第10話 『我儘』


「へぇ…。ここがお姉様がいつも勉強をしている教室なんですね…。何と言うか、上級生の教室って、自分の教室と比べて、もっとこう…違って見えるものだと思ってました」


 辺りが薄い橙色に染まり始めた放課後。そうぽつりと率直な感想を零したのは、琴美だった。


「あら、そうですの? まぁでも教室なんて何処も構造は同じなのですし、そこまで違和感を感じないのもそうおかしな話ではないと思いますわ」


 そして琴美の対面、伽藍洞となった自らの教室の隅で、鈴音が端然と居座っている。相も変わらず、鈴音の姿に見慣れたはず琴美ですらもつい見惚れてしまうその美貌は、淡い夕陽に間接的に照らされているせいか、普段の凛とした表情よりも儚く見える。


「うーん…そういうものですかね」

「そういうものですわよ」


 何やら煮え切らない琴美の反応を、鈴音は特に気にする様子も無くさっと流す。

 現在琴美は、普段自分が使用している教室ではなく、鈴音がいる4階の教室へと足を運んでいる。三年生の教室は、難関大学へ進学する生徒の為の参考書がズラリと並んでいるかと思えば、その傍らにはファッションやメイクの専門雑誌が置かれていたりと、一年生の教室よりも明らかに専門性が高くなっており、鈴音の言葉とは裏腹に教室の雰囲気は大きく異なっていた。

 そんな最上級生達の一年間の軌跡が見え隠れする教室では琴美は居心地が悪くなってしまうのではないかと考えていたようだが、案外すんなりと受け入れられたことに納得のいかない様子だった。


「琴美の気持ちも分からなくは無いけれど…それよりも私は、貴方がここに居る事の方に違和感を感じまくりですわ」

「それは…確かに。お姉様から見れば異様ですよね。そう言われると、ちょっと場違いに思えてきました…」

「ふふっ、良いじゃないですの。幸い、教室には私達以外居ないのですし、なんでししたら我が物顔で座ってても…」


 鈴音がそこで言葉を止めたのは、後方の引き扉がガラガラと分かり易い音を立てて開かれたからだ。二人以外に誰も居ないからか、いつもより大きく教室中に響いた音に小さく肩を跳ねさせると、琴美はその方へ導かれるように顔を向けた。


「あらら、どうやら、二人の時間は終わりのようですわね」

「おいおい、表情曇らせたら折角の美人が勿体ないぜ、お姉さん。どしたん、話聞こか?」

「無用ですわ。テンプレの誘い文句じゃ私は靡きませんわよ」

「ありゃ、ナンパは失敗か。撤収」


 普段通り、鈴音とテンポの良い小突き合いを交わしながら二人の傍まで歩いてきたのは、楓堂源だ。気の置けない友人同士だからこそできる会話が、夢で見たそれと相違なくて琴美は小さく安堵した。

 

「…おかえりなさい。それで結局、どうでしたの?」

「んにゃ、駄目だったね。くっそー、あの31歳先生め…。規定では無断で5回遅刻と欠席したら減点は10点になるはずだろ…。なんで俺だけ15点なんだよ」

「成程、その結果に落ち着いたのですね。…まぁ、減点幅が増えている原因は想像に難くありませんが。どうせまた貴方が言うに事欠いて、その場しのぎの曖昧な理由で先生を説得しようとでもしたからでしょう?」

「ぐ…」

「はぁ…全く。非は全て自分にあるのですから、大人しく従えばいいものを…」


 図星で押し黙った源を見て、鈴音は最早癖となってしまった溜息で呆れを露わにした。

 どうやら源が顔を見せてなかったのは、減点まで王手をかけている現状の中で、ついにやらかしてしまった5回目の遅刻についての事情説明を担任に行っていたからのらしい。が、戻った源の口ぶりから、彼の人生を賭けた渾身の直談判は徒労に終わったらしいことが分かる。その絶望故か深く頭を抱える源に、鈴音が声を掛ける。


「とは言え、貴方はいつも理系科目だけは満点ですし、大して問題はないのではないですか? それ以外が辛うじて赤点を回避できるレベルなのは一旦置いといて」

「一旦置いとくくらいなら言うなよ。文系頑張って15点上げないといけなくなったの、地味に焦ってんだからさ」


 鈴音にとっては慰めのつもりの言葉がどうやら源には棘だったらしく、逆効果となってしまった。このままだと「世界に復讐を」とでも言いだしそうな勢いで落ち込む源に、今度は切り込む機会を窺っていた琴美が話題の方向性を逸らさんと声を掛ける。


「話を遮るようで申し訳ないんですけど、その…。先輩が私をここに呼んだ理由をそろそろ教えて欲しいんですが…」

「ん、そうか。そうだね。待たせてごめん、本題に入ろう」

 

 弱気な琴美の申し出に対して、源は先の感情を押し上げて、姿勢を正した。

 放課後、鈴音の教室に来るよう源に頼まれたのは、保健室を出た後のことだった。

 夢の通りに事が進行していれば、源との初邂逅は今日の放課後、鈴音との待ち合わせ場所に彼は現れるはずだった。しかし、琴美が衝動に駆られて源に会おうとしてしまったことを皮切りに、展開は筋書きから大きく外れ、夢とは全く異なるルートを進んでいる。

 これがどのように影響するのか、琴美には全くの未知数であった。が、ここにきて源から放課後集まるようにと呼び掛けられるとは予想だにしていなかった為、琴美は少々戸惑いつつも誘いを了承したのがここまでの経緯だ。源から直接誘いがあったのは少々気がかりではあったが、バタフライ効果によるものだろうと結論付け、それ以上深く考えようとはしなかった。

 

「あ、そうですわよ、貴方の直談判の成果より、そっちの方が気になってたんですわ。というかそもそもの話、貴方達いつ知り合ったんですの? 私、琴美には源について何も言ってないですわよね?」

「どうなったか聞いたのは鈴音の方だろ…。でもま、安心しなよ。そのことについてもちゃんと話すから。けど…そうだな、その前に確認しないといけないことが一つあるんだが、いいか?」


 緊迫性を孕んだ、源の言葉に琴美が「確認?」と首を傾げ応じる。夢ではそんな話はしていなかったはずだが。別の記憶がある分、その差異に懐疑的になる琴美をよそに、鈴音は黙って続きを待っていた。


「鈴音」

「…何ですの?」

「お前、琴美ちゃんに透真のこと話してなかったのか?」

「あっ」

「……」


 源の言う確認とやらの内容は、どうやら鈴音に対しての物だったらしい。源の質問の意図、ひいては彼が鈴音と琴美を誰も居ない空間に呼びつけた理由を察し、琴美は小さく声を漏らした。

 鈴音は大きく表情を変えることはしなかったが、ピクリと眉を上げたかと思うと暫しの間目を瞑っていた。その間、鈴音が何を考えていたのかは琴美には推し量れない。だが、チラリと横目に見えた鈴音の額には、汗が浮かんでいるようだった。

 やがて目を開けた鈴音は、大きな深呼吸と共に言葉を継いだ。


「…接触、したのですね。透真と」

「流石は鈴音。察しが良い…と言いたいけど、既に琴美ちゃんが傷ついてしまった以上、今回の件に関しては考えが及んでないと言わざるを得ないなぁ。…まぁ、それは俺にも当てはまることだけど」

「琴美が…傷ついた? 見たところ何処も怪我をしているようには見えませんけれど…」


 そう言いながら、鈴音が琴美の全身を見回す。心配になる程までに細い栄養失調気味の身体は相変わらずだが、鈴音の言う通り、何処にも外傷は見当たらないし、琴美も見えない傷の痛みを我慢して取り繕っている様子もない。


「琴美ちゃんの傷は外見上のものじゃないよ。精神的なものさ。琴美ちゃんが鈴音と別れた後、彼女はたまたま透真と遭遇してね。詳しい説明は避けるけど、結果的に彼女はトラウマを思い出して、精神に大きなショックを受けて倒れたんだ。それを俺が発見して、保健室に運んだって訳だ」

「……」

「…いずれこういう事態になるかも知れないことは、分かってたはずだろ? 常人でも考え至れるのに、鈴音がそこまで頭が回らなかったなんてまず有り得ない」


 空気が、鉛のように重たい。

 琴美が鴛鴦えんおうの契りとも錯覚する程、仲睦まじかったはずの二人の間には、今や犬猿の仲のような空気が流れている。そしてそれは対流し、拡散し、琴美の肺に嫌と言う程絡みついてくる。そのせいか、息一つするのにもかなりの労力を要した。

 源から鈴音に向けた『確認』の内容。琴美からすれば、それはただの質問に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもなく感じる。だが、源の静かながらに地を這うような声の低さが、言い淀む鈴音の態度が、これが二人にとって重要な意味を持っていることを琴美に無理矢理理解させた。


「———怖かったんですの」

 

 すると、それまで黙然としていた鈴音が、重たい口を開いて一言を添えた。

 ただ一言。怖かった、と。


「どういうこと?」

「…覚悟していましたわよ。万が一にもこうなる可能性は。でも、それを記憶喪失の人間に伝えるのって、口にする程簡単な話でもありませんの」

「でも———っ」

「じゃあもし、貴方が琴美にそのトラウマについて軽率に伝えたとしましょう。それで琴美が今後立ち直れない程の精神疾患を患ってしまったら、貴方はどう責任を取るつもりですの?」


 鈴音の言い分は、最もだった。記憶喪失となり、自己さえも抜け落ちてしまった人間に、その人間の根幹に根付いてしまったトラウマを想起させてしまえば、第三者はどうなるか想像だにできない。全くの未知数の領域だ。

 実際、琴美も透真と遭遇するまで、そして触れられるまでは、何も思い出すことはなかった。しかし、ほんの少し触れられただけであの惨状としまったのだ。広大な敵地のどこに地雷が埋め込まれているか分からないように、本人でも把握してない起爆剤について、他人は易々と触れない。

 それに、危惧すべき事態は必ずしも一つではない。


「最悪の場合、そこから芋づる式に過酷な記憶を甦らせる可能性もありますわ。例えば、『天柊邸炎上事件』の悲惨な光景を琴美が思い出してしまったら? もしそうなったらそれはもう…どうなるのか、私には推測できませんわ」

「———」


 追い打ちをかけるように自らの正当性を主張する鈴音に、源は言い返す言葉を見つけられず、ただ立ち尽くしている。そんな源の前で、鈴音は姿勢を崩さず、西の空に落ち行く夕陽を背景に静かに座っていた。西日の逆光で、鈴音の表情が暗くなって見えない。


(……どうして)


 ———どうして、この二人が言い争いをする必要があるのか。

 着地地点の不明な双方向の尋問が始まってから、琴美はずっとそれだけを反芻している。二人の主張は終始琴美を想ってこそのものだ。だからこそ、その当事者である琴美には何も言うことができなかった。


「私の言っていることは、詭弁ですか?」

「…間違ってない。間違ってはいないけど…」


 そうこう考えている間にも、二人の舌戦は止まる気配を見せない。


(……ぁ)


 すると何か、嫌な予感が琴美の脳裏を駆け抜けた。直感が、源に続きを言わせてはいけないと警鐘を鳴らしている。

 でも、何を? 何を言えば良い。この重い空気の中、どうすれば風向きを変えられる? 降って湧いた自らの直感に準じて思考に思考を重ねるが、最適解が思い浮かばない。


「まっ———」

「…でもそれは結局、手に負えない現状から、目を背けているだけじゃないか」

「———。えぇ、そうですわね、良く言えば琴美への配慮、悪く言えばそうなりますわ。ただ…それを貴方が言えた口ですの? 」


 だが、考え癖のある琴美が躊躇って生まれた数秒間が、二人の間に割って入るチャンスを無下にする。それは、琴美の制止が形を残す前に、源がその言葉を口にしたからだ。口にしてしまったから。

 その言葉に対する鈴音の反論に、琴美は予想がついてしまった。


「お姉様、もう———」

「———誰でもない、琴美自身から逃げていた貴方が」

「……っ。やっぱ、人の痛いとこ突くのは上手いよなぁ」


 もし、夢の中での一幕を見ていなかったら、今の鈴音の発言について琴美はその真意を探れなかっただろう。しかし今の琴美は、あの観覧車内のやり取りを経ている為、源が内に秘めている苦悩を知っている。知っているにも関わらず、感情がさざなみ立っている鈴音の言い返す言葉を止めることができなかった。

 ———源にとって急所であるその言葉を。


「…言い過ぎましたわ、御免なさい。はぁ、冷静にと努めていても、苛立ちは隠せませんわね。今のは忘れて下さいまし。たちが悪すぎましたわ」

「…いや、分かってる。そうだ、そうなんだよな。責任は、俺にだってあるんだ。寧ろ俺の方がなじられるべきか」

 

 鈴音の攻撃性の高い衝撃波のような一言が、源の心の檻を鈍く揺らし、芯に触れる。今まで隠していた想いを、自らの意気地なさの極致を指摘され、源も自罰的にならざるを得ない。

 

「俺は自分の弱さに甘えて、縋るように鈴音を頼ってたんだ。…いや、それも綺麗に言い過ぎか。人任せだ、完全に。俺は自分が傷つかない安全圏から、行く末を見守っていただけの屑だ。挙句の果てには鈴音を責め立てるような真似をして。……ほんとに、情けない」


 夢に似たような、いや、更に酷く自嘲気味になっている源に、一度立ち直させた実績を持つ琴美でさえ、今は掛ける言葉が見つからない。

 二人きりの観覧車の中で源が言及したのは、琴美から逃げていたという点だけだ。その苦悩に対して琴美は、自責の念が有る内は逃げではない、と諭した。それで源は多少の憂いは残しつつも、元気は取り戻せていた。

 ———そう、思っていた。

 だが実際に源が抱えていた悔恨の情は、それだけではなかったのだ。琴美への後ろめたさに加え、今回新たに発覚した鈴音への忸怩たる思い。その二つを吹き飛ばせるような都合のいい言葉を琴美はしつらえられない。そもそも、そんな言葉あるのかどうかすら怪しいところだ。

 

「はぁ…」


 だが、鈴音はいつもの調子で溜息一つを零し、空気が強い重力を纏っているようにすら感じられるこの状況で、彼女だけは確かな自我を保ちながら、席を立った。ガタリとした音が、俯いている源に鈴音が近づいていることを気付かせる。

 そして、源が何事かと顔を上げたその瞬間———。


 ———バチン!


 と、威勢のいい音が教室中をこだました。

 それは、鈴音が源の頬を力強く叩いた音だった。それこそ何事なのかと目を白黒させる源と琴美の様子を意に介することなく、鈴音は言い放つ。


「吐き気がしますわ」


 ────と、一言だけ。お嬢様と謳われる存在とは無縁そうなその極端に短い一言だけを。


「は…。え…?」


 一瞬、何が起きたのか把握できず、思考に空白が生まれた源は戸惑いに喘ぐ。茫然自失となった源はヒリヒリと痛みを訴えている左頬を軽く撫でながら、自分がビンタされたことを遅れて理解した。

 しかし、何が起きたのかを理解しても、何故そうされたのかが未だ理解の外にある。いや、鈴音の怒りの訳は一連の流れからも明白であるから、問題はそこではない。源を困惑に陥れたのは、鈴音が他人に手を出したことが嘗ての一度もないことだ。


「貴方が自分の過ちを反省するのは勝手ですが、その弱音を私の前で垂れ流すのは御免蒙りたいですわ」

「あ、あの、お姉様…!」


 無言で源の横を通り過ぎ、教室の扉に手をかける鈴音を止めまいと、琴美がその名前を呼ぶ。しかし、咄嗟に呼び止めたが故に鈴音にかける言葉が見当たらず、後が続かない。


「───ごめんなさい、今の私には琴美の声を聞き届けてあげられる程、心の余裕はありませんわ。先に帰ります」

「———っ。……はい。分かり、ました。帰り道はお気をつけて」

「ん」


 初めて言葉にした姉への別れの言葉に鈍い胸の痛みを覚えながら、鈴音の短い返事を聞き届けた琴美は、椅子から立ち上がることすらできないまま、その背中を見送った。姉の遠のいて行く背中が、こんなにも胸の痛みを誘うものだとは、琴美も知らなかった。

 やがてガラガラと引き戸が閉じられる音が、最初に源が入ってきた時と同様に教室の空気を揺らしたが、その残響が琴美の耳を打つことは無かった。


 そして、完全に世界が分離されたその外側で、壁に凭れた麗人は小さく呟く。


「———私の事は、助けてくれなかった癖に」





「いってぇ…あいつ結構強く叩きやがったな…」

「だ、大丈夫でしたか…? かなり派手な音がしてましたけど」

「まだ痛い…けど大丈夫ではある。心配はしなくていいよ…っと」


 心配そうな面持ちで傍に駆け寄る琴美にそう言い聞かせ、源は近くにあった席に腰掛けた。位置関係的には、鈴音が先程まで座っていた窓際の最後尾、その隣にあたる。


「そう…ですか」


 源の身を案じた琴美だったが、意外と普段通りに振舞う彼の様子に多少安堵しつつも、行先が闇に包まれているような現状に、不安を覚えずには居られない。

 鈴音に突き放されて、物理的にも、精神的にも距離を置かれた状態になることなど、今までただの一度もありはしなかった。故に、ここから鈴音とどう接するのが正解なのか、琴美も判断がつかない。

 これから琴美の選択次第では、彼我の間に一生埋まらない隙間が生じる恐れすらある気がして───、

 

「浮かない顔だね」


 と、鈴音とのこれからを憂う琴美の傍から、源が静かに声を掛ける。


「…仕方ないじゃないですか。だって…お姉様にあんな態度取られたの、初めてなんですから」

「そっか…そりゃそうだよね。いつも温厚な鈴音があそこまで負の感情を露わにしたことなんてなかったし…。琴美ちゃんが不安を抱えるのも無理はない…か」

「どうしましょう先輩…私、これからどうしたら…」


 鈴音が去り、二人だけを残した教室。その三十人余りが在籍している教室には、琴美のか細く、泡沫ほうまつのような弱音は跡形を残すこともなく消えてしまう。時間の経過と共に、不安が更なる不安を呼び起こし、マイナスの思考回路をショートさせることができない。

 精神が不安定となり、狼狽する琴美。だがそんな琴美とは対称に、教室に残された内のもう一人である源はかなり落ち着きを払っているように見えた。


「大丈夫、落ち着いて。琴美ちゃんが怖がる必要はないよ。少なくともこんな些細な出来事で琴美ちゃんと鈴音の関係が崩れることはないはずだからさ」

「…なんで、そう言い切れるんですか?」

「なんでって…そりゃあ、琴美ちゃんと鈴音が姉妹だからだよ。君達はそんな簡単に切れる縁では結ばれてない」


 さも、「当然だろう?」とでも言わんばかりの口ぶりで、源はそう断言する。

 だが、一般的な姉妹と言うものを知らない琴美にとって、源の説明では心から納得するどころか疑心が増すばかりだ。だって、仲の悪い姉妹や兄弟なんて、世の中ごまんと居るはずだろう。血が繋がっているから名目上家族という形を保っているだけであって、本人達が一生お互いを家族として認められる保証なんて何処にもない。


「でも…壁に入った小さな亀裂は、いつかその壁を壊す可能性だって、あると思います」

「お、珍しく比喩的な言い方だね。うーん、でも、小さい亀裂なんかで瓦解する壁って、余程その壁が小さいか、薄い時の話でしょ? 琴美ちゃんと鈴音が築いてきた絆はそんな生半可なものじゃないと思うんだよ」

「そう…なんでしょうか…」

「そうだよ。それにもし、壁に亀裂が入ったって思うんなら、直せばいいだけの話でしょ。穴を埋めるなり、塗装するなりしてね。他の姉妹ならいざ知らず、君達ならそれができるはずだだからさ」


 先程からの源の言葉からは、その端々から自信のようなものが溢れているように思える。いや、自信と言うよりは、そうなることをまるで信じて疑っていないとでも表現する方が適切のような気もする。いずれにせよ、説得を試みるのではなく、ただ当たり前の事実を並べるような源の口ぶりに、琴美もいい加減うだうだと悩むことを憚られた。


「…分かりました」

「おぉ、分かってくれたか。流石、姉に似て物分りが良い」

「いえ、先輩の言う事は私にはさっぱり分かりません」

「あれ?」


 少し長い沈黙を置いて、琴美が小さく頷いた。しかしそれは、源の言葉に納得したからでは無い。

 琴美は、鈴音のことが何も分からない。

 2週間という決して短くはない時間を一緒に過ごしていると言うのに、鈴音の考えてることや感じていること、やりたいことを、今の琴美では恥ずかしながら全く理解し得ない。だから、源が二人の絆が切れない縁で結ばれているとどれだけ固く信じていても、当人である琴美にはその実感が湧かないのだ。

 でも────、


「…でも、それが先輩の言葉なら、私もそれを信じることにします」


 理解わかったのではなく、信用わかったのだと。意味は理解出来ずとも、それを発したのが鈴音と琴美を長年見続けて来た源であるなら十分信用するに足るのだと、正面から琴美は言い切ってみせたのだ。

 源は一瞬、琴美の言葉に少々面食らったような様子だったが、やがてふっと表情を弛緩させた。その悪戯っぽい微笑みに、柄にもなく琴美の心臓が跳ねる。


「なんか、琴美ちゃん変わったね」

「そ、そうでしょうか…? 私自身は、特に何も変わってないように思いますけど…」

「ま、こういうのは自分じゃ気付けないもんだからね。そう思うのも無理はないよ」


 源の変わったという発言に半ば反射的に答えた琴美だったが、思考を挟んでない分、それは嘘でも謙遜でもなく、全くの本心であった。源に変わったと言わしめたのは、自分のどの部分なのだろうか。いまいちピンとこない。

 寧ろ琴美自身、何も変わってなどいないことを自負している。一度鈴音にすげない態度を取られただけで平常心を保てなくなってしまったのが良い例だと言えるだろうか。周知の通り、琴美は鈴音に精神的な面で全体重をかけて依存している。琴美にとって鈴音は、潮の満ち引きと月のように切っても切り離せない関係で、おおよその行動の原動力にもなっている。裏返して言えば、琴美の行動原理に鈴音と言う存在がある限り、琴美は「変われた」などと甘えた自己評価することはできないのだ。


「…いや、確かに私は変わったのかも知れません」

「あれ、さっきと言ってることが全然違うじゃん、どうしたの。何か思い直した?」

「思い直した…と言うよりかは、思い出したという方が的確でしょうか」

「……?」


 唐突に直前の発言とまるで反対の事を言う琴美に、源が分かりやすく眉を顰める。源の心情が手に取るように分かるその表情に愛しさを憶え、琴美の口角が僅かに上がるが、彼女自身はそれに気づくことなく、そのまま小さく呟いた。

 

「───だって、お姉様に寄りかかりっぱなしだった私の弱い心は、また弱くなってしまったみたいですから」


 変わったという言葉は何も、成長だけを意味するものではない。琴美が意見を改めたのは、鈴音だけを頼っていたあの時よりも更に弱くなっているからだと主張したのだった。


「———。…そっか」

 

 琴美の放った台詞の真意がどこまで源に伝わったかは分からない。だが、一見すれば突拍子もない琴美の発言に、源はどこか納得したような表情で応じた。


「うん、やっぱり琴美ちゃん変わったよ」

「…? だから、私もそう言ってるでしょう?」

「いや、そうじゃなくてね…。まぁいいや、何はともあれ琴美ちゃんが調子を取り戻したようで安心したよ」


 琴美が最終的に出した結論を繰り返す源に、琴美が当然だと首を傾げる。しかし琴美による自己評価と、源による他者評価では勿論そこに包含されている内情が違う。源としては記憶喪失前の琴美と比較してのことだったのだろうが、その意図が当人に伝わることはなく、結局有耶無耶となってしまった。

 そして、源が話題の転換を示すようにわざとらしく咳込むと、「さて」といかにもな前置きをしてから話始めた。


「…琴美ちゃんの不安が払拭できたなら、残る問題は俺と鈴音だな。はぁー全く、どうしたものかねぇ」

「…それについてなんですけど、私から一つ質問いいですか?」

「要らない確認だね。俺が琴美ちゃんの質問を却下するとでも?」

「あ、えと…その」


 琴美と入れ替わる形で、今度は源が鈴音との未来を憂う。そこに差し込まれる形で琴美が手を挙げたので、源は直前に抱えた悩みを一旦置く。そして、琴美の質問とやらをまるで先生の講義を真面目に聞く生徒のような真摯な眼差しで待った。

 その一方で、あまり人に見られることに慣れていない琴美は、源の真っ直ぐな視線に射抜かれて余裕を失う。自制の効かない心臓の高鳴りと、顔の紅潮が琴美の言葉選びを難航させたようだったが、それらを自らのお墨付きである弱い精神力と、時間の力を借りてゆっくりと誤魔化してから、琴美は息を整えた。


「見当違いなこと言ってたら、笑い飛ばして欲しいんですけど…」

「うん、笑わないけど」

「えっと…先輩が今日、私とお姉様を呼んだのって…その、デートに誘うのが本命の理由だったり…しませんか?」

「……!」

 

 自信を伴わない琴美の問いは、しかし源の驚愕によって肯定される。

 そして、驚愕によって染められた源の表情が示すものは何も、琴美の問いが芯を突いている事だけでは無い。より大きな意味で捉えれば、琴美が居る現在いまはあの夢と同じ世界線を辿っていることを裏付ける揺るがない証拠にもなっていた。

 ここに至るまではまだ、辛くも筋を通せる理由付けが可能ではあった。例えば、今日初めて会うはずの源という人間の人物像が夢と寸分違わず一致していたのは、失った記憶が不意に蘇ったからだと。朝の光景に見覚えがあったのは、ただの軽いデジャブで、勘違いに過ぎないのだと。


「やっぱり…これは」


 しかし、源の行動の裏にある思惑と、明日という未来に起きる出来事までピッタリ重なってしまえば、最早そんな言い訳がましい理屈を用意する方が苦しい。

 そしてそれは、裏を返せば受け入れる方が容易だと言うことになる。

 ────このままでは、楓堂源が死んでしまうという、揺るぎない事実を。


(どうしよう───)


 信じられないとか、認めたくないとか、そんな次元の話はとうに過ぎている。急速に回転を始めた琴美の脳は既に、ここからどう動くのが正解かを探る段階へとシフトしていた。


「驚いたな…なんで俺がデートに誘おうとしてるって分かったんだ? そんな素振りを見せたつもりは微塵もなかったんだけど」

「あ、いやそれは…」


 相手から一切の情報を受け取らずに腹の内を言い当てるという、稀代の名探偵でも成し得ないであろう推理に、源がそのカラクリについて当然の疑問を投げかける。しかし、生憎琴美は源が十分に納得するだけの模範的解答を持ち合わせていない。それもそうだろう。琴美が披露したのは推理と呼べる程の代物ではなく、ただ見てきたことを言っただけに過ぎない。正し、それが未来のものである点は特筆すべきであるが。


「えっとですね…」

「うん?」


 話すべき、なのだろうか。

 いや、話すべきなのだろう。あの荒唐無稽な夢が現実のものになる可能性が浮上したあの時点で、琴美の為すべき行為は確定している。今の琴美には、源が隠していた真意を見抜けた理由と併せて、これから直面する最悪の結末について話す義務が課せられていると言ってもいい。

 「明日命を落とします」などと突飛でいて、珍妙な発言を正面切って言われた本人は一笑に付すかもしれない。或いはショックを受ける事だって有り得るだろう。だがそれをしないことが同じ展開を辿って源が死ぬ直接の原因となれば、琴美は彼を見殺しにしたのと同義となる。

 だから、話すべきなのだ。


「……」

「うーん…答えたくないか、それとも答えられないのか? まぁいずれにせよ何か事情がありそうだし、これ以上は追求しない事にするとしようかな」

「ごめんなさい…」

「謝らないでよ〜。俺が虐めてるみたいになっちゃうでしょ。…いやまぁそこまで隠されるとやっぱり、ほんの少しだけ、ほんのめちゃくちゃだけ、本当にめちゃくちゃだけ気になる気持ちはあるけども。そこは2年先輩の俺が一足先に大人になるということで手を打とうじゃないか!」


 冷え切った空気を嫌っているのか、源は取り繕ったようなテンションで何とかその場を温めようと躍起になっている気がする。自身も鈴音の件で少なからずダメージを受けているはずなのに、それでも気丈に振舞って琴美への気遣いも忘れないその胆力には恐れ入る。


「んで、話は戻るけど…うん、まぁ俺の狙いは正に琴美ちゃんの予測通りだよ。もしかして、誘った目的まで見透かされてるのかな? だとしたら恥ずかしくて死ねるんだけど」

「———。…いえ、私にはそこまでは分かりません。教えてくれないんですか?」

「はは、一応…デート中に言うつもりではあったけど、今はとてもじゃないけど無理かな。…とはいえ、こんな状況じゃ鈴音を誘ったところで乗ってくれないだろうから、彼女のほとぼりが冷めるまで延期にするしかなさそうだけど」

「…っ」

 

 大袈裟に上げていたテンションを戻し、源が話の軌道を修正する。

 源の言葉による肯定によって、琴美の賭けにも似た推測は、殆ど疑う余地をなくしたと考えてもいいだろう。だが何度も言うように、最早問題点はそこにはなく、今は源を一刻も早く死から遠ざける必要がある。だから琴美が言うまでもなくデートが延期になったのは、望外の喜びであるはずなのだ。だと言うのに、それが告げられた途端、彼女の心に蔓延る薄汚れた蟠りは、その存在感を色濃く放っていた。

 その蟠りの理由は、はっきりと分かってて———。


「……デートの延期は…嫌、です」

「ん?」

「———嫌です! 私は…私はお二人が仲違いしているのが、耐えられません…。仲直り…して欲しいです。その、だから…デートは…」

「———! 琴美ちゃん…」


 琴美の中で生まれていた、思考と行動の矛盾の根源———その正体は至極単純なものだった。源と鈴音には仲良くいて欲しい。その本音がついぞ零れてしまい、源は琴美の無垢な想いに瞠目する。


(ううん違う…私は…本当は、私は———)

 

 いや彼女にとってはそれは正確には本音の一部に過ぎない。源と鈴音の関係が悪化したあの場面で、琴美の心の奥底に芽生えた想いが徐々に肥大化し、ここにきて僅かに顔を出したのだ。

 それでは、その根底を這っている琴美の願いとは何なのか。その答えは、とても簡単なものだった。


(———私は、また三人と仲良く遊びたいだけなんだ…)


 それが、琴美が隠した、彼女の掛け値なしの本心だ。

 琴美が大好きな二人の関係を円満にして、また三人であの胸が高鳴るような思い出を残したい。たったそれだけの、稚拙とも言える願いだった。

 今の琴美はまるで、口喧嘩している両親の間に割って入ることなく、ただ泣きながら平穏を願う子供のようにも見える。だが、それとこれとでは、置かれている状況に天と地ほどの差がある。破滅的な未来が待ち受けているのを知って尚、その願いを抱けるのは、気弱な琴美が恐ろしく強いエゴを持っていることの裏打ちでもあるだろう。

 

(…やっぱり、弱いなぁ。これくらい…我慢しなきゃいけないのに)


 同じようにデートに行けば源は間違いなく死んでしまうのに、それでも溢れる欲求に素直な琴美を例えるなら、一択問題で存在しない二択目を選んでいるようなものだ。それは人の目に映れば狂気的だと取られても仕方のないことだろう。だが、そんな琴美の葛藤に気付く余地もなく、源は「そうか…」と神妙な頷きを見せる。


「琴美ちゃんは…鈴音の事が大好きなんだね」

「……はい。それと、先輩のことも好きです」

「しれっと大胆だね」

「…?」


 特別変なことを言った憶えの無い琴美は、源の呟きに首を傾げる。

 琴美の源に対しての好きは、前の自分と今の自分で抱いている感情に多少の差異がある。今の琴美は、前の自分の恋愛感情を引き継ぎつつも、源には友達としての好意もあると言ったように、同一の対象にぜの感情を向けている状態だ。だがいずれにせよ、彼が琴美にとって大切な人である点は天が揺るがされても揺るがない。ならば、その気持ちに嘘を吐く理由はないだろう。


「俺は…鈴音と仲直りできると思う?」

「…きっとできますよ。だって、私が好きな二人なんですから」

「あんまり自信ないよ」

「先輩に…そこら辺の自信は求めてないですよ。…でも」


 そこで言葉を区切って、琴美は窓の外に目を向ける。見れば、辺りを淡く染めていた夕陽が空の彼方へ沈んでゆく一方で、夜の気配を感じさせる薄紫色の世界のその中心に、象徴的な月が浮かんでいた。


「ほら…見て下さい。綺麗な半月ですよ。普段は仲の悪そうな月と太陽でも…同じ空に浮かぶことだってあるんです。彼らに比べたら…今まで仲の良かったお二人が関係を修復することの方が、遥かに簡単に思えてきませんか?」

「───。ふっ、あははっ!」

「えっ? ちょ、なんで笑うんですか…。私、もしかしてズレたこと言ってました?」


 至って真面目なつもりだった例え話を笑われたことで気恥ずかしさが込み上げて来たのか、琴美は赤面を誤魔化すように源を訴える。


「あぁ、違う違う。やっぱ、血は争えないんだなと思ってさ。…鈴音にも前、そんなことを言われたような気がするよ」

「そ、そうなんですか…」

「うん。まぁ…何はともあれ、そんな日々に戻りたいならやっぱ謝るしかないって話だよな。ずっとビビってばっかじゃ余計鈴音に嫌われるだろうし…。…うん、よし、よし!」


 琴美の励ましと、自身を鼓舞して己を奮い立たせ、源がようやく覚悟を決める。多少の時間は要したが、どうやらもう、その瞳に迷いはもうないらしい。

 源がやると決心した今、鈴音との仲直りに関して、表立って琴美にできることはもうほぼないだろう。

 だがそれは琴美のやるべき事に終止符が打たれた事を意味していない。彼女はこれから、最も重要で、失敗の許されない責務を一人で果たさなくてはならないのだから。


「まぁ〜どうなるかは神のみぞ知るだけど、俺なりに精一杯はやってみるよ」

「…えぇ、そうしてください。お姉様も鬼じゃないのですから…きっと許してくれますよ。そもそも…然程怒ってない可能性だってありますし」

「うん、そうだね。そうであることを神に祈ってるよ」

「あんまり神頼みし過ぎるといつかそっぽ向かれますよ。ちゃんと自分の力で何とかしてください」


 少々手厳し目な琴美の軽口に、源も「あいよ」と相応の軽さで頷いた。

 それから二人で明日の段取りについて話した後、帰り道が暗くなりすぎる前に帰ろうという源の提案に従い、琴美は姉も通ったであろう帰路を一人で足早に辿った。

 見慣れた道に、見慣れた背中がないことに新鮮さを憶えながら、立ち止まった琴美は先程よりも高くなっている半月を見上げる。


「…行先も変えた、帰り方も夢の中とは違う。…でも、油断はしない。明日、絶対に二人を危険な目に遭わせはしない」


 琴美は、既に固く結ばれた意思を、自分に言い聞かせる為の決意表明として改めて口にする。

 ———だが、それを唯一耳にしていた空に悠々と浮かぶあの月は、果たして笑っていたのだろうか。

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