを」
「これって…私とお姉様の、交換日記ですよね。…なぜ今それを昭臣さんが?」
手渡しで受け取ったそれは、交換日記だった。鈴音が中学に入ってから、家でも学校でも話す機会が少なくなった琴美と鈴音は、定期的な交換日記を通じてお互いの近況を報告しあっていたのだ。
そんな思い出の詰まったアイテムをなぜ今差し出されたのか疑問に思っていると、その疑問を払拭するかのように、昭臣が告げた。
「お客様の荷物は、こちらで最後になります。私物の移動は済んでありますので、後の事はご自身でどうにかなさるよう、宜しくお願い致します」
「あぁ、そういう…ことですか。分かりました」
これまで学校への送迎や身の回りのことを手伝ってくれた昭臣に、事務的な声で「お客様」と呼ばれ、琴美は全てを察する。琴美を天柊家の人間として扱わないなら、どう処理するつもりなのか疑問だったが、どうやら龍尊は、琴美を食客として扱うつもりらしい。となれば、客人が寝泊まりする部屋は本館には用意されてなどいない。
「こちらが、お客様の新しい部屋の鍵となります。プレートを掛けておりますので、そちらのお部屋をご使用なさってください。それと最後に、お客様の行動におきましては、私は一切関知致しませんので。どうぞご自由にお過ごしください」
「…叱ってもくれなくなるんですか?」
「……」
執事から冷たく言い放たれた言葉に、琴美は質問で返す。だが、琴美の期待した返答はもう聞こえなかった。正面に居たのは、能面を被った人形のような人物だけだ。
きっと、今の応酬でこの縁も切れたのだろう。家族、使用人、執事―――琴美が今まで築き上げてきた繋がりが音も立てずに失われていく。
「私…お姉様にお別れの挨拶もしてないのに…」
手に持つ交換日記を胸元に抱き寄せながら、琴美は震える声で最も親しく、最も愛している人との離別に後悔を募らせる。ただの食客と成り下がった琴美に、天柊家の宝物とされる鈴音と面会する機会があるはずもない。言葉を交わすなど以ての外だ。
「うぅ…っ」
つまり、食事室を考え無しで飛び出したあの時点で、琴美の全ての関係は終わりを迎えていたのだ。泣いても、それは事実として残り、覆ることは無い。
今更、事の重大さを把握してそれを嘆いても、全ては後の祭りだ。琴美にできることは、最早何もない。だから、琴美は何も言わず、世話になった部屋に背を向けて歩くことにした。
「…たった今、私の『執事』としての務めは果たしました。ここからは琴美様の『仮親』だった者として話をさせていただきます」
「―――え?」
すると、絶望で意気消沈している琴美の後方から、静かな声が聞こえた。その声にハッとして振り返ると、そこには先程まで琴美を客人として扱っていた執事とは異なった雰囲気を纏った者が立っていた。
「一体何を…」そう言いかけた琴美よりも一足早く、昭臣が続ける。
「その前に、このやり取りを誰かに見られては面倒です。ですので、一度部屋に入ってはもらえませんか」
「…分かりました」
依然として昭臣の目的は読めない。だが、その言葉に害意がないと判断した琴美は、取り敢えず素直に従うことにした。
そして昭臣の手によって開かれた部屋に足を踏み入れると、何も無いただの空間と化した部屋が琴美を迎えた。埃一つもなく、綺麗に掃除された部屋に存在しているのは、琴美と昭臣、そして優しい月明りだけだ。
「……」
十数年世話になった部屋の本来の姿を見た琴美は何も言えず、ただただ虚しさを覚える。この部屋の様相はまるで、琴美の心の鏡写しのようだった。
「どうも寂しくなってしまいましたな」
「…はは、要らなかった物がなくなったところで、寂しがる人はいませんよ」
「ふむ。…私は、そうは思いませんが」
昭臣の否定は、表情の片隅に哀愁の影を落とした琴美を慰めるための建前か、本心なのか分からない。
「気遣わなくていいですよ、昭臣さん。それで、 わざわざ人目を気にして二人きりになってまでしたい話って、何ですか?」
「気を遣った訳では…いえ、この訂正は無意味ですね。分かりました、時間も限られてますし、早速本題へと入りましょう」
口だけの訂正したところで、琴美の暗澹とした気持ちに変化が訪れることはないと悟った昭臣は、瞬時に思考を切り替えた。そして話題の転換を伝える為に、丁寧に「さて」と前置きをした昭臣が老躯に見合わない、悪戯っぽい表情を浮かべた。
「琴美様。私が何故その交換日記をわざわざ手渡ししたのか分かりますか?」
「さっきは『これを持ってさっさと失せろ』みたなことかと思いましたけど…多分違いますよね。どうしてなんですか?」
「琴美様には私がそんな冷酷な人間に見えていたのですか?」
「あんな言い方されたらそう見えるに決まってますよ」
昭臣にお客様として冷たく応対された時の事を思い出し、琴美はそのことを非難する。
ともあれ、確かに言われてみれば、昭臣が部屋の物資を搬出したのだと伝える為だけに来たのであれば、わざわざ交換日記だけを渡す手間は必要なかったはずだ。当てつけのような意味合いが無いのであれば、その行為には何か特別な意思があったのだろう。だが、琴美にはそれが何なのか分からない。
「やれやれしかし、琴美様の察しの悪さはどこか安心感を覚えますな」
「それ言う必要ありました? ありませんでしたよね?」
昭臣の余計な一言が鼻についた琴美は、顔をしかめて不満を露わにする。しかし当の本人はさして悪びれることなく、説明を次の段階へと移した。
「…伝える為ですよ」
「伝える為って…何をですか…?」
「まだ、鈴音様と言葉を交わす機会は残されているということをです」
「えっ」
昭臣の口から飛び出た信じ難い言葉は、琴美を大きく動揺させた。だってそれは、未来を諦めた琴美が唯一捨てられなかった願いだったのだから。だがしかし、一体どうやって言葉を交わすと言うのだろうか。それをするには、それこそ秘密裏に口裏を合わせて会う以外に方法はない筈だが―――。
「―――あ」
「流石に気付きましたかな? そうです。多忙を極め、私生活の全てを管理されている鈴音様と話したいのであれば、方法は最早一つしかありません」
「それが…この交換日記という訳ですか」
「その通りでございます」
琴美の辿り着いた結論に、昭臣が満足気に頷く。
何故言われるまで気が付かなかったのだろう。確かにこの交換日記を使えば、人目を忍んで会うリスクを冒す必要性もなく、鈴音と会話にも似たことができる。それに加えて、この交換日記の存在を把握しているのは、琴美と鈴音、そして昭臣の三人に限られている。よって、手段としては恐らく最善だろう。
「そういうことだったんですね。よし、そうと決まったら、一刻も早く―――」
「お待ちください。もしや新しい自室に行って書こうなんて考えている訳ではありますまいな?」
「う…え、そのつもりでしたけど…」
「はぁ…短絡的な考えはお止め下さい。そんな行き当たりばったりな行動で成功する程強固な作戦ではありませんし、軟弱なセキュリティではありません。日記を書いた後はどうなさるおつもりで? 一度別館に行ってしまえば、旦那様の許可なく本館に足を踏み入れることはできないんですよ」
ドアノブに手を掛け、部屋を勢いよく飛び出そうとした琴美を寸でのところで昭臣が止める。相当危険な行為だったのか、今の一瞬で昭臣の額には溢れんばかりの冷や汗が浮かんでいた。琴美の、後先考えない軽はずみな行動を昭臣や鈴音がフォローするという流れは過去にもよく見られた。だが、今回ばかりは一度のミスならば取り返しがつくなどと言った甘えた思考は通用しない。
昭臣の少しばかり冷ややかな視線が、琴美に刺さる。
「それは…知りませんでした。すいません…。それじゃあ、どうすれば…?」
「日記は、ここでお書きください。そして、書き上げたら私に預けてください。責任をもって必ずや鈴音様までお届けします」
「そんな…! 私の為に昭臣さんが危険を冒す必要はないですよ! お父様にバレたらどうなるか…」
「でしたら琴美様にできるのですか?」
「それは…」
琴美の身一つで見張りのいる鈴音の部屋まで辿り着けるかと訊かれたら、それは不可能だと言い切るしかない。それ程までに、琴美は今この家で立場がないのだ。バレれば、今度は食客扱いでは済まないだろう。
「その点私なら、もしバレたとしても大した被害ではありません。せいぜい解雇されるのが関の山と言ったところでしょう。まぁ、そもそも皆様私の事は警戒していませんので、それも要らぬ心配だと思いますが。それでも嫌と言うなら、もう鈴音様との会話は諦めてもらう他ありませんが…良いですかな?」
「それは嫌です!」
「でしょう? それならばもう、つべこべ言わずに書きたいことを書いてください。先程も言いましたが、時間は限られています」
そこまで言われてしまったら、琴美には最早、断る理由も権利もない。大人しく昭臣の言う通りにして万事解決するなら、それに越したことは無い。
だがもう一つだけ、気になることがる。
「あの…どうして私なんかの為にここまでしてくれるんですか?」
「ふむ、大した理由などありませんよ。ただまぁ…そうですね。強いて言うとしたら―――」
そこで昭臣は何を口にするべきか迷ったのか、珍しく言葉につまった様子を見せた。そして、言うべきことを決めた昭臣の温厚な双眸には、かつての琴美が感じていた親心が宿っていたように思えて。
「私が琴美様の実の親なら、そうしたから…ですかな」
「…ふふっ、そうですか。じゃあ最後に甘えさせてもらおうかな」
「ご存分に」
そんなやり取りを最後に、琴美は使い古された机に向かい、交換日記を広げた。
交換日記に思いの丈を全て書き連ねた琴美は、昭臣にそれを渡して、部屋を出る。背を向けて廊下を歩けば、この屋敷とはお別れとなる。
ここから先は、もう彼とも口を利くことはできないのだろう。だがそれでも、最後に琴美には言っておかなくてはならない言葉があった。
「昭臣さん…。えと、その…色々…ありがとうございました。今日に限らず、これまでのことも。本当に、本当に…ありがとうございました」
「―――はて。何に対しての礼なのか、私には分かり兼ねますよ。…それでは」
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