第12話 『未来を辿った先は』


「きゃあああああああ!!」


 琴美がカフェから足を踏み出そうとしたその瞬間、空気を引き裂くような銃声と、耳を劈くような悲鳴が辺りに響いた。


「―――!?」


 一体何が―――と事態の把握をする暇も与えられない内に、右方から聞こえてきた音の発生源から遠ざかろうと一目散に駆け出した群衆の波に捕まる。


「琴美!痛っ! 待って、手をっ!こと―――っ」


 突如として発生したパニックの中、声を荒げて、琴美よりも先にその波に飲まれた鈴音が必死に手を伸ばす。しかし、非力な少女の手は何かを掴むことも無いまま虚しく空回る。

 立ち竦んだのは一瞬。だがその一瞬が、緊迫した状況では命とりだ。追いかけなければと思考が定まった時にはもう、琴美と鈴音の間に大きな距離が開いていた。

 ―――逃げなければ。とにかく遠くへ。何が起きているのかを理解する必要はない。きっと、今は命の危機だ。ただ生きて、生きなければ。生きれば、お姉様とはまた再会できる。だから、だから今は。生きて、生きて生きて生きて生きて―――。


 そう、強く思っているのに。やらなければならないことは、明確に、単純に分かっているのに。それでも何故か琴美の足が、店内からそれ以上動くことは無かった。

 まるで、そう、まるで―――。


「―――昨日会った時と一緒だな。天柊琴美」


 逃げ惑っていた人々が消え、塞がれていた視界が開ける。すると突然、琴美を呼ぶ声が、銃声がした方向、否、それよりも近くから聞こえてきた。声がした方を見れば、伽藍洞となった通りにフードを深くかぶった一つの影が、異質に、異様に佇んでいた。その横に成人男性のような人影が大量の赤黒い血を流してもがき苦しんでいたが、気に掛ける余裕は今の琴美にはまるで無かった。何故なら、その一言で、フードの男の正体に、見当がついてしまったから。


「ひっ…あ…なん…で」

「顔を見なくても思い出したか? そりゃまぁそうか、トラウマだもんな。はは」


 男が、乾いた笑いと共に、拳銃を持つ手とは逆の手でフードの縁を持つ。そして、返り血が手に付着するのを厭わずに、まるで答え合わせをするかのようにゆっくりとその手を降ろした。


「―――月城…透真」

「俺からは初めまして、そして俺からは昨日ぶりと言っておこう。滅多に遭遇できないこの状況、楽しんでけよ。天柊琴美」


 それは、琴美が今一番会いたくなくて、今一番会ってはならない相手だった。


「なんで…なんで貴方がこ、ここに…」

「変な質問するなよ。俺だって人間なんだから、ショッピングモールに居ても何もおかしくないだろ。ここでの楽しみ方は人それぞれなんだぜ? まぁ、そうだな。俺の場合は―――」

「ひ…っ!」


 そこまで言うと、男―――月城透真は銃口を琴美に向けた。そして、一切の躊躇いもなく引き金に手を掛ける。そして―――、


「ぐああああぁぁっ」


 バン、バンと銃撃を二発。琴美から銃口を外し、それぞれ天井の照明と、琴美と同じ様に店内の隅で逃げ遅れていた男を撃ち抜いた。その一連の動作の中に、葛藤だとか、後のことへの考慮みたいなものはまるで見受けられなった。ただひたすらに、自分勝手に、欲望に忠実に従う男が一人居ただけだ。


「こうやって、人と物をめちゃくちゃにすることだな。気持ち良いぜ、お前もやってみるか?」

「ち、違う…。誰? 貴方は…誰なの?」

「お前はさっきから変な質問しかしないのな。月城透真だよ、昨日会ったろ。ちゃんと思い出せよ。―――昨日じゃなくて、もっと昔の事とかさ」


 この男はこう言っているが、琴美にしてみればそれは譫言うわごとに過ぎなかった。目の前で楽し気に話しているのは、透真じゃない得体の知れない男だった。琴美が会ったのは、こんな凶悪な人間ではなかったはずだ。いや、そうか、これが。


(これが―――月城透真の…凶人格)


 琴美が倒れた後、源と再会した保健室で彼が言っていたことを思い出す。源の説明によれば、透真には人格が少なくとも二つあり、稀に普段の温厚な性格とはかけ離れた人物が顔を出すらしいが、恐らくこいつがそうなのだろう。

 最悪なタイミングで、最悪な人物と出くわしてしまった。と、悠長に後悔する時間を与えてくれる程、目の前の狂人は優しくない。次に男が何をしでかすか予想がつかない以上、琴美の脳のリソースはどうやってこの事態を打破するかの一点に割かなければならない。


(ダメ…身体が、何も言うことを聞いてくれない。どうしよう…どうしようどうしようどうしようどうしよう!)


 だが、隣に寄りかかった死が思考を侵食して、最適解に辿り着くことを阻む。やがて琴美は、最早自分じゃこの状況をどうにもできないと悟った。ならば、せめて祈ることだけは。


(―――お願い、生きて。お姉様、楓堂先輩)


「…まだ何も思い出せねぇか。つまんねぇな。じゃあ思い出せるように、俺がエピソードを語ってやるよ。俺は人と話すのが大好きだから、語り聞かせだと少し味気ないけどな。まぁそこは悲痛に歪んだお前の表情で埋めるとするさ」


「―――なら俺が話し相手になれば退屈しないか?」


「―――!」


 琴美が最早どうにもならないと悟り、死を覚悟したその瞬間だった。男が琴美を睥睨しながら立っている場所の更に奥から、別の声が聞こえたのだ。

 琴美がその声にハッとして顔を上げるのと同時、男も弾かれるように視線を向ける。


「…源か」

「楓堂先輩!」


 そこには、今一番会いたくて、今一番ここに居て欲しくない人物が立っていた。

 なんて、馬鹿な真似をしてくれたのか。ここに来さえしなければ、大事な命を危険に晒すことはなかったのに。馬鹿だ。本当にどうしようもない馬鹿だ。拳銃を携帯する相手に対して丸腰で、しかも堂々と正面から姿を現すなんて愚の骨頂としか形容できない。

 だがその馬鹿が、生に対する貪欲さを失っていた琴美に活力を齎したのだ。


「逃げろ!琴美ちゃん!」

「―――っ! はい! 先輩も、どうか生き延びて!」

「ここで頷いたら死亡フラグだからなんも言わないでおく!」


 源の言葉に力を貰い、動かなくなっていた足を再起させる。拳銃を持った相手に背中を向けるのは得策とは言えないが、今はそんなことを言っている場合では無い。細い足を全力で前に出し続け、琴美は我武者羅に駆けた。幸いにも、男がこちらを追いかけるような仕草を見せることは無く、何故か源とやり取りをしている間は沈黙を貫いていたため、琴美はすぐさま突き当りを曲がることによって射線を切ることに成功する。取り敢えずは、一安心と見ていいだろう。ならば琴美が成すべきは────。


「自分で逃がしておいてなんだけど、良いの? 追いかけなくて」

「別に構わん。天柊琴美はどうせ戻って来る」

「ふーん? 随分な自信だね」

「…だからそれまでに、手土産を用意しておく」

「そうかい。…あんまり痛くしないでくれると助かるよ」





「はぁ…っ、はぁ…っ。お姉様、お姉様…!」


 息を切らして、琴美は探し人の名前を叫びながら建物を走り回る。運動が大の苦手である琴美は、今日一日中歩き回った疲労感も相まって、そのスピードは最早歩きと大差ない。それを自覚しつつも、鈴音の安否を確認しないまま1人で逃げることもできない琴美は、とうに残滓となっている力をめいっぱい振り絞って再度足を動かす。

 鈴音からの連絡があれば幾分かマシだったのだが、琴美が送信したメッセージにも返事はなく、かえってそれが琴美の焦燥感を更に煽っていた。


「お姉様、一体どこに…」

「あっ、琴美!」


 不安と苛立ちに身を焦がされて、いよいよ足も微動だにしなくなってきた頃、聞き馴染みのある声が琴美の鼓膜を揺らした。


「────! お姉様!」

「はぁ、良かった。無事で。大丈夫? どこも怪我はしていませんの?」

「私は大丈夫です。でも、あの、お姉様! 先輩が、楓堂先輩が───!」

「え? 源が? ……そう、成程」


 端的に状況を伝えようとしても、疲労と焦りが邪魔して上手く口が回らない。それでも、源の身に危険が迫っている事だけは無様な姿を晒してでも伝えようとした。その必死さのお陰か、或いは鈴音の勘の良さ故か、彼女はある程度の状況を理解したようで。


「そ、そうなんです。先輩が1人で立ち向かってて…。だから、戻らないと!」

「…逃げますわよ、琴美。少しでも早くここから出ましょう」

「お、お姉様…?」


 現状と相違ない理解をした上で、鈴音が導いた結論は、琴美の予想を裏切るものだった。


「逃げるって…でもっ、先輩が! 先輩が1人で…っ」

「さっきから先輩先輩うるさいですわ!」

「ひぁっ」


 そして更に、鈴音は琴美の予期しない行動に出る。今まで感情任せに喋ることのなかった鈴音が、初めて乱暴に声を荒らげたのだ。初めて聞く鈴音の怒号に肩を跳ねさせた琴美から、喘ぐような悲鳴が零れる。


「貴方ね、自分の置かれている状況が分かっていますの!? 相手は銃を持っているんですのよ! 源がどう立ち向かってるのか知りませんけれど、彼は死ぬことを覚悟して貴方を逃がしたんですの! それくらい分かるでしょう…!?」

「う、ぁう…」

「だから逃げますわよ琴美。彼が生きていたら、後で合流しましょう。ほら、早く」

「……嫌ですよ、私は」


 激昂しながらも、冷静さを失っていない鈴音の言葉は、論理的で正しい。

 間違いなく正しいのだ。それくらいの判断は今の琴美にも容易に出来る。だが、頭で理解することと、飲み込めるかどうかは別の話だ。故に、琴美は鈴音が優しく取ってくれた手を握り返さなかった。


「琴美…?」

「どうして…お姉様はそんな事が言えるんですか」

「なん…え? どうしましたの、琴美?」

「私は、分からないですよ。お姉様が楓堂先輩をそんな簡単に切り捨てられる理由が」

「わ、私は別に…切り捨ててるつもりは…」

 

 目尻に涙を浮かべた琴美が、無理解を示すように鈴音を糾弾する。琴美が鈴音の言いつけを破り、あまつさえ反論まで寄越してきたのは、これが初めての事だ。

 先程見せた幼気な我儘とはまた別の、まるで鈴音を目の敵にさえするかのような真っ向からの対立。そして、意外にも気圧され始めたのは鈴音の方だ。


「言い争っている時間はありません。…お姉様がその気なら、私は一人で戻ります」

「なっ! 正気ですの!? 琴美、待ちなさい!」

「ごめんなさい、お姉様。…ちゃんと生きて戻りますから、その時は沢山叱って下さい」


 それだけを言い残して、琴美は鈴音に背を向けて走り出した。


「琴…美…」


 錆びた鈴のような声色を絞り出して鈴音は遠のく少女の名前を呼んだ。だが、それに答える者は既に手の届く場所にはいない。縋るように手を伸ばしても、握り返してくれる存在は、ここにはもう居ないのだ。

 

「…お願い待って。わたくしを…わたしをまた、独りにしないで…。私はただ貴方と一緒に…」


 ―――心のどこかで、赦されると思っていた。自らが背負っている罪をひた隠しにして、琴美と共に暮らしてゆくことを望んだ。だが、自由を手に入れたイカロスが最後には翼を焼かれてしまったように、鈴音にもきっと甘美な結末が待ち受けていることはない。

 一度泥で手を汚してしまった者は、その手を洗い流さない限り他人からは疎まれてしまうのは言うまでもないことで。それが例え琴美だとしても、御多分に洩れることはないのだ。





(先輩、どうか生き延びていて―――!)


 源と別れた際に放った台詞と同じことを胸中で唱えながら、琴美は我を忘れて疾走していた。相も変わらずその速度は鈍く、足運びもまるで幼子のように拙い。だが、琴美自身は最早体力の低下だとか、身体の痛みといったものは感じなくなるまでに己の集中力を研ぎ澄ませていた。緊迫感と恐怖心に急かされるその身とは反対に、脳は極限まで冴え渡っている。時折琴美は自身の精神と肉体の状態が合致しない現象を体験し、その不思議な感覚に違和感を憶えることがこれまでにもままあった。だが今はその感覚の乖離も都合が良い。これで、銃を持った相手への対策を考えながら、全力疾走をすることができる。


(―――お姉様も居てくれたら、できることの幅も広がったはずだけど…)


 対人戦において、人数の有利とは大きなアドバンテージだ。恨み事ではないが、死地に単独で飛び込まなければならなくなった以上、自分を囮にする作戦もとれなくなってしまった。それができれば、成功率は一番高かったのだが。

 とは言え、無いものねだりをしている暇は残されていない。今は、一人で源を助ける方法を考え抜かなくては。


(私の身体能力は当てにならない…。なら何か、使えそうな物を―――)


 走りながら、防弾着になり得る物がないか辺りを見渡してみる。

 ―――だがまだ、琴美は気付いていなかった。

 彼女にはもう、思考する猶予すら残されてはいないことに。


「―――ッ!」


 琴美の動きが一瞬固まったのは、これまで静かだったショッピングモール内に銃声が轟いたからだ。数分前に一度聞いたのと全く同じ音を耳にした琴美の全身に、緊張が駆け巡る。

 そのたった一発の銃声がこれまで心の内で燻っていた焦燥感に拍車をかけ、いよいよ琴美は思考を放棄せざるを得ない。


「お願い…、お願い…っ!」


 冴えていたはずの脳内も、あの音で全て搔き乱されてパニックになった今、琴美にできるのは源の無事を祈ることだけだった。

 ―――やがて、突き当りの曲がり角が見えてくる。


「―――先輩!! …あ、れ?」


 何が起きているのかも一切確かめないまま、琴美は曲がり角から勢いよく身体を出す。だが、その先で待ち受けていた風景は、琴美の虚をつくものだった。ものの数分前に透真と最悪の邂逅を果たし、源が駆けつけてくれたその現場には、今やどちらの影も見当たらなかった。


「先…輩…?」


 ふらふら、ふらふらと。源も、透真すらも姿を消した現場を、千鳥足で彷徨う。一歩ずつ、銃声の正体が源を撃ち抜いたものでないと、或いはそもそも銃声など鳴っていなかったのではないかと、脳裏を掠める薄氷にも笑われるような希望を振り落とせないまま、琴美は歩く。

 歩いて、歩いて、歩いて。

 ―――歩いた先で、見つける。


「―――ぃ」


 店の端に追いやられて、血に染まりながら座り込んでいる源の死体を。


「いやあああああああっ!!!」


 『それ』は見紛うこと無く、源の死体だった。口端から血泡を吹き出して、瞳は景色を反射しない程虚ろに染まって、撃ち込まれた銃弾は見事に心臓を貫通していた。

 まるで生気を感じられない源を象っただけの『何か』の前で、琴美はいよいよ立つ気力すらも失う。

 ―――夢で見た大量の赤が、フラッシュバックする。


「は、はは。…嘘。嘘ですよね? …ねぇ、先輩? 起きて下さいよ。ねぇ…起きて下さいってば。ねぇ…なんで? なんで、何も言わないんですか? あ、あぁ…あぁっ!」


 琴美は、救えなかったのだ。

 予知夢にも似た力で同じ出来事を追体験して、源が死ぬ運命から遠ざけようとしたにも関わらず。結局、結末を変えることは叶わなかった。

 間違いなく、自分にしかできないことだった。もっと、もっと色んなパターンを想定していれば。いやそもそも自分が二人に仲直りをして欲しいと願わなければ。自分が源の代わりに死ねば。


「ごめんなさい…ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」


 ゆっくりと未だに血を流し続ける源だった者の前で、琴美は壊れた機械のように懺悔を繰り返す。だが、どれだけ涙を流しても、どれだけ謝罪を口にしても。頬に手を添えてくれる者も、優しく許してくれる者も、帰って来る者も居ない。居るはずが無い。

 ―――それなら、いっそ、もう。


「誰か…私を、先輩のところに―――」


 最後の願いを口にして、琴美は意識を手放した。


「―――気を失ったか。なら、俺の仕事も終わりだな」


 どこからか現れた声に続いた銃声を、聞き届けることもせず。

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