第9話 『月城透真』


 ———足が逸る。気持ちが浮つく。体温が上昇する。

 琴美にとって、絶望の朝から幕を開けた今日が、まさかここまで輝きで満ちるとは思ってもみなかった。

 恋した者の思考は単純になる。そんな話を、琴美は自分とは別世界の人間が体験する物だとして、割り切っていた節がある。しかし、いざ自分がそうなってみると、思っていたよりもよりずっと単純になっているのだから、とても驚いていた。

 過去の自分の恋心を思い出した直後に、その人が悲惨な死を遂げたことで、琴美は悲嘆にくれた。暴力的なまでの無気力に嬲られ、身体を起こすことすら憂鬱に感じていた。きっと、鈴音に無理矢理起こされていなければ、この時間になってもまだベットの上だっただろう。

 しかし———、


(会える…先輩と言葉を交わせる…!)


 その一心の想いだけが、今の琴美の原動力だった。

 何でも許してくれる鈴音の慈愛のような優しさとはまた違った、あの心を包み込むような温かさに触れられる。適当に喋るだけなら口達者なのに、肝心な時に限って口下手になるあの不器用な声がまた聞ける。

 そう考えただけで、琴美の中にあった憂鬱が嘘のように吹き飛んでいた。

 そうか、これが恋なのか。これこそが恋なのだ。と、今や琴美の脳内にある広大なお花畑の中には、満面の笑みを浮かべる純な乙女が存在していた。

 とは言え、恋に現を抜かしている場合ではないことは、琴美も理解している。


「先輩と会えたら…明日起きるかもしれないこと、ちゃんと伝えなきゃ」


 朝のHR開始時間が迫り、誰も居ないであろう静かな階段で独り言つ。

 その言葉を残して、教室が設けられている二階に降り立った琴美が、踊り場を曲がろうとした———その時だった。

 

「———あいたっ!」

「うわったい!」


 ———偶然か必然か。琴美が、初めて『そいつ』と出くわしてしまったのは。


「ったぁ…す、すいません、私が注意不足なばっかりに…」


 死角から飛び出してきた人と衝突した琴美は、その身軽さ故に吹き飛ばされ、盛大に尻餅をつく。

 こんな時間にまだ廊下に残っている人がいるとは思わず、油断していた。ともかく、相手の無事を確かめなければ。そう思って琴美が自らの正面で同じ様に倒れている人物を一瞥しようとすると───、


「うわうわうわ、だ、大丈夫ですか!?。お、お怪我は…って、君は───」


 琴美が声を掛けるよりも先に、男が慌てて近付いてきて言葉を投げかける。そして、心配そうに覗き込んできた目と、琴美の目線が合った。

 ———気弱そう。というのが、琴美がそいつに抱いた第一印象だった。目測の身長はおよそ160センチ半ばといったところだろうか。琴美程低い訳では無いが、男性にしては平均より低めだと言える。体型はやや細めで、顔立ちは整っている方だとは思うが、どうも表情の端々から自信のなさが露呈しているように思えた。

 しかし、第一印象を受けたのも束の間、相手が男だと認識した琴美は次の瞬間には大きく後ろに飛び退っていた。


「ひっ———、あ、あのっ、その、ごめんなさい、私、男の人が得意じゃないので、あまり近付かないでもらえると……」

「え、あぁ、そうでしたか! …そうですよね、ごめんなさい!」

「いえ、ごめんなさい…」

「こちらこそ…」

「……」

「……」


 初対面、しかもただぶつかっただけの相手だと言うのにかなり失礼な反応をしてしまった。と、琴美は不意に出た言葉を抑えられなかったことを後悔する。

 言われた当の本人も、やはり気弱な性格なのか、何も言い返す事無く黙り込んでいた。

 そして一瞬、双方の間に気まずい空気と時間が流れる。

 どうしようか、もう時間もない。さっさと立って一礼でもしてから通り過ぎよう。そう思って、一呼吸入れた琴美は、確かに脚に力を入れようとした。

 だが———、

 

(───!? 脚に…力が入らない…! なんで!?)


 何故か、琴美の足が彼女の意思に応えることは無かった。自分の身に起きていることが理解できず、琴美は分かり易く狼狽える。そして琴美は、動かない脚を見つめて、あることに気が付いた。


(……震えてる?)


 落とした視線の先で、琴美の痩せこけた脚が小刻みに震えていたのだ。そしてその身震いは脚だけに留まらず、肢体全体に伝播していた。終いには、目尻にうっすらと涙さえ浮かんでいた。


(何…? 何なの、これ…)


 身体の反応に意思が置いて行かれているような感覚に、琴美はいよいよ訳が分からなくなる。

 いくら男性が恐怖の対象であるとは言え、ほんの少し距離を縮められただけでここまで異常な反応が起きたことは今回が初めてだ。だから、これは男性恐怖症によるものではない、と琴美は異常を示している身体とは裏腹に冷静な頭で推理する。

 この未知の震えが男性恐怖症によるものではないなら、それは———。

 

「あの」

「———!」


 突然放たれた男の声に驚いた琴美は、声にならない悲鳴を上げて恐る恐る顔を上げる。目尻に溜まった涙を見せてしまうと不審がられてしまう恐れがある為、なるべく零れない様に意識だけで抗って堰き止める。後は長い前髪が上手く目元を隠してくれますようにと祈りながら、琴美は男の続く言葉に傾聴した。


「琴美さん…で、合ってますよね。…僕の事、知ってますか?」

「え、えっと、そうです…けど。でも私、貴方のことは———」


 知りませんと、そう答えようとした琴美の口が噤まれたのは、ある違和感が彼女の脳裏を駆けたからだ。

 それは些細な違和感であったが、深読みしがちな琴美にとって無視することのできないものだった。

 ———知っているか? という問いに対して、琴美の答えは欠片の迷いもなく「いいえ」だ。それは当然、琴美は目の前の男に関する記憶を一切持ち合わせていないことを意味する。単純な問答であるなら、それをそのまま口に出して答えればそれでいい。しかし琴美がすぐさまそうしなかったのは、男の質問の仕方にを感じ取ったからだ。

 男は琴美の名前を知っている。そして、この学校で琴美の名前を知っている人間は彼女が記憶喪失であることも既知である筈だ。その上で、自分の素性や名前を記憶しているかと言う旨の問いであるなら、訊き方は「憶えているか」とするのが一般的だろう。しかし、男は「知っているか」と質問してきた。ならば、この問いの正確な意味は———。


(彼自身が何らかの事柄で名の知れ渡っている人物…とか?)


 確信は無い。相手が何も考えずに発言したために、誤解を招く言い回しになってしまった可能性も十分にある。だがどういう訳か、琴美の脳が直感的にそうではないと判断していた。しかし、仮に琴美の推理が正しいとしても、依然として彼の正体は不明のままだ。


(芸能人…スポーツ選手…生徒会…。ううん、どれも違う…気がする。───あ、そうだ、そういえば)


 様々なジャンルのエリートが集まるこの学校内で有名な人間と言えば、必然的に選択肢は増える。そんな次々に降って湧いてくる可能性を、琴美は過ごした二週間で得た情報だけを頼りに切り捨てていった。

 そして、震えの止まらない身体とは対照的に、やけに冴えている脳で思考を推し進め、琴美は1つの可能性に思い当たる。

 

「———月城透真つきしろとうま…?」

「…っ。流石にご存じ…ですか。…そうですか、そうですよね」


 ———月城透真。男の反応からして、名前はどうやら琴美の予想のそれで間違いないらしい。そして、名前を当てられた透真本人は苦虫を潰したように表情を曇らせていた。

 まるで、琴美に知られて欲しくなかったかのような、そんな心情が透真の表情や言動から読み取れる。


「貴方は…悪い評判で何かと有名なようなので。名前くらいは聞いたことがあります」

「名前くらい…? ってことは、僕が具体的にどうして有名なのかはご存じではないと?」

「え? えぇ…まぁ、はい」


 友人づてに情報を得ることのできない琴美は、他人の色恋沙汰や噂話と言った校内のブームにかなり疎い。そんな琴美ですら、「月城透真」という名前は小耳に挟んだことがあるくらい、彼はこの学校において超がつく程の有名人だ。とは言え、琴美が認知しているのは、透真に関連する噂はどれも悪いものばかりであるくらいのもので、その具体的な内容は聞き及んでいない。故に、琴美は透真の問いに首を傾げながらも、肯定の意を見せる他になかった。


「———。そっか、そうですかぁ。いやぁ、良かった、良かったです」

「何が良かったのか分かりませんけど…あの、もういいですか? 私、教室に戻りたいので」

 

 はぁ、と深く息を吐きながら、透真は安堵の表情を浮かべていた。

 一体何が良かったのか、琴美がそこまで察することはできないが、今後とも特に関わることのないであろう人物の事情を聞いたところで、時間の無駄だ。

 ———脚は、動きそうだ。正直、まだ小さな震えが収まっていないが、動かせない程ではなくなっている。太ももに手を当てて、その原因の分からない震えを無理矢理抑えつけながら、琴美は立ち上がった。


「わっ、お時間取らせてしまってすいません…! えぇ、是非。是非そうしてください。そうしましょう」


 スカートの裾を軽く払いながら、琴美の耳は透真の弱々しい声を捉える。

 そして、踏み出した一歩で透真との距離を縮めながら、彼の顔を横目に思案した。


(———想像してた人物像とだいぶ違ったな…)


 同級生達が透真の事を噂して畏怖しているのを見て、琴美は漠然とその人が日常的に素行の悪い不良生徒か何かなのかと思い込んでいた。がしかし、いざ当人と言葉を交わしてみると、その穏やかな容姿と物腰も柔らかさが相まって、少なくとも聞いていた話と同一人物には思えなかった。


(とにかく…何もしてこないなら幸いか。早くこの人から離れよう…)


 いくつか消化しきれない疑問はあるが、その答えを導くにはあまりにも手持ちの情報が少なすぎるし、考えるにしても今じゃない。

 そう思い直して、琴美はなるべく目を合わせないように俯きながら更に歩を重ねていった。———いや、重ねようとした。


「ごめんやっぱ待って! 君に1つだけ訊きたいことが────」


 それが出来なかったのは、背後から発せられた琴美を呼び止める声と、その声の持ち主に腕を掴まれたのが原因だった。

 あまりに予想外な透真の行動に呆気に取られた琴美は、一瞬だけ頭が真っ白になって思考停止する。そして、数瞬遅れて透真に触れられたのだと理解した瞬間。

 ———琴美の全身を戦慄が駆け巡った。


「ひっっ、きゃぁぁぁあ!」

「───っ!?」


 透真に突然身体を触れられた琴美は、甲高い悲鳴を上げてその腕を振り払う。そして、脱兎の如く一秒でも早くその場から走り去ろうとした───が、最初の一歩が踏み出せない。


(また…!? なんで! 私の身体…なんで動かないの!?)


 逃げなければヤバいと、琴美の直感が五月蝿く警鐘を鳴らしていると言うのに、透真を前にすると身体が言う事を聞いてくれない。

 まるで猛獣と相対しているかのような緊張感が、恐怖が、琴美の全身を強ばらせている。先程微かに震えていた時に感じていた出処不明の不安すら可愛く思えてしまうほど、今の琴美は確かな恐怖に支配されていた。


(逃げなきゃ…逃げないと…! でも…でもっ、動いてっ、お願いだから動いて…!)


 何故逃げる必要があるのか、その理由は依然として明確になっていない。だが、そうしなければいけないという事だけは断言出来る現状に、琴美は焦燥感に焼かれ、噛み合わない思考と身体の挟み撃ちに追い詰められる。

 

「あ、あぁ…っ」


 腰が砕け、自立する術を失った琴美は、重力に従って地面にへたり込む。接地した指が、脚が、氷漬けのように固まっていくのを感じながら、琴美は透真を見上げた。


「ひ———っ。ごめんなさい…ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。ごめ…ん…っ、なさっ、いぃ…」


 同時に琴美を見降ろしていた透真と目が合い、琴美は瞬時に目を逸らす。そして出来ることが限られている中で、琴美が次に取った行動は、泣きながらの謝罪だった。


(えっ、口が勝手に…っ。怖い、さっきから、なんなの、これ…っ)


 自分が何に謝っているのか、何故謝っているのか。それもまた理解できずに、それでも涙と許しを乞うような謝罪は留まる所を知らない。

 

「———くそっ、最悪だ」

「うっ…ひうっ。許してください。ごめんなさい…っ」


 項垂れながら虚ろにごめんなさいと繰り返す琴美を見て、透真は悲痛に顔を歪めていたが、泣き喚いている琴美はその表情に気が付かない。

 先程はなんとか隠しきることのできた涙も、今は滂沱として溢れていた。

 そんな謝罪と嗚咽が交互に響く廊下に佇む透真は、痛ましい姿の琴美を固唾を飲んで見守っている。その間、透真の瞳が僅かに揺れていたのは琴美に対する憐憫故か、それとも別の何かなのか。その真意は図れないが、少なくともそれは、悪事を働いている者の邪悪な面差しでは無かった事は確かだった。

 それから少しして、HR開始を告げるチャイムが鳴る時間が迫ってきたタイミングで、それまで無言を貫いていた透真が、口を開いた。


「記憶は無くても、身体に刻まれたトラウマは健在…って事ですか」

「ぇ…?」

「…ごめんなさい、琴美さん。貴方のそれは完全に僕の───いや、の罪です。背負うべき業です。赦されるとも、赦して欲しいとも思いません。だから」


 そこで言葉を切り、一瞬、透真がその先を言うべきかどうか躊躇ったような表情を覗かせた。そして小さく息を飲み、意を決して言った。


「どうか、僕達のことを恨んで下さい。恨んで、復讐を原動力にして立ち上がってください。…僕は、君が本当は強い人だって知ってるから、君が泣いている姿を見るととても心が苦しくなります」


 果たして琴美がどれだけ透真の言葉を聞いているかは分からない。しかし透真は、それでも構わないと言わんばかりに、一方的に語り掛ける。

 

「…本当は接触するつもりなんてなかったのに。こうなってしまったら、ちゃんと果たしに来てくださいね。…待ってますから。それでは」


 訥々と、慎重に言葉を選ぶように話していた透真は、その台詞を最後に遺して踵を返す。

 少女の弱々しい嗚咽に加えて、少年の靴音が反響している空間は、濁った静けさが存在していた。やがて、同階のどこかの扉が開閉した音の余韻が消え去ると、琴美はいよいよ世界に取り残される。

 しかし、脅威の元であった透真が姿を消した今、1人の世界が琴美にとっては1番落ち着ける場所であった。千切れそうになるまで張り詰められていた糸が急激に弛緩し、琴美の全身を脱力感が襲う。そして、突然緩んだ緊張は眠気を誘い、それに抵抗する気力すらない琴美は、気絶するようにその場で倒れた。

 ———やがてチャイムの音が校内に鳴り響いたが、精神が摩耗し、憔悴しきった琴美を再起させるには至らなかった。





 目が覚めて、最初に視界に飛び込んできたのは、初めて見る天井だった。


「ん…ここは…?」 


 ある種のお決まりのような台詞を吐き捨てながら、琴美は寝かされていた寝台の上でゆっくりと身体を起こす。丁寧に掛けられていた布団が持ち上げられ、はらりと捲れる。鼻腔をくすぐる独特な匂いを感じながら、琴美はぼんやりとした頭を軽く振ってから、周囲を見渡した。

 まず、上半身を起こした琴美を真っ先に出迎えたのは、淡いクリーム色をしたカーテンだった。それが、まるで外部からの喧騒を妨げるように、琴美が横になっていた寝台を囲んで閉じられている。


(ここって、保健…室? 私、もしかしてあの後意識失ってた?)

 

 閉じられたカーテンの内側にいる琴美は、それより外の情報を知り得ないが、琴美の知る限り、このような設備は病棟、もしくは保健室にしか存在しない。そして、病院のベッドで一度目を覚ましたことのある琴美は、周辺の雰囲気の違いから現在地が保健室であると断じた。

 しかし肝心の、自身がこの保健室に来るまでの経緯が全く思い出せない。憶えているのは、透真が最後に何かを言い残して退いていた場面で、それ以降の記憶は深い谷の底に落ちたようだった。

 そして、辛うじて思い出せる透真とのやり取りが琴美の中でフラッシュバックする。


「月城…透真…。彼は…一体」


 自身の両肩を細い手で抱きながら、琴美は小さくその名を口にする。

 分からないことが、あの場面には多くあった。だが、その中で唯一確かなのは、琴美の身体は彼に強い拒絶反応を見せるということだ。しかもそれは男性恐怖症から来るものでは無く、琴美のもっと奥深い部分で眠っていた本能に植え付けられたトラウマであろうことも直感していた。

 

(色々調べないといけないことが増えた気がするけど…。ひとまず今は、警戒する以外に何もできない。私がやるべきことは別にある。———えぇと…今の時間は?)


 不可解な点は多くある。それは透真に関することに限らず、この世界が夢の内容と同じである謎や、炎上事件の犯人等々も含まれている。それでも、琴美は今直面している問題から目を逸らしてはいけないと気持ちを切り替えて、現在時刻の把握のために動く。

 次の行動を決定した琴美の動き出しに、迷いはなかった。ベッドの脇に丁寧に揃えられて置かれている上履きを履いて、琴美はカーテンに手を掛ける。そしてそのまま、間髪入れずにカーテンを掴んだ手を引こうとしたのだが、そこで琴美の動きが止まった。

 その理由は———、


「…いい加減、早く教室に戻りなさいな。ここは待合室ではないんですよ〜?」

「もうちょっと! もうちょっとだけっすから!ね、お願いしますよ~名医」

「私は養護教諭なので医者ではありませんよ。もう、本当に退室する気はないんですか? 貴方のような問題児を保健室に長時間居座らせてたなんて話が上に聞かれたら、困るのは私の方なんですよ〜」

「えー。んーじゃあ俺も具合が悪いってことにすれば問題ないですよね? ここまで黙っていましたけど、今実は頭からつま先まで全部痛いです。激痛なんです。だからここで休ませて下さい」

「あらぁ、そうでしたか〜。それは大変ですねぇ。そんな重症なら今度こそ医者の出番ですね。私じゃどうにもできないのでさっさと帰宅しましょうか〜」


 カーテンの向こうから、誰かが会話をしている声が聞こえたからだ。片方はどうやら女性のようで、その声色から優しそうな雰囲気を感じたが、琴美が聞いたことのない声だった。内容から推測するに、恐らく保健室の先生だろう。

 ———しかしもう一方の男の声には、琴美は確信にも似た大きな心当たりがあった。何故なら、その声の持ち主こそ、琴美が再会を心の底から待ち侘びた人物であったからだ。


「———楓堂先輩!?」

「———!」


 次の行動を脳内であれこれとシミュレーションしていた琴美だったが、耳に飛び込んできた予想外の声によって考えていたことが全てどこかへと吹き飛んでしまったようだった。結局、優秀な琴美の脳が次の行動として選択したのは、勢い良く飛び出て、らしくもなくその人の名前を大声で叫ぶことだった。

 そして、琴美に名前を呼ばれた男───楓堂源は、意識の外からの声に虚を衝かれたようで、大きく見開いた目を琴美の方へと向けていた。

 二人が顔を合わせ、互いが互いを認識する。そこで琴美は、本当の意味で源と再会を果たした。


「先輩! あぁ、良かった、生きてる! ちゃんと会えた!」


 念願が叶い、居ても立ってもいられなくなった琴美は、一目散に源の元まで駆け寄り、一方的に抱き着く。意外と男らしいその身体を強く、強く抱き締めるその様は、大切な物を今度こそは離すまいとした決心した、か弱い少女のそれであった。


「え、えっ? ちょ、ちょっと琴…天柊さん? ど、どうしたの?」


 現状が即座に理解できず、源は自分の胸元にある琴美の顔を見て困惑している。唯一自由に動かせる腕が定位置を求めてあちこちと彷徨っていたが、結局無難に自分の背中へと収めていた。


「…意気地無し。…女の子から抱きついてきたら、抱き返して欲しいものなんですよ? それに名前だって、言い直す必要なんてないです」


 それを見た琴美の、源に対する評価は中々手厳しいものだった。一応、源が抱き返せなかったのは横に先生の目もあったからなのであろうが、琴美にとっては全て些末な事だ。そんなことを気にするよりも、源に触れたい想いが幾分か大きかった。


「でも…ふふっ。やっぱり先輩なんですね。安心しました」

「…琴美ちゃん、君は…本当に琴美ちゃんなの?」


 源からしてみれば、琴美は自分と初めて遇っているという認識なだけに、彼女の反応が色々と解せないようだった。


「───はいはーい、もういいですかぁ。感動の再会っぽい雰囲気だったから黙ってたけど、ちょ〜っと二人の時間が長いかな〜。はい、離れて離れてー」

「あっ…ごめんなさい。私つい…」


 そこに、いよいよ痺れを切らした女性教員が割って入って来る。琴美も指摘されてからようやく、自分が恥ずかしいことをしていた自覚が芽生えたようで、赤くした顔を手で覆っていた。


「うん…まぁ、天涯孤独の私には眩し過ぎたんですけど~。…それはいいとして。琴美さんには色々確認したいことがあるんですけど、良いかなぁ? 良いね?」

「えと…はい」


 琴美の小さい返事に、女性教員は「うん」と満足げに頷くと、スライド式の棚からおもむろにファイルを取り出した。その様子と口ぶりから察するに、これから行われるのは、きっと琴美が気を失うに至った経緯の事情聴取だろう。保健室に勤める職員として、負傷や病倒れした生徒の安全を確保するのが第一に優先される仕事であるが、生徒が回復したっぽいから直ぐ教室に戻らせますでは、今後起きる事故を未然に防ぐことができない。その為にも、琴美の身に起きたことを記録として残しておく必要がある。


「さて…じゃあまずは、天柊さんはどうしてあんな場所で倒れていたのか、訊いてもいいですか?」

「……っ」


 当然の質問だった。だが、琴美はそれにどう答えるのが正解か分からず、返答に窮する。そもそも、琴美自身があの時何が起きたのかをはっきりとは理解できていないのだ。それでも敢えて説明するのであれば、それは状況説明に他ならない。


「…うまく伝えられるか分かりませんが———」


 迷いを多分に含んだ前置きから、琴美は透真と出会ったこと、彼に触れられた瞬間に体の自由が効かなったこと、彼が立ち去った後に気を失ったことを泣きださないように努めながら説明した。それでも、再発した身体の震えは、恐らく見抜かれていただろうが。


「———そうですか…。それは、とても大変な目に遭いましたね。怖かったでしょう」

「…先生。これって、やっぱり私は透真をトラウマに感じていたということなんでしょうか…?」

「えぇ、十中八九そうだと思います。トラウマ…天柊さんの場合は反応が過剰なので正確には心的外傷後ストレス障害、又はPTSDと言う方が正しいですねぇ。それと記憶喪失が重なって自覚のない症状が出てしまったと。稀にも見ない特別なケースですが、その可能性が高いと見ていいでしょう」


 診断名を告げられ、琴美は納得と現実を受け止められない気持ちの狭間で揺蕩う。女性教員の診断は琴美から話を聞いただけの仮説に過ぎないが、自身の経験と重ねると間違っているとは思えなかった。


「んー、しかし月城君の名前がここでも出ますか。流石にそろそろ看過できない事態になってきましたねぇ。私個人としても彼については色々と不審に思う点がありましたし…」

「不審に思う点というのは…あいつの二面性に関することですか?」


 女性教員の誰に聞かせるつもりでもない独り言に、源が反応する。


「あぁ、そうそれです。良く分かりましたねぇ? 」

「え、あの、えと。話を遮るようで申し訳ないんですけど、彼の二面性って言うのは一体…?」

「そのまんまの意味だよ、琴美ちゃん。あいつにはどうやら二つの性格があるようでね。頻繁に見られるのは、大人しく礼儀正しい模範生的な性格なんだけど、たまに普段からは想像もつかない程獰猛な性格になる時がある。つい最近の例だと、校内の備品を手当たり次第に壊し回ってたらしいしね」

「———」


 源の口から語られた透真の詳しい情報を聞いて、琴美は背筋が凍った。透真が危険人物であることはある程度把握していたが、まさかそこまで狂暴な人間だとは思いもしなかったのだ。そんな衝動的に物を破壊するような人物に植え付けれたトラウマとなれば、記憶喪失前の琴美は相当な暴力を振るわれていたに違いない。もし記憶が失われていなかったら、琴美は学校に行くことすらままなっていなかっただろう。

 記憶喪失は琴美の普段の生活において多大なる障害を齎している。しかしここに来て初めて、琴美は自身の脆弱性に感謝した。


「ふーん、そうですかぁ。大方、話に聞いていた通りですねぇ。と言うことは何でしょうか? 月城君は解離性同一性障害———今回であれば所謂二重人格であると?」

「本当に性格が二つだけなのかは、断定のしようがないんですけど…まぁ、少なくとも別人格があるという認識で間違えていることは無いと思いますね」

「なるほど、今まで彼に関する話が『良い話』と『最悪な話』の二通りある事に違和感がありましたが、原因がそうだとしたら腑に落ちますね。筋も通っているし、無い話ではない、と。…分かりました。私の方でも生徒の安全を守る立場として細心の注意を払っておきますねぇ。ありがとうございます、源君」

「はは、教師に感謝されるのはやっぱ気持ちがいいなぁ」

「そうですかぁ、じゃあ最後に存分とその快楽を味わっておいて下さいね~」

「うわこわ」


 軽口を挟む二人の会話を傍で眺めながら、琴美は源の言っていたことと自分が透真と接触した際に感じた疑問を擦り合わせていた。

 成程、もし透真が本当に多重人格であれば、琴美が噂で聞いていた話と受けた第一印象に齟齬があったのも頷ける。それに、朧げな記憶ではあるが、透真は去り際に自分がこうなったのは僕達の所為という旨の発言をしていたような気がする。あの時は混乱して上手く頭が回っていなかったが、今考えれば僕達とは恐らく、多重人格のことを指していたのだろう。そしてそこに自責の念が含まれているように感じたのは、きっと彼自身も別の人格の出現を制御できないからだと、琴美は結論づけた。

 それぞれ闇の中に存在していた謎がまるで光に充てられたかのようにその輪郭を露わにする。しかし、光に照らされた謎はその場に新たなる影を落とし、更なる謎を生んだ。


「でも…」

「でも…? まだ何かあるんですか?源君」

「…これは俺の思い過ごしかも知れませんが、一応共有しておきます。あいつの別人格———俺達は分かり易いように凶人格と呼んでいますが、その凶人格の時に被害を受けていた人は琴美ちゃんだけだと思います」

「え———」


 それは、つまり。


「え、それって…つまり、天柊さんだけがたまたまそ凶人格となった透真のストレスの捌け口になっている、若しくは透真がってことかしら?」

「考えたくは…ありませんが。俺の見落としがなければ後者の確率が高いです」

「何のために?」

「そこまでは俺も知りません」

 

 更なる事実を明かす源の口ぶりに、冗談めかしてる雰囲気は感じられない。そもそも源が琴美や鈴音を傷つけるような冗談を言わない性格であることは重々承知だが、それでも一瞬疑いの目を向けざるを得ないほど、琴美にとっては信じ難い話であった。


「そう…成程ねぇ」


 首を横に振った源に女性教員は残念そうな表情を見せる。それから、改まった様子で琴美に向き合った。


「ごめんなさいねぇ、天柊さん。貴方が苦しい時に何も気が付いてあげられなくて」

「い、いえ。先生が謝る必要は…。…多分、透真の標的になったのも、誰にも相談できなかったのも、私の弱さの所為だと思いますから…。悪いとしたら、私なんです」

「いいえ、それは違いますよ~天柊さん。虐めにおいて責任を負うべきなのはいつだって加害者と傍観者なんですから。そこに被害者の名が連なるのは許されない事です。だからちゃんと、貴方のことは、貴方が味方してあげて下さい」

「────。はい…わかりました」


 琴美の何事も自分が悪いと思い込む癖を見抜いていたのか、女性教員はまるで心理カウンセラーのような接し方で琴美を諭す。さっきの今で考え方が矯正されるということは無かったが、それでも琴美が素直に頷けたのは、心が少しでも軽くなった証だろう。それに気が付いたのか、女性教員はまたしても笑顔で「うんっ」と頷き返した。


「事情を知れた今ならトラウマの緩和にも尽力できると思いますので~、いつでも気軽に相談しに来てくださいね」

「すいません。有難う…御座います」

「いいえぇ。それで源君、他にはもう彼に関する情報はない?」

「もう出切ったっすね」

「そう~。じゃあ、丁度二限も終わる時間ですから、退室しちゃって下さいな。天柊さんは体調に気を付けて。源君は担任に『今登校した』とちゃんと伝えるように、それと天柊さんの教室まで付き添ってあげて」

「はい」

「二個目のお願いに関しては了解っす」


 小突き合いのようなやり取りを最後に、源と琴美は、女性教員に見送られながら保健室を後にしたのだった。


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