第11話 『二人の時間』


「ほ、本当に行くんですの…?」

「本当に行くんですよ。折角…ここまで準備したんですから」

「でも…」

「いいですから、行きましょう…お姉様。それとも…私とするのは嫌ですか?」

「そんな、嫌と言うことはありませんわよ? でもその…突然のお誘いでしたから、身支度よりも心の準備ができてなくて…」


 その声々は、新天柊宅の玄関先から聞こえてきた。朝を飾るのに相応しい快活な声は、意外にも琴美が発したものであり、一方の戸惑いを隠せていない声の持ち主は鈴音のようだ。どうやら二人は、琴美の言うデートの為に朝の準備を済ませたが、その事について鈴音はまだ受け入れることを躊躇っている様子だった。


「心の準備なんて必要ないですよ。行けばきっと楽しめるはずです」

「…もう、分かりましたわよ。私も覚悟を決めますわ」

「ただ遊ぶだけですよ。覚悟とか…そんな堅苦しいのも捨ててください」


 本気か冗談かは定かではないが、鈴音の大袈裟気味な言い方に琴美は若干顔を引き攣らせる。彼女にとってはただの外出に過ぎないはずだが、一体何をそんなに気負っているのか。


「…はいはい。取り敢えずもう出れますけれど…結局行先は教えてくれないんですの? 早く知りたいですわ」

「ふふ、そんなに焦らないでくださいよ。楽しみを後に残しておくのも楽しみの一つですなんですから。それでは…出発しましょうか」


 そう言うと琴美は玄関かまちに腰掛けていた鈴音の手を引き、もう一方の手を扉の取っ手に掛けた。痩せた腕にグッと力が入り、ガチャンという重い金属音が決して広いとは言えない玄関に反響する。開かれた扉の先には、見慣れた景色が広がっている。

 この一歩を踏み出せば、琴美は失敗の許されない任務に身を投じることになる。二人を仲直りさせること、そして源を守ること。それらが達成されて初めて今回の『デート』は成功と呼べるのだ。


(絶対に夢と同じ結末は迎えない。その為に琴美わたしが居るんだから)


 目を閉じ、息を整える。

 琴美の思い描く理想の未来は、この当たり前の風景が当たり前のように繰り返されることだ。それを成すには、二つの条件達成が絶対となっている。


(大丈夫。———大丈夫だ)


 琴美にとって、このお出掛けは遊びではない。生半可な気持ちで臨めば、きっとまた取り返しのつかないことになる。そんな確信めいた予感が、琴美にはあった。

 肌がひりつくような感覚に陥り、琴美の胸に緊張の波が起こる。それを跳ね除けんとするように、彼女は最後にひとつ深い呼吸を置いくと、何かに弾かれたように外へと飛び出した。

 ———今この瞬間から、彼女の孤独な戦いの幕が切って落とされたのだ。





 ガタンゴトンと、電車の揺れを想起させるのに使われがちなその擬音語は、しかしなるべくしてそのようなオノマトペになったのだなと琴美は漫然と感じていた。感傷に浸っていたわけではない。本来ならば初体験であるはずの電車の中で、そのような思惟に耽ってしまう程、逆走していく景色に覚えがあったためだ。


「はぁ…」


 実のところ、あの夢について琴美は未だ半信半疑でいる。昨日源と別れた学校帰り、珍しく一人となってしまったあの時間に、琴美の脳裏には様々な思案がまるで荒れ狂う滝のように押し寄せていた。例えば、現実と夢の異常な重なり、幼馴染と呼ぶにはあまりにも脆い二人の関係性、そして———。


(楓堂先輩の…忠告)


 チラリと、黒目だけを動かして、琴美は隣に座っている鈴音を一瞥する。一方で、視線を手元の携帯に注いでいる鈴音は、疑念を孕んだその眼差しに気付いていないようだった。

 思い出していたのは、駅のホームでやけに重苦しい雰囲気を纏っていた源の姿と、その言葉だ。彼は琴美に「鈴音のことは信用しない方が良いかもしれない」と言っていた。夢の中の、しかも他人が吐いた台詞など、大半は支離滅裂で信じるに能わないものばかりの筈だ。だがそれでも、源のその忠告が琴美の脳に焼き付いて離れないのは、単純に彼女自身にも心当たりがあるからだ。


(お姉様の本家に対する敵愾心と…お姉様が居ない且つ、邸宅に人が多い時間帯に起きた事件…)


 源に指摘された、鈴音が天柊家炎上事件の首謀者である根拠は、琴美も薄々気が付いていた。しかし、それを偶然の一致に過ぎないと割り切っていた琴美にとって、源が語った推測は到底受け入れられるものではなかった。琴美自身もその可能性に辿り着いていたからこそ、その拒否反応はより色濃く出てしまったわけだが。

 それに、琴美がこの仮説を固辞して受けない理由がもう一つ存在するのだが———。


(これがもし…もし仮に万が一真実だったとすれば、お姉様は……)


 ———自分ことみを殺そうとしている。


 それは、まだ悪鬼羅刹の実存を信じる方が心休まるような可能性であった。琴美にとっては正に万に一つも、いや億が一にもあってはならない話だろう。だが、事件の主犯が鈴音であった場合、怨恨の対象には琴美も含まれていたと睨むのが妥当だ。何せ事件の発生時刻には、琴美も邸宅に居たのだから。

 

「…落ち着きませんわね」

「———え?」


 思考の底なし沼に嵌まりかけた琴美は、不意に耳に入ったその言葉で現実に連れ戻される。改めて鈴音の方を見ると、彼女は目を閉じて深いため息を吐いていた。


「人の密集しているところは…どうも慣れませんわね。先程から時折視線も感じますし。なんだか身体のあちこちがむず痒くなってきましたわ」

「それは…ある程度は仕方ないと飲みこむしかないでしょう。お姉様は端正な顔立ちをしていますし、そこそこの有名人でもありますでしょうから…」


 国内でも有数の企業成績を誇っていた天柊グループ。その次期代表に鈴音が抜擢された当時は、歴代最年少の代表と言う話題性も手伝って、ニュースでも大きく取り沙汰されていた。それだけでも人々の記憶に残るには十分な強烈さであるにも関わらず、それに加えて他を寄せ付けない程の美貌を兼ね備えているとなれば、時の人として世間に知れ渡るのも想像に難くないだろう。

 

「そうは言われましても…ねぇ。これに慣れようとすると群衆を避けて通ることはできないでしょう? 私気が滅入りそうですわ」

「そうですね…天柊家が再興するまでこの生活が続くんだとしたら、耐性を付けるに越したことはないかもしれませんね。…あっ、でもほらお姉様、安心してください。取り敢えず今は逃げられるみたいですよ」


 そう言って琴美が指差した表示器には、目的地の到着を知らせるアナウンスが流れていた。


「無事着いたんですのね。ふぅ、これでようやく一息つけますわ」

「お姉様、あの程度で気疲れしていては今後苦労が絶えませんよ…。朝の通勤ラッシュなる時間帯は電車から溢れんばかりの人が乗るらしいですし」

「い、今以上にですの…? それは…最早私の常識の範疇を逸脱してますわ」


 それは貴方の常識が世間一般の常識からかけ離れているからだろう、と琴美は心の中で異議を申し立てるが、不毛な発言なのでここはグッと抑える。

 慣れない人込みを抜け、ここから先は目的地付近の改札から出るだけだから簡単———と一安心したのも束の間。二人の受難はまだまだ序の口だったことを思い知らされる。

 電車を降りてから二人を苦しめたのは、主要都市を結ぶ駅特有の複雑さだ。駅内に設置されている案内板に従って移動を始めてみた二人だったが、あまりの複雑さに目が回る思いをしていた。まるで迷宮のような構内をあっちでもないこっちでもないと言いながら彷徨うことおよそ15分。ようやく二人は琴美の携帯が目的地と指定していた出口へと辿り着いたようで。


「———ぜんっぜん一息つけませんでしたわ!」

「…いやまさか駅から出るだけでこんなに苦戦するとは。…私の見通しが甘かったです。…すいません」

「初めてでこれ迷わない人なんて存在するんですの? と言いますか、それよりも私達以外で迷ってる人が居なかったことがより恐ろしいですわ…。これが洗練された日本人…」


 改札から出て開口一番、鈴音が爆ぜたように不服を叫んだ。

 普段からある程度電車を利用している人であれば、巨大で複雑な駅に放り込まれてもここまで労を要することはなかっただろう。だが、自らの足で目的地へと赴いたことのない鈴音と、記憶喪失の琴美では、二人合わせたとてその経験値はゼロであると考えてもいい。

 世間一般には疎い姉妹が都会の洗礼を浴びたところで、鈴音と琴美は、少々立ち止まって休憩の時間を設けることにした。


「夢で迷わなかったの、楓堂先輩のお陰だったんだ…」


 大して激しい運動をした訳でも無いのに、弱い琴美の身体は若干疲弊していたようで、壁にもたれかかるとそれが良く分かる。軽く息を切らしながら、意外な場面で際立った源のありがたみを感じ、琴美は心の中で感謝を唱えた。


「ふぅ、もう休まりましたか? 琴美」

「……はい。もう…大丈夫です。お姉様こそ、無理していませんか?」

「私は天柊鈴音ですわよ? これぐらいで音を上げる程軟弱ではありませんわ」

「あ、その…」


 琴美が体力的に秀でていないことを最もよく理解している鈴音が、気遣うような言葉をかける。それに対し、琴美も同様の質問を返すが、そのニュアンスは鈴音の物とは多少異なっている。勿論、疲労度を問う意味合いもあるが、それ以上に———。


「あと、無理に付き合ってないかという質問も先に潰しておきますけど、私は今ちゃんと楽しいですわよ。なんだか琴美と冒険してるみたいですし」

「———」


 琴美が憂慮していたのは、まさしく鈴音が先に潰すと言ったそれだった。

 前置きもなくデートに誘い、そのくせして目的地へと辿り着くまでにめちゃくちゃ手間取ってしまって。そんな愚鈍な自分と歩いている鈴音は楽しいのだろうかと、気の弱い琴美は考えてしまった。

 そんな琴美の不安を見抜いたのか否か、そのどちらかは定かでないが、鈴音が放ったその言葉は彼女の抱えていた懸念を一撃で吹き飛ばしてみせたのだ。


「…ちょっと聞いてますの?」


 驚きに目を丸くし、言葉を失っていた琴美を変に思ったのか、鈴音が不安げな表情で尋ねる。それで琴美も我に返り、そして思った。


(———あぁやっぱり、お姉様じゃない)


 これだけ偉大で、優美で、識者で、人格者で、———妹想いな鈴音が、多くの命を奪ったあの事件の犯人であるはずが無いと。自分を殺そうとしているはずが無いと。


「はい、聞いてますよお姉様。それでは、気を取り直して行きましょうか。 ────私達の希望に溢れた未来へ」

「急に源みたいなこと言ってどうしたんですの。…ふふっ、変な子ですわね、全く」





 鈴音と源の仲直りの為、琴美が立案した作戦は、至極単純なものであった。

 まず、琴美が鈴音をデートに連れ出し、二人きりであると思い込ませる。そしてタイミングを見計らって琴美が源についての話題を切り出し、彼女が心の奥底に仕舞っている源への本心を聞き出すことができたなら、それを本人に伝えるという段取りだ。

 妹という立場を利用して鈴音を騙すような行為をするのは些か気が引けるが、これも二人の仲直りの為には仕方ないと、琴美は己に言い聞かせる。

 兎に角、琴美の目下のやるべき事は分かりやすいことに、1つに決まっている。

 

(まずは…どうにかしてお姉様から、楓堂先輩のことを聞き出さないと…)

 

 琴美が伝言役としての務めを果たせば、後のことは同じデート地で別行動をしている源に全て委ねられる。琴美の伝言を受けてどうするのか、その腹積もりまでは聞き及んでいないが、予想するのは容易い。大方、鈴音の返事が好ましければ偶然を装って合流し、柔らかくなった雰囲気に乗じて謝罪し。そうでないかった場合は、何もせずにしばらく距離を取るつもりなのだろう。如何にも源らしい発案と言えるが、いずれにしても、琴美が計画の第一段階を突破できなければ、話はそこで終わりだ。

 そしてその計画を成功させる要素として最も肝心なのが、何処をデートの舞台とするかという点である。ただの外出ではなく、満たすべき条件が数多くあるこのデートで琴美と源が話し合いの末に選んだのは———。


「────ちょっと琴美、新しい服を着た私を差し置いて考え事ですの? 感心しませんね」

「ちっ、違いますよ…お姉様。その…さっきは、 お姉様の美しさに気を取られて喋り方を忘れていたのです」

「あらそうでしたの。それは災難でしたわね。では、喋り方も無事思い出した様ですし、改めて感想を伺うとしましょうか」


 言いながら、鈴音は試着室の中でくるりと回り、着替えた洋服の全体像を披露する。肩から腕にかけて施されたレースと、ふわりと広がるスカートが印象的な統一感のある白ワンピースに身を包んだ鈴音の姿がそこにはあり、それはまるで羽を広げた白鳥のような振る舞いにも感じられた。筆舌に尽くし難い美しさと評されるものは世の中に数えきれない程存在しているが、その極致に達したものに直面した人間は、言葉の発し方さえ忘れてしまうのだと琴美は初めて思い知らされた。

 

「それはもう大変…大変お似合いですよ、お姉様。花よりも、月よりも…いや、そもそもお姉様の美しさに比肩するものなんて、どこを探しても見つかるはずないですけど」

「へぇ、琴美も中々ユーモアに富んだセリフが言えるようになってきたじゃないですの。でも、大袈裟なお世辞は時に人を小馬鹿にしているようにも聞こえますから、避けた方が良いですわよ」

「私は、冗談もお世辞も口にしたつもりはありませんよ。今の言葉は勿論…さっきの言葉だって全部心の底からの本心です」

「…っ。そうでした、嫌味というものを知らない人間でしたわね。貴方は」

「……?」


 今ひとつピンと来ない鈴音の物言いに、琴美は小首を傾げる。鈴音の言葉に妙な違和感を覚えた琴美は更なる追及を試みたが、それをするよりも先に鈴音が試着室のカーテンを閉めてしまったが為に、不発となってしまった。だが、仮にその真意を聞き出そうとした結果、鈴音の機嫌を損ねてしまえば、取り返すまでに時間がかかる。

百害あって一利なしならば、優先順位を履き違えることはしてはならないだろう。

 そう結論付け、湧いた疑問に蓋をした琴美の傍らで、元の服に着替えた鈴音が試着室から出てくる。


「さてさて! それでは他のお店も見て回りましょうか」

「他のお店もって…。先程のワンピースはご購入されないのですか?」

「候補には入りますけど…買うかどうかと問われれば悩みますわね」

「そんなにお悩みにならなくても…お姉様は何でもお似合いなのですから、お好きな洋服なら全部購入してもいいのでは…?」

「それは駄目ですわ!」


 先に語った通り、琴美が嘘偽りを含まない一言を鈴音に投げかけるが、彼女がそれを食い気味に否定する。隣で突然大声を出されて肩を跳ねさせた琴美に「ごめんなさいね」と謝罪してから、鈴音が続けた。


「いいですか、琴美。まず、私が目指している生活とは何ですの?」

「えっと、普通の暮らし…ですか?」

「そう、その通りですわ。そして、普通のショッピングというのは気に入った商品を無闇矢鱈と買い込んでいくことではありませんの」

「は、はぁ…」


 壇上で教鞭をとる教師のような物言いで、ショッピングの何たるかを説く鈴音に戸惑う琴美は、微妙な反応をせざるを得ない。しかし、そんな琴美にお構いなく、鈴音の講釈は熱意を増して更に続く。


「要するに! 私は色んなお店で色んなお洋服を見て、吟味してから買うものを決めたいんですの。…気に入ったものを全部買ってしまったら、面白みに欠けるでしょう?」

「…ははぁ成程、ご尤もです。浅慮な私をお許しください、お姉様」

「許しませんわ。琴美なら、私の事は理解してくれていると思ってましたのに…残念ですわ。深く傷つきました。もう立ち直れません。えんえん」

「ちょっとお姉様…変に私の良心が痛むようなことしないでください!」


 鈴音がわざとらしい演技と共に垂れ流す不満でも、琴美が受けるダメージは思いの外大きい。琴美に過失が一つも無いならその限りでは無かったかもしれないが、さっきのが失言だったのは確かだ。それを言ってから後悔した琴美にしてみれば、悪乗りの言葉でも刺さるものがある。


「ふふふ、私なりの仕返しってやつですわ。ま、特に気にしてませんから、琴美は必要以上に自分を責めるのはやめてくださいね」

「当り前のように私の心情を読まないで下さいよ」

「そんなこと言われても、実際当たり前なんだから仕方ないでしょう。それに貴方、分かり易いんですもの」

「うっ、うぅ…はい、分かりました。反省だけすることにします」

「そうしてくださいまし」


 危うく自責に陥りかけた思考回路が、鈴音の指摘を受けて後一歩のところで留まる。琴美の自罰的になり易い性格を把握している鈴音は、琴美にとってあまりにも大きすぎる精神的支柱だ。それを事ある毎に痛感させられ、琴美は鈴音に頭が上がらない。

 琴美が姉に対する敬愛心を再認しているその横で、試着したワンピースを最大限の丁寧さで元に戻していた鈴音が身体の向きを変える。その無言の動作から鈴音が店から出ようとしている意思を感じ取った琴美は、背中を追うように慌てて歩き出した。


「次は何処に行きたいですか? お姉様」

「そうですわねぇ。他のお店も見て回るとは言いましたけど、一度昼食を挟んでも良い頃合いかも知れませんわね。この時間ならまだ人も少ない方だと思いますし」

「でも…その時間にお姉様が出会うはずだった運命のお洋服が、誰かの手に渡ってしまったらどうしますか?」

「なっ、確かにそうですわね…。えっと、ど、どうすればいいんですの! 琴美、私分かりませんわ!」


 鈴音を敢えて困らせんと、琴美が悪戯っぽく茶々を入れる。琴美が好んで揶揄う場面は少ないが、それ故生まれる新鮮味が鈴音に静心を忘れさせた。不意打ちでしか見られない鈴音の慌てふためく様子に琴美の相好が崩れる。


「先程…ショッピングとは何か力説していたのはお姉様ですよ。これも想定内ではないのですか?」

「ぐっ…こればかりは想定外の、非常事態ですわ。お願いです琴美、一緒にこの危機を乗り越える方法を模索してくださいまし」

「ふ…ふふっ、危機って。いくらなんでも大袈裟すぎますよお姉様。でも…はいっ、一緒に考えて、一緒に間違えましょう。きっと…それもショッピングです」





 手を繋いだ二人の間を、時間だけが通り抜けていった。

 昼食を取り、服を選び、映画を観て、雑貨屋を歩き回って―――。どれも、ショッピングモールに来た人が当たり前のようにできることばかりで、特別なことは何もしなかった。だが琴美にとってはその当たり前こそが特別であり、それこそが至上の悦びであった。

 その幸福を全身で享受できている現状があまりにも贅沢に感じられ、胸の内から申し訳なさが込み上げてくる。しかしだからと言って、鈴音の隣という幾ら積んでも座れない特等席を今更誰かに譲る気もない。


「こうして、お姉様とカフェに来られるのも妹ならではの特典ですし」

「急に何の話ですの? 特典?」

「こっちの話です」


 それきり大した会話も無く、手持の話題も尽きてきた琴美はなんとか気を紛らわせようと、注文したフラペチーノとティラミスを忙しなく口に運んでいた。器を手に取った回数に対して明らかに量の減りが釣り合ってなかったが、とにかく何かしてないと落ち着かなかったのだ。

 しかしそんな琴美の対面に座っている鈴音は悠然としており、時折携帯を開いたり、自分のペースで飲み物を飲んでいた。お洒落のおの字も知らない琴美には肩身が狭いこの場所でも、鈴音は相変わらず様になっている。


「…お姉様の飲み物美味しそうですね、何を注文なされたのですか」

「普通のカフェオレですけれど…どうしましたの。さっき私が注文する所見てたでしょう?」

「あ、はは…それは、そうですけど」


 場を持たせなければと当たり障りのない話題を出してみたが、当たり障りが無さすぎて会話が続かないどころか、少し気まずい空間が出来上がってしまった。

 

(もう時間が無いのに、お姉様から何も聞けてない…どうしよう)


 現在の時刻は17時45分。そろそろデートも終盤と言える時間だが、未だに成果はなしだ。目的達成度がゼロの現状、自分でも先程から焦りが言動に現れているのが分かる。状況を一変できる手立てがないか、琴美は藁にも縋る思いで辺りを見渡すが、解決の糸口になるものはやはり見つからない。


「琴美、また考え事してますでしょ」

「えっ。あ…、えと、すいません。分かりますか」

「分かりますわよ。琴美が何か思考を巡らせている時は、正面から私を見据えていても視線がどこか虚ろ気になるんですもの。隠す気がないのか、無意識なのかは分かりかねますけれど」


 明らかに挙動のおかしい琴美を見て見ぬ振りもできず、流石の鈴音も指摘せずにはいられない。

 結局、隠しているつもりだった焦燥心も見抜かれ、最早計画を白紙に戻すことさえ叶わなくなった琴美には成す術無しだ。いっそ、今回のデートの目的や源のことを洗いざらい吐き出した方が良いかとも思ったが―――。


「それで、何を考えていたんですの? 折角落ち着いて話ができるのですし、何でも聞いて差し上げますわよ。―――例えば、源のことでも」

「―――! お姉様、まさか気付いて…あっ」


 鈴音の口からその名前が放たれることを全く予想していなかった琴美は、驚きのあまり素の反応を曝け出してしまう。これだけ分かり易い反応があるかと、琴美も言ってから自分に文句をつけるが、今更取り繕っても無意味だと悟り、咳ばらいを一つ挟んだ。どの道数秒後には話していたことだ。後ろめたいことが何もないのであれば、これくらいの想定外はアクシデントの種にはなり得ない。


「…思考を巡らせているのは貴方だけではないってことですわ。現状から拾える断片的な情報だけでもおおよその察しはつきます。あらかた、源に私の機嫌を窺うように頼まれたのでしょう?」

「…お姉様の目は誤魔化せないですね」

「はぁ全く…呆れますわね。あ、琴美にではありませんよ。いつも及び腰な源にです。…こんな時くらい自分から謝れば宜しいのに」

「……」


 目も当てられないと嘆くその表情に、悲哀の混じった呟きが残された。鈴音の解釈には僅かばかりの私情が含まれており、やや事実とは異なっている。源が直接姿を見せていないのは、これ以上互いの関係が不必要に歪むのを嫌っての事だ。だが、それは一方的な見方をすれば逃避と変わらないものであり、その見解は強ち間違いではない。だからこそ、琴美は弁明を躊躇った。


「昨日私が言われた言葉、そっくりそのままお返ししたいですわ。貴方の方こそ逃げてばかりじゃありませんの」


 皮肉を垂れながら、水滴が付着しているプラスチックのコップを右手に持ち、ゆっくりとカフェオレを口に運ぶ鈴音を琴美は今度はしっかり見澄ましていた。何を言うべきか、また何を言わないべきか。この正念場で最適な判断を下すためにも、思考を伴った瞳で、鈴音を見つめ続けた。だから琴美は、鈴音の表情に一瞬だけ映された心模様に気付くことができたのだ。


「…お姉様、もしかして悲しいのですか?」

「悲しい? 私が? まさか、そんな事あるはずがないでしょう。急に変なことを言うのは止めて下さいまし」


 コトリと音を立てて、飲み物をコースターに戻した鈴音は、澄まし顔でそう返す。

 それを受けて琴美は、強情な鈴音のことだから、きっと誤魔化しているのだろうとも思った。だが、疑念の眼差しを向けて、琴美の言葉の意味を読み解かんとする鈴音の様子を、ただ嘯いているだけだと捉えるには無理がある。


「…まぁいいですわ。一旦話を戻しましょう。それで、実際のところ、貴方は源に何と言われてここに来たんですの?」

「その質問に答える前に、僭越ながら一つ訂正させて下さい、お姉様」

「何ですの」

「確かに私は、楓堂先輩から頼まれ事をされてます。でも、ここに居るのは、他でもない私自身の意思なんです。―――私は、お姉様と楓堂先輩に仲直りをして欲しいだけなんです」


 琴美がここに居る理由、それを初めて鈴音に明かす。険悪になった二人の仲を取り持ちたい。大切な二人の距離が開くのは我慢ならない。多少複雑な事情が絡んできたとしても、その根っこにあるのは年端も行かない少女の我儘に過ぎないのだ。そしてその願いは、きっと源も同じはずで―――。


「仲直り…」

「お姉様はお姉様で、様々な葛藤や苦悩があるのは理解しているつもりです。そして、楓堂先輩には至らない点が多いのもまた、分かります。でも私は、そんなお二人が好きなんです。どちらの手を握るかという選択ではなく、どちらの手も強く掴んで離したくありません。…だから、えっと、その」


 気持ちが昂り、溢れ出す思いに歯止めが効かない琴美は、結局何を伝えたいのか整理する時間すら惜しいとばかりに捲し立てる。


「もういいですわ、琴美」

「え…あの、お姉様」


 もういいって、何がいいのだ。まだ、伝えきれていないのに、まだ伝えなくてはならないのに。これだけではまだ、まだ―――。


「大丈夫。大丈夫ですわ、琴美。貴方の気持ちは十分伝わっています。ありがとう。お陰で、気持ちの整理がつきました」

「じゃあ、えっと…」

「私も少し、頑固過ぎたかも知れませんわね。考えれば、源のあの怒りは、琴美を想ってのことでしたもの。琴美を大切にしたい気持ちが共通しているのに、突き放すのもおかしな話ですわ。―――彼と仲直りしましょう、ちゃんと」


 その言葉で、琴美の表情が一気に明るくなる。鈴音から源に対する本音を聞き出せれば良しとしたこのデートで、得られた成果は期せずしてこれ以上ない最高の結果となった。


「…私にも、琴美の手を握り返す資格はあるのでしょうか」

「お姉様…?」

「何でもありませんわ。それはそうと、源はここに来ているのですか?」

「あ、はい。どこにいるかまでは分かりませんが…」

「なら、善は急げですわ! さっさと彼の下へ行きますわよ!」

「…はい! お姉さ―――」


 そう言われるがままに琴美が鈴音の背中を追い、急ぎ足で店から出ようとした。


 ―――その、瞬間だった。


「きゃあああああああ!!」


 空気を引き裂くような銃声と、耳を劈く悲鳴がすぐ近くから聞こえたのは。

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